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 魔務省のお役目は単純だ。

 ここは魔術に関する全般を統括し管理、運営する省である。

 発祥は鎌倉時代にまで遡り、かの弘法大師や安倍晴明などが長官職を歴任してきたという。

 京都の帝直属である宮務省と並ぶ権力を有していた時代もあった。

 時の流れとともに名称は移り変わり人も世代を重ねてきた。

 古き良き過去を懐かしむ者はかつての繁栄を思い浮かべるのだろうが、ほとんどの者にとってそれはただの空想でしかなく、謳歌を極めた頃を知る者たちほど過去になど固執しないのだ。

 江戸時代中期の繁栄期から生きている燃燈毬がその好例である。

 些細なことには捕らわれず、また冷静に大局を見据える慧眼は九天の支配者の名に相応しいと轟加奈子は実直に思うのだ。

 紛れも無く常盤幕府の重鎮であり開幕依頼、五代目となる将軍全てに支えてきた経歴の持ち主で、それ以前は徳川幕府の魔務奉行大目付であったという。

 燃燈家は最古の日本史にすら出てくる魔術師の名家なのだ。

 それほどの人物であるにも関わらず、自分のような一兵卒上がりに過ぎない軍人が普通に面会を求めて承諾される。

 親しみやすさもあるが、どちらかと言えば困った女性である。それでもこうして頼りにしてしまう。苦笑が漏れるのも致し方ない。

 童女のころに肉体の成長を止めた彼女の前に立つと身震いしてしまうのは今も昔も変わらない。見た目は七歳児くらいである。

 魔務省長官室への長い廊下を歩いていて思うのはそんなことばかりである。

 しかし、今日は行き先が違っていた。

 寝食を削り彼女ほどの魔術師が没頭しているものがある。

 つい先日、聖女によって開放された聖剣システィーナの調査である。

 現存する全ての神具、魔具に精通し骨董品の収集家という一面を持つ燃燈毬であっても、勇者が残した美姫の正体を未だ明確に掴めていないらしい。室井智が使った武器はその全てに女性名が付けられていた故に、美姫などと呼称された。

 燃燈毬が知識で苦戦を強いられている。そんなことは噂話でしかなく実話であってはならないはずなのだ。

 魔術に関わる全てを網羅するのが彼女の役割なのだから。

 霞ヶ関魔務省。その最上階にある長官室よりずっと低い階層でエレベーターを降りた加奈子は、他の誰とも擦れ違うことなく研究室にまで辿り着いて安堵した。

 意識して肩の力を抜いたのは、彼女がここを訪れるのが初めてであったからだ。

 国防省陸軍に所属する轟加奈子が他の部署である魔務省本部について知っていることは少ない。

 一階にある受付を通り最上階にある燃燈毬の自室までである。

 他の部屋に入室する機会があるなんて今まで思いもしなかった。

 受付の事務官に教えられた部屋の前に来て、二回、短く控え目なノックをした。きっと気配など随分前から察していて、ノックなどというのは形式だけのものであるに違いないのだ。

 あの少女が驚く顔を見たことのない加奈子は再び苦笑する。

「開いているわよ~」

 いつも通りの間延びした話し方で許可が降りた。

 金メッキされたドアノブを九十度に傾けてドアを開けた。

 そこは装飾品のないだだっ広いだけの空間であった。

 壁はクリーム色で漆喰の柱が見える。

 円柱形の部屋であるらしい。それだけである。さっぱりとしていた。

 その中心部に燃燈毬が立っていた。

 彼女は来訪者を確認もしないで話を始める。

 毬が見上げる先には加奈子も渋谷駅で見物したことのある大剣が、宙に浮いた状態で何かしらの魔術を施されていた。

 術が描かれた札が幾重にも貼られ、グルグル巻きのミイラみたいだった。

 六本の細い支柱から伸びた荒縄によって、宙づりにされた聖剣を前に短い腕を忙しなく動かしている。

「昼間は思わぬ活躍だったみたいねぇ。うちの子たちが安易に外出許可を出したりするから」

「いえ。事が起きた時のために私が派遣されたのです。聖女襲撃は予想されていたものではなかったのですか?」

「囮として?そんな非人道的な策は採用しないわよぉ。聡教信者の炙り出しには効果的でしょうけど。私たちが使う予知は必ず当たるというわけではないわ。知っているでしょう。不確定因子を排除することは難しいのよ。特に室井若菜の周辺は」

 後手でドアを閉めて部屋に一つだけあるパイプ椅子に、加奈子が腰掛けるまでの会話である。

 平均的な男性の身長を遥かに越える轟加奈子のために用意されたのだろうか。座ってもまだまだ鞠を見下ろす格好になるのだが。折り畳みのパイプ椅子はこの部屋の情景に溶け込んでいない。

「この部屋はなんなのです?」

「異界の情報を分析するためには、この世界の物を極力排除した空間が必要なのよ。私の父がそう言っていたわ。多分、こういう日が来ることを予見していたのでしょうね」

「蘇る七つの美姫を調査する専用の部屋ですか?お話は理解できますが、それにしても殺風景ですね。散らかった毬どのの事務室とは雲泥の差です」

「一言多いのよ~!まあ、あまり効果は上がっていないけどね。呪符に仕込んだ魔術を一つ一つ仕掛けているのだけど、どれに対しても無反応なのよ」

「無反応というのはどういうことでしょう?」

「おまけに質問も多い。一切の魔術を無効化しているようなの。この世界の法則では髪の毛ほどの傷もつけられないでしょうね。その割にこっちの結界やら何やらはバッサリ斬り裂くんだから反則よねぇ。物理的にもきっと不可能よ。どれだけ人を斬っても刃毀れしない名剣ということかしら。おまけにこの剣の能力は広範囲で腕利きの狙撃手以上の制度で複数の敵を倒すというわ。反則決定~。この剣を研究調査するということは、そうね~、物理学で言うなら四次元に挑むに等しいわ。どこの誰が作ったものなのかしら。赤帝ではないという話だけど」

「高次元の存在であると。ですが、そんなものが三次元に来ることができるのでしょうか」

「真っ向から否定するわ。四次元と言ったのは例えよ。これは間違いなく私たちと同じ法則の下に在るわ。でも皆目検討もつかない。厄介な物を持ち込んでくれたものよね。加奈子ちゃん、何しに来たの?」

 椅子の上で長い手足をだらりと伸ばし、かなりリラックスした調子で魔術師の講義を聴いていた加奈子は苦笑いを浮かべた。その質問がまず先だろうと。

「本日、聖剣を見学に窺うとメールしましたよ。またスルーですか?別件も増えましたが。さきほど毬どのがおっしゃった昼間の聖女襲撃の件です」

「まさか聡教に若菜ちゃんの行動がよまれているなんてね。予想外だったわ。内通者がいるのでしょうね」

「魔務省はそれこそ真っ向否定という発表をしましたよ」

「宗教は基本的に自由思想になっているから、誰が何を崇拝しても咎められるべきではないわ。それこそ聡教信者だからといって、迫害や差別を受けるなんて事態は避けたいの。でも、武闘派による凶行が問題なのよね。襲撃に来た二人、加藤新一と雲霧操だったわよね。常盤六連、藤崎すみれ、加奈子ちゃん、エマ=クエーガー。その四人が揃っていたことが最大の幸運だったのでしょう。一人でも欠けていたら都庁の職員に死人が出ていたわ~。そして、都庁にもここ夢魔省にも聡教信者はいるのよぉ」

「ええ、奴らの一部武闘派はなぜかとてつもない強さです。厳しい修行を経てきたのか。その一点だけは見習いたいものです。ですが、それほどの使い手集団に対して幕府の見解は甘すぎるし弱すぎると思うのです」

「仕方ないわよ。教団を根こそぎ排除するわけにはいかない。でも、そのくらいの規模で作戦を展開させないと過激な武闘派を一掃するのは不可能でしょうから。相手はテロリストなのよ」

「幕府に上申してはいただけませんか。特に危険だとされている連中だけでも賞金額を上げていただければ、バウンティー・ハンターも活発になると思うのです」

「並以上のバウンティー・ハンターでも返り討ちにあってお終いでしょうね。充分な情報公開をしなければね。賞金額を引き上げるということなら、簡単そうだからやっておくわ。都庁を正面から襲撃するなんて、幕府に喧嘩を売っているのと同じことよ」

「喧嘩屋も対して変わりませんが、それでもしてはいけないことの分別はつくと思うのです。小学生でも理解しています。都庁に殴り込みをかけてはならないと」

「そうねえ。喧嘩屋ねぇ。そういうお馬鹿なことをやりかねないリーゼント頭にこの前あったわ。若菜ちゃんと一緒にいた探偵よ」

「探偵でリーゼント……。もしかして三浦潮ですか?若菜どのに同行していた人間とはあの男のことだったのですか。私の幼なじみなのですが……。かなり失礼な奴だったのではありませんか」

 毬は白い指で自身を指差した。

「魔女っ子と呼ばれたわ。とても強い魔力を持っていて、私の魔術に多少なりとも抵抗してみせたわよぉ」

「魔女っ子ですか。それはなかなかの表現力ですね。悪運は強いと思いますが、魔術を習ったということはありません。術式などあいつの頭で理解できませんし覚えられないので無駄です。肉体馬鹿で、拳で解決することしか出来ない無能探偵ですから。昼間移動中に歌舞伎町のアイツの事務所に立ち寄ったのですが、相変わらず眠そうでしたよ」

「そうなんだぁ。歌舞伎町に事務所があるのね。室井若菜に持たせているブレスレットは魔術具で発信機の役割を持っているのよ。小一時間前に若菜ちゃんがホテルを抜け出して電車に乗ったわ。行き先は歌舞伎町でしょうね。エマ=クエーガーは都庁で無理をしたのが祟ってまだ寝ているから単独よ」

「数時間前に襲われたばかりだというのに!」

「まあ、放っておきましょうよ。私たちが美姫と彼女を調査しているように、彼女も自分を模索したいのでしょう。とにかく動きたいという衝動は理解できることよ。彼女の意思は極力尊重するということで七星も了承しているわ」

「……大将軍御自らがご決裁されたのであれば、家臣とも呼べぬ軍人の端くれが反論はできません。我々は後方支援に徹するということでよろしいのでしょうか」

「そうねぇ。それでいいんじゃない。ところで用事はそれだけなの?」

 ふむっと考える素振りをみせた加奈子は少し間を開けてから口を開いた。意味があってのことではない。会話ががらりと変わることになるからそうしただけだ。

「昼間ふと思ったのですが、室井聡と七剣士と呼ぶのが正しいのか、単に八剣士と呼ぶのが良いのか、疑問が浮かんだのです」

「室井聡を首領とする教徒たちからすれば七剣士となるのでしょうね。父が言うには上官や主などとは間違っても呼べない器だったそうよ。本人を知る者たちなら八剣士という呼称になるのでしょうね。人それぞれよ~」

 燃燈毬の実父、燃燈刹那は四百年前の天草四郎の乱を鎮圧する兵役に幕府側として参戦していた。

 徳川幕府魔務奉行として当然のことだった。

 むろん室井聡と直接面識を持っていた。

 その娘ならば明確な回答を得られると思ったのだ。

 その千年を生きた偉大な魔術師も今はもういない。

 三年前の冬の日、こたつの足に躓いて、箪笥の角に頭を強打し亡くなった。

 あまりにあっけない幕切れである。人生何が起こるか判らないものだと皆が口癖のように言ったものだ。

「あれれ~?そんなぁ。これはちょっとよくないわ~!」

 考え事をしていた加奈子の耳にほんのちょっぴり慌てた毬の言葉が飛び込んだ。

「毬どの?」

 確かにそこにいたはずの燃燈毬の姿が忽然と消えていた。

 残された聖剣は変わらず浮遊し轟加奈子は人を呼びに行った方が良いのだろうかと悩んだ。

 転移魔術でどこかに跳んだのは間違いないのだ。

「あの方ならば大事には至らぬだろうが、ここの職員に報告はしておいたほうがいいだろうな」

 それが最善と思われた。



 遠慮がちに鳴り響く携帯電話のアラームに、うるせぇ!今何時だと思ってやがる!と逆上したのは三浦潮だった。

 彼が曾祖父から受け継いだ新宿区歌舞伎町にある探偵事務所でのことである。

 彼の眠りを妨げたアラームは本人が二十時にセットしたから鳴っただけだ。ちゃんと仕事をした携帯電話を握り潰しそうなほど大きな手で掴むと、反対側に折ってしまいかねない勢いで開いた。二つ折り携帯電話は簡単に壊れるのだ。

 やっと止まったアラームである。

「事務所か」

 部屋の中は真っ暗というほどでない。障子から明かりが入り込んでいるからだ。周辺は見ることができる。三毛猫アイシャの目が光っていた。

 動くものがいなくても静寂になることもない。眠らない街、歌舞伎町の喧騒が途絶えることがないからだ。

 敢えて居場所を口に出したのは、寝ボケていたからである。

 仕事の時間だという記憶はある。その為に目覚ましをセットしたのだ。

「何の仕事だったっけ?」

 大欠伸をしながら思い出そうとする。思考はまとまらず記憶も戻ってはこなかった。

 外出の準備でもしているうちに思い出すだろうとお気楽に、まずは顔を洗い歯を磨く。

 浴室のない建物である。洗面所も元から無い。洗面は台所の流しが兼用となっている。昭和のアパートのようだと知人は言う。

 忘れてはならない頭髪の手入れを入念にし終わった頃には二十分が経過していた。そういえば、電気を付けていなかったとスイッチを入れた。

 蛍光灯の交換も忘れているが、すぐ切れることはないだろうと、明日にまわすことにした。

「さて、俺はこれから何をしに、どこに行くんだっけ?」

「……大久保孤児院の大塚美嘉を夢魔族から救出しに行くんでしょう」

 盛大な溜息と同時に潮の脳裏に、依頼内容が蘇り閃いた。

「そうだった!思い出したぜ。美嘉ちゃんを助けに行かなくちゃな!へっ、それくらい出来なきゃ男が廃るぜ」

 その役目を思い出せなかったのだから、まったくこのダメ男は、と非難しそうな三毛猫の耳が何を聞きつけて動いた。

「客だよ」

「ん?誰か来たな。今日は閉店だぜ。こちとら重要な案件を抱えていて忙しいんだからな」

 そう言い捨てるつもりで意気揚々と玄関を開けた。

 そこにはネオン輝く歌舞伎町を背景にしても劣らぬ存在感を持った美女、室井若菜が立っていた。

「いつまでたっても明かりが付かないから、とっくに出掛けたのかと思っちゃったじゃない!男性にこんなに待たされたのは初めてよ!」

 ずかずかと敷居を跨いで文句を並べた。

「大塚美嘉って子を助けに行くのでしょう?面白そうだから連れていってください」

 爛々とする瞳から本当に興味心からの行動らしいとわかる。拒否を許さぬいつもの勾配ではなく、二十歳という年齢通りの若さに満ちた魅力だった。

「社会科見学じゃないんだぜ。お供のエルフもいねえじゃねぇか。女王が現場に顔出すもんじゃない」

「女王と呼ばないで!」

 がたついた障子の癖を早くも掴んだ若菜は、通行人の視線を意識していたので素早く締めた。

「昼間、ここを出発してから私たちは都庁に向かったのですが。そこでの事件は知っていますか?」

「いいや。何も。俺はずっと寝ていたからな」

 こめかみの辺りを押さえて考え込む若菜は辛抱強く説明することにした。

「都庁で東京都領主の加藤氏と面談を終えたところに、聡教武闘派の二名が私を拉致しようと襲ってきたのです。加藤新一と雲霧操という二人組でした」

「加藤さんに会って加藤に襲われたのか?まあ、よくある名字だもんな。関連はないだろうが」

「あったら大問題ですよ。ご本人も全面的に否定していましたけどね。で、まあ、その場に居合わせた人たちで撃退は出来たのですけど、私がここにいるだけでこんな騒動が起こるなら、早めに帰った方がいいのかなと考えを改めたわけです」

 その依頼なら俺に任せてくれたんだろう?

 潮の頭は奇跡的にそのことを覚えていた。

「その件に関しては人選を誤りました。あなたというより、誰にも解決できそうな気がしないので、自分で動くことにしました。それにはまずこの世界を知らなければならないのです」

 だから危険が伴うかもしれない夢魔族退治にも同行しようというのだ。

「俺が断れば?」

「勝手に付いていくだけです。あなたの視界でおとなしくしているか、外側で観察しているかの違いしかありません」

 だったら隠れてついてくればいいだろうに、と責めたりはしない。彼女はいつだって堂々と生きてきたのだろう。こそこそ隠れるなどというのは性に合わない。

「対処するのが俺なんだから、万に一つのミスもないか。気楽に見物していきな」

「ありがとうございます!ところで夢魔族に関してはどのくらい知っているのですか?私もエマ=クエーガーから情報を仕入れはしたのですが、たいしたことは聞き出せませんでした。できれば教えていただきたいのですが」

 この自信だ。きっと二桁くらいは軽く狩ったことがあるに違いない。ガラが悪いのは仕方ないとしてこの巨漢ならば並大抵の怪物なんか目ではないだろう。

「なんにも知らねえ。見たこともない。空手の達人が遭遇したくもないと断言する化け物らしいな」

「……さっきの自信はどこから湧いてきたのですか!」

「ん?俺に不可能はない。どんな敵だって俺がちょいと本気を出せば、イチコロさ」

 大塚美嘉の残り半生を犠牲にしても魔務省に通報したほうが、それ以上の犠牲を出さずに解決できるのかもしれない。若菜がどうしようか悩んでいると、すっかり用意を終えていた潮が出発を促してきた。

「鍵掛けるの忘れんじゃないわよ」

「えーっと、鍵は持ったよな。それじゃ、行こうか?」

「い、今、誰かしゃべりませんでしたか?」

「中には誰も居ないぜ。おかしなことを言うんだな」

 腰高障子を閉めて鍵をかける。昭和中期に建てられて以来、使われ続けたキーはおもちゃのようだ。

「障子に鍵をする意味があるのですか?私の腕力でも押せばサッシから外すことができると思います。毎週末、泥棒被害に遭いそうですね」

 この事務所ができてから一度も盗人に入られたことのない実績を聞いた若菜が、驚きの感想を漏らした。

「泥棒もよりつかないボロさということかしら」

「おいおい。単に人通りが絶えないからだと思うぜ。木を隠すには森のなかだっけ?」

「全然意味が違います。知っている熟語を口にしただけでしょう」

 若菜も女性の割に背丈が高い方であるのだが、隣を歩く男は百九十センチを越える巨漢である。白いスーツの下に隠れてはいるが燃燈毬の魔術に抗ったことや、エマ=クエーガーの竜巻に巻き込まれて死ななかった辺り、かなり鍛え上げていると思われた。

 体力勝負になれば頼もしいのだが、知能のほうが心配だった。どう制御すればこの男を最大活用できるかを思案する。

「あのエルフはどうしたんだ?お前の影みたいに付き添っているもんだと思っていたぜ」

「エマなら昼間の襲撃に時間を取られたことで、がっかりして寝込んでいます」

「理由がわかならないな」

 それはそうだろう。言い難そうに若菜が説明する。

「都領主との会談後、西新宿公園に誘い込んで私を押し倒すつもりだったらしいです。でも、襲撃後のドタバタで公園に立ち寄る時間がなくなったのです。ショックのあまり全てを吐露して寝込みました。まぁ、披露のせいもあるでしょうけど。公園に立ち寄ってから都庁に向かいましょうとか言い出したから、変だなぁとは思っていたのですよ」

 おまけに近くのホテルを予約までしてあったというのだから気の早いことこの上ない。

「あのエルフ、阿呆だろう。つーか、聡教の武闘派を二人もよく撃退出来たよな。ご褒美に少しくらい触らせてやれば生き返るんじゃねえのか?」

 無許可とはいえ、お尻を触られたことを教えてやるつもりはない。

「単に運が良かったと思います。私についていた護衛は魔務省の職員だったのですけど、魔術師の雲霧操にあっさりやられました。常盤幕府の次期将軍という六連さんが都庁に居合わせてくれて。彼に従う巴教信者の藤崎すみれさんも凄い使い手だったのです。おまけにあなたの幼なじみの轟加奈子さんまで応援にかけつけてくれて。三対ニでも全く互角のように見えました」

 チッと舌打ちした潮が腰を屈めて若菜に顔を近づけた。リーゼントの先端がおでこに触れる距離である。硬質なカチンという音がした。

「藤崎すみれは確かにすげえ強いらしい。源巴の信者ってのは個人技に特化した魔術を使うらしい。足りない筋力や周囲索敵能力なんかを向上させるんだと。暗視や聴力強化、毒無効、麻痺無効、各属性耐性強化、治療術と数え上げればきりがない。轟先輩は別にどこかの信者ってわけじゃないんだが、剣術には天性の才能ってヤツを持ってやがる。男なら剣聖を取れたかもって、誰かに言われて嬉しいような悔しいような顔をしていた。だがな、いいか。長くなったがここからが本題だ。常盤六連には気を許すなよ。アイツは勝負に勝つためにはどんなに卑怯な手段も迷わず使う男だ」

「とてもそういう人には見えませんよ。見た目ならあなたの方が極悪人です」

 静かに断言した。

「みんなアイツのいやらしいスマイルに誤魔化されているんだ。あの人畜無害を装った笑顔の裏側を俺は知っているぜ」

 何か恨みでもあるのだろか。鬼の形相で若菜に詰め寄っていた潮は、固いリーゼントを離した。

「中学生の頃の話だ」

「は?」

「だから、中学生の時の話だよ。俺の出身校、世田谷区立第八中は二三区中学対抗騎馬戦大会の三連覇がかかった大事な年だった。一年から俺が主将を務めて三連覇だ。つまり最後の年に立ちはだかったのが、奴だった。幕府の後継者だか何だか知らねえが、奴は卑怯にも海外の留学生チームを引き連れて騎馬戦に参戦してきやがった」

「たかが、中学生のイベントでしょう?」

「興味のない連中にとっては、そうだな。たかがといえるレベルだ。しかし、俺たちにとっては違った。それまで覇者だった麹町中の連中からすれば、なんとしても三連覇は阻止したかったんだろう」

「どうして?」

「明治時代に始まったこの伝統行事で三連覇を成し遂げたのは六連の腹違いの兄、昴さんしかいなかいからな。他に譲りたくはなかったんだろうよ」

 なんとも投げやりな話し方であるが、当時の悔しさは未だ鮮明なようで口惜しさを押し殺すために、そうしているのだろう。

 すでに過去の事と判ってはいるのだが、受け入れがたいということだ。

「その年の優勝は麹町中になったのかしら?」

「俺たちは団結力と日頃の特訓の成果をフルに発揮して戦った。だが、こっちは普通の日本人だ。中学生だ。同い年とはいえ外人連中との体格差は埋められなかった。と言っても、俺よりは皆チビだったけどな。最後に残った俺の騎馬は果敢にも六連が率いる外人騎馬に戦いを挑み、ヤツのハチマキを奪うことができたんだ」

「勝ったんじゃないのですか?」

「俺も取られたんだよ。全く同時という判定だったが、間違いなく俺のほうが早かった!しかも六連の野郎は手じゃなく足でハチマキを奪いに来たんだ!」

「サッカーじゃあるまいし、反則行為ではないのでしょう?よく知りませんが」

「ああ、ルールブックにはない。反則じゃなかったが、伝統を汚す行為だ。つまり、ハチマキを奪ったのは同時だったとしても、騎馬戦の武士道に則れば俺の勝ちだ」

「その主張は認められず引き分けたということですか。よく審判に文句を言って退場になりませんでしたね」

 この男の性格なら運営本部に殴り込みをかけてもおかしくはないのだ。

「本部のテントやら机を破壊してやったぜ。その前に六連を殴ってやった。あの事件が人生で最初の補導だったな。子供の喧嘩だから放っておけと大将軍が出張ってきておさまったんだが、引き分けの判定は覆らなかった」

「七星さんだったかしら?ご足労頂いたわけでね。その時に応援に来てくれたのが大塚美嘉さん。西戸塚の中学校からわざわざ応援って、そんなに大きな大会なのですか?」

 代々木公園の運動場を借りて行われる伝統行事である。優勝したチームは英雄扱いされるものなのだ。そこで発生してしまった暴力事件は前代未聞で夕刊と朝刊はその話題で賑わった。

「そうだな。あの照れ屋さんがホスト通いとはな」

「違うでしょう。夢魔族に魅入られたのでしょう。あ、何この広場?」

「ん?コマ劇場広場だろう。お前さんの世界にはないのか?」

 噴水があるかなり広大なスペースがあった。

 平日の夜だというのにまだ人は多く、楽器を演奏する者、缶ビール片手に仲間と語り合う若者、座り込んでボウっとしているだけの人など百人ほどがそこに集まっていた。

 周辺には映画館が幾つもありゲームセンターやカラオケ屋もあって、お手軽な娯楽大集合の様相だ。

 ナンパに精を出す者もいて中にはホストらしき集団もいた。もっとも隣にいる三浦潮の方がよっぽど若菜がイメージするホスト像に近かった。

 ばっちりキメたリーゼントに白いスーツ。テカテカの革靴。微かに香る香水はココナッツのいい匂いがした。襟の大きな青いワイシャツはネクタイをせず、上の方はボタンもかけていない。

 九十年代のバブル期後半のファッションに近いのではないだろうか。肩パットはさすがにはいっていないが。

 そういう映像を記録としてみたことのある若菜は、もちろんコマ劇場というものも知ってはいた。

「私の世界では、私が生まれるずっと前に閉館しています。こんな広場だって無いもの。大きな複合施設が建っているわ。うちの持ちビルですけど」

「持ちビル?」

「そうです。誰にも言っていませんが、あっちの方ではクロスラインって会社を設立したのが室井聡なんですよ。私のお爺ちゃんのお爺ちゃんです。宇宙進出目前の世界的大企業ですよ。ドリームダイヴコンピュータシステムという機械を使って他人の夢世界に入り込むことが出来る装置を開発したのも聡お爺ちゃんなんですよ」

 誇らしげに語る。

「夢の世界だ~?千葉のあそこみたいなヤツか?」

「違いますよ。本当に夢の中に行けるんです。意識体だけですけど。例えばその人が失った記憶の探索、あるいは現実の辛さを一時的にでも忘れたい人を、その人が思い描く理想の世界に案内するためのものです」

「どういう技術だ?」

「まず依頼者をドリームダイヴコンピュータシステムに寝かせて接続します。次に専門の資格を持った夢案内人が、依頼者側と有線で繋がれた同システムで寝ます。両者を繋ぐのが疑似人格を与えられたプログラム、フェアリーです。夢世界の完成度はフェアリーの性能に左右されますね。私が使っていたドリコン初期の傑作アルカナシリーズ、恋人(ラバーズ)のサクラはとても優秀なんですよ。まぁ、同シリーズの悪魔(デビルン)死神(デスサイズ)には敵いませんでしたけど」

「ふぅん。デビルンにデスサイズねぇ。どこかで聞いた名前だな」

「おそらく本当の螺旋樹があるというアストラル界の二十二の門番(アルカナ)たちが、そんな名前なのではないでしょうか?こちらに来て思ったのですが、聡お爺ちゃんはなんらかの手段を用いてアストラル界の住人である二十二の門番、その眷属たるフェシスたちを自分の世界に召喚してコンピュータに閉じ込めて、疑似人格として使役したのではないでしょうか」

「出来るのか?そんなこと」

「夢魔族だって条件を満たせばこちら側に来ることができるのでしょう。肉の身体ではなく、機械の身体を提供して協力してもらったと考えています。それにもしかしたらドリコンとして召喚した中には夢魔族も紛れているのかもしれません。態度の悪い子も確かにいます」

「俺たちの世界とあんたの世界は、アストラル界を通じてつながっているってわけか。アルカナなんかと喧嘩したいなんて思わないね。家来のフェシスなら勝てるか。ところで有線じゃないとダメなのか?その夢世界に行くには」

「いえ、無線でも可能ですが、著しく安定感に欠けるので法律で禁止されています。無線で接続中に意識が戻らず、眠ったままになっている人が世界中に大勢います。眠り続けるだけならいつか起きるかもと期待を持てるのですが、ある日、変死する事があります。病室なのに水死していたり、そこに無いはずの刃物で惨殺されたり絞殺なんていうのもあります。その死には共通項がなく、あまりに突然なんです。不可解な事件ですが、無線で行わなければならない違法な依頼というのも後を絶たないのが現状ですね」

「ふぅん。夢の世界、夢の技術。夢の犯罪か。俺には関係の無いことだな。しかし、ハイテクが進んだ世界から来たんなら早く戻りたいだろう。一般家庭にウォシュレットはそうそうないぜ」

「そうですね。ならせめてダブルでお願いします。宿舎のホテルにはちゃんとありましたよ。螺旋樹の里での普及率は百パーセントでしたけど?」

「金持ちしか持ってないって。経営者の一族って話だったな。そういえばなんでこっちの世界にくることになったんだ?」

「それが判れば苦労も少しは減ってくれるのでしょうけどね。軌道エレベーターって知っていますか?地上から伸ばしたエレベーターと低軌道宇宙ステーションを太いカーボンケーブルで繋いで行き来をするものなのですが」

「まさに夢の話だな」

「その夢を実現させようとしているのがクロスライン社です。その軌道エレベーターの起動試験当日、エレベーターがテロリストの襲撃に遭ってしまって。爆弾が爆発して地上二千メートルくらいの高さから外に放り出されたのです。気がついたらこっちに居ました。エマ=クエーガーの添い寝つきで」

「おいおい。大丈夫だったのか?いろんな意味で」

 爆破テロに巻き込まれた方を心配しているのか、レズビアンエルフの毒牙であろうか。

「爆破の被害は出ていたし計画が一時中断ってところでしょうね。修理と保守点検でさらに数ヶ月を要するでしょう。あれ巨大設備だから。一緒にいた友人たちの中には避難が開始されていたことを楽観的に考えても……助からない人もいたでしょうね」

 争いや暴力をあからさまに憎悪するのはそういった事情もあるのだろう。そして、身近な人の死を取り乱すことなく、淡々と話す精神力は気味が悪いものだと潮は思った。

 横顔を盗み見るのを躊躇ってしまうほどに。

「上手くいかないのはどこの世界も同じなんだな」

「差し当たっての問題は夢魔族の犠牲になりつつある大塚さんね。具体的にどうやって救出するつもりですか?話ではその夢魔族の第六位(ガンダルファ)、ブルーノってやつはまだこちらにやってきていないのでしょう?」

「こっちに来るのを待つ。それから速攻でぶっ飛ばす。美嘉ちゃんが喰われた後だと俺なんかの手に追える相手じゃないぜ。たぶん」

 ちょっと本気になればチョチョイのチョイなどと、大言を吐いていた自信はどこへ行ったのか。

 どうにも不安材料しか見当たらないことに若菜は顔をしかめた。

「喰われるというのは物理的に捕食されるということかしら?それを阻止すればいいのね?」

「アストラル界ってのは精神世界なんだ。そこの住人である夢魔族とかフェシスには肉の身体がない。それで美嘉ちゃんの肉を得て実体化する。その前の状態は精神体だから物理攻撃は効かないらしい」

 誰かに聞いた話をなんとか思い出しながら、拙い説明をする。その内容は若菜がエマ=クエーガーや魔務省職員から仕入れた情報そのままだった。つまり、複数の人物からもたらされた信用できる情報ということだ。

「他にはないのですか?」

「ん?」

「ん?じゃなくて。何か秘密の情報です!探偵仲間でしか知らない絶対に効くおまじないとか。それに物理的攻撃が無効なら、どうやって精神体の状態であるブルーノを倒すのですか。あなたが魔術を使えないのは見た目で判ります」

「見た目で判断するなよ。だが、間違いじゃない。俺に魔術なんて得体のしれないものは扱えない。ついでに精霊術もだ。それでも俺には精神体を殴ることができるんだ。マジだぜ」

「その方法を教えなさいよ」

「方法も何も……。だから、殴ることができるし蹴りつけることも可能だ。頭突きだってきっと出来る!コブラツイストは余裕があれば試してみよう」

「だから、その自信の根拠を説明しなさい!」

 腕を組み大男は黙りこんでしまった。当たり前のように出来る事を、どうして?なんで?と尋ねられても彼の知能では上手く説明ができないのだ。

 一生懸命考えて捻り出した答えが、

「俺ってすげぇんだぜ?」

「会話が成立してないわよ!本物の馬鹿なのね。こんなのに任せて大丈夫なのかしら。携帯電話を持っていれば今ズグにでも魔務省に通報するのに!」

「それをやっちまうと美嘉ちゃんの残りの人生が終わっちまうから、力づくで止めに入るぜ。そのために動くんだからな」

 あまり進展のない情報交換をしながら歌舞伎町のさらに奥に進んだ。

 都立大久保孤児院はその先にあるからだ。

「どうでもいいけど、これって勘違いされないかしら?」

 三浦潮に対して敬語で接するのをやめた若菜は言いにくそうに口にした。

「しっかり勘違いされていると思うぜ。男を買った女か。遊び人カップルだな。俺の格好のせいで普通の恋人に思われないのは間違いない」

 大久保孤児院の周辺はラブホテルの密集地である。

 ブルーやピンクに輝くネオン街のまっただ中を歩く、派手なスーツの男と今風の女子である。

 この時間にここを歩く男と女の目的が他にあろうはずもなく、擦れ違う他の男女はお帰りなのかこれからなのかの違いしかない。

「人生最大の誤解だわ。ママの耳に入ったら泣かれちゃう。よりにもよってこんなのと……」

「両親は健在なのか。そりゃ早く帰らないと心配するよな。この山が片付いたら、そっちも取り掛かるからよ」

 この男は本気で若菜を元の世界に帰す方法を探し出すつもりのようだ。随一とされる優れた魔術と知識を持った燃燈毬ですら、お手上げ状態で保留にした難問に挑戦しようというのだ。

「アテにしてないから片手間でいいわよ。それより孤児院に忍びこむの?」

 目の前には低い壁で囲まれた大久保孤児院があった。青少年の教育施設をどうしてこんないかがわしい場所に建てたのか常識を疑ってしまう。

 正面の門は閉じられているが、あまり高くない柵は少ない労力でよじ登れる。ちょっとしたグラウンドを横切るのに発見されないか心配だった。

 大久保病院から狭く暗い路地を挟んで真向かいにあった。

 そこも違和感を覚えた若菜である。

 彼女の世界ではそこにあるのは孤児院などではなく、やたらと高いフェンスが張り巡らされた公園なのだ。

 大久保孤児院の建物はまだ明かりが灯っていて、中からは子供たちの元気な声が聞こえてくる。

 消灯時間が二十二時だから、それを待って壁を乗り越えるという。後一時間を残して目的地の大久保孤児院に到着した二人は、腰ほどの高さがある大久保病院の生け垣に座った。潮にはかなり低く若菜には少し高かった。

「暇だな」

「……行かないわよ」

「誘ってねえし!そういえば都領主の加藤さんにはどんな用事で会ったんだ?」

 時間まですることもないので、そんな話題を提供する。

「とりあえず私の役目というものが決まったので、そのご挨拶かしら。聖剣システィーナ以外の封印された六つの美姫を開放するらしいわよ」

「ほほう。確かに全てが渋谷のモノと同じ仕組のクリスタルになっているらしいからな。女王にならできるんだろうさ」

「私を女王と呼ぶなと。……なんだか危険な場所にある物もあるようだから、陸軍が護衛してくれるようなのよ。それでも都内でドンパチやらかすことになるのだから、市民代表の加藤さんに挨拶はした方がいいってことになったのよ。ちなみに六連さんもその許可を求めて都庁を訪れていたわ。彼、陸軍の将軍じゃない?陣頭指揮を執るつもりみたいよ」

 そして聡教武闘派の加藤新一たちに襲撃されたわけか。

「大変だな。中野とか上野の封印塚はそうとうやばいらしいな。東京にありながら不浄の者どもを集めてしまって魔境になっている」

「風水的に東京を守護するため北斗七星を形作るように、封印塚が設けられたらしいんだけど。逆効果よね」

「そうとも言い切れない。他に集まるはずだった悪霊が塚の周辺だけに集う。十の災厄をもたらす百箇所の小さな魔境か、百の力を持った一箇所の魔境が御しやすいのか。燃燈刹那は後者を選んだらしい」

「自信家だったのね」

 それで会話が終わってしまった。二十二時まで五十分もあることを携帯電話で確認した潮は呟く。

「暇だな」

「行かないわよ」

 即答であった。

「誘ってねえって。それに小一時間じゃ短すぎるだろうが」

「そうかしら?あなたは物凄く自分勝手に求めてきて、自分が満足しちゃえばすぐ寝ちゃうタイプなんじゃないの?一時間でも持て余すわよ。図星でしょう」

 リーゼントを傾げて、いやいやと否定する。

「俺はすげぇんだぜ。さまざまな女にあんな風な花畑を見せてやれる!そう!あの満開のコスモス畑を駆け抜けるように?」

「あなたの表現はよく判らないわ。ところで孤児院の壁に花なんか咲いていたかしら?というか、コスモスが道路にも溢れてきて、どんどん広がっているわよ!爆発的な速度で成長するコスモスの新種?」

 見上げれば三階建てである孤児院の屋根まで花で覆われつつある。

 コスモスが一番多いが紫陽花や菊、朝顔まで混ざっている。

 その季節感を無視した花々が広がっていくさまを洞察した若菜は、こっちの世界の花って変わっていると思った。

「違う。新種とかじゃない。これは夢幻受胎だ!もう始まったのか。ガキより先に寝てんなよ、美嘉ちゃん!」

「どういうことよ!」

「夢魔族は誰かれ構わず魅了するわけでもなければ、無条件でこっちに来られるわけでもない!被害者の強い望みを叶えるんだ。それを夢幻受胎と言って、つまり、この花畑が美嘉ちゃんの希望ってことだ!そいつが具現化しちまったから、契約が成立したことになる。ブルーノが来るぞ!受肉はなんとしてでも邪魔してやるぜ!」

 精神体ブルーノが大塚美嘉を殺して喰らえば完全な夢魔族が降臨することになる。それを受肉と呼ぶ。

 院内は早くもパニックとなり大小入り混じった人影が外を目指して走ってきた。事情を知らない者が狂乱し恐怖し正面の門からなだれ出てくる。

 煉獄で鬼から逃げ惑う邪鬼のようだと、子供嫌いの潮はリーゼントを傾けた。何かを探しているらしい。

「おい!デブ!」

 一人の少年を呼び止めた。昼間、三浦探偵社に仕事の依頼をしに来た三人組の一人だった。他の二人は見当たらない。児童数は百人を越えさらに光源が乏しい中で、知人を発見できたのは幸いであった。おまけにその少年は冷静さを保っていた。

「美嘉ちゃんの自室はどこだ?」

「あ、探偵さん!これもブルーノってホストの仕業なんですか?大塚先生を迎えに来るセレモニーか何かでしょうか!こんな派手なことをされて、なびかない女性はいませんよね」

 汗をかいているオデコを掴み左右のコメカミを強く握る。アイアンクローだ。

「俺の質問に答えろ。大塚美嘉の部屋はどこだ?」

「さ、三階です。中央の階段を昇ったら右に行けばいいんです。表札が出ています。ちなみに左に行くと僕らの部屋ですぅ」

 きっちりと敬語で応答したおデブを放り出し、潮は孤児院の壁を飛び越えた。

「ちょっと待ちなさいよ」

 彼のような身体能力を持っていない若菜は誰もいなくなった正面入り口に向かって走った。

 依頼人の少年に早く逃げなさいと伝えるのも忘れなかった。

 こういう非常時には真向かいの大久保病院に避難するように訓練されているようで、職員と児童は全て逃げ出したようだ。中に残るのは睡眠中の大塚美嘉だけかと思われた。

 院内の敷地に足を踏み入れた若菜は、まず足元に絨毯のように敷き詰められた花々を踏まずに移動することを諦めた。

 小さなグラウンドを横断するのに十秒もかからないだろうが、潮はすでに建物に入ろうとしていた。その建物は色とりどりの花で覆われて非現実的だった。しかし、子供向けアニメーションでこういう館を見たことがあるような気もした。

「悪い魔女が善人を装って主人公を待ち構えているんだっけ?それから悪いドラゴンが出てきて……」

 記憶の扉を自ら閉ざし、今は潮を追いかけることに専念することにした。

「待ちなさいったら!」

 叫んだことを自覚してはいるのだが、自分を待つよりも先行させた方が良いに決まっている。

 頭が混乱し始めているのを悟った若菜は、考えろ、考えろと自身に命令した。

 後方からの制止に振り返ることもしない潮は、古い建物の中に入り込んでいた。

 昔から近くを通ったことなら何度もあるが、こうして敷地内に足を踏み入れたのは初めてである。

 とりあえず学校の玄関のように下駄箱が並んだフロアの先にある階段を駆け登った。

 本来は何色の床や壁なのか判別がつかないほど、植物がひしめき合っている。

何度も足を滑らせそうになりながら、最上階となる三階まで到達した。

 おデブ少年の言っていた通り右に行く。いまは全速力ではない。

 乱れてもいない呼吸のためではなく、単に表札を見落とさないようにするためだ。

 住み込みの職員は少ないはずである。

 階段から二つ目の部屋の前に大塚美嘉とシンプルに書かれたプレートがあった。

 ドアには施錠がされていた。

 寝ていたはずだから当然である。

 二回ほど引いて開けようと奮闘したが時間がもったいないと判断した。

 彼は少し距離をおいて助走をつけて、物言わぬドアを全力で蹴りつけた。

 悲鳴はあった。ドアが真横に折れ内部に吹き飛んだ音だった。二枚に短く分離された下部が手前、上部が少しだけ遠くに飛んだ。その先に動く影があった。

 潮の目にまず飛び込んだのは、数年見ない内にすっかり大人の女性になった大塚美嘉の手の甲に、背の高い痩せた男が口吻をしている場面だった。

 美嘉はベッドの端にちょこんと座り、その前にひょろりとした男が片膝をついていた。

 部屋の照明は消えていたが窓から月光が差し込む。

「美嘉ちゃん!」

「潮くん?」

 白昼夢でも見ているつもりなのだろうか。

 虚ろな瞳は潮に向けられていたが、彼を見てはいなかった。一瞬の再会は終わり、美嘉は目前で頭を垂れる青年に捧げられた。直視する。

「ブルーノ!美嘉ちゃんから離れろ!」

「俺の名を知っているのか。魔務省というところの魔術師か。教養は低そうな形格好だが。見物していくが良い。我が具現化する瞬間を!」

「させねぇって言ってんだよ!」

 潮は一歩を踏み出した。その身体を押し戻す力があった。

 ブルーノから沸き起こる魔力の奔流である。

 両腕で顔面を庇わなければ眼球を潰されかねない霊圧だった。

「いいのよ、潮くん。どうせ生きていたって楽しいことなんかないし。先の人生も決まっていて、私なんか生きていても仕方ないかなって考えるようになったのよ。誰かのお役にたてるのなら、これでいいわ」

「ほう、自らが命を落とすことになると理解していて、我を現世に召喚したというのか。それは狂気の成せる所業。我が肉体となるに相応しい」

「私を喰らって完全になってちょうだい。その後のことなんて知らないわ」

「視界に入る限り一面の花畑を見てみたいという、そなたの夢、願いは叶えた。契約は成立した。では、俺も報酬をいただくとしよう」

 ブルーノは立ち上がり右手を大塚美嘉の額にあてがった。その手の平が美嘉の頭部に侵入していく。ズジュブジュという怪奇な音が途絶えることはない。

「てめえら好き勝手言ってんじゃねぇぞ!」

 再び前進を開始した潮に向かってブルーノの左手が掲げられた。それだけで潮は廊下まで吹き飛ばされてしまった。

無軌道に放出されていた魔力に少し指向性を与えるだけで、これほどの威力を得たのだと、戦いにのみ才能を発揮し歌舞伎町無敵の喧嘩屋と噂される男は理解した。

 本当は探偵なのだが、身近な者ほど喧嘩屋という認識を改めてくれない。

「三浦さん!」

 ようやく追いついた若菜が、破壊された部屋の入口から室内を観察するために覗きこんだ。

 この異常な魔力は霊感を持たない一般人でも震え上がるほどであろう。

「女王、下がってろ。夢魔族がこれだけの魔力を持っているとは思わなかったぜ」

「まだ生きているだけお前も丈夫な方だと賞賛しよう」

「そいつはまだ早いな」

 左の掌に自身の右拳を叩き込み背中を伸ばした。

「お前は長身だが俺よりはチビじゃねえか。なら、負ける気がしねぇな!現世に未練を残し逝った者よ、……お前を開放してやる!疫病天人!響子!」

 潮の外見に変化はない。だが、明らかに別人のようになったと感じた若菜は、彼の後ろにうっすらと子供のあどけなさを残した童女が浮かんでいるのを視たと思った。それは霧のように不安定で注意しなければ人の形をしていると判ぜられないのだ。

 その少女は不透明の手足を潮の両腕両足にまで伸ばして同化しているように思えた。自身の腹部も広く伸ばし潮を守護している。黒い毛髪ですら伸び彼の頭部を守っているのだ。

 その能力に酷似したスキルに心当たりがあった若菜は、どういうことかと混乱を深めた。

 ――これはドリコンスキル。しかも、霊体と肉体の半融合なんてキングススキルじゃないの。この世界は夢世界との境界線が弱すぎる!だから、夢魔族なんてものを人間の意志力だけで召喚できてしまうんだわ!

 霊的資質を響子という亡霊少女の力を借りて格段に向上させた潮は、これならイケる、とブルーノの魔力に対抗できる確信を持てた。

「あまりに強い意志を持つ人間が不慮の死を遂げた時、成仏できずに現世に留まる。神と呼ばれる人は誰もが強い魂の持ち主であったらしい。哀れな魂を飼っているのか。だが、それは人が手にしてはならぬ力だ!」

 大塚美嘉から手を抜き取り、そのまま腰を抱いて引き寄せた。まずは潮を始末する気になったようだ。

第六位(ガンダルヴァ)のブルーノといったかしら?それは判断ミスよ。この場合は戦術的撤退で時間を稼ぎ大塚さんを吸収するのが最善ね。彼女を人質にすれば可能だったでしょう。まずは受肉達成を第一目的とすべきだったのよ。不完全なままで三浦さんを相手に少しでも手こずれば、こちらには応援が駆け付けるのだから。そんな判断ミスを犯してしまうほど動揺したのかしら?」

「天人を宿したとはいえこの俺が人間ごときに……」

 言葉を遮ったのは若菜の不敵な笑みと眼差しであった。人外の者であっても見下されている視線を意識せずにはいられない支配する者の傲慢である。

「右腕にお荷物を抱えて戦えるのかしら?おまけにあなたには大塚さんを自身の手で殺さなければならないというルールがあるはずよ。そうでなければあなたは永遠に不完全なままになってしまうのだから。三浦さん、判ってはいるでしょうが、彼の右側から攻撃を集中させなさい。大塚さんなら彼が護ってくれるわ」

 疫病天人と半融合した潮は若菜の言葉を冷静に聴いていた。心地良い響きの声は彼の普段使われることのない脳みそにしっかりと届いた。夏の暑い日に炭酸を飲み干した直後の様にスッキリし、理解できた。

 左拳に霊力を集める。それは肉体にするのとまったく同じように行えば良いのだ。拳を握る。強く握りしめる。

 魔術のような複雑な儀式も言霊も不要。精霊との親和性が重要とされる精霊術とも違う。潮にとり憑いた疫病天人の霊力を操るには、肢体を動かすのと同じようにすればよい。

「行くぜ、ブルーノ!」

「この人間不勢が!」

 潮が駆け出す。今度は夢魔族の魔力の壁の影響を全く受けること無く足を踏み出せた。

 疫病天人の響子が相殺しているのだとブルーノは悟る。

 魔力障壁をこうも簡単に中和できるのであれば、ありとあらゆる加護や結界を無効化させてしまう最恐最悪の疫病神に成ってしまっていたかもしれない。

 響子の前では七福神ですら裸足で逃げ出すのではないのか。もっと信仰を集めてればその力は増強され、神と崇められる可能性はまだあるのだ。そんな霊的不幸の塊に憑かれて生きている潮とかいう人間を恐怖した。

 微かな戦慄。それがブルーノの体を硬直させ動きを一瞬止めさせた。

 躱せたはずの強烈な左フックが右頬に命中し、ブルーノの上半身が海老反りになる。

 体勢を崩した夢魔族への追撃は左回し蹴りの予定だった。人間相手ならそれで終了とさせる凶悪な蹴りにも、もちろん霊力を込めていた。それを邪魔したのは大塚美嘉であった。

 彼女は腰の手を振り解き、潮とブルーノの間に入ったのだ。

「やめて!この人は何も悪くないの!私が呼んだから来てくれたのよ!つまらない私のつまらない人生を終わらせてくれるために!」

 美嘉の目には大粒の涙が溢れていた。手を広げブルーノを庇っている。唇は震え次の言葉を吐き出すべきかどうかを考えているようでもあった。いや、その言葉は頭脳ではなく感情が導いた。

「潮くんは来てくれなかったじゃない!」

「な、なんのことだ?」

「中三の最後の騎馬対抗戦の後で会おうねって約束していたのに!キスしてあげるって言ったのに、どうして来てくれなかったのよ!」

 そんなことも確かにあったのかもしれない。記憶は曖昧で確実性を欠いてはいたが、そういう話をしたのは覚えていた。

 行かなかったのではなく、行けなくなったのだと言い返す前にブルーノが動き出す。

 大塚美嘉を両手で抱きかかえて、一度だけ後方に飛んだ。それだけで狭い部屋の窓に着いた。さらに後ろへ移動は続いている。そこから外に飛び出そうというつもりなのだ。

「意外なところで色恋沙汰になったな。これは面白い。奪われた姫を救ってみせるのが、人間の男の醍醐味であろう?ここから近い場所は……」

「悪いんだけどぉ、逃すつもりはないのよぉ。私もいろいろと忙しいから、あなたに掛けられる時間は多くないのよ~。まあ、運動不足だから今夜くらいは付き合ってあげてもいいけどぉ」

 やたらとのんびり間延びした話し方に覚えの在る潮と若菜は、背後を振り返った。

 室井若菜の背後にはいつの間にか九天の支配者、燃燈毬がいつもの和服姿で立っていた。

 今夜は藤の柄が描かれた青い着物を着ていた。夜風対策か大きめの肩掛けを羽織っている。前より身長が高くなったと感じたのは履物が草履ではなく可愛らしいぽっくり下駄だったからだ。

「なんだこの魔力は!……そうか、お前が忌々しい螺旋樹が創り出した一族なのか!」

「故に全てを燃やし付く『燃燈』の名を与えられているのよぉ。生みの親たる螺旋樹ですら燃やす禁忌の炎~」

「その存在はもはや人より我ら夢魔族に近いと聞く!不完全なままでは勝てぬ!」

「それは間違いねぇ。完全体となったあなたが十匹揃っていても秒殺なのよぉ。あなたに引きずられてやってきたマホーラガを全滅させてきたから、遅くなっちゃったわぁ」

 いきなり現れた燃燈毬はいつもの調子で勝利を宣言し、戦わずして敗北を悟ったブルーノは魔力を全力で放出し逃走という選択肢以外を導き出すことができなかった。

 長細い身体を絶妙な角度で跳躍させて、窓ガラスを後頭部で割って脱出を試みる。一体と呼べるほど密着した美嘉に怪我がないかを確かめる手段はなかった。

 もしこの時、毬が大塚美嘉という犠牲者であり加害者の生命を軽んじていればここで決着はついていたのだろう。

 無防備に空中を飛行して逃げる夢魔族の背中に、強力な魔術を放てはそれで決着はついていたのだから。

 彼女が代わりに唱えた魔術は銀色の細い糸を出現させたものだった。

 銀糸が空を飛んで逃げるブルーノを絡めとった。それでも夢魔族は止まらない。

 釣りで獲物がヒットした時に、釣り糸の余った部分が急に緊張するようにブルーノと毬との中間で垂れていた銀糸が張られた。

 獲物に引きずられる釣り人が宙に放り出される。

 花々で覆われた周囲を見下ろす形になった毬は、あの女の夢が他者に危害を加えるものでなかったと安堵した。

五月の夜風は冷たかった。

「おい!なんでお前まで付いてきてるんだ!」

 潮が腹部に抱きついている若菜に向かって叫んだ。

「それはあなたも同じなのよぉ」

 今度は毬が自分の首根っこにしがみついているリーゼント頭の探偵に言った。

「つい身体が動いてしまって。ここで降ろすなんて言わないでね、毬ちゃん!」

 歌舞伎町を一望できるほどの高度になっている。落下すればもちろん命はない。上空からの景色には慣れているはずの若菜であったが、生身で飛ぶのは初めてのことで腕に力を込めた。顔が潮のちょうど股間の位置にきてしまっていて、なんとかもう少し上に這いずりたかった。もっと腕力が欲しかった。

「三浦さん、変なこと考えないでよね!誤解なんだから!しないわよ!」

 動けば動くほどより近づいてしまうことに苛立ちを感じる。

「そんな余裕ねえよ。この魔女っ子小さすぎて掴み難いんだよ。もっとしっかり掴め!顔を近づけろ」

「勝手に抱きついてきて、好きなことを言わないでもらえるかしらぁ。リーゼントの襟足がチクチクして痛いの。なんとかならないの?術の維持に集中できないわ」

 正面から羽交い締めになっている毬の顎の辺りを確かに襟足がツンツンしていた。それを目撃した若菜であった。

「なんで襟足までそんなに固めているのよ!」

「俺のリーゼントに隙はない!ムダ毛一本余すところなくセットしてるんだぜぇ!」

 整髪料の無駄遣いだと罵った若菜は、白いスーツの上着を掴んでなんとか上方に動くことができた。

 今度は顔と顔が近づいてリーゼントの先端がオデコに触れる。

「本当に邪魔な髪型ね。まあ、いいわ。襟足のツンツンは私がへし折ってあげるから、毬ちゃんはその糸の魔術を頑張って」

 潮が若菜の背中から抱き寄せてくれたことでゆとりができ、左手を使って毬の顎周辺を攻めていた襟足を押さえた。

 彼は右腕で若菜を、左腕で自分と若菜を支えていることになる。長くはもたないだろう。毬自身は両手で糸を制御しているのだ。

「は~い。それにしてもこれはどういうことなの?」

「事情を話すと長くなるんだが、俺の幼なじみが夢幻受胎して夢魔族第六位のブルーノがこっちに来た。受肉を阻止するために戦っていたら、お前がきたんだよ。そっちこそなんなんだ?」

「夢幻受胎の気配を感じたから、大久保病院の医院長室に設置してあった転移魔術を使って急行してきたのよ。さすがに山手線の内側はまずいでしょう。監督不行き届きとマスコミに叩かれるわ。さっきも言ったけどマホーラガは始末したから、後はあの子を助けるだけよ」

 夢魔族の最下級、マホーラガたちまで出現していたとは知らなかった潮である。

 お互いざっくばらんとした説明であるが、虚偽や誤解を生む要素はない。必要最低限の理解ができればいいのだ。

「どこに向かうつもりなんだ?」

「予測は付くわねぇ。中野区にある美姫の封印塚。そして五代将軍、徳川綱吉公が作らせた生類憐れみの令の象徴、お犬屋敷痕跡よぉ」

「あの迷宮か。あいつを引き寄せるようなものがあるのか?」

「第五位の夢魔族が八剣士の残した美姫を監視しているのよぉ。お仲間のところに逃げ込んで時間を稼いで完全体になるつもりなのでしょう~」

 第六位のブルーノでさえアレほどの強さだったというのに、更に階位が上の第五位が、住宅街で知られる中野区に巣食っているという話は聞いたこともない潮は、ほう?と口笛を吹いた。

「しかも、完全体よ。面倒だし悪さをするわけでもないから放っておいたのよぉ。出てくればついでにしばくわ。優先は人命救助よ」

「さすがね!人命は何ものにも変えがたしってね!」

 素直に感心したのは若菜である。

「人を見殺しにするとマスコミが煩いのよね。それさえなければ、孤児院で決着を付けていたのに。こうして空中ブランコをすることもなかったのにと悔やまれるわ」

「ブルーノと美嘉ちゃんを始末できなかったことを後悔するな!ブルーノは別にいいんだが、美嘉ちゃんはダメだ!助けるぞ!」

「今度はちゃんとキスしてもらいなさいよ」

 誂う若菜はどこか楽しそうだ。

「違う!あれは優勝を果たしたらご褒美にキスしてくれるって約束だったんだ!結果は引き分けだったから、権利がなかった。だから、待ち合わせをしていた住吉町の公園には行けなかったんだ!六連の野郎め!騎馬戦三連覇だけじゃなくて俺のファーストキスのチャンスまで奪いやがったんだ!」

「へぇ、初チューだったんだ。それは残念ね。まぁ、中三じゃそんなものか。今はだいぶ汚れちゃってるけど」

 誰が汚れだ!反論が夜空に響いた。

「空を飛んいでると早いわね~。もう着くわよ。あの夢魔族が着地する直前に仕掛るわよ~。リーゼントは被害者と若菜ちゃんの安全確保。夢魔族が二匹出てきても私が相手をするから、そっちは気にしないで。その疫病天人とてつもなく強力ね。人外の領域に踏み込もうとしているわ。どこで呪われたの?」

 正体を見破っていた毬は潮の背後に見える亡霊をしっかりと見据えていた。彼女の眼にはどのように映っているのか。

「多摩川の河川敷で泣いていたから話しかけたんだ。それから一緒だ。まさか死霊だとは思わなかったぜぇ」

「憑依されるというよりすでに呪い、怨念に呪縛されているわよぉ。同一と呼べるほどに融合しているわ。よく正気を保てているわね~。あ、元々クレイジーで正気なんてものがないから成立している関係なのかも~」

 あはは、と笑う毬は童女のようだった。見た目はまさにその通りなのだろうが、二百歳を越える魔女には見えないのだ。

 その道の権威に脅迫されたくはない。しかし、試したことはないが除霊するのも難しそうなのは事実だ。そんなつもりもないので別に構わないのだが。

 夢魔族との距離はざっと三十メートル。両者を繋ぐのは毬が魔術で創りだした銀線である。今はぶら下がっているだけだが、ブルーノが跡地に飛び込めば縦に直線上に並ぶことになる。

「生類憐れみの令ってあれでしょう?犬の命を保護しようとした条例よね?今の中野区にはお犬屋敷があるっていう」

 西暦一六八七年、江戸幕府五代将軍徳川綱吉によって出された多くのお触れを総称したものだ。

 その名から犬の保護をしたという印象を与えるが、それだけでは不足である。

 実際にはよく見かける猫や鳥類、魚介類から爬虫類、果ては幼子や老人までその不殺生の範囲を広げていった。

 綱吉公が戌年ということもあり、また他の生き物よりも、多くの犬の命を救った経緯もあり犬の保護を目的とした悪法と誤認されていた。

 そういう説明をした若菜である。

「お前さんの世界ではそうなっているのか?」

「まるで違うわねえ。綱吉公によって制定されたというのは合致しているのだけれど」

 上空を飛んでいたブルーノが降下を開始したことで、三人は無重力状態を味わうことになった。それもすぐにおさまり今度は地面に向かってグイグイ引っ張られ始めた。このままでは激突してしまうかと思われたが、若菜の目の前には幾つかの小さな明かりに照らされた大穴が口を開けていた。

 学校のグラウンド程の地面を円形に繰り抜いて作られた縦穴の中にブルーノと美嘉は突入した。当然、潮たちもそうなる。

 地上には兵士らしき軍服に身を包んだものたちがいて、数人の見張り番たちもこちらに気がついた様子だ。

 そもそも容易に出入りできないように周囲を高い壁で覆われているのだが、こうして空から侵入されては意味が無い。

「生類憐れみの令とは夢魔族たちの最下位眷属、第八位のマホーラガに取り付かれた小動物の哺乳類とか爬虫類、魚類を憐れんだ綱吉公が政令したのよぉ。第八位(マホーラガ)なら人間が憑依されることはないけど、夢幻受胎によって周囲にたまたま居合わせただけの抵抗力のない、小さな命を不憫に思われたそうよ。なるべく殺すことなく、捕縛してここに放り込んだのよ。以来ここはそういう場所になったわ」

 入り口からの光は僅かに届き暗闇の中のトンネルがどういう構造になっているのかを把握することができた。

 まず壁際に作られた通路は酷く老朽化していて、とても人間が歩くことはできそうもないこと。それが螺旋状になっていて、最下部と大地を結んでいる。

 上の軍人たちは穴から出ようとする第八位の名も無きマホーラガのみを射殺しているのだ。

 そして、この時間、活発に動き回る夢魔族たちによって通路という通路は無数のマホーラガで埋め尽くされていた。

 四足歩行の犬猫の姿をしたものが目についたが、大型の爬虫類だって混ざっている。生きた生肉を見つめるこいつらの頭が何を考えているのか容易に判るというものだ。その中身はやはり夢魔族なのだから。

 毒蛇の巣に飛び込んだ気持ちになったのは若菜だけではない。潮が呻いた。

「何匹いるんだ?公式記録では五百程度のはずだぞ!魔女っ子!」

「ここに放り込んだ数ならそんなものよぉ。ただこいつら同士で交配して増えたのよ。あ、交配っていうのはセックスのことね。きゃ!」

「余計なボケを挟むな!じゃ正確な数は政府も掌握してないってことか?大問題だぞ!」

「ここから出すつもりはないから、問題なんて起きてないわよ。周辺の住居をちょっぴり壊しても構わないのなら、私が一瞬でここごと蒸発できるし~」

 それこそ大問題である。

「化け物の巣窟というのはとても良くわかったわ。でも、この更に奥に美姫の一つが安置されているのでしょう。こんなところに私まで放り込むつもりだったの?」

「もちろん充分な護衛はつける予定よ。その前にこいつらを一掃してから歩きやすいようにするわぁ」

 この先にもう一つの美姫がある。今は魔務省に保管されている聖剣を思い出す。やはり持ち出してくるべきだったのだろうかと後悔していた。

「それは次の機会にして今は人助けを優先させましょうか。銀糸を解くわよ。リーゼントは二人を守ること」

「まだ高いわよ!」

「いや、ブルーノに仕掛るならベストだ。俺に抱きついて離れるなよ。もっと胸を押し付けてしっかり全力で抱きつけ!行くぞ!」

 縦穴の底もやはり円形状になっていて、さらに小さな通路が幾つもあった。ここが迷宮と呼ばれる所以である。

 西の相模国と戦が絶えなかった戦国時代に、城塞として建設が始まった。非常の際にはここに逃げ込んで良いという条件を提示することで地元農民の協力を得ることができた。迷路になっているのは、敵軍が雪崩れ込んできても簡単に前に進ませないためだ。

 円の真ん中には何のオブジェか片腕を上に差し出す石像があった。上半身は裸で腰部を布のようなもので隠しているだけである。その顔から生えた髭は蛇の形をしており、何か邪神という単語を想起する。

「あんなものを設置した記録はないのだけどぉ」

 毬の独り言が耳に届いた。その彼女から手を離し、潮は地面に着地した。彼の足元には不幸にも子犬のような夢魔族が潰されて絶命した。前側には若菜がしがみついている。自力でそうしてくれている分、潮は両腕を使うことができたが、いかんせん邪魔である。

 蹴り技は威力が大きい反面、モーションも大きくなってしまい乱戦には不向きだった。

 それでも中型犬に似たマホーラガの下顎を蹴り上げて吹き飛ばした。

 二人は着地すると同時に戦闘に突入した。

 若菜はただお荷物になっていたわけではない。敵は潮の腰より低い連中ばかりだから、毬の姿を探すのは容易であった。

 彼女はすでに大塚美嘉をブルーノから奪還し終えていた。その速度はまさに神業と表現するに相応しいものだった。実力が違い過ぎるにも程がある。

「リーゼント、こっちよぉ」

「三浦さん!右後方に移動して!」

 行き先を若菜が示した。群がってくる小動物の相手にするのが精一杯で潮には現状を知る余裕がないと思ったのだ。

「もう用事は済んだのか?さすがだぜ!」

 美嘉を奪われたブルーノもなんとか取り戻そうと躍起になっているのだが、生き物のように動く炎の鞭に阻まれて前進できないでいた。それは鞭ではなく炎をまとい炎で出来た蛇だった。それが三匹もいる。

 召喚魔術なのか、魔術で仮初めの命を与えられた生き物なのかは毬しか知り得ぬことだ。

「こちらの用事がまだ終わっていないのだよ。勝手に帰ってもらっては困るな。私は第五位(ヤクシャ)の、マガラスという。久しぶりの来客だ。歓迎しよう!」

 真ん中に設置された石像の足元にそれは座っていた。

 病的に太った体形はゴムの塊と表現するのがもっとも適切で、手足はあるのだが、自力で歩行できるのか疑問である。

 頭部は肩に半分埋もれていて、しゃべり方がおかしいのはそのためだろう。顎がちゃんと下がらないのだ。

 近くに居た夢魔族のマホーラガを、巨体に対しては短すぎる腕を伸ばし掴むと口に運んだ。

 咀嚼する光景は吐き気をもよおす。だらし無く垂れ流された流血は赤くマガラスを染める。

「マガラスか。見かけないと思っていたら汝であったか。久しいな」

「やあ、ブルーノ。君までこっちに来たのかい。向こうの方が楽しいだろうに。まあ、変に気を使わずに好きなだけ食べて寝ていられるのだから、ここも悪くないよね」

 それでそこまで肥大化したのか。確かに食料には不自由しない生活だっただろう。それにしても限度がある。肉塊を呆然と眺めてしまった潮たちである。

「醜いデブちんねぇ」

 扇子を閉じる音になんらかの魔術が込められていたのか、潮と若菜は我に返った。

「逃げるわよ!」

 叫んだのは若菜で、それを阻害せんと立ち上がったのはマガラスだった。

 マガラスはゴムのような体全身をバネのように使い宙高く舞い上がった。空を飛ぶ豚、若菜がそう呟いた。

 肉の塊が目指して降ってきたのは燃燈毬だった。直撃を食らうようなヘマはしなかった。素早く結界を張り巡らせて自身と気絶している美嘉を護ったのだ。

 球体状の結界の頂点でマガラスが腹部を頂点にして自転を開始する。それはゆっくりと徐々に早く、風の流れを巻き起こすほどの速度になった。

「まさか、また竜巻か!」

「違うわぁ。これからどうするのかしら?」

 頭上で高速回転する肉を見上げ観察した毬は静かに結論づけた。

「何も考えていなかったのね~。おバカさん」

「う、うるさい!違う!これでこうして我が必殺の奥義が発動した時、お前は後悔するのだ!なんで回転が上がらないんだ!」

 自重が技の妨げとなっていることに気がつかないマガラスに毬が告げた。

「それはいつの話かしら?戦い方を忘れるほど自堕落な生活を送っていたのね」

「第五位のヤクシャともあろう者がなんという醜態だ!」

「うるさい!上官に向かってなんて口の利き方だ!結界の外にいる人間を捕まえて捕虜にしろ!この結界を外させるんだ。これさえなければ奥義なくとも圧迫死させられる!自慢の身体で!」

 それもそうだな。納得したブルーノは炎の蛇と石像を迂回して潮と若菜の方に向かった。もちろん、地を這うように素早く数秒で。

 その間に潮は若菜の襟元を掴んだ。どうにもこうにもブルーノを相手にするのは今までの雑魚とは勝手が違うだろう。

 幾らなんでもハンデが大きすぎるのだ。

 だから潮は決断をした。

「魔女っ子!受け取れ!転移で逃げろ!」

 背負投げで投げ飛ばされる体験を初めて味わった若菜の身体は、緩やかな弧を描いて毬の結界に届いた。

 彼女が半透明の膜にぶつかる瞬間、その部分だけ結界が解除され若菜は中に入ることが出来たのだ。

「そんな!三浦さん!」

 すぐさま駆け寄ろうとするが、閉ざされた結界が今度は若菜を通さない。

「安心しな、女王。俺がちょいと本気を出せば、ここに居る連中、全員ぶっ飛ばして凱旋してやるぜ」

 リーゼントを手で撫で付けて潮は自信満々に笑った。

 ちょうどその時、ブルーノが潮に襲いかかる位置にやって来た。

「ナイス判断よ~!リーゼントぉ。うちの子たちに伝えて。夜明けまでは保たせてみせるってぇ」

「聖剣を持ってきて!」

 毬を振り返る。彼女はウィンクしてきた。

 さらに潮がいた場所を確認するとブルーノの姿しかなかった。そのブルーノも忽然と居なくなった潮を探すように頭を巡らせている。

「どこに飛ばしたのかを教えてちょうだい。念のため」

「転移魔術は近距離ならば術をその場で組めば行えるのよ。この縦穴の出口までは不可能ねぇ。遠いわ。だからリーゼントを私の執務室に転移させたわ。長距離転移となると目印が必要になるのよ。使い切りなのが難点なんだけどぉ」

「大久保病院のように他に転移できる場所があるのではないの?」

「問題点其二。お気軽に言ってくれるけど、高度な魔術である空間転移魔術をそうそう何度も使えないわよ。霞ヶ関から歌舞伎町。ここからまた霞ヶ関の魔務省本部にリーゼントを飛ばしたのだから。残りの魔力で跳躍可能な場所は残念ながらないわ。デブを眺めながら救助を待ちましょう」

 聖剣システィーナ調査のために魔力を消費していたことまでは口にしない。

「あまり気分の良いことではないけど。美嘉ちゃんは平気なのかしら?」

「ええ、少し錯乱していたようだから眠りの魔術をかけたわぁ」

「人命を第一に行動してくれたことに感謝ね」

「私たちではなくリーゼントを飛ばしたことぉ?助けたのがたまたまリーゼントだっただけよ。別に大塚美嘉でも良かったのよ。あなたが私の手元にいるのなら、救助は必ず来るわ。魔務省も九天たちも一枚岩ではないのよぉ。ここに取り残されたのが私だけなら見捨てるという選択肢を主張する輩もいたでしょうけど~。勇者の子孫が一緒なんですもの」

「私はそんなに凄い人間ではないのよ。ただ室井聡の子孫というだけで」

「八つの美姫はこの世界を滅ぼすこともできる危険なものなのよ。それを悪い奴らの手に落ちないように幕府側で管理したいというのが将軍、七星の考えなのよぉ」

 一昨日面会した時はそんなこと一言も伝えられていない。

「この世界の破壊。確かにシスティーナには凄い力があるようだけど……」

「世界なんて案外、狭くて脆いものなのかもしれないわよ。私の父が真理を悟れるくらいなんだから」

「あの前魔務省長官、刹那さんでしたっけ?国葬扱いだったのだから、それこそ凄い魔術師だったのでしょう?世界の真理なんて考えたこともないわ」

「きっとろくなものじゃないわよ。朝食を食べながらまた思考を繰り返し、それを悟ったのでしょうね。『そうかこの世界は!』と言ってコタツから立ち上がった拍子にこたつに小指をブツケて、びっくりしてタンスの角に頭を強打して死んだわ。私の目の前で。魔術で助ける暇もなかったわ。でも、世界の真の姿に近づいたのは本当でしょうね。父ほどの魔術師を殺してしまう世界の抑止力が働いたのよ。こんな世界は間違っているというのは聡教信者の十八番よね」

「ほほう。どこかで見た顔だと思ったら、君は室井聡の血縁者か。ああ、なるほど、彼の娘、葉純によく似ている」

 声が降ってきた。まだ回転を続けていたマガラスだった。

「ブルーノ!君は知っていたのかい?この娘の正体を」

「俺はついさっきこの世界にやってきたばかりだぞ。あの極悪人のペテン師め!あの男の子孫というだけでその罪は死に値する!マガラスもっと回転しろ」

「上官に命令するな!こうなれば俺の体力がなくなるのが先か、そこのチビの魔力が尽きるのが先か根比べだ!」

「私は最初からそのつもりだったわよぉ」

「そのつもりで回転をやめなかったんじゃないの?」

「止められないだけだ!」

「聞きたいか?あの男が我々とどのような契約を結んで騙し、今なお、酷使され続けている我らが同胞の現状を!」

「なんとなく想像がついているから、もういいわ。遠慮しておく。それよりお腹空いたわ。毬ちゃん、何か持ってない?」

 ポケットから板チョコが出てきた。半分くらいしか残っていない。

「三人で分けましょうね。大塚さんのも残しておかなくちゃね」

 二匹の夢魔族から浴びせられる罵詈雑言から、さらに自分の考えを肯定する幾つかの材料を拾い上げた若菜はチョコを一口食べた。

 ――勇者ねえ。うちの一族こそろくなものじゃないわよねぇ。

 こっそり溜息を吐いた。


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