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16話:変化の兆候

 時間は絶えず変化します。でもそれを細かく区切っていくと、それは誤差とも言えるような微々たる時間の連なりでしかありません。その一つ一つは変化していないのに等しいほどの時間です。それらを組み合わせた時間は、結局、変化していないのです。

 大学にいる間の時間の変化は最小限のものだと思っていました。時計の秒針は動き、朝が来て夜が来る。季節が変わる。大学にいるからこそ、そこで保証される時間があると思いこんでいたのです。それは先生との関係。この空間にいる以上、それは変わりないものだと心の何処かで思いこんで安心していたのです。

 でもそれは違ったんですね。

 先生の中では、もう、とっくに変わり始めていたのです。

 変わらなかったのは私だけ。変化を拒んだのは私だけだったのです。





 吹く風は涼しさを増し、時には寒さを感じるようになりました。季節が変わっても私の生活に大きな変化はありません。朝は目覚ましにたたき起こされ、駆け込み乗車をして何とか遅刻せずに大学へ行き、授業に出て、でも眠くてうとうとして。なんだかよくわからないうちに午前の授業が終わり、気づいたら午後の授業も終わり、私はすぐさま先生の研究室に駆けつけるのです。

 今日もいつものように先生の部屋に向かったのですが、またしても見覚えのないスーツ姿の男性が先生と話し込んでいるようでした。私は特別な用事があるわけではないので、真剣な話の邪魔をしてはいけないと思いすぐに引き返そうとしました。しかし、その様子を見ていた男性はドアを開け、不思議そうな顔をして「どうしたの?」と一言。

「あれ、井上先輩……ですか?」

「他に誰がいるの?」

 久しぶりに見る井上先輩は、スーツをきっちりと着て髪をきちんと整え、なんだか別人のようでした。私は声をかけられるまで、先輩だとは全く気づかずにいたのです。

 私は少し顔に熱を感じながら、先生の部屋に入り極力平生を装って先輩が座っていた椅子の隣に腰掛けました。

「知らない人かと思ったんだ?」

「……そうです。」

「ひどいなぁ。俺は今、就職活動をする真面目な学生なの。これでも結構苦労してるんだからね。」

「就職活動? あまり先輩に会わないと思ったら、そういうことだったんですか。さすが先輩、行動に移すのが早いですね。」

「早くなんかないよ。世界的な不景気のせいで結構苦しい状態にあるんだから。学校にくる求人も少なくなるし、ある程度は自力で探さないといけないしね。それを思ったら早すぎるなんてことはないし。自分自身が失敗しないためにも説明会とか見学会とかがあれば積極的に参加すべきだとは思うし。でも交通費も馬鹿にならないんだよね。場合によっては一日に同じ方面の会社を何社も回って交通費節約してみるとか、計画も練らなきゃいけないし。家ではエントリーシート書いたり、ネットとかで情報収集してみたり、なんだかもういっぱいいっぱい。」

 大学を卒業したら、それなりに仕事には就けるだろうと考えていた私は、井上先輩の話を聞いて、少し不安になって来てしまいました。先輩のように成績が良く活発なタイプの人ですらこんなに苦労するのなら、勉学は人並み以下、その上履歴書や面接でもアピールできないであろう私の未来はどうなるのでしょうか。

「参考のために教えてください。私が就職するためには、今のうちに何をすべきでしょうか。」

「資格を取るとか? 筆記試験や面接のためには、文章を書く、話す能力を鍛えるとか。あとは常識を身につけること、とかかな。」

「なるほど。」

 ここは少し、真剣に将来について考えるべきかと思い悩んでいると、急に先生が笑い出しました。せっかく真面目な方向へ切り替わろうとしていた頭は、すぐに元の状態に戻ってきてしまいました。

「古谷さん、あなたにもっともっと大切なことを教えてあげましょうか?」

「はい。何でしょうか?」

「まずは進級して卒業することです。」

「リンちゃん、そんなにピンチなの?」

「はぁ、まぁ、どうですかね?」

 現実って、厳しいですね。

「あっ、そろそろ俺行きますね。就職指導の先生と約束があるので。」

 部屋を出て行く井上先輩の姿が、いつもよりしっかりとしたものに見えて、余計に自分だけが取り残されたような気分になってしまいました。

 不意にため息をついた私の前に、先生がお菓子の詰め合わせを差し出しました。以前菊池さんが来たときに置いていった手みやげのようです。私はその中からマドレーヌを一つ取り、無言で食べました。

「まだ思い詰めて考える必要は無いんじゃないですか? それより、本当に、進級の方が大事ですよ。」

「そうかもしれませんけど、中島先輩は毎日卒研頑張ってるし、井上先輩は就活で必死だし。そうやって、いかにも目標に向かって努力してるっていう人たちを見てると、自分だけが取り残されているような気がするんです。」

「彼らはそういう時期なんだからしょうがないでしょう。」

「そうかもしれませんけど。」

「じゃあ、目標を作りましょう。ちゃんと進級すること。決定ですね。」

「それは目標とか言う以前の問題じゃないですか。」

「でもそれが危ないんだから。勉強頑張って進級して、僕を安心させてください。」

 そんな風に言われると、嫌とは言えなくなるじゃないですか。進級は当たり前のことだとは思うのですが、それが私にとっては大きな壁であるのも事実です。頑張って勉強して、単位を取って、それが先生のためにもなるのであれば、私は本気でやりましょう。とても単純な思考回路ですが、先生のためと思うと何でもできる気がするのです。

「頑張ります。」

「それじゃ、最初にあさって提出のレポートに取りかかることをおすすめします。」

 半ば忘れかけていた先生の授業の課題。私が全くやっていないことを先生は見抜いていたのですね。

「それでは、今日は帰って課題をこなすことにします。」

「気合い十分ですね。期待してますよ。」

「まかせてください。」

 恋する乙女、古谷鈴音。今日からは真面目な学生になります。





 翌日、私はいつものように先生の部屋に転がり込んでいました。真面目な私はほんの数時間しか持続力を持たなかったのです。

「先生、やっぱり無理です。机に向かう時間は、やはり限界というものが存在します。」

「それはそうでしょう。二十四時間机に向かうなんて不可能ですし。そもそも無理して勉強する必要なんて無いんですよ。やるべきことをきちんとこなす。これだけと思うかもしれませんが、それこそが真面目な学生の姿だと思うのですがね。」

「それを言うなら先生、私はきちんと課題はこなしていますし、真面目な学生じゃないですか。」

「やるべきことは課題だけではないでしょう? それより小テストの方が実際のウエイトも大きいんじゃないですか?」

「おっしゃるとおりです。でも、頑張ってもどうしようも無いことはあるのです。テストが難しすぎるとか、先生が意地悪だとか。」

 だらだらといいわけを並べようとする私に、先生は真剣な眼差しで言いました。

「結果を出しなさい。」

 それができたら苦労しませんよ。心の中ではそういってみたものの、先生の瞳の温度が下がるのを感じた私は、その言葉をぐいと飲み込みました。

「学生のうちに得るものとして、過程は大切なものです。ですが、社会に出て求められるのは常に結果でしかないのです。どんなに頑張っても努力をしても、結果が出なければそれは何の意味も持たないのです。形だけ真面目なふりをしても結果が出ないのであれば同じことです。古谷さんは勉強に関しては不真面目です。だけど、人としては真面目だと、少なくとも僕は信じています。」

「意味がよくわかりません。」

「とにかく結果を出せばいいだけのことです。」

「結果、結果という意味がわかりません!」

 私は不意に声を荒げて言い返していました。それでも、先生の冷たい眼差しに動じる様子は全くありません。

「先生はいつも難しい話ばかりですね。私には全く理解できません。言いたいことがあるならはっきりとわかるように言ってください。」

「わからないのはあなたが子供だからです。努力を形にしなさい。それだけです。」

「もういいです。結果でも何でも出せばいいんですね!」

 先生の煮え切らない様子にどんどん腹が立ってきて、私は研究室を飛び出しました。

 




 それから私は、少しだけ努力をしました。

 腹が立つのと悔しいのと、なんだかよくわからない感情に押され、先生になんか頼らないと思いながら過ごしました。その結果、研究室にもほとんど顔を出さなくなりました。課題や小テストは極力自力でやろうと思いました。わからなければ調べる、考える。自分では解決できないときは納得いくまで教えてもらう。いままでぼろぼろで、相性が悪いと思いこんでいた先生の小テストで点数がぐんと上がったとき、自分の努力した時間に充実を感じました。

 今までの私は、きっと先生に甘えすぎていたのです。わからなくてもつまずいても、先生が助けてくれるとそればかり思っていたのです。

 それなのに今は、先生がいなくても大丈夫、そんな強気さえ生まれてきたのでした。

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