幕章 その2
再び猫視点。
「……久しぶりね。また迷子なの」
そう言って、呆れ半分と言った顔で僕に問いかける彼女。けれど、僕が今ここにいるのは、迷ったからではない。
そこには重大な秘密があるのだ。
ごはんを食べている時も、ひなたぼっこをしている時も、寝ている時でさえ、僕の心は彼女の事で占められていた。どれほど想っても、想い足りない。飼い主であるアオイからは、「なんかぼんやりしてない?」と聞かれる始末。正直、少し恥ずかしい。けれど、それでも心の暴走は止まらなかった。
彼女を探して、日がな一日歩き回った。何の匂いも嗅ぎ取れなくて、落胆した事も一度や二度ではない。
けれど、そんなある日、遂にその匂いを嗅ぎ分けた。甘く、芳醇な香り。心とろかすような、そんな匂い。
僕は、フラフラと、釣られるようにその匂いを辿る。
そして、苦節数日間、ようやく彼女との再会を果たした、という訳だ。
僕にとっては、世界を揺るがしかねない大事件であり、重大な秘密である。
そんな感情と言う秘密を抱えた僕に、彼女はこう言った。
「……ストーカーって奴か、キモ」
「ち、違うよ!」
言いながら、自分の行為がストーカーだと断罪されて、心の中で何も言えないでいる自分がいる。確かに、僕の行為は軽率に過ぎたかもしれない。けれど。
「だって、君の事が……」
さすがに、そこから先は言えなかった。恥ずかしさが胸を襲う。と、この発言をして、実は、僕はまだ、彼女の名前すら知らないと言う事に気が付く。
「そういや、名前、なんて言うの?」
直截的にそう尋ねてから、僕なんかに答えてくれるはずもないだろうと思い、自分を責める。
しかし彼女は、そのくりくりした目を巡らせると、僕を見据えて言った。
「名前? そんなのが気になるんだ、飼い猫って」
「えっ」
予想の遥か斜め上を行くその発言に、僕は思わず間抜けな声をあげる。
「まあ、やっぱりそんなもんよね。ふああ」
興味なさげに大あくびを打ち、丸くなる彼女。その姿に、僕は毛糸玉を連想してしまう。もっとも、栗色に輝く彼女の毛並みは、毛糸玉の色とは似ても似つかないのだけれど。それでも、僕にとっては、そのぐらい大事な物に見えた、と言う訳だ。
と、そんな風に考えていると、彼女は唐突に起き上がり、そして言った。
「ごはんの調達に行ってくるから」
歩き去ろうとする彼女に向かって、僕は声をかけた。
「待って、僕も行く!」
「ごはんはあげないけど」
「それでもいいもん!」
「駄目って言ったら?」
「それでも付いてく!」
「……ったく、仕方ない。わかった、来なさい」
僕は快哉をあげ、彼女にうるさいとたしなめられた。
ニンゲンの少女――アオイと同い年ぐらいかな――が、彼女に対して話しかけている。その真剣な様子に僕は、その話をしっかり聞き取ろうとするのだけれど、彼女は何か反応をするでもなく、ただ、そこにいるだけだ。
それでも少女は何かを話し続ける。涙ににじんだその声は、聞き取るのが少し難しいけれど、そこはアオイの涙声を聞き慣れた僕の事。一応ある程度のリスニングは可能だった。
曰く「どうすればいいのかな……。香、まだ許してくれないみたい。ねえ、サラ、私――」
その発言から、彼女の名前がサラである事を知った。そう伝えようとしたけれど、サラは僕の機先を制す。
「別にサラが本名って訳でもないし。どこ行っても名前は変わる物よ」
その声が、恐らく少女には「みゃあみゃあ」としか聞こえなかったであろうその声が、少女にとっては励ましとなったらしい。
「ありがと、サラに……そっちの子も。うん。少しだけすっきりした。ありがとね。あとごめん。一匹分しかないや」
そう言って少女は、魚肉ソーセージを置いて帰って行った。
「ごはんの調達ってそう言う事なの、サラ」
「あー、別に私がサラって訳じゃないから。あいつが勝手にそう呼んでるだけ。って言うか、あんた帰らなくていい訳?」
「え……あ! もうこんな時間! ごめん、僕、帰るね」
「勝手にすれば?」
それからと言う物、サラは、少女からごはんを貰い続けているらしい。
「ぼーっと座ってるだけでありつけるんだから、楽なもんよ」とサラは笑った。
僕は、時折それを近くで眺めているだけだった。それ以外には、何も出来ない。いや、その言い方は正確ではない。僕も、彼女からごはんをもらっているのだから。
けれど、その距離を接近させる事は出来ない。そこにいられるだけでよしとしよう。そうやって諦めのため息を吐くのだ。
サラは、少女の言葉を全く聞いていない。けれど、僕はと言うと、その言葉には一応ちゃんと耳を傾けていた。少女は、話を聞いてくれてありがとう、と言う意味合いでごはんをくれているのだから、その話を聞く事は義務なのではないかと思ったからだ。
「よく聞いてられるわね、こんな事」とサラは言うが、僕はただ、曖昧に笑ってお茶を濁す。
「面倒だよ、正直。しかも理解出来ないし」
「それが、僕のニンゲン、アオイって言うんだけど、その子がいっつもあんな感じで僕に話しかけて来た時期があってさ。僕、聞き慣れてるんだよ、ああ言うの」
「ふぅん。じゃ、試しに聞いてみるけど、どう言う意味な訳?」
「例えば……また一緒に遊びたい、とか、苦しい、とか」
思い出そうとして思案を巡らせていると、サラが、春の陽気にふあっとあくびした。
「聞く気ないでしょ」
「ないよ、もちろん」
ダイレクトに返されてしまった。けれど、そんな彼女もまた、僕の目には魅力的に映った。
自宅にて、僕は、アオイと話していた。と言っても、僕の言葉はアオイには通じないし、話すと言うより、話しかけて来る、と言った方が正しいのだろうけれど。
真剣に僕を見据えるその目に、僕は思わず身震いした。
「ねえ、アム。私、バレたかもしれない」
何も答えない。言っても無駄な事はわかりすぎる程わかっていたし、最後に小さく一声答える方が間違いなくアオイは喜ぶと言うのを、僕は経験則で知っていた。
「……なんかさ、本田君って言う人が、私の事、ずっと見つめてきたり、私の夢に関して知ってるような事ばっかり言ってくるの。それでね――」
言葉は止めどない。流れるように溢れてくる。こんな風にアオイが饒舌になるのは僕の前だけ、らしい。そうタクヤが言っていた。
どうにも、僕たち猫には、ニンゲンの言葉を引き出す力があるらしい。
「だから、ちょっと恐い。なんでバレたんだろう、って」
語調が一気に弱まる。これは、アオイの言葉が終わる合図。僕は、小さく相づちを打った。
「ふふ、ありがと、アム。大丈夫。私、頑張るから。頑張って、佐藤さんの自殺を止めるから」
それだけ言うと、アオイは、布団に潜り込んだ。僕も、体を丸められる所へと向かう。
それからも、僕はサラの所へ向かい、少女の話を聞く。たとえ、サラに聞く気がなくとも、僕だけでも耳を傾けていたい。そう思った。もちろん、理由はそれだけではなく、むしろ下心の方が多いのだけれど。
「また来たの。まあ、ごはんもらえるしね。あたしの分が減るなら文句も言ったけど、あいつちゃんと二倍持って来てくれてるし、来るのを止める理由はないけど」
ちゃんとごはんを持って来てくれる彼女に心からの感謝を捧げた。
「まあね」
そこから先の言葉を続ける勇気は、残念ながら僕にはなかった。感情を伝えても、鼻で笑われればまだいい方で、たぶんスルーされる。その光景が、嫌と言う程想像出来た。
「今日もあのニンゲンのとこに行くんだよね」
「うん。楽だしね。ああ言う事して、時間の無駄なのに」
話の後半は、少女についての物だろう。
「でもまあ、僕たちってのはいるだけでニンゲンを励ませる物なんだし」
「いや、ニンゲンを励ます意味って何よ」
「それは……」
「ったく、これだから飼い猫ってのは甘いんだから」
「うう……」
しかし、その日はいつもとは少し違った。
話を聞くだけ。僕たちの側はそうだった。そこは、いつもと変わらない。
違ったのは、少女――いや、今日で名前がわかったのだからこう呼ぼう――「サトウ」にとって。彼女にとって、予期しない遭遇があったらしい。
「ぶへっくしょん!」
「……どうしたの?」
「……なあ、猫でもいんのか?」
「え、うんそうだけど……なんで?」
「俺はアレルギーなんだ。猫の」
「えっ、ごめん」
「いや、いいんだ。佐藤のためなら、死んだって構わねぇ!」
「いや、そこまで重いのはちょっと……」
ドン引きされている。サラがふあっと大あくび。僕はと言うと、その二人のニンゲンを見詰めていた。いつもの少女に加えて、男が一人。猫にアレルギーとか言っているが、それなら早く帰れよと思う。
アオイは確か、キウイにアレルギーがあるとか言って、父親にねだったはいいがキウイを買って貰えなかったと嘆いていた。いつか食べてみたいんだけど、無理みたいと言って。
アレルギーってのは、どうにも食べる以外でも起こるらしく、花粉症と言うニンゲンの病気は花粉に対するアレルギーだと、これもアオイが教えてくれた。無邪気に学びたての知識を教えてくれたあの頃。それでも、愚痴をこぼす事は多かったのだが、それは今は置いておくとしよう。
この男には、猫に対するアレルギーがある。それは先程のくしゃみからして、食べなくても起きるタイプの方だ。
だとすると、早く帰れよ。これが結論になる。アレルギーと言うのは、苦しい物らしいから。
そんな僕の心配を意にも介さず、この男は笑って言った。
「例え佐藤にどんな風に思われようと、俺はお前が――」
「でも心配だよ。嫌なら戻ろ。私なら、ここ以外でも話せるから」
心配そうな目付きで男はサトウの事を覗き見る。小さく、壊れやすい何か。サトウの事を、そんな風に見ている感じだ。
「だってっくしゅ、佐藤はこの二匹の前の方がリラックスして話せるんだろ? 俺が堪えれば済む話だ」
「……わかった。私が早く話さないと諦めそうにないね」
サトウが、呆れてため息を吐く。始めて見た表情だった。いつもより、少しだけ強い。
それからのサトウは、けれど、物凄く弱かった。
「どうして、どうして香は……」
「もう、仲良くはなれないの……」
涙ながらの愚痴。それは、カオルと言う物の事に終始していた。時折混ざるくしゃみに辟易しながら、僕もそれを聞く。意味はわからないけれど、それでも聞いた。
「永井か……。なあ、佐藤。どうしたいんだ? これから」
「これ……から?」
「ああ。仲直りしたいのか、どうなのか」
「……私は」
サトウは、震える拳に、涙を落とした。そんな折、サラが一言、「ごはんまだ?」と尋ねた。まあ、確かにそれは重要なのだけれど、そんなタイミングに見えるのか。問い質そうとしてサラを直視したが、その美貌に一瞬でそんな気も失せた。
「あは、ごめんねサラ。今日のごはん。いてくれてありがとう」
サラは満足気な笑顔を見せて、それを取ると、離れて行った。僕もそれについて行きかけたが、しかし踏み止まった。
サトウの言葉を最後まで聞き遂げたかったからだ。例え意味がわからなくとも。
「ほら、君の分もあるよ」
「ありがとう」
小さく声を返す。そのまま、男の方を見詰めた。彼の顔は、先程までのおちゃらけた気配は一切潜んでいなかった。
「……私は」
サトウは、決然と言った。