14話:悩み事
夏休みがあっという間に終わり、気がつけば少し肌寒い季節になりました。
あの山積みの課題も何とか無事に終わらせることができ、と言っても同じ授業をとっている子にレポートを借りて終わらせた部分が多いのですが……、とにかく、何とかなったわけです。夏休みの終わりは課題で手一杯だったのでほとんど遊ぶ事ができず、こんなのでよかったのかと自問自答を繰り返していたのですが、終わってしまったものは仕方がありません。多くの学生は二ヶ月もの間遊び続けていたようで、久しぶりの授業に苦痛を感じているようです。もちろん、私も授業を聞いているのはつらいのですが、課題のおかげでテスト週間並みに勉強をしていたので少しはマシなはずです。
それにしても、休み明けというのは雰囲気ががらりと変わるものですね。休み中の話で盛り上がっている人たちはいつにも増して元気そうで、教室全体がにぎやかに感じます。休みを機にイメージチェンジを試みた人もちらほら……。大学入学と同時にはじける人もいますが、ちょっと様子を見てから、といった感じでしょうか? たった半年間ですが、全く知らない土地にやってきた人、逆に知らない土地からやってきた人との出会いの中で、自分の中の色々なものが変わっている気がします。私は放課後のほとんどを矢崎先生の研究室で過ごして、中島先輩や井上先輩と仲良くなって、それだけでも人脈がとっても広がったように感じます。先輩達が一人で何人分ものパワーに満ちあふれているせいかもしれませんが。
この中でも、色々と変化がありました。私は偶然にも高校時代の先輩の春恵先輩に再会しました。再会したそのときに、春恵先輩と中島先輩が付き合っていることを知りました。すごく仲が良くてお似合いだと思っていたら、夏休みのある日、突然別れてしまいました。かと思ったら夏休みの終わり頃には何事もなかったように元に戻っていました。しかし、この人達はやっかいです。私と先生の関係を知っていたのですから! しかもそれを何とも思っていないのです。それはそれでありがたいのですが……。
私と先生はつきあい初めてもう四ヶ月ほどになります。オープンにするでもなく隠すでもなく、特にこれと言って意識はしていませんでしたが、まさか、真っ先に中島先輩に知られてしまうとは思いませんでした。必然的に井上先輩にも春恵先輩にも広まってしまったわけで……。それ以上はわかりませんが、たぶん大丈夫でしょう。でも、今まで私が一生懸命になって先生の研究室に通っていた理由がばれてしまったわけで、今更ながら、恥ずかしさも生まれてしまったのです。研究室に行ったところで、中島先輩にひやかされるのも目に見えているわけですし。なんだかんだであんまり先生と会っていません。まぁ、午後の授業で嫌でも会うことになるのですが。
突然、ポケットの中の携帯電話がメールを知らせ、私はあわててそれを手に取りました。考え事の最中に急に現実に戻されると、焦りのようないらだちのような嫌な気分になります。授業中にメールなんて失礼だ、と自分勝手なことを思いながらもそれを開けると、矢崎先生からでした。「午後の授業の前に、研究室に来てください」とだけ書かれていました。
何となく気まずい気持ちを抑えて、ご飯を食べた後に先生の研究室に向かいました。
ノックをしたら返事だけは返ってきましたが、先生はパソコンに向かい必死でキーボードをたたいて、なんだか忙しそうです。
「あのぉ、先生? 何か用事でしたか?」
返事はありません。
「先生?」
少し強く呼んでみましたがやっぱり返事はありません。
パソコンの画面しか見ていない先生の横に立って声をかけると、びっくりして、「来てたんですか?」の一言。ええ、来てましたとも。
「ノックしたら返事してたじゃないですか?」
「してました? 全然記憶にないです。」
「その後だって声かけたのに気づかないし、どうしようかと思いましたよ。」
「すみませんでした。」
しっかりしてくださいよ、先生。
「何か用事ですか? まさか、それまで忘れてたなんて言わないですよね?」
「それは大丈夫です。えっと……そこのプリントを講義室まで運んでもらえますか?」
そこのプリントって、たいした量じゃないじゃないですか。
「そのために呼んだんですか? このくらい自分で運べるじゃないですか。」
「古谷さんは僕のお手伝いさんでしょ?」
「確かに、何でも手伝いますって前に言いましたけど……。授業中に送ってくるくらいのメールだから、もっと大切な用事だと思ってたのに……。一番最初の授業資料くらいの量ならともかく、このくらい先生自身で頑張るべきです!」
手伝いとか言うレベルではなく、これはただのパシリですよ。
強気になって言うと、先生は反省する様子もなく機嫌良さそうに笑っています。
「最近、古谷さんが来ないから、元気かなって心配してたんです。でも十分元気そうですね。安心しました。」
先生の笑顔に思わず赤面です。なんと言いますか、カウンター攻撃を食らったような……。しかも一撃必殺です。私は今でもこの笑顔に弱くて、この一撃ですぐに先生のペースに持って行かれてしまうのです。
「忙しいなら別ですけど、暇があったらいつでも来てくれてかまいませんよ。後期に入って中島も井上も真面目に実験を始めて、放課後も時間がない日が多くなりましたけど、全然問題ありませんから。」
「忙しくはないんですけど、久しぶりの学校で毎日バテちゃうので。体力が戻ってきたら毎日でも来ますよ。」
本当はあまり気が進まないだけなのですが。
「そうですか。体調には気をつけてくださいね。」
「はい。」
「そろそろ、授業行きましょうか。」
結局私はプリントを持って先生の後ろをついて行きました。
参考資料のプリントが配られ、それをもとに授業は開始しました。
久しぶりに見る先生の冷たい眼差し。忘れていたそれに一瞬、恐怖のようなものを感じました。
先生は相変わらず、誰も見ていません。この空間は自分とその他でしかないのです。それを感じるたびに、私と先生の距離が生まれます。ここでの私は先生にとっての特別でも何でもなく、その他の中の一人だと実感するのです。でも、それのおかげで勉強と恋愛とのけじめをつけることができるのです。たいして成績の良くない私が言っても説得力のかけらもありませんが、私の中ではきちんとしているつもりなのです。いいえ、つもりだったのです。
実は、こんな事があったのです。
夏休みが終わる直前の学校で、私は井上先輩に会いました。図書館で当たり前のように勉強をしていて、邪魔をしては悪いかなと思っていたところ、気がついた井上先輩から声をかけてくれました。いつも通り元気で、図書館内にしては少し大きな声で話をしていました。夏休みの旅行の話や中島先輩の話、夏バテした話……。色々と盛り上がっていたのですが、先生の話が出た途端につまらなさそうな顔になってしまいました。
「リンちゃんさ、矢崎先生と付き合ってるってほんと?」
こんなところでその話題を出さないでください。他の人に聞こえたらどうするんですか。そう心の中で叫んでしまいましたが、幸運にも夏休みモードな学生が集まった図書館はいつもの何倍もの騒がしさでその心配は無さそうです。
「中島先輩から聞いたんですか?」
「そうだけど。俺は本当かどうか聞いているの。」
「……本当です。」
井上先輩はノートに目を向けたまま、黙り込んでしまいました。
しばらくして、先輩は「ずるいよ。」と小さく口を動かしました。
「リンちゃんはずるい。俺がこんなにも頑張って必死になってる横で、遊んでるだけなんだから。気に入られたいとかじゃないけど、俺は勉強したくてここに来て、もっともっと知識も技術も身につけて、やっぱり先生に認めてもらいたいと思ってる。大学院にも行きたい。行って研究を続けたい。そのためには今やらないとだめなんだ。この時期の成績だとか、もちろん卒研に関することも今後に影響するし、そういう重要な部分を邪魔されるのはごめんだから。時間を奪われるのもね。」
先輩の言う通かもしれません。私はただ、遊んでいただけなのです。
大学生になったところで何の目標も無く、いいえ、あの日に先生に会ってから私の意識はそちらばかりで、肝心な部分は見失っていたのです。真面目な学生をよそおって毎日のように先生の時間を奪い……、結果的に私と先生にとっては意味を成すものとなったかもしれません。しかし、その代わりに私は先輩の時間を奪っていたことに違いありません。
一生懸命頑張ろうとしている先輩の邪魔をしていたことに気付かされ、何も返事ができず、今度は私が黙り込んでしまいました。
「別にリンちゃんを責めたいわけじゃないんだけどさ。先生も先生だし。でも、俺の言いたいこと、わかってくれるよね?」
「……はい。」
「ほんとにわかってる? 要はけじめをつけてくださいってこと。それ以上は俺がどうこう言うことじゃないしね。人の幸せ奪いたいわけでもないし。」
先輩は笑いながら、教科書や筆記用具などを鞄にしまってしまいました。
「じゃあ、俺行くから。これから卒研。」
ただ気まずいような感じだけがのこり、この日から一週間ほど、研究室に顔を出せませんでした。
そのまま時間だけが過ぎて、今に至るわけです。
考え込むようなことでもないんでしょうけど、そういうことに限って考えてしまうのです。考えるといっても、どうしよう、の繰り返しで、反省でもなんでもありません。
自分で自分が情けない……。そんなことを思うのも、またどうでもいいことなわけで……、結局は悪循環。
そして今日もこんな考え事をしているうちにチャイムがなって、急に騒がしくなる教室の中、一人慌てるのでした。……授業、聞いてない。
だらだらと教科書などを鞄にしまって、講義室を出ようとすると、先生に呼び止められました。
「古谷さん、ねぇ、やっぱり元気無さそうですよ。風邪でもひいたんですか?」
「いいえ、大丈夫ですから。」
「本当に? なんだか心配ですね。温かい紅茶でも入れてますから、部屋に来てください。おみやげのお菓子もいっぱいありますから。」
「食べ物にはつられませんよ。」
「そういう事じゃなくて。」
「行きたくありません。」
先生は少し驚いた顔をしました。それが申し訳なく感じて、井上先輩との一件を話しました。
話を聞いた先生は笑いだし、今度は私が驚いた顔をする番です。そんなに笑える話でしたか?
「井上が、そんなことを言っていたんですか? つい先日は古谷さんがいないから変な感じで落ち着かないとか、一人で中島の相手をするのは体力がいるからつらいとか……、さんざん勝手なことを言っていたのに。」
「でも私は、先輩の邪魔をしてもいけないし、こんな事言われた後だから気まずいし……。我慢してたのに。意味ないじゃないですか。」
「そうみたいですね。」
一瞬で目が覚めました。もうこうなったらいくらでも邪魔してやります。もちろん故意に邪魔するわけじゃありませんけど。私は私で学生生活を楽しもうと思います。先輩達の目の前であっても、かまわずに。
吹っ切れた私は以前と同じように、毎日、先生の部屋に行き、課題提出者のチェックを手伝ったり、部屋の掃除を手伝ったり、自分の課題をやったりしながら過ごしています。井上先輩は遊んでるって言いましたけど、結構やることもやってるんですよね。もちろん、先生に会いたいのがメインにかわりありませんが。
先輩達は真面目に卒研を始めたと言いつつ、相変わらずこの研究室は騒がしいままです。なんだかんだで落ち着くとこに落ち着いてるんですね。
これでも私は先輩達を応援しているので……これからもみんなで頑張りましょう。