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午前七時とは、いつも母親が起こしに来る時間である。
朝食の用意ができたと一階から大声で呼びつけてくるのだ。
普遍的であると錯覚を覚える風習であるが、いとも簡単に変化をもたらすことができる。
例えば自分がこの家を出て一人暮らしでも始めれば、母親は目覚めを告げる息子がいなくなるということなのだから。目下のところそういう予定はないのだが。
仕事一筋の父と祖父はとっくに出勤している時刻である。
今のところ両親に変わりはない。
もし劇的な変調が起こってしまっているとすれば、その息子、つまり三浦潮の側にある。
母が起こしにくる数時間前、正確には一晩中考え事をしていたおかげで、ちゃんと眠れたのかどうか不明である。
三日前、渋谷区渋谷駅周辺で出会い巻き込まれた事件は、いまなお沈静化していない。
それどころか約四百年ぶりに現れた勇者の末裔が、長きに渡る聖剣の封印を解いたという報道は鎮まることがないように思われた。
事実を公表すべき常盤幕府も未だ調査中の一点張りである。
あの現場に居合わせた潮は怪我の治療をしてもらいはしたが、ほとんど無関係者と判ると身体が満足に動けないことを理由に自宅まで搬送された。魔務省の役人が運転する救急車だった。
ようやく自力で風呂に入れるまで回復したのは昨日のことで、久しぶりに頭を洗って少しはさっぱりしたつもりだったが、気分は依然として晴れることはない。
あの日、魔務省の公用車に詰め込まれる時、見送りに来たのはエルフ娘のエマ=クエーガーのみであった。
「まあ、敵意も害意もないのは間違いないから、こっちは大丈夫よ。いろいろ面倒を見てあげたけど、手間かけさせないでよね」
こっちのセリフだと言い返したかどうかも怪しい。言ったつもりではあったが、ちゃんと言葉になっていたかわからない。
「ちっ、聖女聖女とどいつもこいつもうるせぇな」
彼の気が滅入っているのはそれだけが原因ではないのだが、そう言っておかねば立腹おさまらないのだ。世間が右を向けば左を、白と思えば黒を掴みたくなる性格である。
勇者再来に世間が湧けば湧くほど白々しくなっていくのである。
あの室井若菜という女は勇者でも聖女でもなく、自分の命と交換条件で魔務省に行くことを選んだという。細やかな借りではない。
だが、それを返す機会は永遠に失われたと考えるべきだろう。
もう会える保証も手段もないのだから。
再度、一階から母親が叫ぶ声が思考を中断した。
やれやれ、仕方ない。今日は出掛けることにするか。
クローゼットから白いスーツを取り出して着替えを始めた。
自慢のリーゼントは見る影もないが、玄関を一歩でも外にでる時はガチガチに固めることにしている。
大きめの鏡を見ながら大量の整髪料を掌に出して一気に撫で付け整えていく。
まずは後頭部から次に側頭部。一番重要な前髪が上手く決まるとその日一日の機嫌が良くなる。
これで少しは気合いが入るというものだ。
ベタベタになった手を洗いに洗面所に行き、それからリビング・ダイニングの自分の椅子に座った潮の姿を見て母親は呆れ顔になった。
「あんた、これから仕事に行くのかい?」
「三日もサボったんだ。仕事しねぇと食っていけないだろ」
「生活はお父さんとお爺さんの収入だけで何とかなるんだから、あんたは本業を忘れないでよ!まったく……」
いつもの小言を聞き流し朝ごはんに手をつけ始めた。時刻は八時になろうとしていた。
朝のニュース番組を、何となく眺めながらである。
やはり、今朝も聖女再来ネタである。
「他に報道すべきニュースはないのかしらね。毎日これじゃ飽きちゃうわ。映画でもレンタルしてこようかしら」
世間に流されない血筋なのだと再認識した瞬間であった。
都営丸ノ内線の新宿三丁目駅で降りた室井若菜とハイ=エルフのエマ=クエーガーは不自然にならない程度に少しだけ変装をしていた。
若菜は伊達眼鏡をして服装はいまどきの流行に合わせて黄色の膝丈ワンピースの上から白いカーディガンを羽織っている。足元はこれまたごく普通のサンダルで白い靴下が眩しかった。長い黒髪は一つに束ねている。
螺旋樹の里から出てきた時のエルフ民族衣装では注視を集めて仕方ない。マントも巻かなければ彼女が注目される理由は無いと判断したのだ。
せっかく長き封印から解き放たれた聖剣は魔術全般を管理、調査や発展を役割としている魔務省の遺物調査課というところに預けている。今は短刀一本帯びない丸腰だった。
愛用の細剣を身に付けていないのはエマ=クエーガーも同じだった。格好は藍色のセーラー服のような上下がお揃いになったものである。中高生の制服ほど安っぽい感じではないし、不思議と似合っていた。特徴的な耳は薄手のニット帽を被って隠している。
美しい金髪はどうしようもないので自然にさせていた。
「要は時間までに西新宿にある東京都庁に行けばいいのよね?」
霞ヶ関に本部を構える魔務省の近く、麹町のホテルが二人の滞在先に充てがわれたのだが、この三日というもの外出は控えるようにとの御達しだったのだ。しかし、自由を好む螺旋樹の妖精が一つどころにジッとしていられる筈はなく、若菜自身も外の世界を見てみたいと申し出たのだ。
ちょうど東京都を代表する領主から会談要請があり、それを口実に外出を求めて許可された。遠巻きに護衛と監視がついたが、特に事件性がなければ問題ないだろう。
「変な国の体制よね?日本全体に号令を出すのが常盤幕府なのに、その中枢といえる東京にもう一人の領主がいるなんて。無駄じゃない?」
疑問を率直に口にしたエマ=クエーガーである。
「藩主というのが江戸幕府から続く大名の系譜なんだけど、近代化の煽りを受けて民主化しなければならなかったらしいわ。藩領は世襲されるけど、領主は民主的に選挙で選出されるらしいわよ。東京のような大都会ではその両方が混在するということね。権力は圧倒的に幕府が上だし、東京都領主選挙は幕府の後ろ盾を勝ち取った人が当選するみたいよ。ちなみに京都も同じような感じだと教科書に書いてあったわ。向こうは帝だけど」
役人たちの取り調べを受けている間の時間を使い、この国の歴史を勉強していた若菜のほうが教師役となっていた。人間世界に馴染みのないエマ=クエーガーにはどうも難しい政治事が頭に入り難いのだった。
その点、本来いた世界との相違点に苦労しながらも、若菜は少しずつ理解していた。
勉強熱心な性格なのか睡眠時間を削る日々が続いてもいる。
「ふうん?長老会議が民主主義ってことかしら?」
「長老にふさわしい人を選ぶ方法に選挙が用いられるのなら、あなたたちの世界も民主主義と言えるわね」
「いやあ、それは無いわ。エルフと言ってもやっぱりさまざまなのは知っているでしょう?他人に興味のない人も結構いるし。能力もそうだけど、何より螺旋樹を軽視するエルフが長老になったら一大事だわ!利益重視で樹までの通行許可を多種族に出したら里が汚されるもの!そりゃ通行料とか滞在税でがっぽり儲かるでしょうけど」
「いろいろあるのねえ」
同意と言うべきか受け流したと見るべきか。若菜たちは信号を渡り靖国通りを左に曲がった。
平日のため通行人はサラリーマンが多い。通りの向こう側には花園神社が見えた。
鳥居も何もかも同じように見えるが、その左側にはコンビニではなくレストランがある。そういう細かい箇所は若菜が居た世界と違う。大雑把なところでは共通していて、細部が異なる世界。
――やっぱりパラレルワールドのようなものよね。似て非なる世界とそう表現したような。
ならば明らかな違いといえる、エルフやホビット、まだ見ていないがドワーフという人種も世界の物差しでは些細な相違ということなのだろうか。
それは乱暴すぎるだろう。
人間が使う魔術。エルフが行使する精霊術も忘れてはならない。他にも特殊能力を持つ人間もいるらしい。
もっと歴史を深く勉強し探求したいという欲求を自覚していたし、せっかくだから楽しむことにしていた。
先祖の室井聡も無事にあちら側に帰って行くことができたのだから、きっと自分も戻れるはずと楽観視しているのだ。
その方法を探して、いろいろと見て回るのもいいかもしれない。
まずは現在の東京都領主、加藤氏との面談である。
少し離れたところから複数の視線を敏感に感じ取っていたエマ=クエーガーは落ち着きのない様子だが、見られることに慣れていた若菜は気にせず歩き続ける。
三名ほどの護衛兼監視の魔務省の役人たちである。尾行など初めての体験だろう。その存在は包み隠されることなく、エマ=クエーガーは把握することができた。
新宿区役所前の信号を横断する。
「立派な建物ね。誰の武家屋敷かしら?」
「新宿区の役所よ。こんな江戸時代風の日本建築なのが意外だけど」
二人が見ているのはどこまでも続く白い漆喰の壁であった。道路の角にそれはあったが、壁は高く長い。税務署通りへと続く道の遥か先に門番の姿を認めた。あそこが入り口か。
――なんて区民に開かれていない役場なのかしら?
つい口に出してしまいそうになった若菜は、敷地内から伸びる高いビルを見上げた。
外観は和風なのだが中身は違うようで、十数階はあろう鉄筋コンクリート製のビルが三棟も並んでいて、互いの隙間はあまりない。地震で一棟が崩壊すると残りも無傷では済まないだろう。
「このデザインに意味なんてあるの?」
「私に聞かないでよ。江戸時代にだってここまで大きい規模の屋敷は大名屋敷くらいしか見かけなかったわ。それも強国の前田家や上杉家の江戸屋敷とか、有力な譜代大名でもこんなお屋敷は持っていなかったと思うわ」
完全に田舎から出てきたお上りさんになり呆然とした二人である。
はっと我に返ったエマ=クエーガーは先を促した。
時間はまだたっぷりある。しかし、彼女には先を急がなければならない、とある目論見があった。
周囲を見渡して楽しそうにしている可憐な若菜の唇を、今日こそ奪う作戦だった。
それは強引にではなく、あくまで自然な流れとして行いたかった。
そもそも西新宿には公園があるという話を宿泊しているホテルで聞きつけたエマ=クエーガーは、領主との会談が終わってからそこに若菜を誘うつもりだった。ちょうど夕暮れ時になる筈なのでいい雰囲気を作り、後は勢いに任せる予定だ。
その一大決戦の場となる公園を下見しておきたかったのだ。どのような精霊が住んでいるのかも確かめておきたかった。いざとなれば精霊術で雰囲気作りを手伝ってもらうつもりだ。
下心を勘の良い若菜に悟られないように、意識して平静を装っている。いつもより大人しく静かにしているのはそのためだ。
――はしゃいではダメよ。大人の女を演じるのよ、私!何よりその場の空気が大事なんだから!
自身に強く呼びかけた。
エルフ娘の思惑を知らない若菜は新宿東口大ガードに向かって歩き出した。
歌舞伎町が近づくにつれ人混みが激しくなってくる。人に酔いそうになりながら小柄なエマ=クエーガーは若菜のお尻を見失わないように注意した。
向かってくる人や後ろから追い抜いて行く人、自転車を鮮やかに避ける若菜のお尻を頼もしいと思っていたかは判らないが、目は憂いを帯び長く伸びた両耳がニット帽から抜け出し、だらしなく水平以下の角度になっている。化粧をしていても頬の赤みが増していた。
それを視界の隅に捉えた若菜は、またいやらしいことを考えているわね、と警戒した。
煩悩に溢れ注意力が低下していたエマ=クエーガーよりも先に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた若菜は足を止める。
歌舞伎町一番街というアーチ型看板のある付近だ。声はさらに歌舞伎町に入っていったところから聞こえてくる。
ようやく妄想から脱したエマ=クエーガーが、これって、と呟いた。
「貰った名刺には歌舞伎町の住所が書かれていたわね。こんな繁華街で探偵社なんて。舞い込む依頼内容も似たり寄ったりでしょうね」
二人の美女がなんとなく見つめる先には人だかりが出来ていて、喧嘩腰で怒鳴りあう複数の男たちを認めることができた。
「ここには二度と来るんじゃねぇと拳で言っただろうが!てめえらのオツムに今度こそ叩き込んでやるぜ!」
堅く握った右拳を突き出しているのは白いスーツに身を包んだガラの悪い大男、三浦潮であった。
どんなに激しく揺れ動かしても乱れることのないリーゼント頭のすぐ下の額には、うっすら血管が浮かび出ている。
その彼に殴られて逃げ腰の男たちは、あくまで話し合いの姿勢を崩してはおらず、手の平を広げて制止を求めた。
「待てって!穏便に話し合おうじゃねぇか!俺たちはこの倒産寸前の探偵会社が生意気にも居座る土地を、正当な価格で買い取ってやろうと言っているんだ!悪い話じゃねえはずだ!」
「人が下手に出てりゃいい加減なことばかり抜かしやがって!」
どこが下手なのかは本人にしか知り得ぬことだが、剣幕をそのままにさらに詰め寄る。一九三センチの巨漢、さらには歌舞伎町でも知られた喧嘩強さに五人の男たちは為す術もなく言い募るだけであった。
「そもそもこんな都会の一等地だ!将来的に相続税だって払えねぇだろうが!だったら、さっさと売り払って大金を手に利息でだらだら退廃的な生活した方が楽でいいだろうと言っているんだ。わかりやがれ!この単細胞め!」
「この土地は第五代将軍、徳川綱吉公から俺の先祖が賜ったんだ!てめえらみたいなやくざ者に売ってやるつもりはねえよ!帰れ帰れ!」
グッと息を飲み込む男たちはまだ諦められず、殴られた下っ端が、畜生と叫んで腰の後ろから拳銃を抜いた。
さすがに野次馬たちは身を伏せてしゃがみ込んだ。トリガーを引かなかったのは彼らの上司が止めたからだ。
潮と交渉に当たっていた中年の男だ。
「こんな所でチャカを出すんじゃねえ!一般の方々に迷惑がかかるだろうが!」
そこで粘るような真似はせず、殴られて青くなり始めている頬を押さえた下っ端は、呻きながらも残された理性を動員させ、拳銃を元あったスラックスのベルトに捩じ込んだ。
「今日は引いてやるよ。この街で探偵業なんか正気の沙汰じゃねえ。また来るぜ」
引き際は驚くほどあっさり群集を割き、部下たちを引き連れて地上げ屋は退場した。
「一昨日来やがれ!撃てもしねぇ鉄砲なんか持ち歩くんじゃねぇよ!」
自分の土地を守り切ったにしては負け犬の遠吠えに近い捨て台詞を背中に浴びせてやった。
拳銃を向けられた瞬間、他の一般人同様身を隠すためしゃがんでしまったので格好がつかなかったのだ。
体面を保つため、シュッシュッとボクシングのシャドーの物真似を始めた。
「どうですか!俺の手にかかれば地上げ屋なんて目じゃない!何かお困りの際には、新宿歌舞伎町の老舗探偵社、三浦探偵社をご指名ください!どんな難事件もこの頭脳明晰なゲンコツが見事に解決してご覧にいれましょう!」
上着の内ポケットから名刺の束を取り出し、居合わせた人々に配布する。
受け取る者は誰もいなかった。それでも上辺だけの愛想笑いを必死に作り、次々に名刺を差し出す。
わざわざ相手の手元に近づけているのだが、みんな慌ててその手を引っ込める始末だ。
見ている分には面白い見世物だが、関り合いにはなりたくないのだろう。
全滅かと思われた中、一人の若い女だけが一枚の名刺を受け取ってくれた。
細く白い指から若い女性であると瞬間的に察知した潮は、どうせまた水商売のお嬢でストーカー被害に悩んでいる女だろうと落胆した。依頼があるのはそんなものばかりで、安い上に地味な仕事である。ついでに言えば、その手の依頼に飽きていた。
だが、一件でも無駄にできない経営者が満面の笑みを浮かべて、低い腰を持ち上げる前に女の方が先に口を開いてきた。
「二枚目ゲット」
そこにいたのは眼鏡をかけ変装した室井若菜であった。隣にはもちろんあのレズビアンエルフもいる。
貰ったばかりの名刺を指先で弄んでいた若菜とエルフの肩を両腕で抱きかかえ、潮は探偵事務所に連れ込んだ。
考えがあったわけではないし、何故そうしたのかも後付けの理由でしかない。彼は一生懸命言い訳を考えた。
腰高障子を勢いよく閉めて、はぁ~と肩が脱力するほど息を吐いた。
「なんでこんな所をふらふら出歩いてんだ?自分の立場わかってんのか?ああん!」
玄関でいきなり睨んでくるチンピラと若菜の間に、やはりエマ=クエーガーが割って入った。
「私の若菜にそんな下品な言葉を使わないでちょうだい!」
「あなたのものではないけどね」
言いながら、今でも引き戸は珍しくないが、立て付けが不調になっている木製の扉を、よっこらせと開けて外にいる誰かに合図を送る。
危険はない。大丈夫と身振り手振りで伝える。護衛役たちへの合図だと理解しつつエマ=クエーガーは背の高い男をまだ睨んでいた。
「ここが三浦さんの経営する探偵事務所ですか」
「こんな埃っぽいところは早く出ましょう。時間も無いのだから!」
「エマ、私、喉が渇いたわ」
強く言い切ったつもりはない。いつもの口調であるのだが、そこには拒否を許さない堅い意思を感じたエマ=クエーガーは、この時もやはり若菜に従うのであった。
「珈琲くらいしかないぜ。まぁ、あがりなよ」
両引き戸の内側は土間になっていて一枚の大きな衝立がある。部屋の中を簡単には盗み見できないようになっていた。
やたらと背の高い衝立自体は水墨画で書かれた年代物のようだが、どこかで見たことのある画作だった。土産物屋でよくある絵ということだ。
土間で靴を抜いて膝ほどの高さにある板の間に上がり、その壁を迂回する。
なかなか趣味の良いモダンな室内に若菜が小さな歓声を漏らした。
「俺のひい祖父さんは有名な探偵だったんだよ。金はあった時代だな。内装を改装したのもその頃だから昭和中期だったかな。当時でもかなり少なくなっていた、明治時代辺りの古美術品を収集して昭和モダン風に仕上げたらしいぜ。そういうのには興味がない息子や孫は特に手を加えたりしていないから、そのまま残されているんだぜ。ひ孫の俺もそうだが」
簡単でざっくばらんとした説明をしながら、意外にもテキパキと客人たちへの珈琲を入れ始める。
人間への造詣が深いエマ=クエーガーは一転、楽しそうに壁に並んだ小物を手に取っては笑っている。妖精という言葉が様になる光景であった。
分厚い大きな絨毯は何かの華をデザインしたものなのだろうが、さすがに痛みが大きくて判別できなかった。その上にある縦長の円形テーブルは重厚な光沢を放ち、どうやら向かい合う二人掛けソファーとセットのようだ。
木彫りの足に同じ象の彫刻が施されている。クッションは上品な青だったのだろうが、すっかり水色と呼べるところまで色落ちしてしまっていた。
エマ=クエーガーがいる右手の壁には古い書籍が陳列された棚がびっしりと並び、まだまだ余裕がありそうだった。もしかしたら潮の曾祖父という人物が、子や孫のお気に入りを並べて置けるようにと残しておいてくれたのかもしれない。
どこかのお土産品と思われる小物たちは、エマ=クエーガーが楽しんでしまうくらい多種多様に富んでいるようだ。
埃が立たないか心配だったソファーは不思議と座り心地が良くて落ち着いた。
職人が丹精込めて作った品物は色褪せることはあっても不具合を起こさないものなのだと、父親に言われたことを思い出した若菜は、確かにその通りなのかも知れないと納得した。
まったく同じ商品が陳列していたら、値段の高い方を選ぶ一族でもある。
安いものはそれなりでしかないが、高いものにはそれだけの理由があると豪語するのだ。
若菜が座った後ろにはこれまた古びた階段があって、板の底が抜けてしまわないか心配になる。
部屋の一番奥に台所があって、潮が人数分の珈琲を煎れて戻ってきた。
「完全に事務所として使っているようですね。ご自宅は?」
「風呂は無いけど住めないことは無いんだぜ。二階には布団も用意しているし。実家は下高井戸だ」
「お風呂が無いという時点で住居として不十分です。それに夜でも凄くうるさそう。木造建築なのだから壁が薄いもの。さっきの人たちは何です?地上げ屋とか言っていましたよね」
「ああ、去年辺りからしつこく来るようになっちまってな。この土地を買い上げてビルを建てるんだと」
「こんな狭い場所にビルなんて建ててどうするつもりかしら?あら、ごめんなさい」
「あー、いい。何でも風俗専門ビルを作るんだと。地下一階がピンサロで二階三階がファッションヘルス、四階五階がイメクラで六階と七階がSMクラブだったかな。受付を一階フロアで統合しちゃえば人件費なんかのコストも抑えられるって言っていたな。土地ってのは横に広げられないから、縦に伸ばすんだと」
「ずいぶんお金を稼いでくれそうなビルに変わるのですね」
「売るつもりはねぇから変わらねぇよ。五代将軍から貰ったらしいから、勝手に売れねえ仕組みだしな」
「そうなのですか?」
「鷹狩の時、将軍の命を奪おうとした逆賊から窮地を救ったご褒美に賜ったらしい。以来、ここは俺たち三浦家のモノなんだが、誰かに譲ることは出来ない。俺たちが不要になった際には徳川将軍家に返さなくちゃいけないらしいんだが、その将軍家も江戸城を開城して常盤家に政権を譲渡すると紀州国に引っ込んじまって。常盤幕府の役人にも認可証を見てもらったんだが、徳川幕府からこの土地について一切の記述がないんだと。だから常盤幕府が権利を主張できるわけでもないらしい」
「忘れていたのでしょうね。日陰ですもの。つまり、三浦家が所有することは認められても、自由にはならない。おまけに売り払おうにもその許可を誰に求めればいいのか不明ということですか。困ったものですね」
小物遊びを堪能したエマ=クエーガーが戻ってきていきなり文句を言った。
「珈琲は苦いから好きではないのよ」
「珈琲ならあるぞって先に断っただろうが。飲まないなら言えよ。最初からお前の分なんか用意しなかったのによ」
鼻で笑い若菜の隣に座ろうとして先客がいたのに気づく。一匹の三毛猫が丸まっていたのだ。
「あら、猫じゃない。おデブで可愛いわね。お昼寝中ごめんなさいね。でも、若菜の隣は私の特等席なのよ」
熟睡していた三毛猫を優しく両腕で抱えると、まず若菜の横にちょこんと座り、猫を膝の上に置いた。喉の辺りを撫でてやっている。
「そういえば魔務省の連中、よく外出許可なんて出したよな。まさか逃げ出してきたのか。聖剣を持ってないところをみると放り出されたか?」
「あの剣は現在調査中です。この世界の魔術系体ではないらしいから、時間がかかるらしいとか。どの道、私には不要なものですから。だって……私の世界には魔術そのものが存在しないのです。使い方が判らないし、剣道なんてやったこともないわ」
「まさに猫に小判、いや大判だな。エルフの膝枕なんかマニアなら涎モノだぜ」
「この子のことを言っているのなら、それは間違いよ。この三毛猫はエルフ猫なんだもの。ご利益高いのよ~」
「エルフ猫?」
聞き返したのは若菜で、潮は剣呑な眼差しで応じた。
「エルフの猫。そのものよ。螺旋樹の麓にはたくさんいるけど、今は数が少なくなっているわ。なんせ百年に一度しか繁殖期がこないものだから、増えるときは一気に増えるのだけれど、今は時期ではないのよ。一族みんなが一斉に繁殖するのよ」
マグカップを傾けて潮が胡散臭そうに言った。
「そういえば、その猫、爺ちゃんが子供の頃から今のまんま、デブ猫だって話だったな。与太話かと思っていたぜ」
「まぁ、普通は信じないわよね。螺旋樹以外の場所で見掛けるなんて本当に珍しいのよ。この子は人間たちで言うところの招き猫なんだから大事にしなさいよ。縁起物よ。招福の猫なんだから」
「招き猫が実在するとは驚きね。でも、招福のご利益もあまり効果は高くないようだけど。住処が寂れているわ」
「寂れてねぇし。爺ちゃんと親父が公務員をやっているから、ひい祖父さんの後を継いだのが俺ってことになるんだろうが、俺になった途端、依頼が激減したんだよ。ガキの頃、こいつの尻尾を踏んづけたのをまだ根に持ってやがるのかね。階段の上から落としたこともあったな。飲水に塩を混ぜて咳き込ませたりとか。楽しかったぜ」
「チッ」
エマ=クエーガーの膝元から舌打ちが聞こえた気がしたのは潮だけではない。隣りにいた若菜も確かに聞いた。
「気をつけなさい。声帯の作りが違うから喋れる子は少ないみたいだけど、こちらの言うことは理解出来ているのよ。怒らせると怖いのよ~」
「でも、このミケちゃんが招き猫だとして、この探偵社の衰退ぶりは本当にどういうことかしら?」
「福の力を上回る疫病神が新しい主になったということね。神様なんて他界した人が神格化されたものだけど、強い未練を残したまま死んだ人は、現世に留まり不幸を招くことになるわ。あなた、死んだら歴史に残る疫病神になるわよ。すでにとり憑かれている可能性もあるわ」
「言い切ってんじゃねぇよ、アホエルフ。この事務所に疫病神なんかいねえよ」
死んだ人間が神となるのは日本に限ったことではない。だが、エマ=クエーガーの言う通りなら、この世界は神だらけになってしまうのではないか。
増えることはあっても死人が死ぬことはないのだから。一度、神格化され誰かしらの信仰を得てしまったものは永遠となる。
「そういうことね。八百万神々(やおろずのかみがみ)なんて言葉は伊達や酔狂ではないのよ。一方の私たちエルフには螺旋樹、ドワーフの短足には富士のマグマ、ホビットのおチビちゃんたちは北海道の釧路草原が信仰対象となっているわ。一番偉いのは螺旋樹なんだけどね」
ふーん、と腕組みして頷いた若菜である。退屈そうに欠伸をしている潮には常識の範疇なのだろう。今更、耳を傾けるほどではないと。
「初めて聞いたぜ。お前さんたちにもいろいろあるのな」
「私の知識を披露して上げているのだから感謝しなさい。人間って本当に何もかも忘れちゃうんだから」
今聞いた話はホテルに戻ったら、もう一度自分でちゃんと調べてみようと心に決めた若菜は、玄関の方に頭を向けた。
「三浦潮!いるのか!いるんだろう!出てこい!」
詰問するような口調で玄関がノックされたからだ。しかも古い腰高障子を破壊しかねない勢いだ。
声の主は若い女性のようだが、親しみはないようで面倒くさそうに立ち上がった潮は、対応しに玄関に向かった。背の高い衝立の向こう側でなにやら聞こえてくるが、歌舞伎町の喧騒に紛れて聞き取れない。
耳の良いエマ=クエーガーは小馬鹿にするように笑いを浮かべ始めた。
「どうやら苦手な人には頭があがらないようね」
「聞こえるの?」
もちろんよ!意味があるのかウィンクをして肯定したエマ=クエーガーである。
玄関先でのやりとりは五分ほどで終了し、潮が不機嫌な様子で戻ってきた。
「お客さんじゃないの?」
「いや、小中高の先輩だ。腐れ縁ってやつでな。今は国防省陸軍に勤めている大尉なんだが、この辺を移動中に発砲騒動を聞きつけてきたらしい。さっきの地上げ屋とのやりとりを誰かが通報してくれたらしいな。拳銃は所持していたが、発砲はしていないって言って追い返してやった。今日は向こうもどこかに行く途中だったらしく、簡単に引いてくれて助かったぜ」
肩を揉みほぐしながら、倦怠感も顕に説明する。
「幼なじみというものかしら?親身になってくれる人がいるのは有難いことですよ」
「全然そんなんじゃねぇよ!昔から人のことをパシリに使いやがって!今だって歌舞伎町入り口周辺の騒ぎならここだろうって、適当に来たんだぜ!」
「正解だったじゃない」
「……まあ、な」
少し沈黙が流れた。
こういうレトロな雰囲気が嫌いではない若菜は、珈琲を一口啜って息を吐いた。
「私はこの世界の住人ではありません。ここと酷似した世界から来ました」
「ああ、なんかそういうことを言っていたな。それで?」
「それでじゃないでしょう!半年くらい前、私が手入れをしている螺旋樹の苗場に若菜が忽然と現れたのよ!真っ裸で!神秘でしょう!運命の出会いでしょう!結婚するしないないって思ったわよ」
「運命かどうかは別として、ここが私の世界ではない以上、私は元の場所に帰らなければなりません。室井聡お爺ちゃんが異世界に来たなんて話は聞いたこともない。でも、聖剣の封印を解除できるのが室井一族だけだというのなら、それは受け入れましょう。聡お爺ちゃんはここで天草四郎の反乱を鎮め、その直後に消えたと聞きました。それはつまりこの世界での役割を終えたということなのでしょうね。同じ理屈をコジツケルのなら、私は私の役割を全うしなければ、帰還する事ができないということだと思うのです。だから、螺旋樹の里を出ました。居心地は良かったのだけど、あそこは私を必要としていないので」
「職探しか?それで歌舞伎町に来るのは、早まった真似はよせとしか言えないぞ」
どうしてそういう受け取り方になるのよ!エマ=クエーガーが反論した。端的な解釈ではあるが完全に的外れでもない。だが、一大決心をした若菜の行動にもっとロマンスを感じて欲しいというのが彼女の言い分だった。
「職探し。そういう表現でもいいですね。私にしかできないことを一つ一つ解決していこうと思っています」
クスクスと笑っている姿はとても聖女などではなく、年頃の女の子だった。
「あんたにしかできない事か。聡教の教祖は止めておけよ。あそこはマジでヤバイ連中が揃っているからな。腕っ節の立つのがゴロゴロいやがる。さっき来た陸軍大尉、轟加奈子というんだが、あいつが若くして大尉に昇格したのは、聡教の幹部を一人捕まえたからなんだ。指名手配もされている立派な犯罪者だったんだが、そいつを殺した。それで二階級特進だとさ」
「……殺すことで賞賛される世界なのが残念ね。拳銃を民間人が持ち歩いていても咎められることはない危険なところ」
「発砲するには自衛のために限られているがな。自分の身を守るためには必要なのさ」
白いスーツの懐から黒鉄の拳銃を取り出した。
アメリカの市警察で採用されているリボルバー式拳銃で、銃身が短い銃だと記憶していた若菜は、グリップがハートのエースにアレンジされているのを見て、趣味の良し悪しではなく、それ自体の存在を嫌悪していたため眉を潜めた。
「弾丸は入ってないけどな」
シリンダーを横にスライドさせる。六発入るはずの薬室は言葉通り空っぽだった。
「俺にはこいつがあるから、こんなものは要らないのさ」
拳を握り見せつける。確かに凶暴で破壊力はありそうだった。
それでも鉄砲なんかよりよっぽどいいと、若菜は微笑んだ。
「当たらなければ意味が無いのよね。この前は九天の支配者に手も足もでなかったじゃない。トドメは私が刺したようなものだけど」
「殺されてねえし、あの時の恨みも晴らしてねえな。続きやるか馬鹿エルフ」
若菜の長息が二人を押し留めた。
「喧嘩するのなら将棋とはオセロとか……。平和的に決着をつけてもらえないかしら?」
「オセロってなんだ?あんたんとこの将棋に似た何かなのか?」
「私たちの里にもそんなものはないわよ。今度教えてよ」
それを聞いた若菜は二人を無視してまた考え込んだ。
基本的な部分では共通しているのに、オセロのように別に無くても困らない物が欠落していると思った。オセロは日本人が考案したボードゲームなのだが、もしかしたら、それを考えた人物がこの世界には生まれていこなかったのだろうか。だから不存在となる。
「興味深い現象ね」
「お、それって何年か前のドラマの決め台詞だろ?」
「私も見ていたわ!」
「螺旋樹でテレビなんか映るのかよ?」
「衛星放送だって入るわよ!バカにしないでよね」
そんなわけないよな?嘘つきを見るような目付きをする潮に若菜が告げた。
「本当ですよ。ブルーレイだって一般的だったし、スリーディーテレビを持っている家庭もありました」
「スリーディーテレビなんて俺んちにもねえぞ」
――サブカルチャーもかなり共通しているのよね。
二つの世界を知る若菜はお互いの相違点を探すのが楽しくなり始めていた。
「さて、そろそろ行こうかしら」
若菜が宣言をする。
「そうね。あ、その前にお手洗い借りるわね」
潮が部屋の一点を指さした。御手洗と書いてある。
再びソファーに寝かされた三毛猫は、少し寝返りをうって何事も無かったかのように眠り始めた。一日のほとんどをこうして過ごしているのだからお気楽な生活だろう。
「招き猫っていうのは、イメージ的にはトラ猫だと思っていたぜ。太っちょめ」
「そうですね。あ、三毛猫の性別には女子しかいないのですよ。雌猫なんですから優しくしてあげないと」
余計な雑学である。
「ところで三浦さん、お急ぎの仕事はありますか?」
少し考えてから天上を見上げた潮は、
「あの蛍光灯を交換するくらいかな」
彼の視線の先には、なるほど、今にも切れて点滅を始めそうな家庭用蛍光灯があった。
「達成後に報酬を支払うということで、私からの依頼を受けてもらえませんか?」
「蛍光灯の交換後ならいいぜ。……何かお困りですか?お嬢さん。三浦探偵社にお任せください」
椅子に座ったまま上半身を前のめりにし、話を聞く体勢に入った。唇の端を持ち上げて営業スマイルを作る。
若菜は天上の天使のようなほほ笑みで返した。
潮の頭がくらくらするほど愛らしく美しいものなのだ。
「私が元の世界に帰る方法を探してください」
一瞬の停止は何を言われたのか判らなかったからで、頭脳が動き出してからはそれがどういうことかを考えて返事をする。
「お安いご用ですよ」
突拍子もないことを言った筈なのにあっさり受諾されたことで、彼女は照れ笑いになった。
「あれ?気づいちゃいました。依頼はただ方法を探すだけ。成功の是非は別として、ということに」
「それだけでよろしいのですか。俺ならお嬢さんを元の世界に帰して差し上げますよ」
「……自分で何を言っているのか理解していますか?からかってます?」
「まあ、なんとかなりますよ。まずは図書館にでも行って異界旅行に関する資料を調べてきます。久しぶりに探偵らしい仕事だぜ!」
リーゼントを手で撫でてキメたつもりだった。
「……私もいろんな人間を見てきましたが、あなたのような人はそうそういませんよ」
「俺のみたいにクールでワンダフルなパーフェクトマンは中々いねぇだろうな!」
「自分で言っていて恥ずかしくないの?てか、なんでトイレットペーパーがシングルなのよ!貧乏人!」
「普段は俺のケツしか拭かねえからそれで充分なんだよ!」
「私も借りようと思っていたけど、シングルならやめておきます。ダブルが基本だし、どうせウォシュレットも無いのでしょう。ありえないわ。次に来る時までには、せめてダブルにしておいてくださいね」
しれっと再来を約束する言葉はエマ=クエーガーの小首を傾けさせた。
そんなことに気づきもしない探偵と睨み合っていたエルフ娘は、玄関を叩く音を聞いた。それはとても小さくて、優れた聴力を持つ彼女にしか聞き取れないほどであった。
「あら、またお客さんみたいよ。千客万来、繁盛しているじゃない」
ソファーから立ち上がると数歩助走し、二メートルはあろう玄関前の衝立を飛び越えて、反対側に移動した潮の身体能力は凄まじい。
「凄いジャンプ力ね。精霊の助けも借りずに」
「スポーツ選手にでも転職した方がいいわよ。身体を使う方が得意そうだもの。高くもない知能を酷使する探偵業より自分を活かせるわ」
潮が飛び越えた衝立をまた跳躍し後方宙返りで戻ってきた潮は、エマ=クエーガーに食って掛かった。どうやら助走なしでも二メートルの壁を超えられるらしい。
「おい!誰もいねぇじゃねぇか!騙しやがったな!」
「そんなはずは……」
「探偵さん!僕たちだよ!」
「あん?」
人相悪く声がした方を見下ろした。
衝立の右側から三人の子供が現れた。小さすぎて潮の視界に入らなかったのだろう。
「帰れ帰れ。ガキは嫌いなんだ。依頼は受けねぇぞ」
野良犬を追い払うようにシッシッと手を振った。
「仕事を選べる立場ですか?」
辛辣な若菜の言葉であるが、子供たちが手に持つ小瓶を指で指した。インスタント珈琲の空き瓶で中には小銭が詰め込まれていた。
勘の働かない男にも察することができた。アレが報酬なのだろう。
「割に合わねぇと思うぜ」
「可愛いじゃないですか。話だけでも聞いてあげればいいのでは?私も興味あります」
――話を聞いたら断り難くなるだろうが。
聞こえるように舌打ちをした。
他人事のように言い捨てて若菜は小さな依頼人たちのためにソファーを空け、自分は書斎机の椅子に座り直した。まるで彼女が社長のようである。
エマ=クエーガーは先を急がなければならない時間が迫っていたが、ここで変に急かせば若菜に勘づかれる危険があった。三毛猫を抱いてソファーの端っこに移動した。
ここならアドバイス的な事をして、話を手早く済ませることできるかもしれないからだ。
依頼のお邪魔をしてはいけないという配慮からではない。
部外者の二人が完全に見物する姿勢に入ったと勘違いした潮は、とても長い溜息をこれ見よがしに吐き出した。
子供からの依頼は細心の注意を払わなければならない。時として悪夢が潜んでいるというのは探偵の同業者間では有名な話だ。
まさか自分がそんなヤバイ事件に関わるとは露にも思わない。確率的に十万件中一件程度の頻度でしかない。そういうデータがあるのだ。
「では、よろしくね、探偵さん。巻きで」
なぜかエフルであるエマ=クエーガーが開始を告げた。
社長兼唯一の従業員は形式的に子供たちをソファーに座らせようとした。
「あ、こら、靴を脱げ!ここは土禁だ!」
子供相手でも容赦のない男である。
依頼人は三人の男の子である。外見に特徴はないから兄弟ということではないだろう。
全員が十才程度であると予測する。
夢見がちな年頃とも言えた。着ている物は普通なのだが、くたびれていてどこかサイズが合っていないように感じた。
「僕たちは大久保孤児院に住んでいるんです」
孤児院育ちと聞いて、なるほどと納得した。お下がりの衣類を着まわしているのだろう。
多少サイズが違うくらいのことは当たり前だ。
「大久保病院の近くのあそこか?先に断っておくぞ。うちは達成報酬制じゃない。相談料なんかもちゃんと貰うからな」
「鬼」
これはエマ=クエーガーである。
「子供だからといって甘くするのは間違ってる。こっちはプロなんだ」
「わ、判っています。今はこれだけしか払えないけど、大人になったら頑張って働いて残りを払います!」
殊勝な心掛けである。
「よしよし、じゃ、小瓶を寄越しな。まずは、手付金と相談料だな」
受け取ったコーヒーの瓶を開けて適当にひっくり返す。手の平に落ちた金額を数えもしない。
右手の小銭を自分の手元に置いた。一円玉や五円玉、中には十円もあったが合わせても百円にもならない。それが最初の報酬だ。
「確かに貰ったぜ。話してみろよ」
「う、うん」
いきなりごっそり持って行かれたことに衝撃を受けた少年たちは顔を見合わせた。
誰が何を話すか決めてこなかったらしい。
とりあえず、眼鏡少年が手を上げた。
「孤児院の大塚美嘉先生を助けて下さい!」
真ん中の標準的な体格の少年が思い切った様子で頭を下げてきた。
「悪いホストに騙されているんです」
小デブ少年が後を繋げた。
「そうなんです!」
最後にガリガリに痩せた少年である。
彼らの話を要約すると、若いホストが大塚美嘉という女教師の元を訪れるようになったのは二週間ほど前のことであるという。
大久保孤児院で育った大塚美嘉は中学を卒業すると、保育士見習いということで同孤児院に住み込みで就職したらしい。
生まれ持った環境が何かと影響する社会で、孤児院育ちではまともな就職先が無かったのだろう。どんなに学校の成績が優秀でも、難しいのが現実だった。
そんな苦しい環境でも一生懸命頑張る美嘉は児童からの評判も良く人気者であるという。
美人先生は少年たちの憧れであるのだ。
「ほほう。あの美嘉ちゃんがホスト遊びね。そいつはずいぶんと似合わないな」
「大塚先生を知っているのですか?」
「俺はたいていの美人なら知っているぜ。西戸塚中学のマドンナだろう?中学を卒業して、確か高校へは進学しなかったんだよな。真面目で美人でおっとりした性格なんだが、勉強は平均的で奨学金を貰えなかったから仕方ないって落ち込んでいたような」
眼鏡少年がトレードマークであるその眼鏡を直しながら、どうしてそんなに詳しく知っているのですか?と質問を重ねてきた。
「向こうはキュートで有名だったが、俺は喧嘩で知られていたからな。何度か会ったことがある。二三区中学対抗騎馬戦大会にも応援に来てくれたくらいだ。もう何年も疎遠だがね。それで?ぶっ飛ばしてもらいたい男はどんなやつなんだ?俺の分も一発加えていいのか?」
面食らったおデブな少年が慌てふためいて、そうじゃないんですと制止してきた。
「殴ることを前提にしないでください。まずは穏便に話し合いでお願いします」
不思議そうな顔をする潮である。
「話しても判らねえから喧嘩になるんだろう。だったら最初から殴っちまえばいいんじゃねえの?」
「暴力事件は院のみんなに迷惑となります。あくまで平和的に解決してください」
「まあ、一応、努力はしてみよう。覚えていたらな。その男はそういう風貌なんだ?違うやつを殴ったらそれこそ問題になるぜ?」
子供たちはお互いの顔を確かめ合った。この人に依頼をするのはそもそも間違いだったのではないだろうか、と不安と後悔が滲んでいる。
それでも何か思う所があるのか、やはり眼鏡少年が挙手する。
「僕らは誰もそのホストの姿を見ていないんです」
「ああん?」
聞き返しただけなのだが大男に唸られて痩せた少年は、ヒィと悲鳴を上げた。
「姿をみてねえのなら、誰がホストなんて決めつけたんだよ」
意識せずに眉間に皺が寄っていて悪人面である。
「こ、声を聞いたんです!僕が夜中トイレに行こうとして先生たちの個室の前を通ったら、大塚先生の部屋から誰かと話す声が!びっくりしてこの二人を呼びに行ったんです」
「無理やり起こされて、三人で大塚先生の部屋に行ったんです。ドアの前から聞き耳を立てなくてもはっきりとした話し声が聞こえてきました。声は一人分しかしなかったので、電話なのだと思います」
「そうなんです。内容は次の満月まで待ち遠しいと言っていました。迎えに来てねって!先生は僕たちを捨てて男と出て行くつもりなんです!満月って今夜じゃないですか!」
「いいじゃねぇか、放っておこうぜ。好きにさせてやりなよ。満月の夜とかずいぶんとロマンチックな奴じゃねえかよ。美嘉ちゃんにはお似合いだぜ。依頼解決だな。アクションは起こしてないから着手金と達成金はいらねぇよ。帰れ」
珈琲瓶に蓋をして少年たちに戻そうとする。
「いいわけないだろ!先生にどんな願いがあるのかは知らないけど、もし、お願いごとがあるのなら、それを叶えられるのは僕たちだ!」
「そうです!」
眼鏡少年が熱弁しガリガリ少年が同意した。この細い少年は同調しかしていない。
「ふ~ん」
もはやすっかり聞く気のない潮は先に受け取った小銭を数え始めた。
「第六位のブルーノなんて男に僕たちの先生を奪われてたまるもんか!」
小銭を金額別に並べていた潮の手が止まった。
「第六位?」
「そうだよ!ナンバー六のホストでしょ!ガンダルヴァって階級なんだって!どこの店かは知らないけど!」
「あー、そいつはきっとアストラル界って名前の店じゃねえのか」
「アストラル界!そう言っていました!そこから早く来てっと。私の願いを叶えてくれるのなら、全てを捧げると!この場合の全てとは……あの、か、身体のことでしょうか?」
「僕は財産だと思う」
そんな貯蓄があるかな。職員の給料は高くないよ。
少年たちは見当違いな相談を始めた。そこはどうでもいいことだと、潮はエルフ娘を見た。
我関せずといった様子で三毛猫の顎の下を撫でていたが、顔が少し青くなっている。
「よし、判った。これから俺の言うことをよく聞くんだぞ。この件は確かに俺が引き受けた」
「え?」
きょとんとびっくりしたのはエマ=クエーガーである。その彼女を目で黙らせて彼は続ける。
「お前たちは俺に会ったことを表情に出さないようにするんだ。確かに今夜は満月だから、そいつがやって来る。俺が美嘉ちゃんに付きまとうのを止めさせる。それでいいか?」
「はい!」
三人は声を合わせて頷いた。
インスタント珈琲の中に入っていた小銭をさらに二回も取り出し、報酬は受け取ったぜ、と笑顔を見せた。
子供たちにはそれが、文句があるならかかってこい、と言われているようで怖かった。
お茶を出すこともしていなかったので、三人はそそくさと逃げるように帰って行った。
半分以下となった瓶を大事そうに胸に抱えて。
彼らを見送るようなことはしないエマ=クエーガーがジロッと潮を見ている。
「どういうつもり?」
「なんのことだ?」
「本当にあなたが解決するつもりなのかと聞いているのよ」
「俺にどうこう出来る問題じゃないだろうが。魔務省に通報して終わりだろう?専門家がなんとかしてくれるさ」
「そして、その大塚美嘉は夢魔を孕んだ者として裁判に掛けられるのね。判決は判るわ。一生監獄で軟禁生活なのでしょう。人間の法律って野蛮だわ」
嫌悪感も露わにエルフが唾棄する。
「事情を教えてくれるかしら?私の知らない単語が幾つも出てきたわ」
社長のデスクに座ったまま、若菜が口論に発展しそうな二人を止めた。
「あんたの世界では夢魔族はいないのか?いや、こっちの世界にも存在しているわけじゃないんだが」
「本物の螺旋樹がある精神世界。それがアストラル界よ。そこで螺旋樹を守護しながら住まう二十二の門番と眷属であるフェシスたち。その門番たちと敵対する夢魔族。本来アストラル界と私たちの世界はお互いに行き来することが出来ないようになっているの。世界の法則が違うのだから当然よね。でも、極稀にこちら側に来てしまう夢魔族がいる。人間が持つ夢見の力でね」
「人間は夢を見る。誰だってそうだろう。だがな、その夢を食い物にしているのが夢魔族というわけだ」
「人の夢に寄生し条件を満たした後に肉の身体を得た夢魔族は、世界の敵と成り得るの。そうなる前に食い止めるのが最上策なのよ。異界からの招かざる来訪者。被害者と加害者はこの場合、完全にイコールなのだけれど、すぐれた魔術師の素質を持っていると思われるわ。でも夢魔族を孕んだ者は、再発防止のために監視下に置かれるのというのが人間の法律よ」
「夢を喰う化け物たち。それに二十二の門番か。なんとなく聞いた言葉ね。私たちは機械の力を借りて、アストラル界の住人の一部を召喚しているということなのでしょうね。きっと大半は門番に属するフェシスなのでしょうけど。夢魔族も混ざっているのかしら。確かに口の悪い子もいるけれど」
高価なデスクに両肘を付き、手の平で頭を抱えるようにして若菜は独り思考に潜り込んでいる。ときどき零れる独り言は呟きでしか無く、綺麗な唇が微かに動く程度だ。
どうももやもやするが、他にどうしようもないのだ。
大塚美嘉は一生を棒に振ることになる。
それを回避する手立てはあるにはあるのだが、気が進まなかった。というより、本当に可能かどうかをまず考慮しなければならない。
室井若菜とエマ=クエーガーが帰って静かになった探偵社のソファーに座り熟考する。
彼女が居座った社長のデスクになんて座ったことはほとんどない。
高名な探偵であった曾祖父を越える名探偵になるときまで、お預けにするつもりなのだ。それはまだまだ先のことになりそうだと自覚していた。
幼少の頃の記憶にしか無い曾祖父はトレンチコートを着ていて、自分の流儀を貫けといつも言っていた。
「流儀っていってもなぁ」
「中身の詰まってないオツムを使って、考えている真似だけしてるんじゃないわよ。鬱陶しい」
目の前の三毛猫がこちらをピタリと見据えている。知性すら感じさせる双眸は眠たげであった。しかし、その長い髭を伸ばす口元が動いたのだ。
「そうだな。よく考えてから動くなんてのは俺のやり方じゃないよな。仕方ねぇな。魔務省に通報しねぇで俺が片づけるか。ん?今誰かしゃべったか?」
問いかけに答える者はいない。空耳か、とコーヒーカップを洗いに台所へと向かう。
大事になれば生命の安全は確保されるのだろうが、事件解決後、大塚美嘉は北海道網走にある牢獄で緩い軟禁を強いられることになる。だから、こっそり解決してしまおうと腹を決めた。
少しして戻ってきた彼は愛猫が寝転ぶソファーの前に股を開いてしゃがみ込んだ。久しぶりにこの猫を真正面から観察する。
招き猫、エルフ猫ということが判明した三毛猫のアイシャである。若菜は勝手に好きな呼び方をしていた。それを咎める飼い主でも飼い猫でもない。
名前などどうでもいいのだ。
しかし、最初の飼い主である曾祖父がつけた名はアイシャである。
「こいつしゃべったりするのかね?」
猫が呆れたように口を開けた。
「お?」
何か言うのかと期待したが、それはただの欠伸だった。
チッ、性格の悪い猫だぜ。期待した分、がっかりさせられて頭をグリグリ撫でまわした。
「気安く触るんじゃないわよ」
「そいつはすまなかったな。さて、夜まで寝るか」
「目覚まし忘れんじゃないわよ。孤児院の就寝時間は二十二時だから、その二時間前にセットしておきな」
携帯電話を取り出し目覚ましタイマーを二十時に合わせた。
「そうだ。寝る前にこいつのトイレを掃除しなくちゃな」
「ご飯と水も」
「そうそう飯と水も補充しておかなくちゃな」
やることを全て済ませた潮がソファーに横になったのはそれから十分後であった。スヤスヤと寝息を立て始める若い飼い主をみつめる三毛猫は、猫らしからぬ溜息をついた。
この男はいったいいつになったら、自分と会話をしていることに気が付くのだろうかと責めるような視線である。
「だらし無くて間の抜けたところは大作とそっくり」
昭和初期から後期にかけて活躍した名探偵、三浦大作を知る猫は身体を伸ばした。尻尾がだらりと落ちたがそれはいつものことだった。
次に三毛猫の耳がピコンと動いたのは、表の靖国通りを何十代ものパトカーがけたたましいサイレンを鳴らして走り抜けたときだった。だが、それもどうでもいいと直ぐに寝息を再開する。
それから数時間後三浦潮は自身がセットした目覚ましのアラームに半ば逆上しながら起床することになる。
西に沈みゆく夕日が建物内に入り込む角度で、日没が近いことを知ることができた。
東京都領主、加藤氏との面談を無事に終えた室井若菜とエマ=クエーガーは東京都庁の一階フロアに降りてきた。
律儀に見送りまで申し出た加藤氏の案内付きである。
「いやぁ、こうして話題の聖女と真っ先に面会したとなれば次の選挙を優位に運ぶことができます。感謝いたします」
自身の保守を第一とする政治家の言葉などまともに取り合わず、若菜は愛想笑いだけを作っている。こういう時に笑みを浮かべることができるのは、幼い頃から教育されてきた社交術の成果だと自己嫌悪することもあるのだ。
二十歳の彼女はときに感情で動きたくなることもある。それを抑えコントロールできてしまう自分の冷静さに嫌気もさす。
しかし、これから幕府主体で行われるらしいある政策のためには、民間人代表である加藤氏との協調を計る必要があるのだ。
加藤氏からの面談要請は幕府側にとっても好都合であったようだ。
「いえいえ。常磐七星大将軍の計画にご了承いただけたのですから、こちらといたしましても謝意をお見せせねばと言うことでしたので」
同じくらいの目線の初老男性は眼鏡の位置を直す仕草をした。その目の奥は口元ほどには笑っていない。
理由は二つほどが上げられると予測する。
孫ほども年齢の離れた小娘が対等に接してくることと、つい先日から噂になっているだけのその娘が大将軍からの使者も兼ねていることだろう。
加藤氏の考えでは面談は面談、政策に関しては別の高官クラスを派遣してくるものだと思っていたのかもしれない。
そうであらねばならないという確固たる固持はないのだろう。そうでなければ、若菜と会うことを拒んでいたはずだ。計算高い彼は常に妥協を忘れない。
自尊心が強く現職に誇りを持っているなら当然のことであるが、こうも簡単に透けてみえるようではあの七星のまさに手駒として動く能力しかないのだろう。
――ああ、だから、前回の領主選で幕府はこの低能な男を後押ししたのね。そういう分析を加味するなら、ベストな選択ね。
侮蔑の表情が浮かばないようにするため、さらに目元を緩めた。
それに彼の期待は全くの的外れというわけではない。
一階フロアの一角、応接スペースには加藤氏が望んでいた高官が待ち構えていたからだ。
「加藤領主。若菜さん。お待ちしておりました」
まず話しかけてきたのは不思議な衣服に身を包んだ若い女性である。
栗色の巻き髪を長く垂らし、白い神官服のようなものを着ている。細部に金糸で刺繍が施された上等な制服であった。腰には重そうな鉄槌をぶら下げているが、それを感じさせない身のこなしで近づいてくる。
加藤氏には彼女などは見えていなかった。その背後を続く大柄の男性のみを注視する。
陸軍の黒い制服に身を包み涼しげな笑みを浮かべ颯爽と歩く偉丈夫。常磐幕府の次代将軍と名高い常磐六連である。
「予定より押していたようだな。俺も同席したかったのだが、途中参加も失礼と思いここで待たせてもらった。職員への口止めは俺の指示だ。邪魔しては申し訳ないからな。軍議がもう少し早く終わってくれれば良かったのだが。滞りなく済んだようだな」
「六連将軍が自らお越しとは。感服の至りでございます!ご用件の方は若菜どのより伝え聞きました。都を代表する者といたしまして、全面的な支援をお約束いたします」
腰を折り曲げ上目遣いで揉み手をする大人というのを、現実に見る機会は少ない。都庁職員の冷たい視線には気がつかずに唾を飛ばし熱弁を振った。
「それは結構。では、これが計画書だ。目を通しておいてくれ。被害は最小限に抑えるように尽力するが、それにはやはり貴殿の協力が不可欠となる。父上も期待しておられる。頼むぞ」
「大将軍様が……。畏まりましてございます」
手渡された分厚い書類の束を両手で受け取り深々と頭を下げた。
弱者に強く強き者には巻かれるタイプの人間を、常磐六連という武人は好んではいなかった。仕事だからと割り切れるほど、若い将軍の人生経験が豊富なわけでもない。
今回の加藤氏との接見も可能な限り短時間で済ませるつもりだったのだ。
『もし面と向かえばわずか三分ほどの間に、いったいどれほどの毒舌を披露することになるか、俺自身責任は持たぬぞ』こう言って周囲を困らせていたのだ。
彼がこの時間にここに来て加藤氏の自尊心をくすぐり、一言台詞を交わしただけで帰途につくのは予定のうちである。
知らぬは加藤氏本人だけで、若菜とエマ=クエーガーは早くも退屈そうにしていた。
「六連将軍、そろそろ次の行事が迫って降ります。歓談はまた今度ということにして」
神官服の麗人が六連と加藤氏の間に入った。
「そうか。時間の流れは速いものだ。特に楽しい時間はそう感じる。名残惜しいが、俺はこれで失礼する」
最後は軍人らしく踵を鳴らし敬礼する。彼ほどの立派な体格であればこその迫力に加藤氏は圧倒され、ははぁー!と九十度に平伏した。どこまでも滑稽な男である。
そんな領主を振り返ることなく早々に切り上げる。これも織り込み済みだった。軽くお辞儀をした六連以外の女性三人はせいせいした様子で六連の背中に続いた。
「お疲れ様です。若菜どの。エマ=クエーガーどのも。帰りは俺の車両でお送りしますので」
室井若菜とエマ=クエーガーは常磐幕府の人間ではない。幕府への協力者である。ならば口調や態度も他の者とは異なる。そういう分別を好意的に捉えていた若菜は、この名役者が自分を制御できないほどに加藤氏のような人間を嫌悪する、その度合いを推し量ることができた。
――生理的に無理なのでしょうね。
「運転は藤崎すみれさんですか?」
冗談のつもりで聞いてみた。
神官服の女性、藤崎すみれは小首を傾げた。
「私は運転免許を持っていませんので。若菜さんこそ運転はできるのですか?」
「免許取り立ての頃、向こうの世界で祖父を乗せて富士山までドライヴしたことがあるんですよ。安全装置のない絶叫マシンと言われましたけど」
「それは俺も勘弁してもらいたいですな。訓練を受けた軍人の運転でも俺は乗り物酔いをしてしまう事があるのです」
「私は若菜の運転でドライヴしたいな。そのまま天国に行っても良いから」
自動ドアが開き外の風を感じてようやく肩が軽くなったエマ=クエーガーが口を開く。
「お二人は、その本当にそういうご関係で?女性同士で……」
すみれが遠慮しがちに尋ねてきた。
「そうよ!熱烈に愛し合っているわ」
「全然。不毛な妄想です」
一人は猛烈に肯定し、残りは冷ややかに否定した。
その時、すれ違うようにして一組の男女が都庁にやってきた。
男は筋骨隆々としたタンクトップの体育会系で、女はビジュアルバンドのメンバーのような格好をしている。
何かの用事で訪れた一般市民として誰も警戒を示さない。警備員ですらちょっと変わった組み合わせの男女を素通りさせた。二重になっている自動ドアのちょうど中間地点でのことである。
流れ込んだ風の中に違和感を覚えたのは六連であった。
直感に従い彼は両腕を広げて女性三人を数歩後ろに下がらせた。
彼女たちがいた空間を何かが通過したのはその直後であった。
床のパネルが数枚、音を立てて砕けた。
「あら?外しちゃったわね。意外と良い勘してるじゃん」
「だから距離を取って狙撃しろと言っただろう。六連は無理でも他の奴は仕留められただろうよ」
「痛がる顔はなるべく近くで見たいじゃない?」
「このサディストめ!まぁ、そこもお前のいいところなんだがな!」
なぜか照れて咳払いする大男は気を取り直して野蛮に笑った。
「俺は聡教の加藤新一。そこの聖女を誘拐しに来た」
「同じく雲霧操。あんたら全員、いたぶり殺す」
二人がくだらないやり取りをしている間に、六連たちは東京領主の加藤氏の近くまで戻り距離を取ることが出来た。
「聡教の幹部たちか。よくここが判ったな」
抜剣し先陣に立つ常磐六連は同行してきた部下たちを左腕で制した。聡教の幹部と戦うには彼らでは力量不足であったからだ。横に並び鉄槌を構える藤崎すみれも下がらせるか悩む。
「先行していた轟大尉はどこで油を売っているのだろうか」
「連絡は入っておりません。待ち時間の間に電話すればよかったですね」
微塵の隙も見せずに小声で話し合う二人を完全に見下し、曇霧操が手にしていた肩紐の長い鞄を振り回し始めた。
「蛇の道は蛇ってね。うちらの情報網を侮ってもらっちゃ困るわ。そこの聖女様を殺すためなら大枚叩いたって惜しくないわね。ついでにあんたらも殺してあげるよ。順番を決めな!」
弧を描く鞄は速度を増していき耳障りな金切り音を発し出した。
「全員、耳を塞いでください!この音を聞いてはいけません!」
この現象に心当たりがあった藤崎すみれが、容姿からは想像できない音声で注意喚起した。
「あははは!もう遅い!この魔音を聞いた奴らは集中力を奪われ通常の能力を発揮できない!特に魔術師には効果覿面!巴教信者のすみれとエルフの精霊術は封じさせてもらったよ!」
「問題は俺にまで効果を発揮してしまうことだな。よっと。こんなもんでも完全に防げるんだが」
加藤新一は両耳から耳栓を引き抜いた。仲間の能力の浸透力に感心するやら泣けてもくる。
「まともに術中に落ちたようだな。さて、どいつから殴り殺されたい?やっぱり武士道精神溢れるお前さんか?」
表面上は平静を装う六連とすみれを視線から外さない辺り、新一の第一標的はすでに定まっているのだろう。
「すみません、私の不注意でした」
「この術はどれほどの時間で回復するのだ?」
「脳内の神経系に働きかけて一時的に麻痺させる音魔術です。回復には個人差がありますが、私の経験上、あなたでしたら五分もあれば。私の支援魔術は同じくらいの時間は使えません」
無駄のない的確な返答である。彼女はいつもそうなのだ。冷静沈着。源巴を信奉し公私に渡り将軍家の三男坊を支援する神官である。
「俺が先方を務める。お前は曇霧操とかいう奴を牽制しながら俺への支援だ。若菜どのとの中間地点がベストだろう。加藤新一の間合いに入るなよ。聡教幹部は得体が知れない連中が多いと聞く」
わかりました、と短く答えて若菜と操の間に移動する。そんな動きを自由にさせていた加藤新一はやはりただ泰然としている。
「別れは済んだのかい?そんな美人とネンゴロとは将軍ってのは羨ましいもんだ。これから俺も目指すかな」
「今年の採用試験ならまだ間に合うぞ。来年の春先に入隊できる。ちなみにこのすみれとは幼なじみでな。陸軍軍人ではない。私設秘書のようなものだ」
生真面目に応答しながら、どう斬り込むか思案する。素手の加藤は腰に手を当てて軽薄な笑みを浮かべているだけである。真剣に会話を愉しんでいる、とも思えてくる。
「さて、増援が来るまで待ちたいのだろうが、人が増えればそれだけ犠牲者も比例するぞ」
「丸腰の相手は斬り難い、そんなことを聞いたことはないか?」
「おお、装備を忘れていたぜ!教えてくれてありがとうよ!操?」
後ろに控えていた操が魔音を発した鞄に手を突っ込み何かを取り出した。
長手袋のようである。
「こいつはオーストラリアの荒れ地に住む固有種、オーストラリアコブラの皮を剥いでなめしたモノなんだが、知っているか?オーストラリアコブラは刀剣類に滅法強くてな!生半可な斬撃では傷もつけられない。どうだ?これで遠慮はいらないぜ。かかってこいよ」
ヘビ柄の手袋は肘まである。大きさも新一にぴったりあっていることから特注品であろう。腕と拳部分の内側には衝撃を吸収する緩衝材が入っているのか不自然に膨らんでいた。
「俺ならば構わず斬れると思うのだが、それだけでいいとお前が言うなら良いだろう。幕府への反逆罪で成敗する!」
六連は突撃の構えをとった。固い靴底が床を蹴る。
まだ身構えることもしない新一の太く逞しい胴体を真横に斬りつけた。
とくに大袈裟に動くことはしないで、一歩後方に下がりそれを躱した新一が残像を描き動いた。狙いは六連の頭部粉砕である。
間合いは剣士である六連の方が圧倒的に広い。新一はその中に身体ごと飛び込まなければ攻撃が届かないのだ。その不利を補ってあまりある速度で動いてきた。
ノーモーションからの一撃、しかも、目で捉えきれぬ速さである。
振り落とされた拳の破壊力は、すみれが振るう鉄槌より凄まじいのではないだろうか。
鉄よりも硬く重い拳は、ほとんどでたらめに避けた六連の胸元を掠り、コンクリート製の床を穿つ。小さな破片が幾つも飛び散った。
伸びきった右腕、オーストラリアコブラ手袋に覆われていない二の腕目掛けて繰り出した剣は、逆の左拳で受け止められた。そればかりか上方へ弾き上げられてしまった。
バランスを取る為に両腕両足が開き、伸びきった上にがら空きになった胸部に再び右腕が迫る。殴打ではなく胸ぐらを掴む気だ。
剣を返していたのでは間に合わない。六連は剣の束を垂直に落とし手の甲に合わせた。
斬撃に強くても衝撃はある程度伝わるはずだ。緩衝剤が優秀でないことを願った。
だが束の一撃を受けても新一の手は怯まなかった。
凶暴な男に詰め襟を捕まれた六連は、剣を手放しその腕に抱きつくように自身の身体を一回転させた。
「うお!」
官能的な驚きを上げて後退ったのは新一の方であった。
六連を振り解き距離をとった。
「まさか関節技まで使えるなんてな。正統派の剣士だと情報にあったぜ。うちらの情報網も鵜呑みにできんな」
あの一瞬でへし折られそうになった右肘をさすりながら、愚痴をこぼした。
落とした長剣を拾い上げ六連は考える仕草をする。
曇霧操が放った音魔術の効果は確かに出ている。反応速度が普段より遅いのだ。身体も重く感じられた。どこか船酔いに似た状態となっていると自己分析する。
まずは回復するまで時間を稼ぐのが賢いだろうか。
「いい速度だ。轟大尉と良い勝負だろう。つまり初見ではないスピードだったということだ。次はもっと対応できるぞ」
「ほう。さすが現代の英雄、常磐昴の弟といったところか。愉しませてくれよ!」
露骨に嫌そうな顔をして六連は切っ先を地面に向けたまま動かない。
変幻自在ではないだろうか、仕掛けてくる角度やタイミングは素手の新一の方に利がある。それを少しでも埋める為に、初手を受けに回りカウンターを仕掛けることにした。
両者はしばらく睨み合う。
その二人をよそに女魔術師、曇霧操は接近戦を挑んでくる藤崎すみれの鉄槌を真正面から受けていた。顔面めがけて振り落とされた鉄塊を瞬きもせず微動もしない。
自身が発生させた魔術防御壁に絶対の信頼を持つのか、鉄製のハンマーは操に激突する寸前で止められていた。
「私の防御を破るには腕力が足りないようね。向こうは膠着状態に入ったみたいだし、あのむかつく聖女を捕らえるのは私がやってやるわよ」
「あの~、面識のない人にそこまで恨まれる覚えがないのですが?」
控えめに挙手して若菜が抗弁する。
「あんたには無くても、私には言いたいことが山ほどあるんだ!荒縄で縛り上げてから一つ一つ呪いを込めて聞かせてやるよ!あんたの先祖が私の先祖にどんな酷い仕打ちをしたのかをね!」
身に覚えがないはずである。生まれる前の恨み辛みを聞かされても途方に暮れるだけだ。
「とりあえず話は聞きますから拷問とか強制的にではなく、平和的な解決を目指しませんか?」
「あんたの先祖のおかげで私たち一族がどれだけ苦労してきたことか!私の代で積年の恨みを晴らせるなんてついてるよ!まずは生爪剥がすことから始めてやる!言い声出しなさいよ」
凶悪とも恍惚ともとれる表情は自分に酔いしれているのか。次々に繰り出される鉄槌を意にも介さず彼女は歩みを止めない。これでは若菜に危険が肉薄してしまう。美しいすみれの唇が動く。
「我が源巴天人よ、盟友の危機を救い給え。この世ならざる豪腕を!」
「筋力強化かい?魔音にやられたの忘れたのかい?半端な効果しかでやしないよ」
「ご心配なく。他でまかないます」
すみれは左足の踵に全体重を乗せた。頭上で鉄槌を旋回させる。その動きに合わせて身体全体が回転を始める。遠心力の力を使い強力な一撃を見舞おうというのだ。
さすがにそんなものを受け止める気になれない操は距離を取ろうとした。
肉弾戦の素人が選択したのは稚拙な回避である。
将軍家に使える神官が追撃できないはずはない。
大きく一歩踏み出し、右足のつま先を逃げる操に向けた。次にそのつま先の延長線上に左足を置いた。
方角は良し。後は衝突のタイミングである。奥歯を噛み締めて両腕から離れそうな愛用のハンマーを全力で握り、先端部を操のコメカミに狙い定めて振り回した。
不快な金属音は短く鼓膜に届いた。
曇霧操の身体は変わらずそこにある。
またもや防御壁に阻まれたと誰もが思った。
唇の端を持ち上げたのは、すみれだった。
「六連ではありませんが、次はもっと強烈なやつを入れますよ」
鉄槌に強打されたコメカミから赤い血が一筋流れていた。
応じる言葉は無く指先で血をなぞり拭き取った操は、無表情でそれを舐める。
「ただの売女かと思っていたよ。それじゃこっちも仕留める気でやらなくちゃね!」
手にしている鞄を今度は大きな八の字に振り回し、また奇怪な音を発し始める。
「音魔術自体に殺傷能力はないはずです。こんな接近戦で何をしようというのです」
それを知りながら仕掛けられる魔術がなんであろうと、発動させるのはよくない気がした。すみれは脳天に向けて全力で鉄槌を叩き込んだ。
防御壁はまだ健在だろう。続けざまに短く術を唱え左腕から衝撃波を放った。
巴教団には祖となる源巴に倣い防御や回復といった支援魔術が多い。直接、相手を傷つける魔術は少ないのだ。衝撃波はその中の一つである。
物理攻撃を防ぐ不可視の壁は、同じく目に見えない波動まで弾くことができるのか。
答えは可であった。
鞄を振る動きに遅延はなかった。
「抵抗力の低い人間から私の操り人形になりな!」
睡眠奴隷。
一般職員の数人がびくんと身体を震わせて意識を失った。
大丈夫か?と駆け寄る同僚を殴りつける。それだけに留まらず何度も近くに居る者たちを殴り被害が広がっていった。
正気を保ったままの職員は対抗するわけにもいかず、なんとか数人で押さえつけようとしていた。これには六連に同行してきた四人の軍人たちも協力した。
「精神支配。音魔術にはそんなものまで含まれていたのですね」
「親友同士を喧嘩させて酒を吞むのが好きでね。恋人同士ってのもありだね。笑えるよ」
「趣味の悪い」
吐き捨てたすみれである。
「藤崎すみれ!右に飛びなさい!」
背後から声があった。若菜の隣にいたエマ=クエーガーである。
螺旋樹の里に所属する彼女は、積極的に戦闘参加するわけにもいかず今まで自制していたのだが、脅威が間近に迫りそうも言っていられなくなった。
自衛のためならば相手を殺めてしまっても大きな問題とはならない。
精霊力の弱い都会での精霊術は風属性がもっとも安定していたが、こうした建物の中ではそれも難しい。人工の地面から抽出できるだけの大地の精霊を集めて協力を要請した。
結果、足ほどの太さしか無いコンクリート製の槍が床から生え伸びて、操目掛けて飛ばすことができた。
「そんなもの!」
すみれの時と同じく身動き一つしない。しかし、展開が異なる。
弾き飛ばされ、あらぬ方向に突き進むと予測していた大地の槍は、柔軟な鞭のように軟化し防御壁ごと操を包み込み、身動きを取れなくしたのだ。
「これは……!小賢しいエルフめ!」
間髪入れずすみれは筋力強化の祈願をし、全力で身体を回転させた。
相手は動けないのだ。命中させることは簡単だった。後は威力を得ることに全筋力を注ぎ込む。
そうして放たれた鉄槌は操に届くこと無く宙を舞う。
何が起きたのか。右腕付近を押さえうずくまるすみれがいるだけである。
高く打ち上げられた鉄槌が落下し大きな音をたてる。その少し前に腕が落ちてきた。
白い神官服の袖を残している。
「風刃の魔術」
それだけを口にしたすみれである。誰もがようやく理解した。旋回を続けるすみれの腕を魔術で断ち切ったのだと。
「音魔術は楽だから使っているだけ。私の魔術はどれもこれも強烈なのさ!こんどは身体中を斬り刻んでやるよ!いつまで我慢できるかな?懇願すればひと思いに殺してやるよ!あはは!」
大地の槍に束縛されながらの哄笑は響き、恐怖する者が大半である。
そうでないものもいた。
まず片腕を失った藤崎すみれがそうだった。気丈にも立ち上がり、繰り出された風刃を回避する。一つ、二つ、三つ。軌道は金切り音で予測できた。正確に掴めない分、避けきるのは不可能で徐々に出血が目立つようになる。
白い神官服が赤く染まっていく。
連続して撃ち出される刃がいよいよ二桁に達しようというとき、致命的な軌道を感じたすみれは硬直する。
彼女の背後には加藤新一と対峙する六連がいたのだ。
いくら優秀な武人といえども背後からの風刃を避けることができるのだろうか。
出来ないとは思わない。リスクが大きすぎた。それに主を見捨てるようでは巴信者の教えに背くことになる。
――死ぬときは六連よりも先に!
精神力を高めて強く願った。祈願を言葉にしている時間はない。
風刃が発する風を眉間で感じることができた。
頭部を撃ち抜かれると覚悟を決めた。
必殺のはずだった風刃は、前髪数本を切っただけとなった。
操にとっても予期しない結果に、驚きよりもきょとんとした顔をしている。
風の刃が霧散した原因に思い至り、彼女はエルフを睨んだ。
「風刃を精霊サイドから働きかけて中和したのかい!まったく生意気なエルフだよぉ!」
しかし、これでもう風を利用した魔術を行使することはできない。精霊との融和性ではエルフに敵わないのだ。
大地の枝に縛られ動けぬ曇霧操、利き腕を失い出血多量で意識が朦朧としている藤崎すみれ。操に致命的な攻撃を加えるべく精神を集中させているエマ=クエーガーの背後で室井若菜は唇を噛んでいた。
――私がここにいること自体が争いの源になってしまうのだわ。
平和な環境で育ち周囲に守られて育った彼女は、野蛮な争いを唾棄する。
――聖剣システィーナがあれば。
誰も傷つけることなく、こんな無意味な戦いは終わらせられるのに。
持ち出さなかった後悔ばかりが浮かんでくるが、剣道はしたことがない。強力な魔術具であるらしい聖剣の使い方を知らないと彼女自身認めていた。そんなことも忘れてひたすら聖剣を欲した。
「木の精霊たち離れた場所までゴメンね。少し手伝って!」
精霊術には言霊や魔術儀式のようなものは必要ない。精霊に属する者が強く願い思い描く効果を指し示すだけである。
世界の柱たる螺旋樹に信仰を捧げる長老家に連なるエマ=クエーガーは優秀な精霊使いなのだ。
かなりのスペースがある東京都庁の一階フロア。壁面は少なくほとんどガラス張りになっていて開放的である。外部からの明かりを取り込むだ。
室内が少し暗くなったのは、そのガラスが取り込む外光を遮るものたちが接近してきたからだ。
エマ=クエーガーの要請を受け入れやってきたのは、昼過ぎに下見を済ませた新宿西口公園の樹木の葉である。
公園を覆い尽くす程の深緑の葉が生き物のように大挙を成して襲い来る。それも百メートルは離れた場所まで。それはイナゴの大群に等しい脅威であった。もはや奇蹟の技ではなかろうか。
若菜はエマ=クエーガーの顔を覗き込んだ。もともと白い肌は蒼く染まり血の気を失っていた。術の制御に全神経を注いでいるのがわかる。一体どれほどの魔力を森の木々に与えたのか。
一斉に巨大な強化ガラスを全て粉砕し都庁内に入り込んだ若葉たちは、他には目もくれず曇霧操を目指した。押し包んで圧迫死させようというのだ。
都庁一階を埋め尽くすほどの量である。
これほどの物量、重量では防ぎようがないと思われる。
勝ったと安堵したのは藤崎すみれであった。
「こんなの有りかー!」
操が今までとは違う絶叫を上げたからだ。
日光が遮られ室内が薄暗くなったとき、何ものかの接近を感知した加藤新一は先に動いていた。
眼前の常磐六連も突然のことに狼狽している。今は仕掛けてこない。そう確信したからだ。
「マイハニーがやばそうだな。俺の奥の手をみせてやろう」
六連は感じ取ることが出来た。強烈な力が加藤新一から立ち上り頭部に集約されていくその動きを。
ぼんやりと光を放っていた波のような現象が急速に形を成していく。
それは彼の頭頂部から伸びた鎖で繋がれた巨大な球体である。物質化された鎖自体がつむじの辺りから垂れていた。
黒光りする球はかなりの重さがあるようで、どすん、と落ちて床を砕く。
具現化能力である。
「加藤けん玉と名付けた。破壊力は回転させるほどに加算されていき、十回転まで上がり続ける。攻撃範囲はけっこう広いぞ。こういう風にな!」
上半身を降り始めた。特に頭部をぐるぐる回し、回転を速めていく。その頃には六連は回転軌道のすっかり内側に入り込み、球体そのものとは遠く離れている。
速度を増せば威力も攻撃距離も伸びる。新一の説明通りと思われた。
怪しい艶の球体までもがさらに大きくなっていった。
――すべての数値が上昇する。おまけに俺が鎖に斬りつければ、その動きは奴にも制御できぬほどに無軌道となる。
止めなければ被害は出る。しかし、新一に何かしらの攻撃を加えることは能力者本人にも予期できない結果を生み出すことにつながる。
新一本体を一撃で倒した場合でも、意識を失い鉄球が消失するまでに何人が傷つけられることだろうか。
発動させた時点で圧倒的優位になる能力。
その超絶鉄球は、ガラスを打ち破って操に突き進む樹木の葉を次々と打ち落としていく。数万枚という一枚一枚の集まりではなく、数個の塊にして葉を操っていたらしく、核となる葉軍を粉砕すればエマ=クエーガーの影響力から解き放たれるようである。
弧の動きでしかないのだが、一周する時間は二秒ほどで凄まじい回転速度である。
一番近くにいる六連ですら接近しては離れていく鎖から身を低くしていることしかできない。
大量の葉が侵入してくる騒音、それらが砕かれる暴力音が重なり何も聞こえなくなった。
それもそう長い時間は続かなかった。
「はははぁ!どうだ?俺のスペシャル必殺技は!これを防いだ奴は今のところ一人もいない!試してみるか?俺に手を出せば軌道が変わり、一般職員を襲っちまうかもしれないがな!聡教団の幹部のみが扱える特殊能力だ!俺たちはこういった能力をドリコンスキルと名づけた。」
エマ=クエーガーが呼び寄せた葉群の掃討が終わり、六連に狙いを変えた。鎖は自在に長さを調整できるようで、鉄球は二人の間を緩やかに回るほどになった。まったく非常識な能力だ。
魔力を使い果たしたエマ=クエーガーが膝から崩れた。若菜が肩を貸さなかったら頭から倒れていただろう。背後には暴れる職員を押さえつけることは出来ているのだが、そちらに人手を割かれているのも痛かった。
エマ=クエーガーはもはや操を拘束していた大地の槍を維持することもできなかった。
精霊術から解放された操が、やはり動けぬすみれを蹴りつけた。女性の顔を蹴るなんて野蛮人の行為だと憤る。力なく深緑のベッドに崩れたすみれに抗う様子はなかった。
自分に何ができるのかと若菜は考える。
あの筋肉男、加藤新一に対抗できる手段などはない。もはや当初の目的から逸脱し藤崎すみれを足蹴に嘲弄する曇霧操に対しても同じだ。
単純な暴力への対抗策など何も出来ない。
唇をギュッと噛んで床を見た。
落ち葉に紛れ藤崎すみれのスマートフォンが落ちている。その画面が点滅し着信を通知していたから気がついたのだ。
相手はどこかで聞いた名前だった。それもつい最近。
「……少しくらい手伝えることが出来たわね。期待はしない。でも、もしかしたら希望はまだあるのかもしれない」
そっと静かにエマ=クエーガーを散らかった葉っぱに横たえた。お尻に触れてくることを忘れない辺り、気絶しているのは演技なのかもと疑ってしまう。
不用意に近づく真似はしない。言葉が届くには十分な場所にいる女性に話しかけた。
「……曇霧操さんだったかしら?教えてもらえないかしら?私の先祖があなたのご先祖になにをしたのかを」
何度もすみれを蹴りつけていた操の足が止まった。
「はぁ?教えるわけがないだろ!そういうのは今際の際にじっくり聞かせてやるんだよ。それとも今すぐ死んでくれるのかい?」
「私を殺害することが聡教の目的なのかしら?聞いていた話とすいぶん違うけど」
「他の奴らが何を考えているかなんて知らないね!私は室井の子孫に復讐するために入団したんだよ!クソムカつくえせ英雄の血を根絶やしにしてやる!」
眼は血走りもはや正気を保っているとは思えなかったが、それでも若菜は言葉を交わそうとする。もう少しだけ。
「さて、向こうは決着がつきそうだな。操が聖女を殺しちまわないうちにこっちも済ませるか。生きていてもらわなくちゃ困るんでね」
「教団も様々ということか。若菜どのを掠って何を企んでいるのだ?」
「別にこれと言って企みはないんだよ、俺は。いくつか質問があるくらいで。現状を打開するヒントがもらえるかもしれん」
頭部をゆっくり回転させて機会を窺う新一は、意味の通らないことを不敵な笑みを浮かべて言った。それは勝利したものの表情だった。
「若菜どのが何を考えて曇霧の前に立ったかは知らん。だが、俺にも思うところはあるのだ。それはなんだと思う?」
「増援を待っているわけはない。死人が増えるだけだ。今の戦力で唯一期待できるお前なら操を止められるだろうが、行かせはしない。他は当てにできないぞ。わかっているのだろう」
果たして、本当にそうかな?長剣の切っ先を新一に向けた六連は、彼にとって凶悪な人物が近づいてくるのを視界の隅に捕らえていた。もう少しだ。
構えていた剣を床に向ける。何かしら反応してくれれば幸運である。
「何のつもりだ?」
「お前の相手は終わりだ。俺は雲霧操を討ち取る」
「背後を俺に襲われたいのか?女の背中ならいくらでもそうするのだが」
「余罪を追及する際には、その辺もじっくり執り行うとしよう」
「だから、何のことを言ってやがる!てめぇらに捕まる俺らじゃねぇよ!」
新一が短気を起こした。その次には彼の巨体が脈絡無く吹き飛んでいた。
都庁の受付カウンターまで勢いよく飛び、事務用品を破壊しながら何事もなかった様に加藤新一は立ち上がった。そして自分を蹴り飛ばした女性の姿を確認する。
「その顔は手配書で見たことがあるぜ。山田先輩を倒した、確か轟加奈子だったな?」
数ヶ月前に聡教幹部、山田を殺害した陸軍に所属する軍人である。
「遅参の言い訳は後ほど。あの男を捕縛します」
「いつもすまないな、大尉。頼む」
六連はその場を去り、少し離れた場所にいる操に足を向ける。
「おい!勝負の途中だぞ!」
「将軍は忙しいのだ。代わりは私が務めてやるから感謝しろよ」
大柄な女性である。成人男性と比較しても頭一つ分以上は抜きん出ている。女性と同じ視線の高さで接したことのない加藤新一は、足元に落ちている鉄球を見た。
自分への攻撃は鉄球があらぬ方向に向かい暴走するはずである。そういう能力なのだ。
しかし、轟加奈子の一撃では思う結果を得られなかった。
理由は単純だ。
蹴り飛ばすと同時に発動し旋回運動を急変した鉄球を、即座に剣で叩き落したのだ。
おいたをする猫を叩くくらいの感じであろうか。噂に聞くこいつの剣技ならばそうなのだろう。武闘派の中心であった山田を倒すほどの技量を有しているのだ。
「……まぁ、お前でも楽しめそうだ。山田先輩には世話になったからな。敵討とは言わないが、お前をやれば組織内での俺の地位も向上する」
「そういうものか?出世欲とはつまらん男だ」
目の前の小石を排除する冷徹な目は、新一を本気にさせるに充分であった。
久方ぶりに味わう戦慄に彼は高揚した。再び回転を始めた鉄塊は範囲こそ広がっていないが、その速度は一段と増している。オーストラリアコブラの革製手袋を叩き合わせるように音を鳴らす。
「オーストラリアコブラなら難無く斬れる、と先に教えておいてやろう」
「当然だよな。だが、刀一本で俺の憲法と鉄球相手に戦えるか?」
愚問である。刀だけあれば充分なのだと加奈子の目が語っていた。
円の動きを繰り返していた頭部が、予告なく前方に突き出された。その動きを追うように黒光りする鉄球が追従する。
黒い塊が加奈子を直撃する。その寸前で左に避けた加奈子は一気に間合いを詰めた。新一の胴体狙いだ。鋭い刺突は新一が後方に飛んだことによって回避された。
うなじに嫌な感触を覚えた加奈子である。
通過した鉄球が鎖に引っ張られて戻ってきたのだ。その軌道上には当然、加奈子がいた。
伏せてやり過ごすのは賢い選択ではない。左右でもそうだろう。
下がる新一の元に戻る黒い玉。その中間に在って轟加奈子は追撃を選ぶ。
「なに!」
驚愕したのは新一である。敵が回避するだろうと決め込んだ彼は、そこを見逃さないようにわざと鉄球が戻ってくる速度を遅くしていたのだ。回避する時間を与えたということだが、裏目に出た。
背中を鉄球に追われながら突進してくるなど常識の戦法ではない。
しかし、現実として軍服に身を包み、刀を手にした加奈子は軍神さながらに猛進してくる。
「うらぁ!」
両足を踏ん張り急停止すると、右拳を顔面めがけて叩き込む。攻撃が当たる直前で加奈子の姿が消えたように見える。懐に入られた新一は膝蹴りを放つ。それすら空を撃つ。
「なんで当たらねぇ!」
振り落とされる刀身と自分との間に頭頂部から伸びた鎖を盾にした。
間近であったから最後は動きが見たのだ。横に飛び仕掛けてくると。
両腕で鎖を巻き取り、刀を受け止めた。主によって軌道を変えられたことになる鉄球は宙に放り投げられた。落ちてくるまで数秒はかかる。
「その鎖、バネの性質を持っているようだな。鎖という硬質な見た目に騙されたよ」
「人を詐欺師呼ばわりするんじゃねぇ。お前の瞬間的な超加速も卑怯技だぜ!」
「発動条件がシビアな能力だがね。攻撃体勢にいる私への攻撃を高速回避できるのさ。『明鏡止水』という」
武人が求める心理的極地の一つであろうか。それでは轟加奈子と戦闘中に手傷を追わせるのは不可能ではないのだろうか。当然の疑問である。
「攻撃体勢以外は発動しない。防御に徹しているときとか。攻撃は最大の防御。そいつを最大限に活かせる力だろう?」
「そんなの反則だぜ。種明かしをしてきたってことは、つまり、このままガンガン攻め続けるつもりなんだろう?」
「もちろんだ!」
超速度で回避するということは、こちらの攻撃を命中させることはまず難しい。加奈子が攻撃以外の体勢、攻撃から攻撃に移行する狭間にしか勝機はないと思われた。
跳ね上げられた鉄の塊が凄まじい音を立てて落下したのを機に両者は動いた。
バネの特質を持つ鎖を右腕に巻きつけて鉄球をその手で振り回す。
そういう使い方もあるのかと、下を巻いた。頭で操っていたときより操作精度が高くなるのは明白だった。ならば最初からそうすればよかったのだ。頭部から生えた鎖に繋がれた状態での出現など無駄な発動である。
振り回していた鉄球が、加奈子がいた空間を粉砕する。
いまのは明鏡止水による回避ではない。速度が違っていた。直前での加速がなかったのだ。能力が発揮される時としないときの区別が、新一にはいまいちわからなかったが、どうでもいいことだった。それ以上の速度で拳を叩き込んでやればいいだけのことだ。
バネならば自己の最大速度を超えることができるはずなのだ。
加奈子に気が付かれないように鎖を肢位に絡めていく。彼の能力によって具現化した鎖なのだから長さは自在である。こいつを見て驚く加奈子の顔が楽しみだった。
競輪選手並に太い太ももにも蜷局のように巻かれていく。つま先まで達したとき、新一の身体が少し浮いた。大地と彼を結ぶのは両足ではなく、能力によって具現化された鎖である。
「ほう。筋肉バカかと思っていたのだが、なかなか頭の方も悪くない。鎖の張力を使い身体速度を一時的に高めるつもりか。私の明鏡止水を追えるかな?」
実行前から目論見を見事に看破された新一は赤面し次に吠えた。
「こそこそ仕組んだ俺のサプライズを台無しにしやがって!ちんたらやるのは止めだ!全力で仕留める!」
「気の短い男は嫌われるのだぞ。救いようがないな」
新一自身は気がついていない様子だが、加奈子でも斬れなかった鎖で身体を包むということは、それ自体が鎧となるのだ。
攻め手の幾つかを封じられたことになる。特にオーストラリアコブラ革製手袋に入念に巻きつけている辺りが厄介そうだ。まさに攻防一体の手甲となってしまった。
鎖の見た目のまま強力なバネで強化した脚力で床を蹴りつけ跳躍した。
「ほう?」
加奈子が声を漏らした。それほどの速度と高さを手に入れていたのだ。
確かにその速度には生身の身体では対応できないかもしれない。しかし、明鏡止水を使う加奈子の高速回避ならば別である。
落下しながら左腕のみで連続して繰り出される拳の嵐、その全てを紙一重で避けている。
刹那の超加速。それを維持持続させるために加奈子も攻め続けなければならなかった。
柄の上部を握り、間合いを狭くすることで新一の連続攻撃に対応する。
打ち込まれる拳は大振りにならないように小刻みだった。
それでも破壊力は十分にあるのだから、食らうわけにはいかない加奈子は高速回避を繰り返しつつ、新一への斬撃を入れる。勝機を狙っているとすれば、右腕で振り回している鉄球だろう。今のところ仕掛けてくる気配はない。
その刃を上腕部と肘、ときには身体でぶつかり防いだ。拳の数を減らすことは、致命的となる一撃を入れられる暇を与えることになるのだと本能が告げていた。
結果、恐ろしい手数の応酬となった。
都庁職員が呆気にとられるその凄まじい応戦である。
加奈子が上段から仕掛けた刀を、新一が手にしていた鉄球を振り上げて迎撃した。
ここに来て手札を一枚増やされた加奈子は、達人ゆえにその行為の次を読もうとしてしまった。
「ただの思いつきか!」
次手に繋げることのない突発的行動。しかし、加奈子に対しては有効であった。
鉄球に弾かれた刀を戻して構えるまでに刹那の遅滞があった。
新一の蹴りが腹部を襲った。
一本の大きな柱に向かって宙を飛ぶ加奈子に、最後の一発を見舞うべく新一が駆ける。回転を再開した黒い球が不気味に唸る。
落ち葉のために走りにくくなっている床を必死に蹴り続けた。
吹き飛ばされた加奈子が先に柱に到着するのは当然であり、彼女はただまともに蹴られたわけではない。
自身の足で新一のそれに合わせて威力を相殺していたのだ。およそ十メートルを空中遊泳することになったのはお互いの脚力のせいでもある。
代償はあった。
盾として使った右足が痺れてしまい、しばらく使えそうもないのだ。
しくじったと思ったが、まだ勝負を諦めたわけではない。
猫のように身体を丸めて回転させる。柱を大地とし方向転換と同時に新一を斬るつもりだった。
彼我の距離はまさに一瞬で詰められる程度だろう。左足一本で自分の体重を支えられるのか。バネの力で強化した新一に拮抗できる速度を得られるのか。
「やってみればわかるさ」
呟きと同時に柱を蹴った。ローヒールの踵が少し食い込むほどの力を込めた。
その動きを予測していても新一の頭は瞬間、麻痺する。
叩き落とされることを考慮せず身体を弾丸にでも変えたかのように、切っ先を先頭に突っ込んできたのだ。
迎撃は間に合わない。
――いや!全ての俺の行動に対応してくるだろう!
新一の少し手前に左足で着地した加奈子は、逃げることを諦めた新一の目に写る自分の姿を見た。突き出される刺突。音さえも置き去りにする鋭い突きは、新一の厚い胸板を狙い貫通するはずだった。
今まで聞いたことのない鈍い金属音のようなものがした。
真剣白刃取り。そんな妙技を誰もが思い浮かべた。
ただし掌ではなく鎖を巻きつけた拳同士を叩き合っている点が違った。鉄球を手放し防御のみに専念した結果である。
「ちっ、その剛力が初めて役に立ったな。いまのを防ぐのか。化物め!」
自分の全体重を込めた突撃の勢いを受け止めた腕力に毒づく。
「冗談じゃねぇよ。俺のセクシー胸筋に数センチ刺さってんじゃねぇか。剣の軌道が正確過ぎて心臓を狙っているのは判ったからな。お前みたいな非常識な戦い方をする奴に化物呼ばわりされたくはないぜ」
新一の胸板を確かに切っ先が傷をつけ血を流させた。それが信じられないと言いたげに驚きを隠さない。
そのまま力比べの押し合いになるかと思われたが、そうはならなかった。
新一の背後で小規模な爆発が立て続けに起こったからだ。
舞い散るのは新宿西口公園から召喚された木々の落ち葉ばかりであったが、見た目以上に爆発音が凄まじく幾重にも反響した。
法則性はないようで一定範囲内の空間が不規則に爆ぜている。
「将軍!」
新一だけに構っていられない加奈子は、雲霧操と交戦中だった常盤六連の姿を探した。
「これは操の音魔術だな。何かが爆発しているように見えるが、すげぇ音を発しているだけだ。近くにいても肌がちょっとざわつくくらいだろうよ。落ち葉のおかげで、さらに派手に見える。そろそろ潮時だな」
「逃すと思うなよ」
「ところがどっこい!」
古典的な台詞を吐いたのは雲霧操であった。
「常盤六連か。太刀筋は悪くなかったよ。剣術の試合なら優勝候補に挙げられるんだろうね。実戦経験が足りないのさ」
二人の真横に雲霧操がいた。一時期の狂気は成りを潜め、冷静さを取り戻していた。その指先が加奈子の脇腹を指す。
明鏡止水による高速回避が発動した。しかし、それでも放たれた衝撃波の破壊範囲から完全に脱することはできなかった。
「なるほどね。肉弾戦なら無敗に近い能力も、魔術戦になると効果を発揮しきれないということか。絨毯爆撃からは逃げられないと。対戦相手を間違えたかな」
「ふざけんな。あんなのと正面からやりあったら、私なんか十秒もしないで殺されるよ。あのエルフがなけなしの精霊力で聖女を取り込んで風の結界を張った。あれは私じゃ破れない。目標の奪取は不可能になったよ。撤退ね」
「六連はどうした?」
「藤崎すみれを人質にして時間を稼いでいるうちに、エルフが意識を回復したのよ。最初の能力減退魔術も効果切れの時間でしょう。あいつの魔剣は魔術師殺しだからね。相性は悪い。いいから引き上げるよ!六連がこっちに来る!」
轟加奈子と常磐六連の二人を相手にはしたくない加藤新一は、操を抱き上げた。お姫様抱っこというやつである。
「これで俺たちの賞金も上がるな!」
楽しそうに笑う。
「そうだね!幾らに膨れるのか楽しみだね!」
新一がバネで得た脚力を駆使し跳躍した。戦いの最中に身につけた能力は次回戦うときまでにさらに錬成してくるのだろう。できれば、今ここで仕留めたかったが、満足に動かない右足と負傷した腹部を押さえ加奈子は見送ることにした。
脱出は窓ガラスを失った窓枠から好きに逃げ出すことが出来た。
その後を追う六連が外で言葉汚く大声を張り上げる醜態を晒すことがないように、ご注進申し上げるのが配下の務めであろう。彼に限ってその心配は不要であろうが。
「轟大尉。お疲れ様です」
ゆっくりとした動作で立ち上がった加奈子に話しかけてきたのは、操に右腕を切断され何度も蹴られていた藤崎すみれである。
「君こそ大丈夫なのかい?」
「六連に救われました。あなたにも。腕はくっつけましたが、血液が足りませんね」
源巴教団は回復魔術のスペシャリスト集団である。傷跡も残っていない右腕は袖を無くし白い肌が剥き出しになっている。力なくだらりと下がっているが、確かに問題ないようだ。顔はさすがに汚れていたがやはり軽傷であるようだ。
「蹴られながら癒やしの魔術をかけていたのです。操は気がついていませんでしたので、油断したところに最後の一撃を見舞ってやろうと考えていたのですよ」
強い女性である。少しは弱いところを見せれば良いものを、と思い頭を振った。弱さを武器に使う世界には生きていない。弱ければ死ぬ。それに力なくとも生き抜く強かさは大事だが、それでは失うものもあるだろう。誇りである。
「将軍の方を頼めるかい?私は聖女どのと初対面してこよう」
「承知致しました」
新雪を歩く音に少しだけ似た足音をさせて加奈子は噂の聖女、室井若菜の元に向かう。
その彼女は再び倒れ込んだエルフに膝枕をしてやっている。どこか幸せそうな顔をして寝入るエマ=クエーガーの顔を覗き込む。
「疲労しているようですね」
「先日から火の精霊やら大地の精霊と交信をはかっていたのは、こういう時の為なのだとやっと理解出来ました。この子は風の精霊との親和性が最も高いらしいです。不向きな精霊を能力だけで制御して無理があったのでしょうね。室井若菜といいます」
「小官は陸軍所属、轟大尉であります。聖女どの護衛の任務を任されておきながら、遅参の失態、お詫び申し上げます」
軍属ではない若菜への敬礼はない。代わりに頭を下げた。詫びるときは誠実に謝る。そういう素直さは素晴らしいと感じ入った。
「中野区の犬屋敷の現状を調査してから、こちらと合流されるスケジュールだったのでしょう?都領主の加藤氏との面談が少し早く終わってしまったのです。大尉が遅刻したわけではありませんよ。えーと、轟さん?」
「ええ、軍人ではないあなたが私を階級で呼ぶ必要はありません。しかし、これは大変な惨事ですね。後片付けに骨が折れます」
都庁一階は踵ほどの厚みがある落ち葉で埋め尽くされていた。おまけに特注で作った大型の強化ガラスまで全滅だ。都庁の死人が出なかったことが不幸中の幸いといえる。
「将軍と聖女にお怪我がなくて本当にようございました。わたくしが管理致します建物内で、もしそのような事態になっていたらと思いますと、考えるだけで恐ろしいことでございます」
この瞬間までどこに行っていたのか都領主加藤氏が姿を見せた。
――どうやら加藤氏は魔術師で姿隠しの術に長けているようですわね。
そんな台詞を喉元で留めて若菜は、同意を示すだけにした。
「あの加藤新一に見覚えはありませんか?いえ、よくある名前なのですが、まさか、ご親戚などということはありませんな?」
追求と言うより単に虐めに近いが、それでも嵐が去った後に顔を出した無責任な領主を、加奈子は侮蔑した顔で見た。
お前が手引きしたのではないか、と言い掛かりをつけたのだ。
「まさか!滅相もない!疑うのなら、わたしの戸籍謄本をじっくり調べてもらいたい!新一なる者は常磐幕府の治世が始まってから一人も居ないことが証明されるだろう!新二は実弟なのだが、新一はいない!」
必死に抗弁する。
――どちらも本当によくある名前ということね。でも、これは困ったわ。あまりのんびりしていないで早めに元の世界に帰った方が良さそうね。私が争いの火種になってしまっているわ。
若菜は長く溜息を吐いた。建物の外では六連が駆けつけた軍人やら警察官に指示を出している。彼は個の武勇にも優れているのだが、どうやら指揮の方に才能を発揮できるようだ。将軍家に生まれたからにはその方がいいのだろう。
その隣には当然のように藤崎すみれが寄り添う。
会ったことはないが六連には兄が二人と妹がいるらしい。しかし、曰く付きの問題人物であるようだ。すみれの補佐がとても大事なのだという。
また騒ぎの中心になってしまったことに嫌気がさす。傷つけてしまった人たちもいた。
「これは能動的に動かなければならないようね」
もしくは迅速に。今夜は満月だ。またこの世界特有の事件を見学できるらしい。一つ一つをその目で見て、知り、帰還方法を模索し熟考する。
またお尻に伸びた魔手を払いながら、ぼんやりと決意を固めた。