2話:人間関係
古谷鈴音、大学一年生、自称恋する乙女です。
とはいっても、今現在片思い中ですが……。そのお相手はすぐそこのデスクで難しそうな専門書を読んでいる先生、矢崎考輔さんです。
先生は化学で有名なこの大学の卒業生で、私の大先輩でもあります。卒業後は大学院に進学し、そのときの研究で注目され、先生として大学に戻ってきてからもその期待は変わらないようです。事実、先生の研究室に入る人達はほとんどが成績優秀で、研究者や専門家として生きていくために、大学院への進学を考えている人達なのです。
今年研究室に入ったのは3人。3年生で卒研見習の西田先輩と井上先輩。それと4年生の中島先輩です。3人ともやっぱり成績優秀で、進学希望のようです。私は毎日のように研究室に来てはいますが、卒研生ではありませんし、この研究室に入れるほど頭も良くありません。午後は選択科目がメインになっているので、あまり授業をとっていない私は時間が空いています。その時間を利用して、先生に会いたいが為にここへ通っているようなものです。最初の頃は先生の授業はもちろん、その他の授業も説明がわかりやすい事を理由に質問に来ていました。それでも邪険に扱わないのが先生の優しさ、なんて思ったり。出会った時もそうでしたが、最近は、今のようにレポート提出のチェックや小テストの採点などを手伝ったりもしています。先生にとって私はお手伝いさん的な役割のようです。
「やっほー、ざきっち!!お?古谷ちゃんも来てたんだ?早いねえ。」
「中島先輩!こんにちは。」
「ご機嫌ですね?何かいいことでもありましたか?」
「さすが、ざきっち!じつはさ――」
研究室に勢いよく飛び込んできたのは、4年生の中島先輩。スポーツマンで、夏が似合う感じの男の人です。去年から卒研見習いとしてこの研究室に入っていて、先生とも友達みたいな付き合いのようです。友達にはニックネームをつけるのが中島先輩流の礼儀らしく、先生のことをざきっちと呼んでいます。まだ私や3年生の先輩達にはニックネームがついていませんが、考え中との噂も……。変なのにならないことを願います。
「先生、レポートのチェック終わりましたよ。」
「ありがとうございます。全部出てました?」
「中島先輩のがありませんでした。」
「あ、あー……環境化学の?今から書いて出すから見逃してくれないかなぁ?」
「提出期限は絶対です。提出日、5日前ですよね?マイナス5点。」
「鬼だー、悪魔だー!」
「恋にうつつを抜かしているから痛い目見るんですよ。」
しっかりしてそうで案外いい加減なところがある中島先輩を指導しているんだと先生は言いますが、半分はいじめて楽しんでいるのだと私は思います。実際に中島先輩はリアクションがおもしろいので、友達にもよく遊ばれるのだとか。でも、先生がそういうやりとりをするのは中島先輩だけのようで、仲がいい証拠だとも思っています。別に先輩に嫉妬をするわけではありませんが、羨ましい気持ちはあるにはあります。私が卒研生になる頃には、先生と仲良くなれているといいんですが……。
「古谷ちゃん、今日はまだ3年来てない?」
「来てませんよ。」
「おっそいなー。もちろん、古谷ちゃんは来るよな?焼き肉。」
「は?」
何の話ですか……?
「聞いてなかったんかい!?研究室のメンバーで親睦を深めるために焼き肉パーティでもしようじゃないかって話。せっかくだから古谷ちゃんも一緒にさ。みんなの予定が合えば今日の夜でいいっしょ?」
「はぁ、私はいつでもいいですけど。」
「よし、決定!女の子が大丈夫なら男子は全員O.Kだな。」
その基準、よくわかりませんけど……。でも、こういうところが中島先輩らしさというか何というか。思い立ったが吉日、と言う言葉がありますが……毎日が吉日のような人です。
「先生も行くんですか?」
「ええ、もちろん。」
最近知ったことですが、先生はクールに見えますが、けっこう遊び心がある人のようです。よく中島先輩と飲みに行ったりするそうで、こういうイベントも大好きらしいです。
中島先輩がノリノリで今日の計画を話していると、ゆっくりとドアが開き、西田先輩と井上先輩が入ってきました。
「こんにち――」
「井上!焼き肉好きか?」
「は?好きですけど……?」
「じゃあ、決定!」
「西田!今日予定空いてるか?」
「特にありませんけど。」
「じゃあ、西田も決定。今日の5時半、みんなで焼き肉!!」
「ちょっと待ってくださいよ、先輩!俺、今日提出の課題があるんですけど。」
「そんなの関係ない。」
むしろ自分の課題も大丈夫なんですか?そんな気持ちも込めて先輩に指摘を。
「おかしくないですか?中島先輩。井上先輩の予定聞かずに決定なんて。課題が先に決まってるじゃないですか。」
「古谷さんの言うとおりです。学生は学業が優先ですよ。」
先生のその言葉に中島先輩はつまらなさそうな顔をしましたが、すぐに楽しそうな顔に戻って一言。
「じゃあ、課題手伝ってやるよ。」
「ありがとうございます。」
井上先輩も手伝ってもらえることがうれしいのか、笑顔でお礼を言って、2人で図書館に向かっていきました。
嵐の後って、まさにこういう状態でしょうか?研究室がとっても落ち着いた場所に感じました。
井上先輩は中島先輩になついていて、と言うより中島先輩のおもちゃといった感じで、仲良くやっています。でも、西田先輩はすっごくまじめなひとで、中島先輩の賑やかさが苦手なようです。現に焼き肉の意味もわかっていなかったようで、先生に内容を聞いてため息をついていました。
なんだかとっても不安なんですけど、大丈夫なんでしょうか?
井上先輩の課題に予想以上の時間がかかり、6時過ぎに焼き肉パーティは幕を開けました。
課題の手伝いでバテたかと思いきや中島先輩の勢いは止まらず、行きつけの焼き肉屋まで自転車で走ってきました。私たちが先生の車で走るのを追いかけるように……。それでもまだまだ疲れを知らない中島先輩の勢いは加速し続けているようです。すぐにお酒を注文して、最初のお肉が運ばれてきたと思ったら、全部を豪快に網の上にのせ焼きだしました。焼き肉と言うより、炒め物という状態です。
「よし、焼けた!みんな食べていいぞー!!」
「まだ赤くないですか?」
「牛だから食える!」
先生の忠告も聞かず、中島先輩はとっても楽しそうです。でも、楽しそうなのは井上先輩も一緒のようで……。半生のお肉に目を輝かせる姿は、うり二つです。普段はしっかり者な井上先輩のイメージが私の中で音を立てて崩れていきます。
その横で西田先輩は2人を無視するように、ゆっくりと箸を進めています。こんなんで本当にいいんでしょうか?
「中島はいつもこんなのですから、ほっといていいですよ。」
先生はそういいながら、ちゃんと焼けたお肉を取り皿にとって差し出してくれました。私は顔が赤くなった気がしましたが、暑さのせいにして、そのお肉を口に運びました。
「矢崎先生はとても有名な方で、研究も立派なのに、なんでこんな人ばかり集まるんですか?」
突然、西田先輩が先生に話しかけました。もちろん、中島先輩と井上先輩は食べることに夢中で聞いていません。
「なんででしょうね。でも、いつも真面目にしているのは無理ですから、こうやって羽目を外せることも大切だと思いますよ。」
「そうでしょうか?これは悪ふざけにしか見えないんですが。」
「こういう性分なんですよ、彼らは。」
「僕にはわかりません。」
「これを機に、視野を広げてみてはどうですか?」
「……。」
先生の言葉は、いつもより鋭く感じました。
「一般を心得た上で、例外を知ることも大切なことですよ。特に化学は例外が多くて困ります。」
先生は笑顔でした。
焼き肉パーティが終わり、私は先生の車で送ってもらうことになりました。中島先輩は大満足の様子でまた自転車を走らせ、西田先輩と井上先輩は近くの駅まで歩いていったようです。つまり、今、私は先生と二人っきりになったわけです。
なんだか気まずい感じがして、あまり話すことも思いつきませんでしたが、頭は一生懸命働いていました。そして、単純な質問を一つ。
「なんで先生は、化学を勉強しようと思ったんですか?」
「僕たちは、自然の上に生きているんです。化学も自然の物を元にして成り立っているはずなのに、そこから生まれた物たちは不自然です。それらを否定するつもりはありませんが、誰でも自然の風景を美しいと思うでしょう?それを少しでも守りたいと思ったんです。それが僕の夢でもあるんでしょうね。今は環境を考えた研究、開発に力を入れていますから、興味を持ったんです。」
その連なる言葉以上に難しい話のような気がしました。それと同時に、先生が遠く感じました。何となくここにいる私とは違うのだ、と。
「すごいですね。」
「なんにもすごいことなんかありませんよ。思うことは簡単です。それを実行するのが難しいんです。夢に向かう子供と一緒ですよ。」
そう話す先生は楽しそうな笑顔を浮かべていました。子供のような純粋なそれでした。
そんな話をしているうちに、もうアパートの近くまで来ていました。
「先生、ここでいいですから、ありがとうございました。」
「気をつけて。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
車から降りた私は、それが見えなくなるまで、ずっと見送っていました。
車が視界から消えて、頭の中にしっかりと残った単語。
「夢、か。」
今は、先生と一緒にいることしか考えられませんでした。