ふたりで、生きよう。
彼らが出会い、交際を始めてから二週間が過ぎた、ある夜のことだった。
昼過ぎから降り始めた雨は、段々と強さを増していき、今は風も出てきた。夜中でなくても、外出する人は少ないだろう。
彼が、そろそろ寝ようと、体を横にしかけた時だった。辺りを埋めつくすザアザアという雨音の中に、戸を叩く音が聞こえた。
彼を訪ねてくる者はあまりいない。それも、こんな雨の夜ならなおさらである。
それでも、音はし続ける。
まさか、こんな日にわざわざ嫌がらせをしにくるほど、阿呆な連中じゃあないよな……。
ぼんやりとしたまま耳を傾けていると、その音は先ほどよりも激しくなっているような気がした。どこか、焦っているような。
何故だかとても気になり、彼は起き上がり、戸を開いた。
開いた戸の向こう、酷い雨の中にあったのは、濡れ鼠になった雪美の姿であった。
彼女は唇を噛み締め、強い、けれど何かに怯えた目で彼を見つめていた。
前髪から絶えず流れ落ちる雨水に紛れて確認することはできなかったが、その時、彼女は確かに泣いていた。
突然の訪問者に、そして、その様子に言葉を失った彼に、彼女はぽつりとこぼした。
「……私は、雪女です。妖、なのです……」
頭を、鐘をついたような衝撃がはしる。そして、脳内にいつか聞いた声が閃く。
ーー人間と妖の恋愛は禁忌である。
彼は、今にも叫び出したい気持ちで彼女を見た。
彼女は肩を震わせて、また新たに涙をこぼし始めた。
押し殺した嗚咽の中で、彼女は何度も、ごめんなさい、ごめんなさい、と恐らく彼に対しての謝罪を繰り返した。
彼は、かける言葉を見つけられず、彼女を屋根のある室内へ入れたが、あとはもう、床にへたり込んだまま泣きじゃくる彼女を見守るだけしかできなかった。
どれくらい時が経ったか、彼女の涙はようやく収まった。そっと手ぬぐいを差し出すと、彼女は顔をあげないままで受け取った。
彼女に聞きたいことは山ほどあった。
何故、雪女だと隠していたのか。それを、何故今になって明かす気になったのか。どうして、泣きながら謝るのか……。
「ありがとう、ございます。あの……ごめんなさい」
「どうして、謝るんです?」
彼女の謝罪の声を聞くたびに胸が締め付けられるように痛む。
「だって……私は雪女なんですよ。貴方こそ、どうしてそんなに優しいのですか? 叫ばないのですか? 逃げないのですか?捕らえないのですか?」
「貴女が雪女だと知ったって、今更どうしようもありません。だって、僕にとっては、貴女は雪美さんに他ならないのですから」
彼は、できるだけ優しい声で彼女に語りかけた。
「それに貴女は、こんな僕にほほえみかけてくれた。手を差し伸べてくれた。そんな人、貴女しかいません」
彼女を愛すのに、これ以上、何が必要だというのか。
知らずのうちに禁忌を犯していたと知り、彼自身もひどく混乱していた。だが、これを言うのに、躊躇いも迷いも必要なかった。
この場で別れを告げてしまえば、ふたりは何もなかったことにできる。だが、彼らは歩み寄りすぎた。深く関わりすぎた。互いに、かけがえのない存在となってしまった。
「それにしても、何故今になって、そのことを明かそうとしてくれたのですか?」
それは、彼にとっては素朴な疑問でしかなかったが、それを口にすると、彼女は意外にも言いづらそうに目を泳がせた。
やがて、意を決したように、彼女は顔をあげた。
「これは、私のせいなんです。ごめんなさい、ごめんなさい。実は私たち雪女にも、この人間の世界のように、雪女たちだけが暮らす場所があります。私たちはそれを、郷と呼んでいます。
数日前、私は貴方に貰った簪を眺めていました。ですが、私の不注意のせいで、母にそれが人間の世界のものであるとばれてしまったのです。
私たち雪女は、いや、多分ほとんどの妖がそうです。人間と深く関わることを禁止されています。だから、恋愛も当然禁じられています。
そのため、私は母に言われたのです。五日以内に相手との関係を一切断て。そうすれば、郷の長には黙っていてやる、と」
言い終えるなり、彼女は再びごめんなさいと繰り返した。自分が不注意だったのがいけないのだと。簪をいつまでも眺めていたのがいけないのだと。
彼は不意に、彼女を抱きしめた。
「謝らないで、ください。貴女は何も謝る必要はないんだ。
こんなこと言ったら、貴女は呆れるかもしれないけど、僕は、嬉しかったです。貴女が簪を気に入ってくれたこと。会わない時も、僕を思ってくれていたことが」
「ひでかず……さん」
彼女の体温を、体の少しの震えを、息づかいを、腕の中に直に感じた。
「どうしよう……。私はどうしても、貴方と離れたくありません。一緒に、いたい」
「僕もだ。離したくない」
しかし、彼らがずっと一緒にいても、このままでは、遅かれ早かれ、ふたりは死別することになるだろう。
種を超えた恋愛というのは、どちらの世界でもとても重い罪なのである。
「……あの、秀和さん?」
「はい、なんです?」
「いつまでそうしているのですか? 寒く、ないですか?」
彼ははっと我に返った。そして、自分が彼女を抱きしめていたことに気づく。
慌てて飛び去るようにして彼女から手を離した。
「ご、ごめんなさい! 無意識に、つい」
「いえ、私は、構いませんよ。ただ、体が冷えてしまわないか心配で」
こんな時にも関わらず、ふたりはこれまでのように笑い合った。そして、声には出さなかったが、互いに一層相手を愛おしく思った。
笑いが収まると、気詰まりな沈黙が訪れた。
遠ざかっていた雨音が再び戻ってきて、ふたりの心を濡らす。
「……また問題を増やすようで言いづらいのですが、いいですか?」
「はい……」
「我々人間の間でも、同じように、妖との恋愛は禁忌とされているのです。だから、もしも他の人に気づかれたら、僕らはこっちでも居場所を失ってしまいます」
かと言って、彼に名案があるわけではなかった。ただ、こちらの事情も伝えねば不公平だと思ったのだ。
「そうですか。どこの世も、生きづらいものですね」
「ははは。本当に」
むしろ、人間だろうと妖だろうと関係なく暮らせる世の中が実在するのかどうかを知りたいくらいである。
もしも、存在するのであれば、今の彼らにとってはまさに夢の世界である。
もしも、意外にもこの町に、そのような世界を望む者が多ければ、町を変えることができるのだろうか。しかし、それをするには彼女との関係を明かさないわけにはいかなくなる。それは、とても危険が大きい。
(やるとしたら、まさに人生を賭けた大博打も同然だな。……ん? 賭ける、賭け……かけ……)
「駆け落ち……」
考えが、ぽろりと唇をこぼれ落ちた。
小さな呟きは、脳内で段々と膨れ上がり、明確な提案となった。
「駆け落ちしよう! 今すぐ、ふたりで逃げましょう、誰もいないところへ」
彼の突飛な発想に、彼女は目を丸くした。戸惑いを隠せない、といった風に尋ねる。
「駆け落ち、ですか? でも、どこへ?」
「当ては、ないけど……。でも、とにかく、ここでないところへ行きましょう! あとはそれから考えたらいい!」
思わす立ち上がった彼とは逆に、彼女は中々腰を浮かそうとしない。
彼女の方でも何か気がかりがあるようだ。この突拍子のない提案を前にしたら、仕方がない。
「確かに、私たちの居場所はくらませられるかもしれません。でも、郷の雪女たちが本気を出せば、あっさりと見つかってしまう」
それは、彼も想像していたことだった。こんなものは、時間稼ぎにもなりはしない。
でも、もう、これ以上の手は見つからなかった。それに、ふたりで生き延びるこの策が失敗する時には、彼にはある考えがあった。
「大丈夫です! そうしたら僕が、式神を使って退治してみせますから」
「……! 何、馬鹿なことを! 自分で言っていたじゃあないですか。ただの一度も式神を召喚できた試しがない、と」
やっぱり覚えていたか、と彼は頭をかいた。
咄嗟に口をついて出たこれは、何の気休めにもならないだろうと、自分でもわかっていた。
彼が新たな手を考えていると、彼女がはっと顔を上げた。
そして、今までで見た中で一番強い視線を、けれど、不安定に揺れ動く瞳を、彼に向けた。
「……もしかして、自分が死ねばいいだなんて、思っていませんよね」
彼女の声は、聞いたことがないくらい冷たく硬くなっていた。嫌な予感がそうさせるのだろう。
しかし残念なことに、その嫌な予感は予感では済まなかった。
「流石、ですね。雪美さん。その通りです」
抑揚のない声で応えた。
できればこれは、自分が死ぬその時まで、いや、欲を言えば、自分が死んでからもずっと、隠しておきたかった。
彼の返事を聞いた彼女は、白い顔を一段と白くした。きつく結んだ唇がわななくのがわかる。
そして、一歩、二歩、彼に近づいた。
ぱしん。
かわいた音と共に、彼の顔は右へぶれた。
彼女は、瞳から大粒の涙をはらはらとこぼし始めた。
そんな姿を、じわりと熱くなる頬に手をあてたまま、見つめていた。
ああ、ごめん。泣かせたかった訳じゃないんだ。貴女に、ずっと笑っていて欲しかっただけなんだ。
「馬鹿ですよ。馬鹿。この、大馬鹿者!
自分が死んで、私を生かせばそれで幸せだと思ったんですか? それは、私のためなんですか? 馬鹿言わないでくださいよ!
そんなことしたって、私は喜べません! 英雄を気取って死のうとする人よりも、どんなに見苦しい姿だろうと生きようとする人の方がどれだけいいことか!
そんなこともわかれない秀和さんなんか、勝手に死んでしまえ!」
彼女は、濡れたままの目で彼を睨みつけた。
彼女が大声を張り上げるのを初めて見た。それだけ、自分は彼女を怒らせてしまったのだろう。
呆気に取られてぼんやりと彼女を見つめていると、彼女はまた詰め寄り、そして尋ねた。
「まだ、死ぬだなんて言いますか? それなら、今ここで、私が殺します。いいですね」
「……はは。死にたくないなぁ」
そう、笑いながら言うと、何故だか涙が溢れてきた。笑いながら、泣いていた。
ふと彼女を見ると、彼女もまた、笑いながら泣いていた。
そのまま、彼らはしばらく笑い続けた。そして、涙が枯れる頃に、笑いも止まった。
すると、彼はおもむろに小刀を取り出した。
「秀和さん? いったい、何を」
彼女が戸惑うのをよそに、彼は迷いのない動きで、刃を鞘から引き出す。
そして、己の髪を無造作に掴むと、その根元近くをざっくりと切りつけた。
はらり。長い黒髪が散る。
「願掛け。切るなら、今だと思ってさ」
彼は、当然のことをしたまでだとでも言うように彼女を見た。彼女は呆れてため息をつくと、彼に微笑んだ。
「そんなに適当に切って。今度、私が整えてあげます」
彼女が言うと、彼は満足そうに笑った。
そして、彼女に手を差し出した。
「行こうか。遠くへ逃げよう。ふたりで、生きよう」
「ーーはい!」
外へ出ると、いつの間にか雨は止み、空は夜明け前を示していた。
紺と橙に見守られながら、まだ眠っている町を、彼らは手をとって歩き出した。
その先で待つ運命がどのようなものかはわからない。けれど、どんなものでも受け入れられる気がした。
ふたりで生きると、約束したから。
*
その後、彼らの姿を見た者はなかった。
どこかで離れ離れになってしまったのか、それとも、どこかに、共に暮らせる憧れの世界を見つけたのか。
それは、誰も知らない。