6話:挑戦
静かな実験室で一人、慣れない実験器具を前にして私は作業をしていました。中学校や高校の理科室のように人体模型やホルマリンに入れられた標本という不気味なものはありませんが、誰もいない実験室は、音もなく静かでした。代わりに、薬品の混ざり合ったような独特のにおいがし、あまり気分の良いものではありませんでした。
私の前には、先生の、お世辞にもきれいと言えない字で書かれたメモが一枚だけ残されていました。当の本人は、研究室でレポートや試験の採点をしたり、学会の資料をまとめているようです。経験のない私にとっては、粉末を天秤ではかり取り、水に溶かすだけでもかなりの神経を使う作業です。これが失敗してしまえば、学生実験もすべて失敗してしまうわけで、プレッシャーも緊張もはかりしれません。
今更ですが、なぜこんな事を先生は私に任せたのか、全くわかりません。
「古谷さん?終わりましたか?」
「わっ!?」
突然背後から先生の声がし、びっくりして心臓が飛び跳ねると同時にはかり途中の試料をこぼしてしまいました。幸い、薬品はすべて白衣に落ちただけで私は助かりましたが、先生の表情は曇っていました。先生から借りていた白衣には、無数の粉が散らばっています。
「それ、染料の一種なんですよ。派手な模様がついちゃいますね。」
「すぐに洗いますから!」
私は流しで白衣をこすりましたが、先生の言うとおり、見事に色がにじみ、赤い模様が広がりました。
「ごめんなさい。」
「大丈夫ですよ。そんなものは。ところで、調製は全部終わったんですか?」
「いえ、まだ、全然……。」
先生は苦笑いを浮かべながら言います。
「もう、日が暮れ始めてますよ。」
「うそ!?」
背後の窓を見ると、白衣のように、雲に赤色がにじんでいました。
「帰りますか?」
「ちゃんとやります。」
「無理しちゃ駄目ですよ。」
「無理、じゃないです。」
泣きそうな気持ちでした。一生懸命やったつもりでしたが、結果的にたいした手伝いもできず、挙げ句の果てに迷惑を形に残してしまったのです。先生の期待も裏切ったような気がしました。無論、端から期待なんてされていなかったんでしょうが。
「じゃあ、続きをお願いします。」
先生はそういって私を再度天秤の前に座らせ、作業を再開させました。
作業を初めて、ほんの数秒で、先生はあることに気づいたようです。
「薬品、触るの初めてですか?」
「はい。」
私は即答します。
「それならそうと言ってくれれば良かったのに。すごく手つきが危ないから、もしかして、と思ったんですけど。そうですよね。まだ、実験は無いんですよね。」
先生はとてもおかしそうに笑って言うので、私は恥ずかしくなってきました。
「ごめんなさい。こんなに時間がかかるとは思ってなかったんで。古谷さん、よっぽど不器用なのかと思いましたよ。」
「え?私、そんな風に思われてたんですか?」
「失礼しました。全部僕が悪いんです。天秤の使い方も間違ってますよ。」
「えぇ!?」
「全部やり直しですね。」
そういって先生は私の横に座り、別の試薬を天秤に乗せながら説明をしてくれました。瓶から天秤へと薬品を移すその手つきは、まるで作法を教えるかのようにきれいな動きで、私は見入ってしまいました。しかし、数値を読み取りメモをしたその文字は、やはりあの崩れた文字でした。
きちんとやり方を覚えた私は、先ほどの自分からは信じられないほど器用に作業をこなしていました。先生も作業に加わり、気がつけばすべて終わってしまったのです。私が一人で何時間もやっていたことが、二人で、たった数十分で終わってしまったのです。
さっきまでの時間はいったい何だったんだろうと、無駄な時間を嘆きましたが、良い経験になったと前向きにとらえるしかありませんでした。
私の知らない先生を少しでも知りたいと思っていたのに、予想以上に壁が厚く高くあることに気づいただけでした。それでも今は、そんな壁を何とかするために、私なりの努力をしなければならないと思うのです。その気持ちが、私の駆動力であることに変わりありません。きっと、こういうものがあるから進める、と強く感じたのです。
「終わっちゃいましたね。こんな事ならきちんと説明しておけば良かったですね。」
「もう覚えましたから、大丈夫です。いつでも任せてください。」
調子の良いことを言って、また失敗するのは目に見えていますが……。
「また、機会があればお願いします。」
先生の一言が、うれしくてたまりませんでした。
「ところで、古谷さん。テスト勉強の方は進んでますか?無駄に時間使わせちゃって、予定狂っちゃいませんか?」
「テスト……?まだ先じゃないですか?」
「もう二週間前ですよ。そろそろやり出さないと、結構難しいですよ。」
「……頑張ります。」
一気に現実に引き戻されてしまいましたが、テスト中も遠慮なしに先生の研究室に通い続けるつもりの私は、たいして苦にもなりませんでした。むしろ、それを口実に、さらに時間を作れるような気がしていたのです。少しずるいような気もしましたが、チャンスは最大限に生かすべきだとも思ったのです。
「さて、そろそろ帰りますか?」
「はい。」
その日の私は素直に家に帰りました。