1話:始まりの日
大学に入って初めての講義。緊張はすでに恐怖に変わりつつありました。あまりにも広すぎる建物の中で、入学早々、私は見事に迷子になってしまったのです。
学内はどこも比較的新しそうな真っ白な壁で、ロビーなどには観葉植物なども配置され明るい雰囲気なのですが、私にとっては巨大迷路そのものです。教科書を抱え持つ手は今にも震えだしそうなほど。今の私は、デパートで迷子になった子供と同じ状態なのです。何人かの人とすれ違いましたが、講義室の場所を聞くにも聞けず、結局この有り様。さすがに泣き出すことはないと思いますが……。
人気がなくなったわけでもありませんが、講義開始直前となった今、すれ違う人もあわててそれぞれの部屋に駆けこんでいく人ばかりです。新学期早々遅刻をしてはならない、という気持ちは同じのはずですが迷子は私だけ。この人たちについて走っていけば何とかなるかとも思いましたが、優柔不断で動けないのが私のようです。
この講義の先生がすっごく怖い人で、早々に目をつけられたとしたら……。不安になればなるほど、人はマイナス思考になるものです。負の加速度を持つ私の頭が最悪の状態を思い浮かべた瞬間、突然に最高のチャンスはやってきました。とても優しそうな男の人と目が合ったのです。無意識に、私は声をかけました。
「すみません、」
しかし、その言葉の続きは出てきませんでした。黒いさらっとした髪と、日焼けしたことがないような白い顔、うらやましいほど整った容姿。男の人としては華奢な感じもしましたが、背も高く……結局のところ、私はその人に一目惚れしてしまったようです。眼鏡の奥の瞳と目があった瞬間、ただ講義室の場所を聞きたかっただけなのに、恋の告白をするような緊張に変わってしまったのです。頬が熱くなるのをはっきりと感じながらもどうすることもできず、その緊張に耐えました。さっきまでとは別の気持ちで、涙が出そうになりました。
私が固まってしまうとその人は不思議そうにしましたが、ある一点に目がいくと、ほほえみながら追い打ちをかけるように一言。
「その教科書……僕の講義ですね。」
「えっ?」
目を大きくして、私は再度固まりました。
不意打ちを食らい、あわてて思考回路を働かすとネームカードに気がつきました。矢崎孝輔、助教授……。その時初めて先生だと理解しました。大学の先生というのは大学に入ったばかりの私からすれば年もかなり上ですし、研究者でもあります。大物俳優にはそれなりの雰囲気があるのと同じように、研究者にも、違う世界を思わせるような雰囲気があるものだ、と私の中では決まっていたのです。それに加えこの外見。どこをどう見ても、先生とは思えなかったのです。声をかけたときは本気で学生だと思っていたのですから。
「ちょうどよかった。講義で配布する資料が多くて困ってたんです。手伝っていただけませんか?」
優しげな雰囲気とは裏腹に、有無を言わせず教官室に連れてこられ、気がつけば大量のプリントが入った段ボールを講義室まで運ばされていました。その間、私がどれだけ方向音痴かと思い知らされましたが、好きな人と少しでも一緒にいられたらいい、などという感覚でいたのも事実です。そこに大きな間違いがあることも知らずに。
資料を教卓の横に置いて、出入り口の一番近い席に着き講義を受けました。最初にあの大量のプリントを配布した後、先生の自己紹介や講義の説明などが数分。講義に入ったと思ったらあまり難しい内容もなく、一応聞いてノートはとっておく、という感じで私の視線はずっと先生に集中していました。それに全く気づく様子もなく先生は講義を進めています。周りを見渡せば、何人かの学生はすでに眠っていました。眠っていなくても講義を聴いていない学生が大半といった感じでした。いちいち気にしていたら時間の無駄、そんな考えが先生の頭の中にあるような気がしました。そして私もその中の一人だと思ったのです。
今の先生の目はとても冷たいと感じました。さっき見た優しそうな雰囲気は、どこにも感じられないのです。先生から見れば私は特別でも何でもなく、講義を受けている学生の一人です。私を意識しないのは当たり前のことですが、今の先生は学生すらも意識していないように感じました。ただ淡々とホワイトボードに文字を埋め、説明を続け、講義を進行させる。説明もわかりやすく、内容も興味は持てる。それでも一方的と呼べる講義が100分続いたのでした。
初めての講義が終わりほっとした瞬間、退室しようとした先生が私に声をかけてくれました。
「お疲れ様。おかげで助かりましたよ。そういえば、名前、聞いてませんでしたね。」
「古谷鈴音です。」
「古谷さん、ね。そんな難しい授業でもないと思いますけど、質問とかあったらいつでも聞きに来てかまいませんから。」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、次の授業もがんばって。」
そう言って部屋を出て行く先生は、初めて見たときと同じ優しい雰囲気でした。講義中の様子が嘘だったかのような自然な笑顔。
でも、今の私にはその訳はどうでもいいのです。先生が話しかけてくれたこと、私の名前を覚えてくれたこと、笑顔を見せてくれたこと、それらが重要なのですから。
私の大学生活は始まったばかりです。