18話:あの海の向こう
冬休みも終盤に近づいた、一月三日。先生との久しぶりのデートの日です。
この日をどれだけ待ち望んだことか。休みに入ってすぐ、真っ先に先生の言いつけ通り、日々課題に取り組んでは順調にそれらを片付けました。後半に課題に追われるような心配が無くなった頃、地元に帰ってきた友達と連絡を取り合い、久々に集まったなかよしメンバーで女子会を開催して情報交換をし、おしゃれな友達と今日のための服を買いに行く約束をし……。何でこんなにも張り切っているのだろうと、思い返してみるととても恥ずかしいことをしているような気がするのですが、デート前に「今日は何着て行こうかな?」と考えるような時間は、恋する乙女にとって重要な時間だと思うのです。
近所のコンビニで待ち合わせ、先生の車に乗り込んでから二時間。高速道路を走っているのはわかるのですが、何処を走っても山ばかり。未だに行き先すら教えてもらえないので、私の脳みそは迷子になっています。
「そろそろ、何処に向かってるのかくらい教えてもらえないでしょうか?」
不安げに尋ねてみても、そろそろわかりますから、の一点張り。さっきからそのやりとりばかりを繰り返しています。
「地名見てもわかりませんか?」
「地理はめっぽう弱いので」
「それは困りましたね。目的地は小学生でも知っている場所だと思うのですが。」
「つまり、ものすごくベタな観光地へ連れて行かれるのでしょうか?」
「そう言われてしまえば、そうなんですが。ほら、もうすぐ。」
高速道路の出口案内に書かれた地名を見ても、全く見当がつかず、何処に連れて行かれるのか変わらない不安と、あまりにも地理がわからなさすぎる不安で押しつぶされそうになってきました。車はそのまま下道を走り始めたかと思うと、そこは意外にも都会な街並みで、観光地というイメージから離れていってしまいました。先生の性格からして遊園地なんてあり得ないでしょうし、てっきり温泉街だとか城下町だとかに連れて行かれるものかと思っていました。
結局車がたどり着いたのは、コインパーキング。
「はい、到着。都会は交通量も多いし、一方通行の道もあって複雑ですからね。ここからなら、おおかた徒歩でも回れるはずですから。」
そういう先生は珍しく張り切っていて、いつもよりも心持ち速いスピードで歩き始めました。もしかすると私の存在を忘れているのではないかと思うほど勝手に歩いていくので、私はついて行くのが精一杯な状態です。
そしてたどり着いたのは、海。とは言っても砂浜の広がる海ではなく、観光船やショッピングモールがある海辺の街。
「海、ですね。」
「見ての通り海ですよ。」
「で、何処の海なのでしょうか?」
普通ならもっと感動的に「わぁ、うみだ! キレー!」なんて騒げるのでしょうが、残念ながらそんなに広い心は持ち合わせておりません。怒りをたっぷりと含んだ視線を向けると、先生はあろう事か盛大なため息をついて、海を見つめてしまいました。
「古谷さんには観察力を身につけてもらわないといけませんね。ここに来る途中、ヒントとなる物、と言うよりも答えは沢山ありましたよ。地名から名前をつけた会社だったり、観光案内の看板だったり。全く気がつかなかったんですか?」
「先生が勝手に歩いていくので、見失わないように人をかき分けながらついて行くだけで精一杯でした。周りの様子を見る余裕なんてありませんよ。先生とは違うんです」
強い口調で言い返すと、先生は少し驚いたようで視線をこちらに戻し、少し悲しそうな表情を浮かべました。
「それはすみませんでした。僕はずっとここに来たいと思っていたので、気分が上がっているのですよ。ここはおしゃれな街ですし、女性の観光客にも人気のスポットなので古谷さんも興味があると勝手に勘違いしていました。でも、ここまで来てもわからないのですから、僕の選択ミスのようですね。お気に召しませんでしたか? 神戸は」
神戸? 神戸とおっしゃいましたね、今。
慌てて周囲三六〇度の景色を確認し、どこかで見たことあるようなないような、もやもやとした感覚がわいてきました。
「えーっと、もしかするとこの辺りって、観光ガイド雑誌なんかで表紙になっているような景色だったりするわけでしょうか? あのタワーとか妙な親近感を覚えますが」
「ご名答。良かった、多少は興味がおありのようですね」
先生は上着のポケットからケータイを取り出し、自慢げに画面を見せてきました。
「今のケータイって便利ですよね。これ、某有名観光ガイドが読めるサービスなんですけど、本を持ち歩くよりもコンパクトでいいんです。ケータイなら誰でも持ってますし、ガイド片手にいかにも観光客ですと言わんばかりの格好を避けられますから、スマートでいいと思うんですよね。」
得意げに語る先生のケータイには、このエリアの案内が表示されていました。もちろん、すぐそこに堂々たる姿で建っている神戸ポートタワーの見どころも書かれています。
「私にも見せてください。少しくらい、希望を出す権利はありますよね」
「どうぞ」
先生からケータイを受け取り、近場の博物館などの情報や、ショッピングに最適なエリア、おすすめカフェなどを見ていると、画面が切り替わり着信を知らせました。
「先生、菊池さんから電話ですよ?」
ケータイを差し出すと、先生は眉根をよせながらも電話に出て、相づちの変わりと言わんばかりにため息を連続しつつ話を聞いているようでした。
しかし、一度電話を切るとすぐさま別の相手に電話をかけ始め、先ほどよりは幾分か明るい声音で会話を始めました。しかも英語で。リスニング能力が低い私には最初の「Hello」が聞き取れただけで、後は英語であることを認識するだけで精一杯でした。
「失礼しました。行き先は決まりましたか?」
「決まりましたかって、先生が計画してくれてるんじゃないんですか?」
「僕は、ここに四時に戻れれば充分です。それ以外は特に」
なぜ? 行き先を告げないどころじゃなく、決めても無かったと言うことですか。先生のことだから分単位の計画をしてくれているものと思っていたのですが、私の見当外れでございますか。
「先生、一応お聞きします。今日というこの日は、いわゆるデートではないのでしょうか? 計画は全てまかせなさいと言うから、素直についてきたものの、こんな扱いはあんまりですよ。そんなに私のことがどうでもいいんですか?」
「どうでもいいなんてそんなこと。ただ僕は、古谷さんと共有できる時間があることが嬉しいだけなんです。年のせいかな? 観光地を巡るとか、そんなことより一緒にいられることに意味を感じるんです。学校やその周辺では、そんなこともまともに出来ませんでしたからね」
少し照れくさそうに言いながら、先生は左手を差し出しました。
「手、繋ぎましょう? さすがに知り合いにも見つからないでしょうから」
その言葉に私は迷わず手をとって、不覚にも満面の笑みを浮かべてしまいました。
「しょうがないので、これまでの不満は無かったことにします。でも、今からは私の言うこと全部聞いてくださいよ」
完全に先生の術中にはまってしまったと思うのは、気のせいでしょうか?
それから私は一切遠慮することなく、異人館やらんぷミュージアムなど気になった場所へと連れ回し、道中見つけたカフェでデザート付きのランチを味わい、モザイクでショッピングを楽しみ……。全てのお会計と荷物持ちを先生に押しつけ、いつギブアップと言い出すか楽しみにしていたのに、結局先生は最後まで私に付き合ってくれました。
「もうすぐ四時ですね」
先生は時計を確認すると、ここからは僕の時間ですと言い、私の腕を引っ張り歩き始めました。
「何処に行くんですか?」
「遊覧船ですよ」
何種類もある遊覧船の中から、先生は迷わずお目当ての船を見つけ、チケットを買うとすぐに乗り込みました。
船内は自由席のようで、景色がよく見えそうな窓際の席に座り、出発を待ちました。
街の方を眺めると、さっきまで自分たちが歩いていたはずの街とは全く違う場所のように見えてきました。少し見る位置を変えただけで、こんなにも雰囲気が変わるものかと思いましたが、海の上という非日常が心の中に特別な効果を発揮している気がしました。
でも、それだけではありません。寒空の下、先生が隣にいてくれること、この非日常を共有していること。それが一番大きいのだと感じました。
太陽が少しずつ西の山々に迫っていき、こんな楽しい時間がもうすぐ終わってしまうのかと、少し寂しい気持ちがこみ上げてきました。
「もうすぐ出発みたいですよ」
先生の声が聞こえると同時に船はエンジン音をとどろかせ、ゆっくりと動き出しました。
流れるように景色が変わり、さっきまでいたエリアを過ぎると、大型船の造船工場が、少し離れた場所には明石海峡大橋まで見えてきました。続いて神戸空港を過ぎ、船が徐々に港へと戻ろうとする頃には、太陽が沈みライトアップされた神戸ポートタワーや観覧車、無数の電球で輝く街並みが広がっていました。
「すごい!」
「この時間がベストなんですよ。日中の街と夜景の両方が楽しめて。少しは僕のリサーチも役に立ちましたか?」
「さすが先生です。見直しました」
本当はありがとうと言いたかったのですが、なんだか照れくさくなって、心の中だけにとどめておきました。届かないかもしれないけれど、意味はあると思いました。
船を降りると、現実に戻されたような寂しさがこみ上げてきましたが、自分たちを包む夜景を改めて眺めていると、そんな気分もすぐに飛んでいってしまいました。
「古谷さん、まだ、時間は大丈夫ですよね?」
「はい」
「素晴らしい景色を楽しむために『夜景見えるレストラン』が必要だと思いませんか?」
「大賛成です!」
先生に連れられて入ったのは、ホテルの上階に位置する高級レストランでした。
海に近く周りには景色を邪魔するものがないので、まるで夜景を独り占めしているかのような気分です。料理はフルコースでどれもおいしく、今まで食べたことも無いような物ばかり。しかしながら、ただの庶民大学生の私は、テーブルマナーを意識してしまうし、周りがセレブばかりに見えて場違いな気がして、緊張感がいつまで経っても抜けていってくれません。
一方先生は慣れた手つきでフォークとナイフを操り、ごく当たり前に食事を楽しんでいる様子。
「せめてもの罪滅ぼしに、と思っていたのですが、口に合いませんでしたか?」
「いいえ、おいしいです。でも、結構ボリュームがあるので。それよりも、罪滅ぼしって何ですか?」
この場にそぐわない単語に、妙なひっかかりを感じました。
「これまで古谷さんを振り回しては沢山迷惑をかけてきたな、と反省しまして」
「どちらかと言えば振り回してきたのは私の方だと思うのですが。それに、そう思うのであれば、この先挽回していってもらえれば充分ですよ」
「そうかもしれませんが、時間がないのですよ。この先と言っても、すぐに春休みに入ってしまうじゃないですか。学生にとっては一年で最も楽しい時期かもしれませんが、こちらにとっては最も忙しい時期でもあるんです。卒業研究のまとめや年度末試験、休みに入れば追試もしないといけないんでしょうね。来年度の新入生のこともありますし。やること山積みですよ。そんなわけで大変申し訳ないのですが、僕には時間がありません」
「そうですか」
それは暗に、私と会う時間は作れないと言うことで、しばらくはこういう楽しい時間も無くなることを意味しているのでしょうね。
「すみません。本当はこんないい訳じみたことを言いたかった訳じゃないんですが」
先生は独り言のようにつぶやいて、視線を遠い海へと向けました。
「先生は海が好きなんですね」
「えっ? そう見えますか?」
本人は全く自覚がなかったようで、驚いた表情を浮かべています。
「以前も、突然海に行きたいとか言って、近くのマリーナに行ったじゃないですか」
「そう言えばそんなこともありましたね」
そう言いながら先生はまた視線を窓の外へと向け、遠く遠く空と海が交わる場所、真っ暗な夜の海を見つめていました。
「海は、繋がっていますから」
先生が見つめる先。正確には見ようとしている場所。その場所を私が知るのは、三ヶ月後のことでした。
18話、読んでいただきありがとうございます。
かなり長い時間をかけてだらだらと進めてきましたが、のこり2話と番外編で終了予定でございます。行き当たりばったりな作品ですが、気長におつきあいいただけるとありがたいです。