本田
――
今日も僕は、サラと会うべく学校に向かった。彼女は、いつものように、そこでぼんやりと待っていた。
「ねえサラ」
「ちょっ! アムっ……」
照れたような表情を浮かべる。
「べ、別にあんたと同居するってのに、照れてる訳じゃないから!」
典型的なツンデレだ。僕は苦笑して、横に座った。
「じゃあ、嫌なんだ」
「嫌……って訳じゃないけどさ、ビックリしたのよ」
あの後で、冷静に考えてみると、逃げるってのは何も嫌な時だけに限られる訳じゃない、と気付いた。それで、今日もまた、やって来たのだ。
「……ったく、あたしは飼い猫になんかなりたくないっての」
「まあ、いいじゃん。飼い猫も、悪くないよ」
「嫌だ。気ままな暮らしが保証されないんだもん。そんな暮らしするなら、死んだ方がマシ」
「うーん、いろいろ難しいね……」
僕は、どうしようもなく呟いた。
そこに、サトウがやって来る。彼女は、来たと思うと、不意に、サラを抱き抱えた。
「えっ、ちょっと待ってよ。あんた、あたしを連れ去る権利なんてないでしょ」
そう威嚇するサラ。だけど、サトウは、意にも介さない。その歩みは、確かだった。
「サラ、お願い、力を貸して」
僕は、慌てて後を追う。そうしようとしたその瞬間、僕は、慣れ親しんだ一つの匂いを嗅いだ。
アオイだ。
「今日はサラ、いないのかな……」
「こっちだよ、アオイ!」
僕は、力の限り叫ぶ。アオイは、サラを引き取るつもりだ。そんな彼女がここに来てくれるって事は、僕にとっても最高に嬉しい事だった。
「ん、アム。もしかして、こっちにかなえちゃんがいるの? ……あっ、サラがいるの?」
うん。肯定を示すと、アオイは、しっかりと呟いた。
「案内して、アム」
サラの匂いを頼りに、僕たちは二人を追跡する。
そして、彼女は、ある場所で、歩みを止めた。
「……わかったかもしれない。アム、付いて来て!」
そのまま走り出すアオイ。僕は、必死でそれに食らい付く。
「かなえちゃん!」
アオイが叫ぶ。僕ですら、聞いた事のない音量で。それに、サトウが振り向く。その目から、ポツリと、雫が垂れた。
サラは、逃げて行く。本格的に愛想をつかしたのかもしれない。僕は、そちらを追いかけるべく、進行方向を変えた。アオイの心配は伝わって来るが、僕にとっては、それ以上に、サラの事が大事だった。
――
電話を受け取った金沢。竹原かららしい。その内容は。
「本田、かなえちゃんが、自殺するって、どう言う事?」
「なっ、どうしたんだ?」
「変わって」
「あ、ああ。借りる」
他人の家の電話、なんて気兼ねをしている暇はなかった。佐藤が、行動を起こした。そんな言葉を覚悟して、俺は受話器を手に取る。
声の主は、岸原だった。
「今、永井の家の桜井から電話受けて、こっちに掛けた! 佐藤が、誘いを断ったら、いきなり泣きながら走り出したって。自殺の、そのシーンに、そっくりだって」
「なっ……」
絶句した。直接、言いに行ったのか。佐藤は、たぶん、昨日のあの事件で傷付き、早急に永井との関係を修復したかったのだろう。
「どこだ? どこに行けばいい? 佐藤は、どこで自殺するんだ?」
言われなくても考えている。思考が急速に周る。
七瀬の家にいる牧原に電話している暇はない。
考えろ、俺。感じろ。佐藤は、何を思う? 永井との友情が無下にされ、絶望した佐藤は、どこへ向かう?
感じろ。
佐藤を、感じろ。
佐藤の行動を、感じろ。
佐藤の思考を、感じろ。
佐藤の全てを、感じろ。
佐藤は、佐藤が、佐藤は……!
「元原幸人が事故死した場所だっ! そうとしか思えない!」
俺の共感能力。佐藤は、間違いなく、そこへ向かっている。
「永井に場所を聞け! ケータイあんだろ? 電話で聞いて、走りながら俺にも伝えてくれ。俺は、永井の家に向かう!」
「了解! 牧原は連絡取れないか?」
「知らねぇ! 切るぞ!」
電話を切った。
「ねえ、本田、どう言う事よ」
「佐藤は、永井の事を気に病んで、自殺する。それを止めたいんだ。自殺の場所を、特定出来たと思う。今、岸原が、永井に確認してくれる。だから、それを確認して、後は俺が止めに行く。金沢、七瀬の連絡先知ってるか?」
「知ってるけど」
「なら、場所の特定の後、急いで連絡を取ってくれ! 場所を、牧原に伝えたい!」
「わ、わかった」
「説明は後でするから!」
「うん!」
電話を待つ。その時間が、何千秒にも感じられた。
そして、ベルが鳴り響く。
「もしもし、どこだって?」
岸原は、その場所を説明した。
「俺もそこに向かってる! 本田、急いでくれ!」
「わかってる!」と叫び、俺は電話を切った。
「金沢、場所は……」
説明を聞き、頷いた。
「わかった。弥生んちね」
「ああ、頼むぞ!」
それだけ言い、挨拶もそこそこに、俺は金沢の家を後にした。
必死で走る。俺は走るのがあまり得意ではないが、それでも走った。
疲れすら感じない。いわゆる火事場の馬鹿力だろう。俺の足は、全速力で、元原幸人の事故死現場へと向かう。
「本田君っ!」
「桜井っ! 永井っ!」
道中、二人が走っているのに合流した。
「こっちなんだな?!」
「そうよ!」と永井が叫ぶ。
「急ぐぞっ!」
走れ。一つの命を救えるかは、俺たちにかかっていると言っても過言ではない。だから、走れ。
言葉少なに、足だけを動かす。間に合え。思いが先走り、速く走れないその体が、歯がゆくて仕方なかった。
「この辺よっ! 右に曲がってっ!」
永井が説明するように叫ぶ。俺たちはそれを受け、無言で角を曲がった。車が行き交う大通りだ。広々とした歩道も整備されている。
「あっ、いたっ!」
岸原と、佐藤。二人の姿を認めてなお、俺の足は、一層加速した。
その光景が、少しずつ、露わになる。
予言は、成就された。
佐藤が、車の前に飛び出そうとする。岸原が、その手を、強く掴んだ。
佐藤は、その手を振り切る。そして、身を乗り出した。
永井の叫び声が聞こえる。それに、佐藤は、一瞬反応した。その隙を突いて、岸原が、佐藤の腹部を掴み、一緒に後ろに倒れ込んだ。
自殺は、止められた。
「岸原っ!」
「本田……俺、やったよ。自殺を、止めた」
二人して、走りによる疲労、緊張による疲労、意味は違えど肩で息をしていた。
しかし、佐藤は、絶叫するように言う。
「どうして……どうして止めるのっ! サラもいない、香もいない、幸人もいないっ! こんな世界にいたって、意味なんかないっ!」
顔から、涙やら何やらがとめどなく溢れ出て、声も、それにつれて、大きくなって行く。
「私を死なせて! もう、疲れたの! お願いだから、殺させて! 私を、殺させてっ!」
ようやく追い付いた桜井と永井は、そんな光景を見て、何を思ったのだろうか。
佐藤の慟哭は続く。激情の発作は止まらない。
「私はっ! 私はっ!」
「落ち着け、佐藤」と俺は止めた。が、彼女は、俺の頬を平手打ちにした。俺の口から何か変な音が出る。痛み自体は、それほどなかったけれど、それでも驚いた。
「それもこれも、あんたがひっかきまわすから! ほっといてよ! 私と香の事を、ほっといてよ! 全部、全部ほっといてよっ!」
「かなえっ!」と、遮るように強い声をあげたのは、永井だった。
「違うよっ! 誰も、あんたの周りから、消えたりなんかしてないっ!」
それだけ言うと、永井は、佐藤の頬を、全力で殴った。
「かなえ、あんたの事を思ってくれてる人が、こんなにいるんだよ? あたしなんか、及ばないぐらい、たっくさんいるんだよ? ねえ、なんでわざわざ、それを拒み続けるの?」
「だって……幸人が、香が……」
「うん。それは悪かった。ごめん。あたし、あんたを、ずっと縛り付けてたよね。無視して、今までみたいに話さずに。あんたが辛いと思ってたのは、わかってる。わかってたけど、あたしも、引っ込みが付かなくなってた。……ようやくわかったの。あたしは、ホントはこんな事したくないって。こんな、無視なんて、間違ってるって。美雪が、あたしの相談に乗ってくれて、話してる内に、やっと気付けた。……かなえ、誰かに話してみなよ。スッキリするよ」
「香……香は、いじめられてるんだよね」
「うん。だけど、わかってる。これが、あたしが自分に課した罰。そして、罪を償うための、第一歩。いじめなんて馬鹿な事。それをみんなに伝えないと、今度は、あたし以外の誰かが、かなえの事をいじめる。あなたはあの事件以来、引っ込み思案が激しくなったでしょ? ……そんなの、いじめの対象としてはもってこいに決まってる。だから、かなえだけは守りたかった。それで、あたし自身をやり玉にあげたの」
「え……」
「噂を流したのは、金沢美雪。でも、こいつの依頼による行動な訳で、要するに、自作自演だ」と、俺が補足した。
「そうなの。……こんな事になるなんて、思わなかった。新聞で、いじめはバカな事だって言って、そっからクラスの雰囲気を変えて行く。一人、いじめられた人がやるならともかく、いじめなんて興醒めだ、って雰囲気を何人も巻き込んで作れば、そっからは、完全に止まるから。あたしは知ってるから、それを」
「……香、でも、だけど」
「サラは、大丈夫だよ。アムが追っかけてった。アムも、サラも、相思相愛なんじゃないかな。私は、そう思う。親バカだけど、アムって結構かわいいと思うし、サラも惹かれると思う。きっと大丈夫。帰って来るよ。ほら、今日も学校にいたでしょ?」と桜井。
「……サラ」
「なぁ、元原幸人は確かに、帰って来ないかもしれない。だけどさ……」と、岸原はここで言葉を切り、言った。
「俺、お前と一緒にいたい。お前がいないと、俺も自殺しかねない。そのぐらい、俺は、お前が好きだ。だから、頼むから、生きてくれ。縛られてようとなんだろうと、自殺なんて馬鹿な事だけは、絶対に、しないでくれ」
「……みんな」
佐藤が、茫然自失の体で呟く。永井が、その体を抱きしめた。
「……お帰り、かなえ」
「……ただいま、香」
そうやって、二人揃って、泣き始めた。その顔を見て、俺を安堵が包む。と、その瞬間、今まで頭の片隅に追いやられていた疲労が、どっと襲い掛かって来た。荒い息を吐きながら、へたり込む。
「よか……った」
よかった。本当に、よかった。俺たちは、佐藤の自殺を止められた。
もう、安心だ。
「さっきのも、嘘だからね、ピアノの発表会、絶対に行くからね」
「うん」
後で、桜井から聞いた話によると、佐藤は、永井に直接持ち掛けたのだ。ピアノ、来て、と。けれど、演技に集中し過ぎていた永井は、照れもあったのだろうか、その誘いを拒んだ。それが、自殺の、直接の引き金となったのだろう。
元原幸人の事は、未だに二人の脳内に強く焼き付いている。しかし、それでも前を向くしかない。それが、残された者の宿命だから。そう割り切り、納得した彼女たちは、きっと、進むだろう。
変わろうとする者に、きっと変化は訪れる。前に進むには、その志こそが必要なのだから。
後から合流した牧原は、「だから、あたしには隠してたのか」と言う。「あたしが、最後のシーンに関われないから、関わるって気付けなかったのね」と。
それはそうだ。だが、俺は、永井にも、当然佐藤にも話していない。夢の話は、俺、桜井、岸原の、三人の秘密にする予定だったのだ。それを強引にこじ開けただけであって、夢に出てても伝えた可能性は低いと思うのだ。
とにかく、こうして、全ての謎が解けた。佐藤自殺に関わる、全ての事件が。
もっとも、まだ、一つだけ忘れている事があるのだが、そんな事は、完全に、意識の奥底に眠っていた。
「ただいま」
「お帰り、耕一。どうかしたの? 酷い汗だけど」
「ちょっと、サッカー気合い出し過ぎた」と、平然と嘘を吐く。
この話を、母さんに語る気には、到底なれなかった。
「そんな事よりさ……今日の晩飯何?」
――
僕は、サラを追いかけて行った。
彼女は、ある程度逃げ去ると立ち止まり、こちらを見た。
「ったく、ついて来られるのかよ、お前。飼い猫のクセに」
「ねえ、何かあったの? 昔、人間に、酷い事でもされたの?」
問いかける。彼女は、人間が嫌いな訳ではない。が、一定の距離感は、常に取りたがる。自らのテリトリーを侵されるのは誰だって嫌だろう。けれど、彼女のそれは、少し過剰な程だった。
「酷い事なんか、されてない。むしろ、人間は、あたしに優しかった。別れの、その瞬間までね」
吐き捨てるように彼女は言う。
「いつか、人間は裏切るよ、泣きながら」
その言葉だけで、全てを理解した。彼女は、捨てられたのだ。それを乗り越え、今がある。
「……だけど、アオイは違う。サトウだって、きっと。あの二人は、すっごく優しいから」
「アオイはともかく、なんでサトウまでそう言い切れるのよ」
「だって、二人の匂い、そっくりなんだもん」
「匂いが……そっくり?」
「うん。なんとなくね。……絶対、大丈夫。あの二人は、僕たちを、捨てたりしないよ。だからさ」
一緒に、僕の家に行こうよ。
――
翌朝、俺は、ランドセルを背負い、学校へ向かった。
気分晴れやかに。
金沢は、きっと、新聞を完成させただろう。俺たちの連絡を聞き、安堵に包まれながら。
新聞係は、頑張った。俺たちの初めての仕事の成果が、今日、明かされる。
勢い込んで教室に駆け込み、張り出された新聞を読んだ。
編集後記、と題されたスペースが加わっていて、そこが、いじめに関わる話になっていた。
「今、うちのクラスには、いじめと思われる物があります。見て見ぬ振りをしてしまう筆者も、同罪なのでしょう。止めるための声を、あげられずにいましたのですから。ですが、今、こうして声をあげています。いじめなんて、馬鹿らしい事。それは、今いじめられている人が、証明してくれた事です。あなたたちは、どうしていじめているのですか? いじめの制裁がいじめ、では、あなたたちも同じです。一度、立ち止まって、自分の行動を見返してみてはどうでしょうか」
この発言が先生に届き、クラス会が開かれた。
「このクラスにいじめがある、って聞いた。いや、新聞が、それを伝えてくれた。みんな、知っている事だと思う。だが……」
そこから先、月並みな話が続く。けれど、要所要所で、痛烈にいじめの馬鹿らしさを語る彼の目に、うつむいている人を何人か見付けた。
俺たちの援護射撃の必要は、なさそうだ。
そう言えば、サラが、桜井の家に来たらしい。つれない態度を取り続けてはいるが、それでも来てくれたんだったら、交流を深められるし、大丈夫だよ、心配しないで、と桜井に言われた。
佐藤は、これからは、大手を振って、サラに愚痴をこぼし、エサをあげるのだろう。そこにはきっと、永井と、桜井もいる。
そんな想像を広げ、俺は、微笑みを浮かべた。大丈夫だ。もう、あの二人は、心配いらない。
こうして、事件は終幕を迎えた。そして、迎えた、発表会当日の事である。
次回完結です。