7話:告白
先生のいったことは、やっぱり正しかったようです。試験を甘く見ていた私は、やってもやっても終わらないという重圧と、それでもやらなければならないという息苦しさで悪夢のような日々を過ごしています。家に帰ってもわからないことばかりでいっこうにはかどらず、結局先生の部屋で勉強を続けてきました。
先輩達にも教えてもらいながら、何とか絶望的な状況からは脱出しましたが、今までにない情報量のせいで頭の中には絡まった糸のかたまりが、私に挑戦するかのごとく居座っています。どれだけ詰め込んでも、これを使いこなさなければ何の意味もないのに。
中島先輩も井上先輩も、何でもないようにクリアしてきたことが、私にはこんなにも難しいなんて……。それだけ、この部屋の人間のレベルが高いんだと思うしか仕方がありません。勉強する、と言うことを前提にここにいる私は、その違いがそのまま相手との距離になるような気がしました。そうやって、先生との距離も今まで以上に感じずにはいられませんでした。
「だからって、テストには何の関係もないけど……。」
誰もいない研究室で独り、再度、教科書、ノートと格闘を開始しようと試みましたが、一度脱線してしまった頭はそう簡単に戻るものではありません。かといって別に頭をはたらかせる余裕もないのです。教科書を見れば意味不明な文章が並び、ノートを見れば流れのないただのメモが散らばり……拒否する頭に同情したくなるのも事実です。必死に解読を試みても、少しすれば、それは睡魔との戦いに変わるのです。授業中眠たくなるのは、頭がそれを拒否しているから、と先生が言っていましたが、まさにそのとおり。
ほっぺたをつねってみたり、たたいてみたり、無駄にペンを走らせてみたり……何をしても眠さが優勢で、ついに、目を閉じ、手からペンが抜け落ち……。
「ぅん……やばい、寝てた…。……ん?」
目が覚めて、一番最初に背中の暖かさを感じました。先生のグレーのスーツの上着がかけられていました。胸の奥にも暖かさを感じました。
「やっと目が覚めましたか?」
実験室から戻っていた先生は、いつものように机に向かっていました。
「何度声をかけてもたたいても起きないから、どうしようかと思いましたよ。その割に寝言だけはしっかりしてましたし。」
「へ…?私、変なこと言ってませんでしたか?」
「僕を、何度か呼んでいました。」
一瞬で顔の温度が上がり、恥ずかしさをこらえる反面、心の奥は、凍るような気持ちでした。私の先生に対する気持ちは、絶対に知られてはいけないものだと思ったのです。知られてしまえば、すべて消えてしまうような気がしていたのです。それを勘づかせるような事を、無意識のうちに繰り返していた。自分の中で何かが壊れていくような感じがしました。
「なんで、泣いてるんですか?」
「ぇ……?」
知らぬ間に流れていた涙は、壊れてあふれ出した感情でした。
「ずるいですよ。そうやって、泣いてごまかそうとするなんて。」
先生のまっすぐな瞳に耐えられなくなって、うつむき、あふれる涙も気にせず、ただ胸の奥の痛みに耐えていました。
「あなたはいつもそうです。何でも一人で悩んで、解決しようとして。その反面、必死で何かを隠すように、悲しい目をして。自分のことに向き合うその気持ちは大切です。でも、結果、自分を苦しめるだけならば、誰かに相談することだってできるでしょう?つらいんです、ただそれを見ているのも。何に悩んでいるのかは知りませんけど、話を聞くくらいなら僕だってできますし……」
「先生にはわからない!わかるはずがない!何も、何も……。」
「またそうやって。僕だって、聞かないことにはわかるわけも無いじゃないですか?」
「だったら、先生?私が先生を好きだと言ったら、どうしますか?……ね?何もわかってなんて、くれないでしょう?」
ぴたりと先生の動きが止まりました。同時に先生の手を離れたペンが机から転がり落ちました。先生はそれを拾うと、私の正面に立ちました。
「……受け止めますよ、全部。きちんと、答えますから。」
「先生?私は慰めなんていらないんです。だから、そんな風に…」
「慰めなんかじゃありません。僕がどんな気持ちでいたかなんて、知らないでしょう?話さないと、何もわからないんです。ね?」
先生の言葉はひどく優しくて、心の中が解放されるように不思議な感覚が広がりました。
「他の誰にも許されない気持ちも、あなたなら、許してくれますね?本当に、あなたを大切に思っているんです。」
返事をしたいのに、のどが詰まって声は出ません。代わりに止めどなく涙が流れていきます。もどかしくて、でも、どこか幸せで……。こんな気持ちを私は知りません。
「もう泣かないでください。」
そっと先生の指が触れ、私の涙はぬぐわれました。
テスト最終日は私の嫌いな雨です。服や鞄がぬれて大変な思いをしているクラスメイトも何人かいます。しかし、テストが終わった感動はその憂鬱な気持ちの何倍も大きいようで、教室には歓喜の声がこだまします。私の元にはすぐさま中島先輩からメールが届きました。『テストの打ち上げするから、ざきっちの部屋へ集合』だそうです。本当にこの人は元気です。それでも、テストはきちんとこなしていたんだと思うと、自分が悲しくなってきます。あの日以来、先生の部屋で勉強するのも集中力が持たなくて、絶望的な状態になってしまったのです。どれも自業自得なのですが……。この際、そんなことはすべて忘れて、打ち上げに全力投球します。
「こんにちは……。」
中島先輩が待ちくたびれているだろうと、急いで部屋に行きましたが、そこは予想外に静かで、いつものように先生が机に向かっていました。
「中島先輩たち来てないんですか?」
「さっきまでいましたけど、うるさいんで追い出しました。僕は仕事があるのに、車出せって……無理に決まってるじゃないですか、ね?」
「そうでだったんですか。ストレス解消と思ってたんですけど。今頃先輩達遊び回ってるでしょうね。」
「かわりと言っては何ですが、今晩、一緒に食事なんてどうですか?少し遅くなるかもしれませんけど、それでも良ければ。」
「喜んで!」
初めての二人きりの時間がうれしくて、さっきまでのことがすべて吹き飛んでしまいました。そして、さらに、あの瞳に愛しさを感じるのでした。