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リーゼントと聖剣の聖女



  1



 狭く暗い部屋で鳴り響く足音が近づいてくるのを聴いていた。

 光源と呼べるものは室内にはない。鉄格子のついた横長の覗き穴から差し込む微かな明かりが全だった。

 真っ暗闇でほとんど何も見えない。楽しくおしゃべりをするような同居人がいるわけでもない。鼓膜が痛むほどの静寂に包まれている。

 つまり、自然と聴覚が鋭敏になっていた。

 あの足音はこの部屋の前で止まるのだろうか。止まって欲しいものだと、漠然と願った。

 堅くて冷たいベッドで仰向けになり、長い足を組んでいる。両手は枕の代わりに頭の後ろにあった。長身の男が寝起きするには狭すぎるベッドであり、部屋だった。

 最初は何の臭いかわからなかった異臭にもすっかり馴染んでしまっていた。着ているスーツに臭いが染み付かないか心配だったが、もはやそれはどうでもよくなっていた。

 小さなベッドから手が届くところに洋式トイレがあり、それがこの小部屋にある備品の全部である。鋭い眼光を暗闇で無意味に光らせる時間だけが過ぎていた。

 窮屈な姿勢のまま六時間はこうしているはずだった。体内時計にはかなりの自信がある。

 自宅で起きた時は朝食を食べるのが七時三〇分と決まっていた。

その時刻をとっくに通り過ぎ、今はきっと十時過ぎだろう。時計もなく携帯電話も取り上げられた現状では自分の鍛え抜かれた感覚だけが頼りだった。

 奴らに捕まったのが夜中の二時くらいだったと記憶している。それから尋問を受け四時にはここに放り込まれたということだ。

「ちっ、この俺をこんな臭くて狭いところに監禁しやがって」

 ドアの方に向けて組んだ足をぷらぷらと動かし、不機嫌を強調してみた。例の足音がいよいよ間近になっていたからだ。

 彼の希望通りドアの前で誰かが立ち止まった。

 覗き穴から顔を見せたのは面識の無い二十代の男で、眼鏡をかけ真面目そうな印象だった。逆光の影響もあり細部までは見えなかった。

「三浦潮だな。出ろ。釈放だ」

 その言葉を聞いて数時間も動かしていなかった身体を勢い良く立ち上がらせた。上になっていた左膝に軽い痺れが残るが無様に転がったりはしなかった。

「当然!俺は無実の疑いでここに放り込まれたんだからな!」

 重い鉄の扉が開ききるのを待てずに、身体を丸めて開かれた隙間から廊下に出た。蛍光灯の明かりが眼球に突き刺さり瞼を細める。身長一九三センチの大男、三浦潮は腰に手をやり背筋を伸ばす仕草をした。そんなことには構わず若い警官が告げる。

「ついて来い」

 事務的に、あるいは面倒臭そうに留置所の施錠をして無愛想に潮を促した。

 計らずも今夜の宿となった留置所に挨拶をする。

 人差し指と中指を合わせて立てて自分の額を軽く叩き、その指先を部屋に向けて「じゃあな!」とウィンクまで付けてご機嫌な様子だ。

 取調べ室や簡易的な留置所がある五階フロアから、エレベーターで一気に一階へと降りた。

 警察署というのは小奇麗でもなければ清潔なわけでもない。どちらかというと散らかった乱雑なオフィスである。

 通常業務が始まっている時刻なのだから、至る所に人が溢れていた。威勢のいい職場の喧騒は江戸っ子の潮にとっては好ましいものであったが、ここに連れて来られた理由が理由である。

 誤認逮捕を誤りもしない若造が案内したのは、パーテーションで遮られただけのおざなりな応接スペースだ。潮にとっては楽に覗き込める高さしかない壁の中には見知った顔があった。

「お?これは俺のクライアントじゃねぇか。こんな臭いところにご足労頂いてすみませんねぇ」

 軽薄な台詞の中に警察への悪態を忘れない。性質の悪いクレーマーの素質を持った若者である。

「三浦さん、事件を解決してくださってありがとうございます」

 ソファーから立ち上がり、長身の三浦潮を見上げて頭を垂れてきたのは二十代前半と観られる女性だ。職業は水商売を連想してしまう派手な格好であり、それは事実であった。赤い口紅が鮮やかに映えている。

 妻子持ちの常連客がしつこくつきまとい、しまいには自宅まで調べ上げられて、待ち伏せや無言電話といった行為を三か月に及び繰り返すという典型的なストーカー事件の被害者である。

 この手の被害届では腰の重い警察には任せておけないと、三浦潮に依頼が舞い込んだというわけだ。

 男女のもつれは犬も食わぬというが、今回の件は男女関係など最初から皆無であったらしい。潮の仕事は加害者男性と話し合いストーカー行為を止めさせることであった。

「仕事をするなとは言わないし、こうして一人の女性を助けることもできた。しかし、お前は加減を知らんのか。肋骨三本骨折、左大腿骨が亀裂骨折、歯も二、三本抜けている。加害者を被害者にしてどうするんだ!」

 女性と向かい合うように座っていたベテランの刑事らしき男が潮の行き過ぎた暴力を咎めた。

こいつは昨日見た顔だった。暴行事件と間違われて通報され、潮に手錠をかけた刑事だ。

「俺への依頼が成立していて、尚且つ、奴の犯罪行為が立証されれば多少やり過ぎても問題ないはずだぜぇ。確か生きていればいいんだろ」

「口が聞けなければ意味がない。いや、やりすぎだと言っているんだ!加害者の自宅から被害女性の写真など多数が押収された。黒は確定だ」

「お仕事ご苦労さまです!」

 警察の真似事をして敬礼する潮を白い目で見てベテラン刑事は、二人を座らせ幾つかの書類を机に並べた。

 その仕草はこれにサインしてさっさと帰れ、ということである。



「本当にありがとう」

「いえいえ、また何かありましたら、是非、三浦探偵社にご連絡ください」

 言ってからちゃっかり名刺を差し出した。笑顔で受け取った女性は会釈をして去っていく。

 渋谷警察署は明治通り沿いにあり、空車タクシーはすぐに捕まった。そそくさと乗り込む時にはもう潮を振り返りもしない。

 恵比寿方面へと走り去るその姿を見送ってから、大きな欠伸をした。寝不足は否めない。返品された押収品の数々、と言っても財布と携帯電話、拳銃だけなのだが、それらを確認する。財布から金やカードが無くなっていないかどうかである。

 ――警官を見たら泥棒と思えだったか。

 幸い自分の記憶と一致していた。それから二つ折りの携帯電話をパカッと開いて時間とメールなどをチェックする。十一時になろうとしていた。拳銃はワイシャツの上、スーツの内側にあるホルダーにしまった。

 今日の予定はキャンセルして、新宿区歌舞伎町にある自分の事務所に帰って仮眠をとろうかと考えた。とても良い案だった。

 節約のためタクシーを使わず山手線で新宿駅まで向かうことにした。

 警察署のすぐ左手にある青山通りと明治通りの上を交差する立体歩道橋を昇って行く。

 階段は長いが苦になるほどではなく、春の終わりに吹く風が気持ちのよいものであった。

 自慢のリーゼントが崩れてしまわないか心配になった。

 前方に突き出た毛髪を両手で優しく包み込み形を整えてやる。一晩手入れをしていなかったが、それくらいで乱れるような柔な固め方はしていない。

 いつの頃からの癖かは忘れてしまったが、こういう動作をすることで気持ちを入れ替えることができるのだ。午前中の空気は澄んでいて、大きく深呼吸をした。依頼を一つ片付けたことで満足感もあった。

 眼下の大通りなどは気にせず、歩道橋を渋谷駅方面に向かう。

 平日とはいえ人の往来が絶えることがない。

 ほとんどは会社勤めの社会人か、学生ばかりである。制服を着ているのが中高生、私服は専門学生か大学生であろうか。

 彼の見た目は二十歳を少し過ぎたところである。もっともリーゼントを始めた中学生の頃から外見に変化は少なく、高身長のおかげもあって当時から成人男性としての扱いを受けていた。

 今のように黒がベースで灰色の格子柄スーツでは更に年長に見えてしまう。そういう効果も狙っていた。

 一見派手な装いであるが、そんな彼を見咎める者はいない。都会とはそういう場所である。

 私立探偵社の社長としては若すぎる彼は、恰好で泊をつける必要があった。

 その彼から見ても不自然に目立つ格好の二人組が近づいてくるのが気になった。

 小柄な肩周りから二人共女性のようだが、今どきマントを羽織る者は少ない。

 片方はフードをすっぽり被って顔も見えない。

もう一方は肩当てから流れるマントを優雅に着こなす金髪色白のエルフであった。低い身長、長く尖った耳、やや切れ長の瞳は青く周囲を興味深げに見渡している。

 眼の色が判別できるほどの距離になっていた。歩道橋の一本道であるから他に避ける道はない。

 多種族とはいえすれ違いざまに斬りつけられることはないだろうが、エルフやらドワーフ、ホビットなどとは風習も違えば物事の考え方が根本的に異なる。

 東京のような大都市なら当たり前のように見掛ける亜人類だが、交流を持てる人間は限られているという。

 潮は左に避けて道を開けてやった。彼女たちが反対側に少しズレてくれればこの先も関わることはない。そのはずだった。

 フードを被っている方の女が潮をみていた。黒い瞳は東洋人の証拠であり、僅かに見える髪の毛も黒かった。

 神秘的な輝きで憂いを帯びた深い瞳は、探偵の直感を刺激した。常人では持ち得ぬ哀愁から事件性を関知したのだ。何かとんでもない大事件に関わっていると。

「もしもしお二人さん。観光かい?良ければ俺が案内してやるぜぇ。どこにいきたいんだい?その前にお茶でもどうだい?」

 完全にナンパである。しかし、一度は通過した小柄な背中がピタリと立ち止まった。エルフの方である。

「目的地ははっきりしているし、別に案内なんかいらないわよ」

 金髪を優雅に回転させわざわざ振り返り、噂に聞く通り鼻につく高飛車な口調で応えてきた。それ以上に厳しい眼差しは潮を射抜くように鋭かった。迷子になっていると勘違いされたのが癪に障ったのだろう。

「ほうほう。そうかい。ならどこに行くのか教えてもらおうじゃねぇか。お前さんたちが歩いていた方向が正解なら俺の出番はなさそうだ。本当にあればな。他所から来た連中がわざわざ渋谷に来るお目当ては想像しやすいぜ」

 嘘や虚勢ではない。待ち合わせならば駅前のハチ公口、買い物ならばセンター街に行くのが道理である。渋谷警察署からさらに向こう側は観光向けではない。青山や恵比寿に行くにしても方角が少し違う。

「そうやって聞き出すのが企みね!ホント、人間の男って小狡いのよね!近づかないでちょうだい!臭いがうつったらどうするのよ。バイキンめ!」

「俺の善意をバイキンだと!ちょいとばかり美人だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ!その耳引っ張ってもっと伸ばしてやろうか!」

「エルフが人間に捕まったりするもんですか」

 呆れ顔である。心からそう思っているのだろう。

「試してみるか?その耳がどこまで伸ばせるのか。ギネス記録の最長は二五センチだったよな。俺のおかげでお前はその記録をはるかに超える事ができるんだぜ」

 両手を開いて飛びかかる体勢に入った潮に対して、エルフはマントの下に履いていた細身の剣をいつでも抜けるように身構えた。

 ガラの悪そうな大男が、少女とも見える華奢な女と対峙している姿は滑稽ですらあった。

 行き交う人々は素通りし、あるいは立ち止り見物するが、誰も積極的に関わろうとはしなかった。

 怪我などはしたくないし、亜人類ならばこの国の法律だけでは裁くことができない。

 人間側に非がない場合でも亜人類たちは独自のルールを持ち主張してくる。時には正反対ということもあり両者は古来より触れ合うことがあっても合致することが少なく、裁判にでもなれば悪戯に長引くだけである。

 人間より長寿とされる亜人類との長期裁判は人の一生を費やしても決着がつかない事も多々あるのだ。

 大通りが交差する空中に設置された歩道橋には穏やかな風が吹き、つまらない小事で喧嘩を始めようとする愚者たちを馬鹿にしているようでもあった。

「その辺にしておきなさい。エマ=クエーガー。こんな昼日中、多くの目がある所で刃傷沙汰なんて私はゴメンわ。それに相手は素手よ」

 美声が降りてきた。春の風のように心地よく、夏の陽射しに負けない強烈な印象を人に与える美しい声。秋の空のように憂いを帯び、五感に染み込む真冬の冷気に晒され手足が麻痺した。

 これが色気のないダサいフードを纏った女性からもたらされたとは、すぐには受け入れられなかった。

「こいつらの常識では敵が銃を持っていようが関係ないはずだぜ。歯向かう奴は捻じ伏せる。今回ばかりはそうはいかないけどな!」

 それだけを言えた自分に感心していた。心臓はまだ早鐘のように鳴り響いているのだ。女王陛下のお言葉を賜った家臣のようだと我ながら陳腐なことを考えた。

 人間の制止を受け入れるエルフなど聞いたこともない。ここは邪魔なエルフを上手くあしらって、俺って役に立つだろう?困っているなら助けてやらないこともないぜ!親指を立てたポーズで宣言するつもりだった。

 ヒロインの危機に、わざわざ崖の上から颯爽と救助に現れるヒーローに近い心境である。

 外側が薄い青で裏地が深い赤の高級そうなマントを纏うエルフが持つ細剣は、装飾が施され美術品としての価値も高そうだった。それ以上にいま潮が着目しなければならないのは、この女エルフが当初の予測をはるかに超える使い手であるということだった。

 ――エルフ。ただのエルフじゃねぇな。ウッド?シー?まさか螺旋樹の里に住むハイ=エルフか。怪我をさせたらその後の交渉が難しくなるんだが、無傷ってわけにはいかなさそうだぜ。

 自分の勝利は揺るがないが勝ち方が問題となり、少しばかり焦燥する。

 まずは剣を奪い細い首を後ろから締め上げるか。相手の自由を奪うのと同時に精霊術を封じる効果もある。

 決着の方向性を決めたとき、エルフ女、エマ=クエーガーは剣の柄から手を放した。

「若菜がそう言うならやめにしておくわ」

 長い耳、青い瞳がフードを被ったままの女を見据えた。

「だって、私はあなたの奴隷なんだから」

「奴隷って……」

 呻き狼狽する若い潮である。

「そういう誤解されることを言わないでもらえるかしら。私には女性と肉体関係になる趣味趣向はないと何度言えば判るの?」

「きっと、いつか私の愛は伝わると頑なに信じているわ」

 信念を貫かれてもほとほと困るテーマのだが、迷惑なことにエマ=クエーガーは本気の目である。

 長息し若菜と呼ばれた女は潮に向き合いフードを降ろした。

 黒目の黒髪、典型的な日本人である。和人形のような清楚さでありながら上品な雰囲気を醸し出していた。どこぞの藩領の姫君かと思いたくなってくる。

 所謂、しょうゆ顔ではなく目鼻立ちはくっきりとしていて、凛とした目元は自然な振る舞いの中に勾配を有し拒否を許さぬ威厳で言った。

「正直、道に悩んでいたのは本当よ。目的地に案内してくれたらお茶も付き合いましょう。でも、そこでお別れよ。それでいい?」

 さばさばした女性である。素直に好感を持てた。鬼のような形相になったエマ=クエーガーは腰からぶら下げているポーチからスマートフォンを取り出し、何かを必死に検索し始める。

「螺旋樹の里から出てきたばかりで東京の最新地図がないのよ。専用のアプリをダウンロードしなくちゃいけないのに、今月は料金規制に引っ掛かって有料アプリを落とせないのよ」

 画面を二人に見せつけて不可抗力だと言い募る。

「月の頭から有料ゲームの課金に手を出しまくっていたあなたが悪いのよ。自由に使える金額に規制を設けたのはお爺さまの功績ね。まだ一七日よ。後一三日、大人しくしていなさい。良かったわね。五月は三十日までしかないわ」

「……この駄目女がって罵ってくれないの?」

「それは逆効果のような気がするから言わないでおくわ」

 にっこりほほ笑む若菜である。

「それはそれでいい!あなたやっぱり最高よ!」

 どう転んでもこのエルフは若菜の発言に、興奮するように出来ているのだと潮は理解した。すっかり蚊帳の外になってしまった不良青年は、若菜からの提案を受け入れようと決めていた。ただ、この二人の会話に割って入ることが出来ずにいるのだ。

「それ最新版のスマホだよな?螺旋樹の里で買えるのか?」

 ようやく口にできたのは全く見当違いのことであった。彼は自覚する。こいつら苦手だと。

「キャリアの人が定期的に売りに来るのよ。部外者が入れるのは出島までだけど。新しい商品を熱く紹介されるとついつい買っちゃうのよね。これなんかお財布機能があるからコンビニも電車もこれ一台で大丈夫なのよ」

「螺旋樹にコンビニなんてあるのかよ。電車はさすがにないと思うが」

「あなた螺旋樹の里のこと何も知らないのね。まあ、後で説明してあげるわ。いい?あなたが会話をしていいのは私だけよ。それも嫌々だけど。若菜と直接しゃべるのは禁止。ガラの悪いのが感染しちゃう。さあ案内してくれるのでしょう」

 エマ=クエーガーの方もそっちの方向で考えをまとめていたらしい。もしくは思考停止して若菜の言う通りに従うのか。

 喧嘩の兆しが去り足を止めていた通行人たちも居なくなった歩道橋で、三人は明治通りを見下ろす端っこに移動していた。通行の妨げになってはならない。

「どこに連れて行けばいいんだよ?」

 とてつもなく面倒な奴らに首を突っ込んでしまったと、早くも後悔しながら潮は職人魂を取り戻した。それも若菜の横顔を見るだけで霧散してしまいそうだが。二人の身長差では旋毛まではっきり眼下におさめることが出来た。

もっと顔を見ていたいのに。

「かつての大勇者、室井聡が残した聖剣が奉じられているクリスタルまでよ」

 口を開きかけた若菜を遮り、エマ=クエーガーが早口で言った。やはり、潮と若菜が会話することを良しとはしないようだ。

「それならハチ公口だから、まるっきり反対側だぜぇ。何一つ合ってない」

「……」

「……東京は初めて来る場所じゃないから、任せておきなさいって言っていなかった?」

「わ、私が前に来たときは江戸幕府の頃で街もこんな風じゃなかったし、その時はお爺様のお供がいろいろと観光してくれたから、きっと行けるかなって思ったのよ!そもそも電車なんて走っていなかったし!渋谷駅?ハチ公口?新しくできたのならこちら側にも通達して欲しいものだわ!ご近所なんだから!気の利かない」

「渋谷駅もハチ公も私が生まれる以前からあったわよ。あなた年齢はいくつなのよ?」

「エルフ的には十七才よ。人間の時間で言うと三百年くらいは生きているわ。まだまだピチピチでしょ!」

「若者はピチピチなんて言わねぇよ。ほんじゃ、行くか。俺は三浦潮。探偵だ」

 さりげなくジャケットの内ポケットから名刺を取り出して二人に手渡した。宣伝活動は大事なのだ。

「室井若菜よ。こっちはエマ=クエーガー。三浦探偵社代表。まだ若いのに社長さんなのね」

「おう!江戸時代から歌舞伎町に事務所を構える老舗の探偵社さ。今じゃ新興の同業者に押されていて従業員も俺しかいないけどな。あ、後は看板猫が一匹」

 リーゼントに手をやり恰好をつけてみる。多少、経営が苦しいくらいなんだってんだ、ちくしょうめ!と表現してみたのだ。

「潰れそうなのね。潰れればいいのに」

 歩き出した三人の真ん中には、潮と若菜を遮る形でエマ=クエーガーがいた。

ちゃっかり若菜の腕に自身の左腕を巻きつけている。潮を見上げる目付きは峻厳な山脈の如く厳しいものであった。

「そういう事は例え事実でも口にするものではないわ。私だって経営者の一族なんだから。経営状況が芳しくない時の心境はとても理解できるつもりよ」

 どうやらこの美しい麗人は毒舌家のようだ。悪気もなく酷いことを口にしてくる。まあ、倒産寸前というのは本当の事だったから言い返すつもりもない。

 他愛のない話をしながらバスロータリーを通過した付近で歩道橋を降りて、渋谷駅に隣接する大手デパートの前を通過した。

 宣言通り話し相手となっていたのは主にエマ=クエーガーで、亜人類との会話など経験のなかった潮には新鮮であった。その森の妖精と呼ばれる彼女に半分抱き着かれながら室井若菜と名乗った少女――少女と大人の女の中間くらいの年齢だろう――は迷惑がりながらも周囲を注意深く観察しているようであった。

再びフードを被ってしまったので、どんな好奇心あふれる表情をしているのかは判らなかった。

 まるで間違い探しをしている様にも見受けられた。時折、ふーん、そうなんだ。あ、あんなビルないのに、などと独り言を繰り返している。

「螺旋樹って東京湾に浮かんでいるあれだよな?お台場から見える」

 唐突に潮が口走った。

「この世界を支える象徴でもあり根源でもある螺旋樹をアレなんて呼ばないでちょうだい!」

 これには本当に腹を立てた様子で潮を睨んでくる。思い返せば、ずっとこんな目付きで見られているような気もするが、今度のは怒気が込められていた。

「悪い悪い。でも、いろいろと教えてくれるんだろう?」

 また面倒くさいことになっては疲れるだけだ。このエルフと喧嘩をするときはそれなりの理由と覚悟があるときにしようと思っていたので、先に謝っておいた。

それが幸いしたのか、エマ=クエーガーも追及はしてこなかった。

「東京湾に浮かんでいるのはこの世界に十二本ある螺旋樹の一柱よ。この世界を創造した全ての母となる存在。その麓には私たちエルフが住んでいて螺旋樹を外敵から守っているのよ。それくらいは知っているわよね」

「小学生の頃に社会科の授業で教わったぜ。社会は一番の得意科目だったからな!外敵というと夢魔族だよな?」

 得意気に胸を張った。

「夢魔族だけではないわ。螺旋樹に直接害を成す者や世界にとって邪悪な存在と私たちが断定した国、組織、団体から個人に至るまで私たちは攻撃対象を広げることもあるの。ここ数十年はそんな物騒な事件は起きていないけどね。一番有名なのは約四百年前の内乱ね。あなた方の年号でいう西暦一六三七年に魔王、天草四郎が起こした島原の乱かしら。現世と夢幻の狭間に住まう夢魔族の力を借りて勃発した徳川幕府への反乱。それを鎮圧するために私たちエルフも助力したのよ。結果的に勇者室井が率いる七剣士に手柄を持っていかれたそうだけど。その史実を元に描かれた南総里見八犬伝はエルフ世界でも大ヒットしたのよ」

 その英雄が使った聖剣が安置されている場所に向かっているということだが、潮は難しい顔をした。どうもこのエルフと話をしていると内容が脱線してしまう。

「俺が尋ねたいのは歴史じゃねぇよ。現在の螺旋樹の里にはコンビニとか電車が走っているかどうかだ」

 スーツのポケットに手を突っ込んで歩く長身の男の前は、自然と人垣が裂けていた。おまけに時代遅れのリーゼント頭である。近づかないに越したことはないと誰もが感じ取るだろう。

その数歩前を並んで歩く女性二人の内、金髪の方が顔を向けてきた。私の講義が気に入らないの?といった表情だ。それでも空いている方の手で指を三本立てた。

「螺旋樹極東エルフ支部集落には三店舗のコンビニがあるわ。しかも、全て違う系列の店舗がね」

「マジか!七時から十一時までやっているのが名前の由来に店とか、人の名前が店名になっている大手か!」

「ふふん、地方限定の白と赤のストライプの店と花の名前が付いた店よ。後は個人経営で野菜とかまで店頭に並べているわ。ちなみに三店舗とも二四時間営業よ」

「どっかの地方や島より充実してねぇか?なんでマイナーなコンビニばかりなんだよ?」

「うちのお爺ちゃんがメジャーよりマイナー好きだからよ。メジャーどころには営業許可を出さないの。ちなみに築地と出島を結ぶのは今も船だけど、出島から螺旋樹の麓にある集落までは蒸気機関車が走っているわ。海の上に敷かれたレールを走る蒸気機関車に乗りたいって鉄道マニアが殺到しているのよ」

「……部外者は出島より先には入れないんだろう?」

「ところがお爺ちゃんは変なところが寛容で、鉄道マニアに限り集落駅までの上陸を許可しているわ。駅ビルから外には出られないけどね。今年のゴールデンウィークも大混雑だったわ。その時期を避けたから、私と若菜は今朝早く築地から上陸してきたのよ」

 今までの固定観念を覆されるというのは容易に納得できることではなかった。眉間に皺を寄せてますます険しい顔になる。

 人類が不可侵とする領域。それが亜人類領地であり、その代表と言えるのが螺旋樹に住むハイ=エルフたちだったはずだ。ところが最近のエルフは人間の祝日などの風習に適応し、近代機器を使いこなしているという。

 彼女たちエルフが火を起こすのに、精霊術を使わなければならないと思い込んでいる現代人は多いのだ。この調子では百円ライターどころか家電が全て電化されていても不思議ではない。

「あなたの衝撃はとても理解できるわ。私もこの子たちが普通に携帯電話を使っている姿を見たときに、ファンタジーが崩壊していったもの。電話やメールを利用するだけではなくて、アプリやシステムを構築できるエルフもいるらしいの。びっくりでしょう?」

 会話に参加してきた若菜がうんうんと肯いている。

 道玄坂へと続く道路にぶつかり左に折れた。

 山手線の高架下を通っている最中には何とも形容し難い悪臭が立ち込めていて、人間より遥かに優れた感覚を有するエルフは露骨に眉をしかめた。すっかり慣れたつもりの潮ですら、呼吸を止めるほどなのだ。

 高架を無事に通過したとき、若菜がふぅっと息を吐いた。どうやら彼女も息をしなかったようだ。

 一体全体どこから漂ってくる臭いなのか。

 通行人を不愉快にさせる一帯を過ぎ、ハチ公広場へと入っていった。

「ここだ」

「これはハチ公でしょう?さっき来たわよ。聖剣が封印されたクリスタルなんて無いじゃない?」

 剣呑な口調でエマ=クエーガーが潮を見上げてくる。痛い視線に突き刺された潮は忠犬ハチ公の方を見ていた。同じ方角に顔を向けた若菜が、あっと声を出した。

 まるでハチ公が守護するようにその背後には人だかりが出来ていて、人の切れ間から眩い輝きが一瞬だけ見えたのだ。

「有名な観光スポットだが、そこにあるって知らなくちゃ、あの集団の中に突っ込もうなんて思わねぇよな。全員が聡教じゃねえから安心しな」

「……あら嫌だ」

「嫌だじゃないわよ。あなた何も知らなかったのね!」

「弁解するつもりはないが、常識の範疇だぜ。女王も相当間抜けだぞ」

「私を女王なんて呼ばないで!昔を思い出すわ。それに私は半年くらい前にこっちにやってきたばかりで、その……あまり詳しくないのよ」

 若菜が初めて言い淀んだことには気がつかずに別の質問で返した。

「帰国子女ってことか?女王というネーミングはあんたにぴったりだと思うんだがな。どこから来たんだ?」

「んー、ご近所の異世界かしら?ねえ、聖剣をこの目で見てみたいわ」

 人差し指で三十人ほどが群がっている方向を指した。道を切り拓けということだ。

「本当のことはこの後のお茶の時にでも話してもらうとして、俺の背中から離れるなよ」

 大股で人々が群がる一角に近づいて、歩速を緩めることなくクリスタルがあるという方に進んでいく。

 二人の女性は潮の背後に隠れていたのでよく判らなかったのだが、目の前にいる人々を強引に押しのけて前に進んでいるらしい。

 彼を罵る口汚い言葉が幾つも聞こえてきたような気がする。

立ち塞がる人間を腕力で排除し突き進む。なるべく関係者とは思われないように平静を装って格子柄のスーツに続いた。大きな背中を頼もしく思う。

「ほらよ」

 リーゼント頭が振り向き見下ろしてきた。

周囲からの視線がとても痛かったが場所を譲ってくれた潮の前に出る。

 そこには半透明で成人男性ほどの大きさのクリスタルがあった。台座は石造りのようで少ない階段の上に鎮座し輝きを放つ水晶の中には一振りの大剣が奉納されていた。

 美しい剣は実用的といえるのか。広幅で肉厚な刀身は一七〇センチくらいありそうだし、柄も三〇センチほどだ。鍔の細工も素晴らしくドワーフの職人の手によるものではないだろうかと思われた。芸術品としてここに安置されている方がお似合いだ。

実際にこれほどの重量がある剣を振り回すことが可能なのかも疑わしい。

 約四百年前、島原の乱を鎮めた英雄、室井聡が使った聖剣である。

「これが聖剣システィーナ」

 若菜が呟く。

「そうよ。異世界より来たりし八つの美姫の一つシスティーナ。この剣は数千の反乱兵をたったの一振りで葬ったとされているわ」

「伝説だろう?」

「私の従兄は島原の乱に鎮圧軍として参戦したのよ。システィーナの力もその目で確かめているわ。この剣の能力は伝説なんかじゃないのよ」

 自分のことのように誇らしく語るエマ=クエーガーとそれを聞いていた潮を残し、若菜が一歩前に進んだ。台座に設置されている文字盤を見たかったようだ。

室井聡が残したとされるそれは長文ではない。日本語ですらない。全く意味不明の記号である。もちろん解読に成功した者はいない。

その文字だか記号の羅列を何度も最初から読み返す時間は不要であった。一度だけゆっくりと視線を走らせて、そして、肩を落とした。顎に手をやり誰にも聞かれない小声で考えを口にした。

「この世界で活躍してくれた室井聡という人物は私のご先祖さまで間違いないようだわ。祖父の祖父。他界したのは百年も前ではないのに、こっちの世界とでは時間の流れが異なるのかしら。これは問題ね」

 若菜は連れの二人が疑わしい顔をしているのに気が付いた。この雑踏の中でも聞き取れてしまったのだろうか。エマ=クエーガーの聴力ならば出来たのかもしれない。尖った耳がピコンと動いている。

「この剣はどうすれば取り出せるの?」

 間抜けな問いを聞いていた人々の間から笑いが漏れた。それもそのはずでこのクリスタルに封印されてから、高名な魔術師が何人も試み未だ取り出すのに成功した者はいないのだ。

 だからこそ、聖剣は今もここにある。

 クリスタルごと移動させることは可能で、他の六つも同じように各地に奉納されている。

 もちろん文字盤も同様のモノが設置されている。

 勇者室井が使ったこの聖剣が最も有名であり、観光スポットとして渋谷に置かれたのだ。

 その剣を取り出す方法をチンピラ風情の潮に尋ねた若菜が、笑い者になったのは当然のことであった。

「あんた本当に日本の事知らねぇのな。これだから帰国子女の女王さまは。やれやれだぜ。そいつを水晶から解放できるのは室井聡の一族だけって伝承だぜ。だが、忽然と現れて江戸幕府の危機を救い、風のように去った勇者の一族はこの四百年現れていねえんだよ。こいつには上野のパンダと同じくらいの価値しかねえのさ」

 さすがに聞きとがめた旅行者風の若い男が、キッと潮を睨んだ。こいつは聡教信者なのだろう。自分が崇拝する対象物の一つを、笹を喰う見世物と同等に言われたのでは、大人しくしていられないものだ。

「あん?」

 眼光鋭く見下し黙らせた。

「クリスタルに触れてみな。勇者の一族以外の奴が触っても何も起こらないらしい」

 咳払いをしてから適当なことを口にした。エマ=クエーガーは聖剣と若菜が収まるように、スマホで何枚も写メを撮っている。

「手を触れる……」

 口の中で反芻し行動に移してみた。無意識であるようで、そこに緊張感はなく無表情であった。

 右手をゆっくりと伸ばす。ただの冷たい石に指が触れ合い何事も起こらない。誰もがそう確信していた。

 しかし、若菜の手は水晶に弾かれることもなく、ズブズブと中に入っていった。

 湯船に張った水に手を入れているような光景であろうか。石製に属するはずの水晶の表面には水面の波紋が広がっていた。

 驚愕のあまり言葉を失った潮やエマ=クエーガー、その他の人々はその顛末を見届ける事しかできなかった。

 白い腕が肘くらいまで水晶に侵入を果たし、ようやく長い柄を掴むことになった。

 その瞬間、太陽よりも眩しい光が渋谷のスクランブル交差点のさらに先まで突き進んだ。一方向だけではない。四方八方に光は駆け抜けた。

 閃光は一瞬ではなく、数秒間に渡り放射された。

 瞼を開けていられないほどの強烈な光りの奔流がおさまったとき、役目を終えたクリスタルの姿はそこになく、代わりに長大な聖剣を握る若菜が居た。

 彼女は胸の辺りで柄を両手で掴み、剣先を上空へと向けている。何かの宣誓を行う騎士のようであった。誰かがようやく発した、絞り出すような呟きが聞こえてきた。

「……聖女」

 その声で潮は我に返った。ここはまずい。本能が告げる。竦み動けなくなっていたエマ=クエーガーを右小脇に抱え込むと、大剣を持ったままの若菜を左肩に担いだ。

「ちょっと!」

 女性二人からの当然の抗議である。

「苦情は後で聞く!黙ってろ!くそが!ここに何人の聡教信者がいると思ってやがる。こいつらに捕まったら監禁されちまうぞ!教祖になることを誓わされちまう!今はとにかく逃げるが勝ちだ!」

 巨大な体躯を駆使してほとんどの人間を吹き飛ばし、立ち塞がる者は容赦なく蹴り飛ばしながら人垣を脱出した潮はまっすぐ明治通り方面に向かった。

とりあえずタクシーに乗れば逃げられる。そう安易に考えた。

 元来た道を戻るわけなのだが、高架下の悪臭も気にしていられる状況ではなくなっていた。

「三浦さん!エマ!この世界では子供が空を飛ぶ光景なんて有り触れたものなのかしら?」

 大男の肩に担がれ後ろ向きになっている若菜が何かを発見したらしい。

 それは高架下を通過し終わった直後の事だった。

「空飛ぶ子供だぁ?そいつは魔術師だ!いよいよ厄介だぜ!」

「それにあの場に居た人たちが何人も走って追いかけてくるわ!十人以上はいるけど、飛んでいる子供の方があなたよりも早いわよ!ところでドサクサに紛れてお尻触ってない?」

「この状況であり得ない話なんだが、お前さんの尻を触っているのはレズビアンエルフだ。必死に手を伸ばしてやがる」

「触れる位置にあるのよ!無防備に!ちくってんじゃないわよ!ごろつきリーゼント!」

 誰がごろつきだ、言いかけて止めた。

 明治通りまでもう少しという距離、右手にはバスロータリーがあり歩道がかなり広くなっている辺りで潮は急停止した。せざるをえなかった。

 若菜を追跡してきた空飛ぶ子供が上空から三人を追い越して見事に着地したからだ。無論、立ち塞がる。

 その童女を見て潮は、顔が引きつっているのをはっきりと自覚できた。

「まさか、あんたが聡教だったとは歴史の授業では教えてくれなかったぜ?魔務省長官、燃燈毬!二百年を生きる魔女が!」

 桃色の着物を自然に着こなす茶色の巻き髪少女はニヤリと微笑んだ。

「クリスタルに異変が起きたときは、すぐにわかるように細工をしていたの~。ついでにクリスタルをあそこに設置したのは当時の私の部下で、台座には空間転移魔術も仕込んでおいたのよぉ~。まさか、勇者の血族に出会えるなんて思ってもいなかったけどぉ」

 妙に間延びしたしゃべり方の少女であった。着物の袖から扇子を抜き出し太陽に翳した。日除けのつもりだろう。

「燃燈毬?それって九天の支配者!世界最高位の魔術師じゃないの!あ、私、死ぬかな。エマ=クエーガー愛のためにここに死す。墓標にはそう刻んで」

「後ろの連中を倒した方が確実だよな?」

「……そうね。私がやると外交問題になりそうだけど!風の精霊たちよ、私の元に来て……」

 潮の右脇の中で精神を集中させたエマ=クエーガーの金髪が風に揺れ始めた。その変化はすぐに激しく範囲を広げていき、街路樹までを激しく揺さぶるほどの強風域を発生させた。

 術者であるエマ=クエーガーを中心として暴風の力場が形成されたのだ。かろうじて立っていられるのは、台風の目にいる三人だけである。

追ってきた聡教信者たちが皆、電柱やガードレールにしがみついているのが見えた。

「良し!よくやった。時間は稼げた。この渦巻がおさまると同時に、ビビった信者どもを無視して後ろ向きに全力で撤退するぞ!九天の支配者なんかとやりあったら命が幾つ在っても足りねぇよ!」

 強風に負けないような大声で潮がガッツポースをした。

 嘘よ、嘘よ。エマ=クエーガーが顔面を蒼白にして信じられない光景に、同じことを繰り返した。

「風の結界内に侵入できるなんて!」

「自信を持つだけの術なのぉ。あの短時間でこれだけの魔力を練り精霊を集めたのだからぁ。立派なのよ~」

 渦巻く風の壁を裂いて、平然と歩み寄るのは燃燈毬であった。しかも、自分が通るだけの『道』を穿っただけで、エマ=クエーガーが発生させた風壁は健在だ。

 魔術戦には全くと言っていいほど無知な潮でも実力の違いを理解できた。魔術で抵抗するのは無意味だ。だが、拳ならどうだ。

 お荷物扱いしていた二人を降ろして、首を左右、順番に倒して拳の関節を鳴らす。右の拳を開いたり握り直したりと、いつものように相手を牽制する動作もこいつには通用しないのだろう。

 ――へへへ、こいつは喧嘩じゃなぇな。命のやりとりなんざ、俺の性分じゃねぇんだが。成り行きじゃ仕方ねぇよな。

外見は幼いが幾つもの修羅場を潜り抜けてきた魔女を見下す。

「よお、魔女っ子。おめえが聡教の信者だろうが関係ねえ。こいつらは渡さない。それに俺の前に立ちはだかる奴は、どこの誰だろうがぶっ飛ばす!うおおー!」

 大男は雄叫びとともに駆け出した。この男の足の長さならば僅か三歩の距離である。

 いつになくゆっくりなもののように、この瞬間を感じていた。普段ならば、まさに一瞬で相手を殴り倒しているはずなのに、右の拳はまだ振り落としている最中である。

 ――俺は遅い。魔女っ子の術が先に完成する!

 燃燈毬が伸ばした五指の先端に白い靄がかかる。それらは実体化しつつ潮を取り込もうとしていた。

 首や両手首、腰部、それから下半身に白い霞だったものが濃い紫色の糸となり、纏わりついて潮の動きを絡め止めた。

 行動遅滞の魔術罠を空中から追い越される時に、仕掛けられていたのだと潮が知ることはなかった。

魔術は形を結び、燃燈毬の短い腕が上から下に振り落とされた。たったそれだけで腕から伸びた魔糸を伝い、アスファルトに叩きつけられ身動きを封じられる。

 行動を遅くさせられている間に、束縛の魔術に絡められたのだと理解できたエマ=クエーガーは戦慄した。この魔女は近接戦闘にも熟知していると。

「私を知っていながら、立ち向かうガッツは立派だけど、実力が伴ってないわよぉ。さて、室井聡の縁者のお嬢さぁん。私にはあなたに危害を加えるつもりはないの~」

「騙されるな!聡教なんてろくな人間の集まりじゃない!」

「リーゼントに賛成よ。若菜は渡せない」

 若菜と毬の間に入るエマ=クエーガーの手には細剣があり、鋭い切っ先を毬の喉元に向ける。

 得意とする魔術戦は諦めたのだろう。それともこの風の嵐を保持するのが精一杯で、他に割く余力がないのか。近代史に語られる魔女との戦闘などは自殺行為以外の何ものでもない。

 しかし、無力な若菜をこのまま引き渡すことは選択外であった。

 燃燈毬は強引に迫るような真似はせず、どこか困ったように小首を傾げる。それは潮に気合いを回復させる時間を与えることになった。

 毬の足元から今までとは違う大きな呻き声があがった。それは咆哮でもあった。

 肢体を縛る紫色の魔糸をブチブチと引き千切りながら、彼は立ち上がろうとしていた。

 右膝を地面に叩きつけて猫のように丸まっていた上半身を引き起こす。

「チンピラにしては強い魔力を持っているようねぇ。魔術に抵抗するには魔力を高めるしかないのぉ。もっと意識を集中してぇ。自分の身体を縛っているモノが何か感じるでしょ~?」

「ゴタゴタうるせぇ!魔力制御の為の精神集中なんか、小学生の必須科目だろうが!俺の集中力は天上知らずだぁ!ゴラァ!」

 潮が完全に立ち上がると同時に、彼を束縛していた糸は霧散し滓も残さなかった。

「今度こそ俺の番だ!」

 両足で踏ん張ると手の届くところにいた毬に殴りかかる。どうやら束縛の魔術を破ると同時に遅滞魔術も無効化したようだ。

 あるいは潮に関心を持ち、愉快そうな笑みを浮かべる魔女の気紛れなのだろうか。素人が解除できる術ではないはずなのだ。

 だが、動きを取り戻した潮は再びその身体を地面に縛られることとなる。

 毬が踵でカツンと地面を蹴った。草履でこうも甲高い音が出せるものだと感心した者はいない。

 振り下ろそうとしていた拳は急速に力の方向を下方に変えられ、身体の前面、全てを地面に密着させる。よくみればその固い地面ですら人の形に凹み亀裂が生じていた。潮型である。

 先ほどの紫の紐の様な現象はない。不可視の力場に捉えられ今度は指一本動かすことができない。

「少しおとなしくしていてねえ。まだ何かできるのなら、立ち上がってもいいけど。あのエルフが竜巻を保持できる時間はそんなに長くないのぉ」

「じゅ、重力操作魔術!いつ唱えたの?」

「ところで八倍の重力場の中でも崩れないリーゼントってなんなのよぉ~。まぁ、いいわ~。さて、話を戻しましょうか。室井氏の血縁者と思われる少女よ~、私と来なさぁい!」

 手を差し伸べる女のほうがよっぽど子供の容姿なのだが、それをあえて口にする必要はなかった。

「……質問がいくつか」

 その手を握るのではなく、大剣を持つ右手とは反対の手で挙手をした若菜は、こちらの質問に答えるつもりがあるのかどうかで対応を決めようと考えていた。

 九天の魔術師と呼ばれる最高の魔術師たちを統べる魔女は、この圧倒的不利な状況下において投げかけられる疑問がいかなるものか興味を持った。

 ふむ、と考える仕草をしてからエルフ娘をチラリと見た。 

 エマ=クエーガーと名乗ったあのエルフと事を荒立てたくはないのが本心である。

 このエルフは精霊術や剣で立ち向かうのではなく、弁術で挑むべきだったのだ。

 ハイ=エルフの名門クエーガー家の令嬢であれば、この日本を治める常盤将軍家と云えども下手に手出しはできない。その確たる優位性を欠如している辺り間の抜けた話だと思う。

「いいわよぉ。時間はないから手短にねぇ」

「聡信者とは何?」

「馬鹿にしている、訳ではないようねぇ。どうして知らないのか、今は聞かないわ~。かつての勇者、室井聡を神格化し信仰する連中のことよ。宗教法人として公的に認められて入るけれど、きな臭い噂は絶えないわ~。聡教団の一部武闘派が原因なんだけどぉ。幹部の中には犯罪者として指名手配されている者たちがたくさんいるわ」

「その行き過ぎた布教活動の先に何を求めているのかしら?」

「現政権である常盤幕府の転覆~?徳川幕府が崩壊し後を継いだのが常盤幕府でしょう?その継承は本来、大昔に国を救った室井が継ぐべきだと訳のわからない主張をしてきたのよ。明治初期にね~。ここまでは常識なのよ。問題があるとすれば、室井聡は血族を残さず何処かへ消えた」

「でも、私が現れてしまった」

「そうなの~!あの聖剣を人目に着く場所に置いたのは、室井の縁者を発見する目的があるのぉ。空間転移の魔術を台座に施したのは、すぐにでも出迎えに行けるようにしていたからなの~」

 今度は若菜が考え始めた。

 とても判り易い説明である。まるで人気の講義を受けている生徒になった気持ちだ。

 ――つまり聖剣を開放した者の保護をする為であるということね。不具合があったのは、まるで襲撃を受けたとしか感じなかったこと。

 しかし、そこまで手の込んだ罠のようなものを仕込んだということは、何か幕府側には思惑があるのだと考えるべきだった。それを率直に口にしては警戒されるだろう。

だが、このまま大人しく付いていくのは、他の選択肢が入り込む余地を失ってしまう気がした。

 判断材料が圧倒的に不足していた。

「さて、どうするのぉ?」

 追い詰める側はやはり九天の支配者であった。

「考える必要なんかねえよ!」

 相撲のように両足で踏ん張り、再び立ち上がった潮が叫んだ。その声はとても小さかったが、腹の底から出されている張り、竜巻の轟音に負けること無く三人の耳に届いた。浮き立つ血管から彼がどれほどの力を全身に込めているかを知ることが出来る。

「政府の犬が何をほざきやがる。てめえらは聡信者と何も変わらない。あいつらが政権を執っていたら、お前たちが不穏分子になっていただけじゃねえか!女王、こいつはお前に手出しはできない!言いなりになることなんか……!うおー!」

 尋常ではない重力に耐えていた潮は、一瞬だけその力場から解き放たれた。が、次には宙を舞っていた。

「重力操作には二種類あるの。引力と斥力よ~」

 身体を浮かされた潮は何一つ抵抗することも出来ずエマ=クエーガーが発生させた竜巻に飲み込まれてしまった。どこからか悲鳴が上がってもいたが、すぐに聞こえなくなる。姿を確認することもできない。

「エマ!風の精霊を解除して!早く!」

「風の精霊たちよ、もういいわ。お疲れ様」

 若菜に諭される前から精霊に話しかけるために集中していたエマ=クエーガーによって、突風の嵐は何事もなかったかのように消失した。青い空を眩しく感じる。

 上空を見上げる若菜の視界には巻き上げられた土砂やゴミ、放置されていた自転車などしか入らなかった。人影らしきものなどどこにもない。

 五月の太陽に目を細めながらも必死に大男を探した。

 ビルの谷間からどこか遠くへ弾き飛ばされたのか。ハリケーンに巻き込まれて生存した人間の話など聞いたことのない若菜は焦燥感を覚えた。

「あそこよ~」

 毬が短い指で指した先に潮はいた。自分たちの後方、山手線の線路に落下しようとしていた。

「エマ!」

「駄目!間に合わない。術の解除をしたばかりだから、魔力を練る時間が足りないわ!」

「二択よ~。彼を見捨てるか、助けるのか」

 潮がいる方を指していた人差し指に中指が足されている。

「……判ったわ。あなたと行きましょう」

「懸命な判断ねぇ」

 魔術師の中指に魔力が集まるのを感じることができた。若菜が凝視している中、術は完成し、線路に激突するまさにその直前で巨体が掻き消えた。

「どこに?」

 エマ=クエーガーの問い掛けは独り言であったのかもしれない。律儀に応じるのは魔女だった。

「短距離転移なら魔術儀式を仕込んでおく必要がないのは知っているわね。視界の範囲内限定だけど~」

 わざわざ問う必要などはないのだ。

 潮は魔女の足元に転がっていた。完全に意識を失い身体は使い古した雑巾のように汚れてしまっている。死体かと錯覚するほど血の気がなかった。

「生きているわぁ。治療の手配もするし。さて、後ろの熱心な信者たちには悪いけど、私の事務室まで跳躍するわよ。掴まってちょうだい」

 着物の袖を二人に伸ばした。

 魔女の手など握りたくはないが、他に選べる道はなかった。

 突然の嵐から正気を取り戻した聡信者と呼ばれる連中がこちらを窺っていたからだ。

 燃燈毬がいなくなりこの場に若菜が一人取り残されれば、一体どうなることか。潮が口走ったように、何処かの秘密基地に監禁されて彼らの教祖となることを強要されるのかもしれない。

 それよりは燃燈毬が属する常盤幕府とかいう、聞き覚えのない政府中枢にいた方が安全だろうか。

 長大な聖剣を肩に担ぐようにして持った。もちろん鋭い刃が自身を傷つけるヘマはしない。見た目より遙かに軽く、腕力の無い若菜でも両手なら振るうことができそうなくらい軽量だ。

螺旋樹の里から一緒にやってきたエマ=クエーガーの顔を確認する。

表情は肯定であった。彼女もこの状況では致し方なしと諦めたようだ。

「まあ、こちらには一振りで数千の人間を殺せる大量殺戮兵器、システィーナがあるわけだし不都合なことにはならないと願いましょうか」

 一応、威嚇のつもりで、桜色の着物の長い袖を掴みながら言ってみた。

 魔女は子犬と戯れるときの笑みを浮かべた。

 その顔は使い方を知っているのぉ?と小馬鹿にした様子だった。

 エマ=クエーガーは若菜の腕に抱きついた。

 最後に気絶している潮の背中を草履で踏み付けて、九天の支配者は短い術を唱え消えた。

 数十年に及び渋谷駅前に安置されていた聖剣が解放され、その一部始終を目撃した人々は呆然としていた。

 一体この中の何人が聡教信者かは判らない。急いでどこかに電話する者たちの全員が信者ということはないだろう。事件に遭遇した者は決まって記録に残そうとするか、吹聴したがる。

 騒然とする中にあって、泰然としていたのは燃燈毬に手も足も出なかった、格子柄スーツを着たリーゼント頭と同じくらいの大男であった。

太い腕を前で組み面白がっているようにも見えるが、軽薄な笑みを浮かべている。

「なあ?たまには円山町から出勤するのも悪くないだろう?良いものが見られた」

 自身の胸元ほどの身長しかない女性に話しかける。

「あんたの性欲に付き合うのも悪くないかもねぇ。私は満足できなかったけど、確かに貴重なものを見せてもらったわ。聖女降臨。本部がひっくり返るわよ」

 全体的に緩い印象を与えがちな表情だが、細い目の奥には凶暴な光があった。隆々とした筋肉は陽に焼けて褐色である。凶悪な肉体美を強調するような格好も、この男が危険人物であると物語っていた。短い頭髪はきっちり刈り上げられていて、意外と几帳面なのかもしれない。

 対する女は幾つもの鋲がふんだんに使われた舞台衣装のような黒いドレスである。

 ぱっと見ただけで痛い女子だと警戒させてしまうだろう。

 ファッション的には水と油だが、二人は連れ合いである。言葉通り道玄坂の路地奥に在るラブホテルから出てきたばかりであった。

二人とも武装はしていない。観光客然として偶然、現場に居合わせたのだ。

「本部に報告するのは止めておこう。写メを撮るのを忘れていたからな。逆に叱責されそうだ」

「ふん!でも、私たちはしっかり記憶した。聖女の顔をね。手柄を独占するつもり?」

「お前にも分けてやるよ。肉体関係だしな。だが燃燈毬は止めておけ」

 何の話よ?と怪訝な表情を女がした。

「とぼけるな。燃燈毬に仕掛けようとしていただろうが。あれはダメだ。お前の微かな殺意に気づいていたぞ。あのリーゼント頭と戦いながら、こちらへの警戒を怠っていなかった。風結界の外側にいた俺たちの動きを把握していたんだ。俺とお前の二人掛かりでも奇襲作戦でなけりゃ勝ち目はない。初手をしくじったら撤退が最善だな。室井聡とか燃燈家に恨みを持つ経緯は同情できるが、やるなら策を練らなくちゃな」

「つまり、手伝ってくれるわけね?聖女とその他大勢の抹殺」

「もちろんさ。肉体関係を馬鹿にするなよ。それに面白そうじゃねぇか。幕府中枢を皆殺しなんて」

「あんたをパートナーに選んだのは正解だったわ。死ぬまで私を好きにしていいわよ」

「お?そうか。なら、これからもう一度どうだ?」

 円山町に戻ろうというのか。まあ、それは構わなかった。

 情報の収集をすぐに始めても得られるモノは少ないだろう。これだけ大勢の人々が目撃者となったのだ。常磐幕府もなんらかの発表を行うはずである。それまでの退屈凌ぎにこの大男に抱かれているのもいいだろう。

 燃燈毬がどこに空間転移したのか見当はついていた。部外者が侵入するにはとても難易度が高い。襲撃の場所はよく選びたかった。

 まだ落ち着きを取り戻さないハチ公前に背を向けて、二人は本当に道玄坂に向かい歩き始めた。

他の恋人たちみたいに浮ついた様子はない。手を繋いだり腕を絡ませたりもない。

 残忍な殺戮計画を脳内で思い描き、ときどき相手に相談をする。

 それはある意味では至福の時間であったのかもしれない。



 空間転移などは初めての体験であったが、一瞬の無重力状態があっただけで、若菜は見たことのない乱雑に散らかった部屋にいた。

 腕にしがみつくエマ=クエーガーも燃燈毬に踏まれた三浦潮も一緒だ。

「魔務省長官室にようこそ~!」

 毬が両手を広げて意識のある二人を歓迎した。

どことなく冷めた様子で毬を見ていた若菜は、受け入れがたい現実に深く息を吐いた。

 ――私、本当に異世界に来ちゃったんだわ。

 半年前に螺旋樹の里に来たときはファンタジー世界に迷い込んだのかと錯覚した。しかし、今は元の世界にとてもよく似たパラレルワールドと表現すべき状態にある。

 彼女の難事はまだ始まってもいなかった。


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