幸せな時
出会った翌日、彼らは約束通り、待ち合わせの場所で落ち合った。しかし、その時刻は約束のものよりだいぶ早かった。
彼は、前日の夜、彼女のことと翌日のことで頭がいっぱいになり、眠れなかったため、早朝から外をぶらついていたのである。
「おはようございます。秀和さん。お早いですね」
「おはようございます。そういう雪美さんこそ」
ふたりは、同時に吹き出した。そして、そのまま談笑しつつ、例の茶屋に向かうことになった。
茶屋は、町の外れ、森の入口近くにひっそりとあった。ひっそりとはしているものの、ほどほどに繁盛している。
店に入り、他の陰陽師の連中の姿がないことを確認し、安堵する。まだ、自分以外に知っている者はないようだ。そうである限り、この店は憩いの場として守られる。
それに、落ちこぼれがたまの休日に術の鍛錬もせずに女と遊んでいたとなっては、今度はどんな陰口をたたかれることやら。
「この店は、団子が美味いんですよ」
そう言って、いくつか注文した。
笹に乗った団子がふたりの前に置かれると、いただきます、と手を合わせてから彼女は手をつけた。
「美味しい」
「そうですか! よかった」
彼も自分の前にある串を手に取り、食べ始めた。
団子を平らげ、茶を飲みながら一息つく。すると、ふたりの間の沈黙がいやに際立った。何か話そうにも話題が見つからず、何も言えずにいると、彼女が口を開いた。
「あの、秀和さんは、どうしてそんなに髪を伸ばしているんですか?」
秀和の髪は、背の中ほどまであった。
「ああ、これね。小さい頃から、願掛けだって言って伸ばしてるんです。確か、言い出したのは父だったかな」
彼のさらりとした黒髪は、女性よりも綺麗だった。そのために、幼い頃はオンナオトコだとか、可愛い(まだ少年だった彼はその言葉をとても嫌がった)だとかからかわれることがしばしばあった。
だが、これも彼の性格からか、伸ばし続けた髪はいまだに長いままだ。
「大事な勝負だとか、負けられない賭け事の前に切るらしいです。父の故郷の風習らしいので、詳しくは知らないのですが」
「そうなんですか。面白い風習ですね。私の故郷にも、こんなものがありましたよ」
これをきっかけに、ふたりの会話は弾んだ。互いが幼かった頃の思い出、最近あったこと、どれも取り留めもない話題ばかり。けれど、彼らは飽きることなく話続けた。
夢中になって話す中、差し込む日の光が赤みを帯びてきたことに気づいた。話し込んでいたので気がつかなかったが、どうやら日が暮れてきたようだ。
彼が言うと、気がつかなかった、とふたりで笑い合った。
「そろそろ、帰りましょうか」
「……ええ。なんだか、名残惜しいような気もしますが」
彼女は表情を曇らせたが、彼は、自分が似たような考えをしていたことに嬉しくなった。
「まあ、また合いましょうよ。その時まで、話したいことをとっておきましょう」
そう言うと、彼女は口元を綻ばせ、そうですね、と応えた。相変わらずの素敵な笑顔だった。
彼は、ふと思い出して袖からあるものを取り出した。それを、彼女の前に遠慮がちに差し出す。
「あの、それは?」
「簪です。今朝、早く目が覚めてしまったものですから、町をぶらついてて、その時に見つけて、それで……」
何だか急に恥ずかしいような気がして、言葉がたどたどしくなる。女性に贈り物をするなど、初めてのことなのだから。
「雪美さんに、似合いそうだなって思って」
彼女は、驚いたように彼を見上げた。そして、優しく微笑んで簪を手にとった。
「ありがとうございます。こんなに素敵な簪……すごく、嬉しい」
彼女は、少し照れ臭そうに簪を髪に添えた。簪の先についた銀細工の雪の結晶がきらりと揺れる。
「似合ってますよ、とても」
素直な感想を告げると、彼女は今度は頬を紅潮させ、少女のように愛らしく笑った。
その笑顔に、彼はまた心を奪われた。
「それじゃ、また今度」
「はい。これ、大切にしますね」
そう言ってふたりは別れた。彼は、自宅まで送り届けようと申し出たが、彼女は申し訳なさそうにそれを断った。
赤い空の下、いつもは少し不快なねっとりとした生暖かい空気も、不思議と嫌な感じはしなかった。
自宅についてから、いや、帰り道からずっと、彼は口笛を吹いて踊りたいような気分だった。彼女との話のひとつひとつを、それから彼女の仕草を思い返しては、胸は幸福感に満たされていった。
*
彼らはそれからも何度か会ううちに交際を始めた。それは、どちらが言い寄ったということもなく、自然にそうあるべきだというかのように生まれた関係であった。
それからの二週間。彼のこれまでの人生で、最も幸せな日々であった。
しかし、幸せな時は永遠には続かないものである。