5話:知りたい
太陽が真上に昇り影が小さきなるお昼間。私は久しぶりに学食の長い列に並んでいました。普段はお弁当を作ったり、コンビニでパンなどを買って食べているのですが、今日は寝坊してしまったので、この列に参加しなければならなくなったのです。
布団に入る時間は今までと変わりないのですが、それからなかなか眠りにつけず、結果、寝坊することが多くなっています。原因ははっきりしていますが、今の私にはどうも出来ない気がして、むしろ、その勇気がなくて何も出来ないでいます。昨日の夜のように、先生のことばかりが頭に浮かび、ただ自分の不甲斐なさに涙して、泣き疲れて眠る日も少なくありません。
そんな事を考えていると、また悲しくなってきました。そんな事を考えても意味はないのに……。悪循環とはこの事だと思いました。
その間も列は順調に流れ、学食で人気のカレーライスの匂いが近づいてきました。もちろん私もこれのために並んでいます。
やっとの思いで列の先頭になり、お目当てのカレーライスを受け取り席を探します。久々に見る学食は校内同様、明るい雰囲気でとても賑わっています。一通り見回してみても、予想以上に人が多く、特に知った顔も見つからなかったので空いているテーブル席に適当に座りました。
私が半分ほど食べ終わった頃には、広い学食もほぼ満席になっていました。
「隣、いいですか?」
女の人の声で相席を求められ、私は「どうぞ」といいながら顔を上げました。
「あれ?古谷じゃん。久しぶりー!!」
「春恵先輩!?」
同じカレーライスを手に隣に座った春恵先輩。とても明るく元気な人です。同じ高校出身の2つ上の先輩でよくお世話になっていましたが、先輩が卒業してからは一度も会っていませんでした。大学まで同じだとは知らなかったので、こんなところで会うなんてびっくりです。
「元気そうだね。どう?もう2ヶ月くらいたつけど、授業とかついていけてる?」
「今のとこはなんとか。」
「まあ、そうだろねえ。矢崎の研究室にいるんだって?古谷も頑張るねー。」
「へ?」
私の口からマヌケな声がもれました。
「あー、中島君に聞いたの。いるでしょ?4年の。」
「いますけど……中島先輩と知り合いなんですか?」
私が問いかけると、なぜか春恵先輩も疑問があるような顔をしてスプーンをくわえたままじっとこちらを見てきます。私、変な質問しましたか?
「あれ?知らない?あたし、中島君とつきあってんの。」
「知りません。」
「そうだったの?てっきりみんな知ってるものかと思ってた。」
「みんな?」
「うり坊も矢崎も知ってるよ。なんで古谷だけ知らないかなぁ?」
「中島先輩、2人とも仲良いですからね。」
「古谷は仲悪いの?」
「悪くはないですけど……」
「ないけど、なに?リンちゃん、俺のこと嫌い?」
「へ?」
噂をすれば何とやら……。中島先輩がタイミング良く現れて話に参加しつつ、春恵先輩の前に座ります。しかし、春恵先輩がいきなり中島先輩をスプーンで指し、中島先輩がびっくりして固まった瞬間に勢いよく新たな話を始めました。
「やっと来た。言いたいことがあったの!今日うり坊から中島君の代わりにお金請求されたんだけど。なんかゲームのお金とか言ってた。ちゃんと借りたお金は返しなさいよー。しょうがないから払っといたけど。ちゃんとあたしに返してよ!」
「え、あー……忘れてました。」
「しっかりしてよ!」
中島先輩が4年生で、春恵先輩が3年生で……中島先輩の方が年上のはずなのに、春恵先輩にお説教をされる姿は、お母さんに怒られる小学生に見えてしまいます。でも、中島先輩にはこのくらいビシッと言う人がいないと駄目な気もします。やるときはやる人なんですけどね。
2人の会話はその後も続き、私は完全に視界から消えてしまったようです。空いたお皿を手に、音を立てないようにゆっくりと席を立ち、その場を離れました。その間も2人は全く気づくことなく会話は続きます。本当に仲が良いんだと思いました。ちょっと羨ましくも感じます。
午後の授業が始まるまでまだ時間があるので、図書館に行くことにしました。真面目に勉強をするつもりなんて一つもありません。なんとなく雑誌を読みたいだけです。
図書館に行くと井上先輩が雑誌コーナーの前に立っていたので、特に読みたい雑誌があるわけでもない私は先輩に声をかけてみました。
「井上先輩、こんにちは。なんか難しそうなの読んでますねー。」
のぞき込むと、それは雑誌とは思えないほど文字が詰まった白黒のページでした。
「びっくりしたー。リンちゃんか。これね、化学の専門雑誌なんだけど矢崎先生の記事が載ってんの。」
「先生の?」
驚いて再度のぞき込みましたが、あまりの文字の量にいくら先生の記事であっても読む気にはなれませんでした。私なんかが読んでもわかりそうもない専門的な内容だと察したのもあります。
「読んでみたもののあんまりわかんないんだよね。先生に直接聞いた方が早かったかも。」
「矢崎先生ってそんなにすごい人だったんですね。」
「企業の研究開発にも参加してるらしいよ。よく学会の発表や講演会なんかにも出てるらしいし。研究生は長期休みにそういうのについて行けるみたい。」
「へえ。いろいろあるんですね。」
「ちょっとあこがれでもあるかなぁ。まだまだ道は遠いけど。じゃあ、そろそろ次の授業行くね。また放課後に!」
図書館内にしては大きな声を出して手を振った井上先輩は軽い足取りで去っていきました。
結局何も読まないまま、私も図書館から出て授業に向かいました。
午後の授業は私の嫌いな数学です。チャイムが鳴る直前になって講義室に入ったため空いている席は最前列のみ。仕方なくそこに座って教科書を広げました。
いつも数学の先生はチャイムと同時に授業を開始するのですが、今日はどういう訳かなかなか来ません。このまま授業が無くなってしまえばいいのに、と思いましたが、そうはいきませんでした。
ドアのガラスに人影が映り、ゆっくりとそれは開きました。
しかし、そこに現れたのは数学の先生ではなく矢崎先生でした。
「数学の岡野先生は体調をくずされて、今日は休みだそうです。岡野先生から伝言がありますので、伝えますね。」
そういって顔を上げた先生と、目が合いました。
「古谷さん、ちょっと教科書見せてもらえますか?」
「はい。」
教科書を先生の方に向けて差し出します。
「教科書73ページを開いてください。練習問題3,5,6を解いてレポートとして来週の授業で提出、です。以上、これで授業終わります。」
「え?」
後ろからは喜びの声が聞こえ、講義室をいち早く出ようと支度をする音が響きます。
「先生、いくら代講でもこんなので良いんですか?」
すると先生は一枚の紙切れを教科書と一緒に差し出しました。
見ると岡野先生の字で、課題を伝えたら学生を帰しても良い、などと書かれていました。
「本人が良いっていてるんだから良いんでしょう?それに、数学のわからない僕が一時間いたところで何の意味も無いじゃないですか。意欲のある学生は見張りがいなくてもやるべき事くらいきちんとこなします。やらなかった者は自業自得。」
「私は後者ですね。」
そういうと先生は否定せずに笑っていました。私が真面目な学生でないことは十分承知しているようです。
「ところで、この後も授業ありますか?」
「いいえ。」
「じゃあ、少し手伝ってもらえませんか?明日の学生実験の試料を準備しておきたいんです。」
実験の手伝いをするのはこれが初めてでした。1年生のうちは実験をすることはほとんど無いので手伝えるほどの知識もありませんが、先生の手伝いなら喜んでやりたいと思いました。でも、今日はそれだけではありませんでした。図書館で井上先輩に教えてもらった先生の記事。私はまだ、何も先生のことを知らないと思ったのです。いろいろな表情を知っても、いつも見ていても、先生の一番好きなものは何一つ理解していない。そう思ったのです。先生の研究ではなく学生実験の手伝いですが、それでも、少しだけでいいから先生の夢の部分にふれてみたいと思いました。