出会い
そんなことも出来ないんじゃあ、お前には向いてないよ。
幼い頃から飽きるほど聞かされてきて、実際、もう聞き飽きた。
彼は陰陽師の見習いを続けて、かれこれ三年になる。多少の個人差はあれど、大抵の人間は三年もすれば、力の弱い式神なら二、三体召喚するくらい難なく出来るようになる。しかし、彼は未だに一体の式神すら召喚出来た試しがない。
そんな彼を見て、同じ頃に学び始めた仲間に、かつて隣に並び術を唱えていたはずの声で「向いてないよ」「落ちこぼれ」と罵られる。そんなことにも彼はもう慣れっこだった。もはや、それに抗う気力すら湧かない。
それでも、彼はまだ見習いとして陰陽師を続けている。理由も目的も失いかけているのに。
ただ、彼は良くも悪くも諦めの悪い男だった。前向きに言えば、忍耐強いとも言えるが、現実的に考えれば、往生際が悪いの一言で片付けられてしまう。
そのために、彼は今でも見習いを続ける。
*
とある夏の日。彼に、ひとつの変化が訪れた。蝉の声が騒がしい、昼過ぎのこと。
「お前、今日もなーんも見えなかったんだってな」
「ああ。こんなんじゃあ、占いにならない。困ったなぁ」
自分の無能をからかう声も、さらりと受け流す。わざわざ言い返す気にもならない。いや、言い返す言葉もない。
「俺だって、最近見えるようになったんだぜ? ま、当たらないけどな」
からからと大きな口で笑い飛ばした彼はよい方である。相手が優秀な奴らになればなるほど、からかいはより鋭利に、嫌がらせはより陰険になる。
じゃあな、と手を振って、彼は通りを曲がった。あいつの家は漬物屋だったかな、となんとなく思う。
あいつはきっと、陰陽師にはならないだろう。自分ほどではないが、あまり向いていない。そして、そのことを自覚している。それに、この間は、長男として実家の漬物屋を継ぐつもりだとも言っていた。
彼も、自分には陰陽師など向いていないのだと自覚している。しかし、その諦めの悪さから、未だに別の道を探せずにいる。このまま見習いを続けていたって、見習いから一人前の陰陽師になれることはないのだということは、もうどこかわかりきったことなのに。
何の気なしに空を見上げると、澄んだ青が目に映った。それなのに、どうして己の気持ちはこんなにも晴れ晴れとしないのだろう。
「うまくいかないものだなあ」
半ばぼやくように呟きながら、憎たらしいほどの晴天を睨みつける。
すると、突然、その空がひっくり返った。
「ぎゃっ!」
背中から尻にかけてがじわりと熱くなる。どうやら、階段を踏み外したようだ。大きく怪我こそしていないものの、精神的には十分すぎる大打撃だ。
「いってぇ。ほんと、ついてないな」
腰の辺りをさすりながら、ため息を吐いた。
下を向いた視線が自分の足を捉える。擦り切れてぼろぼろのわらじを履いている。
ああ、こいつだって、どうせなら、きちんと働く足に履かれて擦り切れたかっただろうな。
彼はもうだいぶ長い間、同じものを何度か直しながら履いている。けれど、最近になって急に汚くなった。
原因は、謎の嫌がらせ。鼻緒を切る。泥を塗る。穴を開ける。どれも、たわいないことだが、どういうわけだか、飽きずに続けられている。
行っているのは、おそらく、いや、ほぼ確実に、優秀な陰陽師集団の中の底辺の奴ら。本当に優秀な奴は、こんな下らないことはしない。だが、半端に自分が出来る奴だと思い込んでいる奴らは、自分より劣る人間を嫌う。「お前の様な落ちこぼれに、ここにいる資格はない」「お前のせいで陰陽師の印象が悪くなる」根も葉もない理屈を正義だと名乗って堂々と告げるのが趣味の様な奴ら。
彼は不思議と、そういった悪口には一切腹を立てなかった。心のどこかで、下らないと相手を蔑み、耳を塞いでいたのかもしれない。実際、的確すぎて返す言葉もない、という場合もあったが。
「あの、大丈夫ですか?」
突然した声に、ぱっと顔を上げると、見知らぬ女性の顔が目に入った。白い手をこちらに差し出している。どうやら彼女は、彼がなかなか立ち上がらないのを見て心配になったようだ。
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
そういいながら、素直に手をとって立ち上がる。真夏だというのに、驚くほど冷たい手だった。
「そう、よかった」
彼女がにこりと微笑む。思わず口元が緩みそうになる。それを隠すため、着物をはたく振りをして顔を背けた。
(すごく、きれいな人だ。笑顔が素敵だし、声だって、細いのに芯があって透き通ってて、それに髪も……髪……)
ふとした疑問が考えなしに口をついて出た。
「あの、何か、悩み事でもあるんですか」
「はい?」
「だって、その髪、お若いのに……」
と、そこまで言って、彼は、自分がひどく無神経で失礼な発言をしたと気づいた。慌てて口を噤んで、頭を下げる。
「ごめんなさい! すごく、失礼なことを」
「ああ、これね。生まれつきなの。生まれつき、真っ白。いいのよ、気にしないで」
彼女の髪は若いというのに見事に真っ白だった。混じり気のない、完全な白髪。
「生まれつきなんですか。だから、そんなに綺麗なんですね」
「あら、ありがとう。褒めてもらったの、初めてだわ」
そう言った彼女の笑顔は、少しだけ曇って見えた。しかし、それは一瞬で、次の瞬間にはもう拭い去られていた。
不思議な雰囲気の人だなあ。柔らかくて、優しくて、笑顔を見ると胸の鼓動が速くなる。
「ねえ、明日も会えないかしら。私ね、あまりこの辺りに友達がいないの。でも、貴方とは仲良くなれるきがして」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします。え、と……お名前は」
相手に名前を尋ねる時は自分から名乗れ、というのを誰かから聞いた気がすると、尋ねてから気づいた。これは何の作法だったかな。もしかしたら、また彼女に失礼なことをしてしまっただろうか。
「私は、ゆきみと言います。雪に、美しいと書いて、雪美です」
「雪美さん、か。よろしくお願いします。僕は、ひでかずと言います。秀でるに、平和の和で秀和」
彼女に気分を害した様子はなかったことに安堵する。
何だか背伸びしようとしている自分の存在にふと気づき、おかしくなって小さく吹き出した。自分はどうにかしてしまったようだ。けれど、なかなか悪くない。
「あの、僕、森の方にひとついい茶屋を知っています。あそこなら夏でも涼しくて、おすすめなんです。明日、そこに行きませんか」
「ええ。それじゃあ、また明日。ここで待ち合わせしましょう」
「はい。また明日」
彼女は、笑顔で手を振り、去って行った。
彼女の存在は彼の心に大きな変化をもたらした。それが、恋心だと気づくのは、彼が帰宅してからのこと。
*
彼女との出会いは、彼に幸せをもたらすのか、不幸をもたらすのか。それは、彼らにすらまだわからない。