10話:先生 3
車で約十分。着いたのは、昔ながらの洋食やさん、といった雰囲気の小さなお店でした。
車の中では、先生の苛立ちが感じられて、話も出来ない雰囲気と気まずさに押し潰されそうでした。
しかし、先生は席につくなり、いつもの顔で「お勧めは…」なんて話し出して、私はどうしていいのかわからなくなってしまいました。
「すみませんね。あんなところを見せてしまって……。」
あの時の恐怖感は消えていましたが、かわりに、先生と坂上先生との関係が気になってきました。いつもの先生を失わせるくらいの人物なのだから。ただ、このフォーラムの話が出たとき、最初に坂上先生の名前が出たときの先生の表情を思い出すと、触れてはいけないことなのだと思いました。
結局、また頭の中がぐるぐるして、ほとんど会話も無いまま食事を終えてしまいました。
「デザート、いりませんか?」
「…先生、甘いもの好きでしたっけ?」
「いいえ、僕はコーヒーでいいです。……戻りたくないんですよ。最初からそのつもりでしたけど。」
先生はいたずらをする子供のような笑みを浮かべました。
「じゃぁ、遠慮無く……、マンゴーパフェにします。」
注文後、すぐに出てきたパフェを食べていると、気分が少しずつ楽になってきて、いつものように会話ができる雰囲気を取り戻すことができました。女の子にとって甘い物の力は絶対です。その反面、私の中では、まだ坂上先生の存在が気になっていて、どうしても聞かずにいられない心境になっていたのです。
「先生、あの……坂上先生とはお知り合いなんですか?」
先生から明るさが消えました。
やっぱり触れてはいけなかったと、後悔と不安が体を駆けめぐります。
先生はコーヒーを一口飲むと、私の目をまっすぐに見ました。
「坂上先生が以前うちの大学にいたことを知っていますか?」
「今朝、中島先輩が教えてくれました。」
「僕はそのときの研究生の一人でした。」
「そのときに何かあったんですか?」
「こういう言い方はおかしいかもしれませんが、坂上先生が有名になったのは、僕の研究の結果です。」
私は意味がわからずに、先生の真剣で、どこか悲しげな瞳をじっと見つめていました。
「坂上先生は、当時アメリカのある研究チームと協力していました。名前のあるチームでしたし、それは他の先生や学生の中でも噂になっていました。僕は、真面目に勉強がしたくて坂上先生の研究室にはいることを決めたんです。その先生の研究を見るチャンスがあると言うことは、チームの研究の一部を見ることができると思ったからです。僕の予想は的中しました。見習いのうちにその研究について勉強することができ、研究生となってからはそれらに関連した内容を進めることができました。最初は坂上先生から出される課題に沿って、それから発展を重ねて。僕は自信があったんです。誰よりも真剣に研究に取り組み、誰よりも結果を得たと。だけど、現実は違っていました。卒研の最終発表の直前に、坂上先生の所属するそのチームから新たな論文が発表されたんです。それは僕の研究成果と等しい物でした。」
まさか!そんな思いだけが唐突にわいてきました。
「それって、坂上先生が先生の研究を流してたって事ですか?」
「その通りです。」
「そんな……。」
「最終発表の時まで、僕はそれを知りませんでした。発表後の質問である先生に指摘され、初めて知ったんです。そのときは何が起こったのかわからなくなって、坂上先生に助けを求めるように視線を向けたんです。しかし、先生は勝ち誇ったように笑みを浮かべていいるだけでした。僕は利用されていたのだと確信しました。」
ここに来る前の先生達の会話を思い出すと、妙な寒気におそわれました。坂上先生の話していたことが、いかに残酷であったかと考えてしまうのです。
「僕は坂上先生に事実を公表するよう訴えました。世界に僕の名前を出す必要はなくても、大学側にだけでも僕の研究であることを示したかった。でも、坂上先生がそんな話を聞き入れるわけがなかったんです。他の先生にどれだけ話をしても、結果は同じでした。坂上先生の言うとおりなんです。勝つのは名前なんです。ただの研究生が有名チームの名前に勝てるわけがなかったんです。」
私は返す言葉すら見つからず、ただ黙っていました。
「できることなら二度と会いたくなかったんです。今日、僕が参加したのは、菊池に誘われたからです。菊池も坂上先生の研究室に入りたがっていましたが、このことを知ってそれをやめました。僕の話を信じてくれたのは、たぶん、菊池だけだと思います。今回のメンバーに関して彼には決定権が無かったようですが、僕の後輩と言うことで任されたようです。だから、僕と坂上先生が会うことをおそれて、彼なりに頑張ってくれたみたいです。午前と午後に分けてくれたのも彼の努力の甲斐あってのようですし。でも、結局会ってしまったんですよね。」
「今なら、先生の気持ちも、菊池さんの気持ちも、何となくわかるような気がします。だから……そんな風に我慢しないでくださいよ。」
はっきり言えば、他人のこと。でも、先生のことだから、悲しい話は聞きたくないと思いました。こんな私を見て、先生は困ったような顔をしましたが、私の様子をうかがうようにして話を続けました。
「負けたくなかったんです。過去があるからこそ、僕はここにいるんです。過去はどんなものも真実です。すべて、現実です。だから、それに打ち勝つ強さがほしかった。格好つけた言い方ですけどね。最初から坂上先生に会ったらガツンと言ってやるつもりでいたんです。微妙な感じになっちゃいましたけど。でも、僕はもう一度、自信を持てた気がするんです。」
「先生……。」
「なんか、格好悪いですかね?」
私は首を思いっきり左右に振りました。
先生の笑顔が、よりいっそう優しく感じました。
「そろそろ、出ましょうか?」
勘定を済ませ、店の外に出ると、冷房の効いた涼しい空気から一転して暑く重たい空気に変わりました。
私が先生の横に並ぶと、お互いの手が触れあいました。そっと繋がれた手に私の体温は急上昇してしまいそうでした。たったこれだけのことかもしれませんが、私の中では大きく変わった気がするのです。はっきりと言い表すことはできないけど、きっとこれが恋なんだ、なんて思いました。
フォーラムが終わる時間に合わせて戻り、真面目に聞いていたはずの中島先輩と井上先輩に合流して帰路につきました。
先輩達はなんだかぐったりしていました。行きとは打って変わって、車内はとても静かです。何時間も難しい話を聞いているのは、さすがの先輩達にも大変だったようです。
「勉強になりましたか?」
「あんまり……。集中力の限界って感じ。よく、ざきっちは平気でいられるよなぁ。」
「慣れてますから。」
嘘です。慣れ以前に、会場にすらいなかったんですから。先輩達が怒りかねないので本当のことは言いませんけど……。
「おっと、そういえば、途中でメールが入ってたんだった。誰かなぁ…?」
中島先輩がポケットから携帯を取り出しました。
「…春恵だ。」
「別れようとか書かれてるんじゃないですか?」
今日のデートを断られてここにいる中島先輩に、冗談のつもりで言ったのですが……反応が無いので慌て様子を見ると、放心状態の先輩がいました。
「まさか……図星?」
中島先輩のかわりに、井上先輩が苦笑しながら頷きました。
「いつどこで何が起きるかなんてわかりませんからね。」
明らかに先生はこの状態を楽しんでいるようですが……。
頑張れ中島先輩!何が何だかよくわかりませんが、私は中島先輩を応援します。