9話:先生 2
会場となる建物が見えてきた頃、急に空は曇りだし、ぽつぽつとフロントガラスに雨が落ちました。
「嫌な雨ですね。」
先生の瞳の色が、かすかに濁りました。
会場には大学生らしい姿はほとんど無く、多くは企業や大学の研究者のようです。はしゃぎまわる中島先輩と井上先輩はもちろん、場違いな気がしてどうも落ち着きません。
早めに受付を済ませてホール前にいると、スタッフの男性が先生に声をかけました。
「矢崎先生、お久しぶりです。」
「いきなり誰かと思ったら。先生なんてやめてくださいよ。」
「なに言ってるんですか。期待の新人、矢崎考輔。立派な先生じゃないですか。それより、来てくれてよかったです。ドタキャンされないか心配でしたよ。」
「菊池の頼みでなければ断っていましたね。」
次第に話が盛り上がり、長続きしそうな気がした私は先輩達と建物の中を見て回ることにしました。小学生のような先輩達と一緒にいるのは少し恥ずかしいのですが、一人でふらふらするよりはいいように思いました。
やっと落ち着いた先輩達はロビーのゆったりとした椅子に腰掛け、大きな窓越しに外を眺め出しました。
「雨ですね……。」
「雨だな。」
「なんかテンション下がりますね。」
「俺はお前のせいでとっくに下がってるぞ。」
「何言ってるんですか?中島先輩も井上先輩もさっきまですっごく元気だったじゃないですか。一緒にいるのが恥ずかしいくらいでしたよ。」
「相変わらずリンちゃんは厳しいねぇ。」
そういいながらまた窓の外を眺める中島先輩。
「お、なんかセレブな感じの車が止まったぞ。」
その視線を追うように外を見ると、ちょうど、車から白髪混じりの初老の男性が出てきました。
「あの人、坂上先生だ!」
勢いよく井上先輩が立ち上がり、窓にくっつきます。その男性の周りがざわつきだしたところを見ると、本物のようです。
「やっぱり大物はオーラからして違うなあ。」
「だな。でもあの人うちの大学にいたんだろ?結構前の話らしいけど。」
「そうなんですか?俺も授業受けてみたかった……。」
「そんなにすごい人なんですか?坂上先生って。」
その言葉に井上先輩が反応しました。
「すごいどころじゃないよ!尊敬に値する!10年くらい前だったかなー、アメリカの研究チームと組んで環境問題の…」
「うり坊、お前はすぐに熱くなるな。リンちゃん、そろそろ時間だから、うり坊なんか放って行こう。」
「ちょっ…!放ってかないでくださいよー!」
壇上と正反対な薄暗さは、眠気を誘うのに十分でした。
さっきまで小学生のようにはしゃいでいた先輩達は、一転して真剣な顔で聞いています。
それに比べ私は……話の内容が全くわからず、起きているのが精一杯、と言う状態です。すでに脳みそは拒否症状が出ているわけです。やっぱり私と先輩達とは頭の構造から違うのでしょうか?
「リンちゃん、大丈夫?」
中島先輩が小声で話しかけてきます。
「微妙です……。」
「次、ざきっちだから。これで午前の部は終わりだし、もうちょっとファイト!」
「はい。」
任せてください。先生の話なら起きて聞く自身はありますよ。先生が真面目に壇上に立つ姿を見るのは初めてで、すごく楽しみだったんですから。普段から授業する姿は見ていますが、こういう場面はなかなかないですし。
先生が壇上に立つと、十分に目は覚めましたが、私までそこにいるかのように緊張してしまいました。
しかし、先生は授業の時と同じ雰囲気で、淡々と話を進めていきました。
いつもの先生。そう、あの瞳も。人を見ない、あの瞳も。
午前の部が終わり、私は会場から出て先生を待ちました。お昼は先輩達と別行動をとることにしたので、のんびりと二人きりの時間が過ごせそうです。
「先生!」
「お待たせしました。さて、お昼はどうしましょうか?午後の部は出るつもり無いので、少々遠くへ行っても大丈夫なんですけど。いいお店がありますよ。」
「サボり、ですか?」
まさかそんな事するような人じゃないですよね?私が知ってる先生は真面目で熱心で……。
「まあ、そんなところですね。菊池にもはっきりと言っておきましたが、了解してくれましたよ。」
そんな風に笑顔で言われても……。でも、私はこれ以上眠気に耐える自信がありませんし、考え方によってはこれはチャンスなのかもしれません。
私は結局、おすすめのお店に行くことにして、先生の後ろをついて歩き出しました。
「ところで、その菊池さんって何者ですか?」
「大学時代の後輩です。僕の二つ下なんですけど、なんだか妙になつかれてしまって。このフォーラムを企画した会社に今は勤めてるんです。真面目そうに見えますけど、結構ドジで……井上ににてるかもしれませんね。」
楽しそうに話す先生。やっぱりこの笑顔には弱いです。
菊池さんとのエピソードはいろいろあるみたいで、あまり聞いたことのない先生の昔話なんかをいくつか話してくれました。
しかし、急に先生の楽しげな表情が消え、黙ってしまいました。
「先生?」
静かな瞳は、一人の人物をとらえていました。坂上先生です。その姿は徐々に近づいてきます。先生は鋭いまなざしを向け、しかし、何事もないかのようにその距離を縮めて行きます。二人がすれ違うその瞬間、先生は何も見てはいませんでした。
「挨拶もなしかね?矢崎君。」
先生はその瞳の色をよりいっそう冷たいものに変え、足を止めました。私は初めて、先生に恐怖を覚えました。
「あなたに挨拶なんて必要無いでしょう?」
「それくらい出来なくてどうする?相手に対して失礼だろう。」
「馬鹿馬鹿しい。」
「昔の君はもっと素直だったのに。いつからそんな人間になったんだい?」
「言わせるんですか?」
「別にかまわんよ。ああ、そうだ、君の発表、見せてもらったよ。実に良かった。私も負けていられないねえ。」
「何なら、代わりに出ましょうか?あなたより理論的な発表をする自信がありますよ。」
「今更君が壇上に立っても意味はないんだよ。会場は落胆するだろうね。期待していた私が出てこないのだから。それに、君が話そうとする内容はすでに世に出た物。私の模倣としか映らないのだよ。たとえ君が正しくとも。よく知っているだろう?世間が求める物はブランド、必要なのは名前なんだよ。君でなく、私の。坂上京一という名前が。」
先生の口元が微かにわらいました。
「人って、どうしてこんなにも虚しい生き物なんでしょうね?欲におぼれ、地位や名誉、金儲けのために必死になって。」
「君もその一人じゃないのかね?」
「一緒にしないでください。僕はそんな低レベルな物に興味はありません。」
「強がりだな。自分の不甲斐無さを認めるのが怖いだけだろう。それとも他に望む物があるとでも言うのか?」
「ええ、ありますよ。あなたには一生かけても理解できないものですよ。」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!お前にそんな――」
「これ以上話しても時間の無駄です。失礼します。」
先生がまた出入口に向かう後ろを、私は少し距離を置いて着いていきました。
朝の雨が嘘のように晴れわたり、太陽の光が水溜まりに反射していました。