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15話:心

 試薬類の混ざり合った独特のにおいが広がる実験室。カチカチと時計の音が響いています。

 私の斜め前には、真剣な表情で微量のサンプルと格闘する中島先輩。

 呼吸するのも忘れるほど、慎重な手つき。

 しかし、私の方をチラリと見て盛大なため息を一つ。

「リンちゃん。暇なら帰れば? 遅くまで無理して待つ必要ないじゃん。」

「そうですけど。なんだか先輩、いっぱいいっぱいになってそうなので。いつでもお手伝いするつもりでスタンバイしてるんですけど。」

「お手伝いねぇ……。」

 中島先輩はそういいながら苦笑いを返してきました。

 すみません。私が悪うございました。

 先日、卒業研究中間発表が行われたのですが、夏休みが終わる頃までやる気を喪失していた先輩は発表直前にやっと動き出すと言う結果になり、何とも進捗状況が芳しくなかったのです。そのため、先生らの反応はイマイチで厳しい指摘もチラホラあり、先輩は少々落ち込んでいたのです。また、やる気を失ってもらっては困ると、矢崎先生は心配していたのですが、さすがは中島先輩。負けてたまるかと気合い十分で再スタートしたのです。

 そこで私はそんな先輩を助けるつもりでお手伝いをしたのです。

 さすがに実験のお手伝いは難しいだろうと思い、流しにたまった試験管を洗ったのですが……落下のため数本破損。けががなかった事は不幸中の幸いです。

 中島先輩は無駄に仕事が増えた気がする、と嘆いていました。

 先生は笑顔でさらりと、卒業できないかもしれませんね、なんて言ってきて。

 これには私も危機感を覚えました。勉強がどうとか卒研がどうとか、明らかにそれ以前の問題です。センス無いかもしれません。進路変更するなら今のうちかなぁ、なんて本気で考えましたよ。

 でも、何事も簡単にあきらめてはいけないのです。

「大丈夫です。今度はきちんとしますから。」

「本当に?」

「本当です。」

「でもいいや。今日はそんなに洗うものないし。このサンプルを分析かける間に終わるから。それで今日は終わり。」

「もう終わりですか? 今日は早いんですね。」

「金曜日だからね。今日あわてて仕込んで、土日に出てくるのはゴメンだし。分析の方はざきっちが出しといてくれるみたいだけど。」

「先生土曜日も来るんですか?」

「ざきっちはそれなりに忙しいのよ。」

 最近は会議が続いてるみたいですし、時期的にも忙しいのでしょうか。先生が研究室を空ける時間も多くなった気がします。

「じゃ、これ、分析かけてくる。くれぐれも実験器具に触らないように。おとなしく研究室で待っていましょう。」

 中島先輩は、小学生を相手にするような口ぶりで言って、実験室を出て行ってしまいました。

 反抗したくなる部分もあるにはあるのですが、ここは素直に従うことにしましょう。





 静かな研究室では、一人でいても何の楽しみもありません。

 暇つぶしに携帯電話を出してみても、メールと言えばメルマガが届いているくらいですし、ネットに繋いでみてもパソコンの方が見やすいのにと思って疲れるだけですし、何となく画面を眺めるだけのような使い方しかできません。

 授業中に携帯をいじっている学生はたくさんいますが、あんなに熱心にメールやゲームをする集中力は、私からすれば羨ましいほどです。指も目もよく疲れないなと本気で感心してしまうのです。普段からメールは面倒だと思ってしまって、用事がない限りは自分から送ることもありません。かといって電話ならかける、と言うこともないのですが。

 遠方の友達なら手紙よりはよっぽど便利なのかもしれませんが、普段顔を合わせる友達とメールばかりしているのもどうかと思ってしまうのです。

 今時の若者はそういうものなのかもしれませんが。

 斯くいう私も若いはずなんですけどね。

 さて、何もしないでも時間は等速で過ぎるわけで、気がつけば六時過ぎ。移動してきてから五分もたってはいないのですが、急に時間がもったいないような気がしてきてしまいました。

 荷物を鞄にしまって部屋を出ると同時に、矢崎先生が会議から戻ってきました。

「帰るんですか?」

「明日、来ます。」

「土曜日ですよ?」

 先生は私に曜日の感覚がないものと判断したらしく、笑いをこらえるような表情をうかべています。

「もちろん知ってますよ。学生は土日のために平日は我慢をするんです。」

「社会人になっても似たようなものだと思いますけどね。で、何でわざわざ土曜日に学校に来る必要があるんですか? 課題でも出されましたか?」

「そんなんじゃないです。来たいから来るんです。先生が明日も来るって、中島先輩から聞いたんです。」

「いろいろあるんですよ。学生と違って忙しいんです。」

「学生だっていろいろありますよ。暇じゃないんです。」

「古谷さんは暇な学生代表に見えるんですけど、気のせいでしたか。」

「失礼ですね。私には明日学校に来るという予定があるじゃですか。全くもって暇ではございません。」

「暇だから来るんでしょう?」

「まぁ、そうなのですが……。」

 結局どんな風に言ってみても、先生のペースに持って行かれて、私は負けてしまうのです。そんな私を見て笑う先生。なんて楽しそうなんでしょう。私はそれを見ながら、いつか見返してやると考えるのです。いつかそんな日がやってくればラッキーなくらいかもしれません。

「でも、古谷さんが来ると仕事がはかどらないんですよ。」

「先生までそんな事言うんですか?」

「誰かに同じことを言われたんですか?」

「中島先輩に。私が手伝うとやること増えるって。ついさっき。」

「その件に関しては同感です。でも、中島とはまた別の意味で、ね。」

 どういう意味でしょうか?

「帰るなら早いうちに帰りなさい。明日の午後からは、たぶんあいてます。」

 聞き返すよりも先に、先生はそういって部屋に入っていってしまいました。

「一時ぴったりに来ますから!」

 なんだか気分が良くなった私は、駆け足で学校を飛び出し駅に向かいました。





 先生との約束はきちんと守ります。一時ぴったり、先生の部屋の前に立って、ドアをノック。

「失礼します。」

 ドアを開けてしばし沈黙。スーツ姿の見覚えのあるような無いような、とにかくここの学生では無い男性が先生とお話中だったのです。引き返すべきか、引き返さないべきか悩んだあげく、何事もなかったかのようにドアを閉めて出ようとすると、先生が声をかけてくれました。

 椅子を勧められて座ったものの、何となく気まずくてどうしていいのか判りません。

「さて、菊池。僕は見ての通り忙しいのでそろそろ帰ってもらえませんか?」

「僕を邪魔者だと言わんばかりの、棘のあるセリフですね。」

「さすが菊池。よくわかってるじゃないですか。」

 先生は満面の笑みを浮かべていますが、その威圧感に私は圧倒されそうです。それなのにスーツの男性は全く動じる様子がありません。

「しかしですね、矢崎先生。僕だって真面目な話をしに来たのですよ? 話の途中なんですから、せめて最後まで話をする時間を……。」

「無理です。」

「そこを何とか!」

 先生は冷蔵庫を開け、自分と私の分の麦茶を入れました。出された麦茶を飲みながら男性の方を見ると、空のグラスを寂しそうにつついている姿が目に入りました。

「そんな大事な話をしに来るのなら前もって連絡すべきですよ。たまたま僕がいたから良かったものの。今日は土曜日ですよ。普段ならこんなとこに来ません。」

「判りました。帰ればいいんですよね? 矢崎先生は真面目な後輩よりもかわいい生徒をとるのですね。僕なんかよりデートの方が大切なんですね。」

 私は麦茶を吹き出しそうになるのを必死でこらえました。そんな私を見て楽しそうな顔をする男性。いったいこの人は何者ですか?

「えーっと、あの……」

「申し遅れました。私、こういう者でございます。」

 生まれて初めて頂いた名刺を見て、やっと思い出しました。菊池浩人さん、先生の大学の後輩の方です。

「夏のフォーラムでお会いしましたね。」

「そうだったっけ?」

 菊池さんは全く記憶にないようです。お話をしたわけでもないので覚えてもらっていなくて当然だと思うのですが。

「こんなにかわいい子に会って、覚えてないはずは無いんだけど。ここの研究生?」

「違います。まだ一年ですし。雑用係みたいなものです。」

「へぇ。それは大変なことで。矢崎先生、優しそうに見えて人使い荒いでしょ? 昔っから人を目で使うというか、有無を言わさない雰囲気もあるし。僕も学生の頃、それはそれは苦労しましたよ。」

「何となく、わかるかもしれません。」

 私が同意してみせると、菊池さんはさらに機嫌を良くしました。一方の先生は満面の笑みを浮かべて言います。

「僕が人を使っているのではなく、君たちが、ご丁寧に、僕の気持ちを察して行動してくれているものと思っていましたよ?」

「はは……気遣いできない後輩で申し訳ありませんでした。」

 菊池さんは無理に笑顔を作りながら急に立ち上がり、鞄を持って部屋を出ようとしました。これ以上居続けるのは無理だと判断したようです。しかし、ドアノブに手をかけたところで顔だけ振り向かせ、真剣な顔をしました。

「本当に、真面目に考えといてくださいよ。」

「はいはい。」

 菊池さんの足音が聞こえなくなると、先生はお茶を一口飲み、盛大なため息をつきました。

「やっと静かになった。」

「菊池さんって先生の大学の後輩ですよね? 学生の頃から仲良かったんですか?」

「僕の二つ下で、研究室も違うんですけど、いつの間にかなつかれていた気がします。疑問があるとほっとけない質みたいで、よく質問しに研究室に来てましたから。何度か勉強も教えましたよ。特別理解力がある訳でもないけど、とにかく一生懸命でした。今は営業の仕事をしていますが、製品データなんかも納得いくまで調べて、その上きちんと覚えてるみたいです。性に合ってるのかもしれませんね。」

「大学出たら、研究とか商品開発とか、そういう仕事ばっかりかと思ってました。」

「そんなこと無いですよ。進路なんて人それぞれですし、仕事の選り好みばかりしていられる時代じゃないですからね。でも、そういうイメージの中ここに来たって事は、古谷さんはそういう進路を考えているわけですか?」

「とんでもない。正直なところ、全く考えていません。この学校を選んだのはただ家から通いやすかっただけです。高校の時に、文系よりは理系かなと思って適当に学科も選んでしまいました。前期のテストはぼろぼろだったし、まだ半年しか経ってませんけど間違えたと思うこともかなりあります。」

「そんなものですよ。高校生のうちに進路を決めたとしても、実際に仕事をするのはその何年も後なんですから。世間の流れとしてなんとなく大学に入った学生も少なからずいるはずです。」

「そういう先生は、どうやって進路決めたんですか?」

「僕は、化学が好きだっただけです。気が済むまで好きなことを勉強したいと思ったんです。今もまだ飽きていないし好きなことを続けたいと思ったのでこうやって研究者として大学にいるわけです。好きなことが仕事になるって言うのはとってもお得ですよ。毎日が楽しい。」

 先生はとても楽しそうな顔で笑います。先生にとって、先生であると言うことは遊びが仕事になるようなもののようです。先生は会議や雑用に関してはめんどくさいなどと言うことはしばしばありますが、授業やテストなどはそんなこと全くありません。卒研の時はとにかく楽しそうにしていて、中島先輩や井上先輩と並んで学生のような顔をすることさえあります。

 少し機嫌が良くなった先生は、なんだか難しい話を始めました。

「どんな物質でも分解していけば何らかの元素の集まりです。その組み合わせによって、世の中のものは構成されている。有機物なんてわかりやすいと思いますが、基本的には、炭素、水素、酸素、窒素、リンなどの集まりです。これらの組み合わせの方法によって、物質の性質は様々です。例えば、メタノールは人にとって毒になり得ますが、そこにメチルが一つ追加されたエタノールはお酒として大量に消費されている。なんだか不思議でしょう?」

「はぁ。」

 すでについて行ける気がせず、とぼけた返事をしてしまいましたが、それでも先生は私にかまう様子はありません。

「僕たちは普段の生活において、多くは完成したものばかりを見ています。でも、それを分解して考えると色々なものが見えてきます。もちろん、何でもかんでも原子に戻して考えるわけではありませんが、日々、様々な研究は進められているんです。もちろん、僕が全てを把握しているわけではありませんが、世界中の研究をあわせれば、世の中にわからないものなんて無い、と言う時代もそう遠くないかもしれません。脳の機能の解明なども行われていますよね? 人体に関して研究をすることは大切だと思います。医療分野の研究は大切なことだと思います。だけど僕は、どうしても知りたくない事がある。それが何か、わかりますか?」

 私は必死で考えるふりをしました。質問されたことはわかっているのですが、はじめから話がつかめていないので、何を考えていいのかすらわかっていないのです。

 勝手に百面相している私に、先生は静かに言いました。

「心、です。」

「……ココロ?」

「心は実態を持ったものでは有りません。でも、少なくとも感情は実在する。自分で感じるだけでなく、表情や言葉として、実態を持つんです。つまりそれは、脳の働きの一つとして解明されるのです。何らかの物質の働きであることもわかる。どういう条件でどういう活動があって、どのような状態になる。そんなことがわかるのです。それは寂しいことだと思いませんか?」

「何でですか? わからないことがわかるって言うことはいいことなんじゃないですか?」

「でも、それを知ってしまったら、僕の心は僕のものでなくなる気がするんです。僕の感情は全て、僕を構成する物質の働きでしかないと認めてしまったら、僕という存在はただの原子の集まりでしか無くなってしまうんです。」

 先生はとても悲しそうな顔をしました。

「好きという気持ちまで、体内の物質の働きでしかないと思ったら、とても悲しくなりませんか?」

「先生の話、なんだか難しくてよくわかりません。たぶん、私には一生理解できないと思います。わかりたくてもわからない事だと思います。でも、私は生きてます。毎日泣いたり笑ったりしながら、楽しんだり苦しんだりしながら生きてます。恋もしてます。そんな難しいこと、知らなくたってわからなくたって生きていけるんです。だから先生も考えなくていいと思います。」

 先生の思い詰めたような顔を見たくなくて、自分でも何が言いたいのかよくわかりませんでしたが、それでも必死に答えました。すると先生は、ありがとうと言って、いつもの、あの優しい笑みを返してくれました。

 肩の力が抜けると同時に恥ずかしさがこみ上げてきました。顔が赤くなっているような気もします。

「先生、気分転換にドライブに行きましょう!」

「行き先は?」

「ありません。」

「ガソリン代はタダじゃないんですよ?」

「けちなこと言わないでください。何処か、気分がすっきりするような場所に連れて行ってくださいよ。」

 そういいながら乗り気じゃない先生を無理矢理立ち上がらせ、部屋から押しだし、学校を後にしました。

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