異変
クライマックスへ向け加速して行きます故。
それは、水面下で、着々と進行していた。
それを見付けたのは、あれから三日経ってから。
それを見付けたのは、牧原だった。
火曜、水曜は特に何もないままに過ごすのみだった。新聞の方の作成は活発に進んで行ったが、そこから俺が事態に気付く事もなかった。
そしてその間にも、着々と事態は進行していたと言うのに、俺たちは誰も気付けないでいた。
この三日と言うのは、事態がある程度大きくなるまでの猶予期間、だったのだろう。でなければ、一番彼女たちに対して神経を尖らせていた俺たちが気付けないはずがない。
そして、気付いた時には、事態はもう簡単には止められない程に大きくなっていた。
「……ねえ、本田君。ちょっといい?」
「え、どうしたんだ牧原」
隣から真剣な口調で話し掛けられ、俺は少し戸惑いながら応対した。しかし、そんな風に気軽な応対をする事なんて、俺には許されていなかったらしい。
「とぼけないで。気付いてるんでしょ? 逆いじめだよ」
「ぎゃ……逆いじめ?」
「……本気で気付いてなかったの?」
「……どう言う事だよ。わかんないんだから仕方ないじゃん」
「……口で説明出来る物じゃないし、香の事ちょっと注目してみなよ」
そう言われて、俺は永井の方に視線を向けた。
意識して見る事で、ようやく気付けるような、些細ないじめ、無視。今までは、永井だけが佐藤を無視していた。けれど、今、こうして見ると、クラスの大半の女子が、永井をいない物として扱っている。
影が薄い事を空気、と例える事がある。しかし、無視と言うのは、空気だなんて生易しい比喩では表しきれない。空気は、なくなってしまえばありがたみに気付く物だ。あっても意識しないが、空気と言う例えには、間違いなく、「いないとつまらない」と言う称賛も含まれているように思うのだ。今目の前で繰り広げられている事は、そんな次元ではない。明確に「お前なんていない」と言う悪意に満ちている。
何があったのかはわからない。しかし、それは確実に、進行していたのだ。
「……何だろう、凄い心配になって来た。香じゃなくて、かなえが」
ひそひそと小声で話す牧原。その目は、確かに本気だった。
「え?」
「だって、自殺に走るんだよ? その原因、これだったりしないよね?」
俺は、雷に打たれたように立ち竦んだ。言葉を紡ごうとしても、その方法を忘れてしまったかのように出て来ない。喉の奥で何かがつっかえ、ようやく絞り出した声は
「それ……マジで」
「大マジよ。かなり確率は高いように思う。本田君ならわかると思うけど。冷静に考えればだけどね」
そう言われてしまったからには、考えざるを得ない。逆いじめ、佐藤の性格、佐藤たちの過去。その全てから、佐藤の自殺に対して結び付く動機を探す。結末が見えている推理。それほど労せず、俺は回答を導き出した。
「佐藤、これを気に病んで?」
牧原も頷く。「可能性は普通にあり得る」
俺は頭をかいて、教室を見回した。桜井と目があって、慌てて逸らした。あの一件以来、どことなく気まずい雰囲気が俺たちの間に漂っている。
その光景は、牧原の恰好の興味の対象となるはずなのだが、今日に限ってはさすがにそうも言っていられないらしい。
「逆いじめだなんて、誰も望んでないよ……。かなえは、香と仲直りしたいだけなのに」
小さく、力なく呟いたその言葉。けれど、間違いなく、強い憤りを胸に秘めた物だ。牧原もこんな風に真剣に考えていたのかと少しだけ驚く。
「とりあえず、授業始まるから」
俺はそれだけ言うと、教科書を開いた。
どう考えても不穏な気配が漂っていると言うのに、授業なんかに集中出来るだろうか。いや、出来るはずがない。
結局、先生の話は右から左へ通り抜け、俺の思考はそれすらBGMにぐるぐると回り続けた。
逆いじめ、と言っていいのだろうか。そもそも、永井は佐藤をいじめていたのか。無視はしていたかもしれないが、それは、あくまでも一対一の話であった。
今のこの現状は、どう考えても一対一ではない。集団対一だ。これは、いじめと呼べるだろう。しかし元々が、いじめであったのか。まだ俺たちの早とちりでしかなかった可能性も否めない。
さらに、この無視が始まった原因は何だろうかと思案を巡らせる。いじめなんて、理不尽なものだ。それは知っている。けれど、さすがに全く理由がないと言う事もないだろう。取るに足りない、理由とも呼べないような理由でも、当事者たちにとっては、確かな理由である。
それが一体、どこに存在するのか。どうして、永井が無視されるようになったのか。
考えても何もわからなかった。
業間に新聞係で新聞を作り始める。
ここ数日の盛り上がりのお陰で、だいたいの構成は決まった。後は書きあげるだけだ。
「でも、かなえ大丈夫なのかな」
ふと金沢が漏らした。その響きに俺は顔を上げた。
「パッと見では大丈夫そうだけど……」と竹原が覗く。
まだ逆いじめに関して情報を共有出来ていない桜井は、それでも不安気な表情を隠さなかった。
しかし、とにかくまず第一は、新聞を完成させる事。逆いじめに問題があるとするならば、もしかすると新聞が何かを変えられるかもしれないと思い、俄然やる気が出た。
掃除の時、俺は牧原に相談を持ち掛けた。いじめの原因とはなんなのか。それを考えるのは、俺一人では厳しい。もちろん、放課後にタイミングを見計らって、桜井と岸原にも話すつもりだ。けれど、ある程度話をまとめておくに越した事はない。
しかし、牧原は、あっさりと俺の期待を裏切った。
「うーん、あたしもずっと考えてはいるんだけど、さっぱりなんだよね……」
「マジかよ」
「大マジ」
当てが外れた俺は、小さく唸る。結局、掃除中も一切進展はなしだった。
進展があったのは、俺が桜井と会話している時。岸原が少し用事がある、と言い出したため、俺たちは三人だけで、俺の家に集合しようとした……のだが、牧原も一旦家に帰る事になった。いつもいつも親に断らずに遊びに行っていたと言う事実が親の逆鱗に触れたらしく、一旦でいいから帰れとのお達しが出たそうだ。
傍若無人を絵に描いたような牧原も、親には敵わないと知って、乾いた笑いがこぼれた事は秘密である。
道中、俺は桜井と会話していた。あらかじめ話題を共有しておく事は悪い事ではないだろう。
「え、逆いじめ……」
「ああ。俺も牧原に言われるまで気付かなかったけど」
「いや、一応私は気付いてたけど……」
衝撃の事実。女子はそう言うのに敏感だ、と言う結論を出して、俺は心の安寧を得ようとした。
「そ、そうなのか……」
「うん。……心配だよね」
「ああ、そうだな」
恐らくこいつは、純粋に永井の事を心配している。俺とは違う。
「……ねえ、このシーンってさ、予知夢で見た気がするんだけど」
「え?」
とマヌケな声を返したが、なるほどどうして、俺と桜井が二人っきりでこの道を歩く。このシーンは、確かに見た事がある。
それは……そう。つい最近見た。あの夢だ。俺が走り出す、不穏な夢。
そんな風にぼんやりと記憶の片隅を掘り起こしていると、不意に、ある感覚が流れ込んで来た。いや、正確には、無意識を知覚したと言うべきか。天啓が閃いたかのように、俺は立ち竦む。無意識の内に発動される、高すぎる共感能力。クラス全体、と言う物に力を発揮した俺のそれは、理屈とか、そう言った物を超えた所で、解答を導き出した。
「……あんにゃろ!」
俺は勢いよく走り出す。後ろから桜井が追いかけて来る声も聞いたが、すぐに掻き消えた。
予言は、成就された。
いじめの原因なんて、そうバリエーションがある物ではない。ムカつくとか、そう言った負の感情が原動力になっているのは、どんないじめでも変わらないだろう。快楽的ないじめであろうと、苦しみながらのいじめでも。
そして、クラスと言うのは、全体の雰囲気に流されやすい物。一人がいじめを始めれば、それに便乗した何人かが追随し、そうしてクラスを巻き込む程に大きくなって行く。
今まで佐藤が一切いじめられずに済んでいたのは、ピアノと言う強烈な個性があったから。芸は身を助けると言うが、一つ得意な事があると、それは身を守る盾にもなる。
しかし、永井はそれを持たない。だから、クラス中に広がったのだ。いじめが。
なら、いじめられる原因はなんだ。盾を持つ者に対してそれでも闇雲に攻撃を仕掛ける姿が、滑稽だったのだ。その風潮は、今までもあったのだろう。俺が気付かなかっただけで。後は、その風潮に、実態を持たせればいい。ウワサと言う虚の物でも、そこに存在すると存在しないでは大違いだ。
「永井、佐藤をいじめてるらしいよ」
この言葉だけで、クラス中の雰囲気は、一気に変わる。
そして、それをする動機を持つ者。それは、恐らく、佐藤を永井から守りたいと考えている人に絞られる。純粋に快楽を求めて、みたいなくだらない理由なら、もっと早い段階でいじめの暗い火は点いていた。
今になってそれが発露した、と言う事は、この数日でその動機が産まれたと言う事を意味する。唯一の例外は桜井で、もし彼女なら今まで発露しなかった理由の説明も転校生だからの一言で済むが、目の前で佇む桜井の、真剣に永井を心配する様子を見て、そんな疑いも一瞬で掻き消えた。
それに、現実問題としても桜井ではあり得ないのだ。予知夢が必ず現実になるのだとすると、俺が事態を把握した時、桜井は、目の前にいる。わざわざ駆け出す意味がない。
そうなると、残った人はそう多くない。新聞係のメンツは、桜井と永井の関係については把握していなかったはずだ。だとすると残るのは。
俺と、牧原と、そして――。
俺が犯人でないのは俺が一番知っている。牧原が犯人だとすると、わざわざ俺に知らせて来た意味がわからない。メリットが何もないのだ。それに、牧原の性格上、そんな面倒な事をして守ろうとはしないだろう。
すると、残ったのはただ一人。
俺の頭の中には、楽しげに笑う岸原の姿が映し出されていた。
――
息切れ。疲労を感じ立ち止まる。闇雲に岸原の家までやって来たはいいが、岸原は不在だと言う。そこから取りあえずいつもの公園に向かったが、そこにもいなかった。
恐らく岸原は、佐藤に会いに行っている。そこまでは察しが付くのだ。岸原の母親も、岸原が何をしているのか把握していなかった。なら、用事と言う可能性も著しく低くなる。ならなんなのか、と考えた時に、そうなるのも必然と言えた。
この週末、岸原と佐藤は、一体何を話したのだろうか。
当てもなく学校へ辿り着く。校庭にはいない。けれど、学校には、意外に目の届きにくい所がある。植物が生い茂り、木に邪魔されて陰になっている場所。俺も、低学年の頃はよくそのスペースに避難した物だ。外界から隔離されたそこは、周りから隠れるのに最適だった。いじめを受けていた当時の俺は、誰もいない空間を求めてそこに向かっていた。そして、その秘密の場所は、仲直り以降、岸原にだけ伝えた。
佐藤のような女子がそんな所に好んで入るかどうかはわからないが、本気で周囲をシャットダウンしたい時は、そこに隠れても別におかしくはない。そして、そこに佐藤がいるとなると、岸原もそこにいる確率は、高いのではないか。
果たして、そこに岸原はいた。口元を押さえて、そこに立ち竦む。岸原。俺は、全力で駆け寄る。
「はあっ……はあっ……。岸原、お前、ここで、何、してんだよ」
息切れしたままに言葉を紡ぐ。岸原の方に視界を向けると、愕然、と言った表情をしていた。
風に木の葉がそよぐ。
唐突に、岸原がくしゃみをした。
「だい、じょうぶ……か」
「まあな……っくしゅん!」
俺は、息切れを整えるため、しばらくそのまま立っていた。その間中、岸原は、バツの悪そうな顔をこちらに向けていた。
「それで岸原、佐藤、ここにいるんだろ?」
一瞬間が開いて、首を横に振る。
「庇わなくてもいいっての。俺は、味方なんだから」
それには答えず、岸原が言う。
「でも、なんでここに来たんだよ」
「……お前だろ、永井をいじめるように誘導したの」
言葉が上手く出て来ない。かいつまんで説明すると、明らかに言葉が足りない。
「どう言う事だ?」
「佐藤への無視の事をクラス中にウワサとして広めたの、お前だろ。そのせいで、永井はいじめられ――」
「ストップ! ……ウワサを広げた? 何の事だよ」
「とぼけんなよ。お前しか考えられないんだ」
俺は、全てを、順序立てて説明していく。どうして岸原が最有力容疑者になったのか。そして、何が起こっているのか。いじめの先に佐藤の自殺もあり得ると言う事も話す。
岸原は、途中で何度もくしゃみをしたが、それでも真剣に耳を傾けた。そして、全てが終わると、口を開く。
「……すげぇなお前。よくそこまで考えるわ。俺も俺が犯人なんじゃないかって思えて来るレベル」
「これでも違うって言うのかよ」
「ああ。違う。確かに今の説明は凄いと思った。けど、それとこれとは別。俺はやってない。逆いじめの事も今知ったレベル……っくしょん!」
「じゃあ、用事があるってのに今ここにいるのはなんでだよ」
「……わっかんねぇかなぁ。ヒントは俺のアレルギー」
「は?」
思わずマヌケな声をあげる。アレルギー。岸原は、猫にアレルギーを持っていて、さっきからくしゃみが……。
「まさか……。お前、ここで猫――」
「大正っしょん! 解」
驚いた。岸原が、猫をわざわざ学校で。猫アレルギーだと言うのに。
「なんかほっとけなくてよ」
「お前冗談抜きで死ぬぞ」
「大丈夫大丈夫。自分の体の事は自分でわかるしっくしゅん」
「で、その猫は茂みの奥か」
「ああ。俺は退避するぜ」
その猫を、いや、正確には猫たちを、視界に捕らえた瞬間に、俺は驚きの余り、言葉を失った。
「お、お前……アム、だよな……」