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不運な男

作者: 赤色烏

 人間の中には稀に、とてつもない不運を背負ったものが存在する。

 残念ながらそれは事実であり、その中の一人が向田康夫だった。


 彼の人生は苦難と不運の連続で、その大半で終わりのない苦痛を味わっていた。

 ごく普通の一日でも、朝、目を覚ました拍子にベットから転がり落ち、頭を打つ。

 出勤しようと乗った電車は、目的地半ばで停止する。

 ようやく遅刻してたどり着いた会社で、忘れ物に気が付く。

 昼飯を食べようとすると、持ってきた弁当に虫が入っている。

 帰り道、鳥に糞をかけられる。

 そういったことが彼の毎日では頻繁に発生する。


 もちろんその半分近くが彼の鈍くさい所からきているのだが、どう考えてもそれだけでは収まらない不幸の連鎖であった。

 今年、とうとう二十七歳となった彼の唯一の幸運は、いまだに死んでいないことだけだろう。

 もっとも、あまりの不運で生き地獄を味わっている彼に、生きている喜びはあまりなかった。

 ついでに言えば、死にたいと思い、行動に至ったことさえあったくらいである。

 その時は、なぜか太いロープが切れるというアクシデントがあり、生きながらえた。

 まあ、彼の不運は本人の望まない方向にのみ働いていたということだろう。

 

 さて、誕生日から数えてちょうど三週間たった日曜日、向田康夫は自宅近くの地下街を闊歩していた。

 彼は買い物や外出が好きではない。

 それは彼が出不精だからというだけではなく、何かを買うときはたいてい質の悪いものをつかまされるか、気に入ったものに限って何らかのアクシデントで壊され、汚されることが決まっていることに起因する。

 とはいえ、何も買わずに生きていくことなどできないのだから、こうして、身に降りかかる不運におびえながら買い物をすることが必要なのである。

 そこで彼は一人の女性と出会った。



「すいません」

 

 管楽器のようなきれいな声が、地下道で発せられた。

 最初、その声の対象が自分だと、向田康夫は気が付かなかった。


「そこの男性、ジャンパーを羽織っている方、こっちへ来てください」


 あわてて、通行人たちが自身の服装に目を走らせ、その大半は安堵したようにため息をつき、足早に歩き去って行った。

 あとには唯一ジャンパーを着ていた、向田康夫が残された。

 困惑した彼は、声をかけた相手へ、当然のごとく疑問の声を上げた。


「何か用ですか?あなたと面識はないのですが……」 


 話し方が普段、同僚たちへ話しかけた時よりも上ずっていたのは、声をかけてきた女が、思いのほか若く、真珠のような白い肌をしていたために他ならない。

 わかりやすく言えば、女は彼のタイプだった。

 ただ、気になるのは、よく分からない紋章の入ったローブらしきものを着ていること。

 どっからどう見ても、エセ霊能力者かおかしな宗教の信者にしか見えない姿は、彼をおびえさせてもいた。

 どうでもいい話だが、彼は一度女性がらみで詐欺にあっている。

 まあ、声をかけてきた女は、その事件以来蓄えてきた警戒心さえ解きほぐすものだったのだ。

 彼がさらに近づくと、女からは柑橘類のような甘い匂いが漂ってきた。

 それを感じられるほどに近づくと、彼女は深い声でつぶやいた。


「あなたの不運を買い取りたいのです」

「不運!?なにを言っているのです?」


 どう考えてもまともな発言ではなく、その異質さにつっこむ彼の声は震えていた。

 馬鹿にされているのか、よほどおかしな人種だったのか。

 どちらにせよ、男は容姿の良し悪しで近づくのを決めたことを後悔していた。


「あなたはとても不幸な相をしています」


 女は相手の表情など気にせず、好きなことをしゃべり続けている。

 向田康夫はいつ話を切りやめさせ、逃げ出すかを静かに考えていた。

 彼が、女の話に耳を再び傾けたのは、あまりにありえない単語が飛び出したからである。


「……そして、あなたの不運を三千万円で買い取りたいのです」

「え!?今なんと?」

「三千万円であなたの不運を買い取りたいといったのです」

「・・・・・・・」

「とても良い取引ではありませんか?」


 黙りこくった彼に対して、女は身を乗り出し、しかし淡々とした口調で言った。

 彼には、いくつかの選択肢があった。

 一つ、女を突き飛ばして逃げるというもの。

 これ以上、面倒な人間にかかわらないという選択肢。

 二つ、女の言うとおり、不運とやらを売って三千万円を受け取るというもの。

 本当に支払ってもらえなくとも、別に何か大切なものがとられるわけではない。


 彼は、しばらく悩んで、決めた。


「分かった。三千万円で私の不運を売りましょう」


 やけくそ気味で、しかし割り切った感じの口ぶりで、彼は言った。

 鼻から三千万円など期待していない。

 ただ、相手の女が嫌いでなかったが故、また、害になることがないだろうというお気楽な発想のもと放った言葉だった。

 そして、彼の前に一つのビニール袋が突き出された。


「分かりました。あなたの不運は買い取りました。これが約束のお金です」


 駅前にあるスーパーの、ごく普通のレジ袋には何やらくすんだ紙切れがたくさん入っているようだった。


「新聞紙か?」

 

 薄い期待を持ち、向田康夫はその袋をあさる。

 中には無造作に、百万円の束が詰め込まれていた。


「全部で三十束あります。確認してください」

「え?嘘だろ」


 嘘ではなかった。

 女が差し出した袋に詰まっていたのは本物のお札だった。

 彼は何度もその紙幣をかざし、ありとあらゆる知識を使い、偽札であることを証明しようとしたが、どうあがいてもそのような事実を見つけることはできなかった。

 上ずった声で、彼は言う。


「本当にもらえるのか?」


 女は表情を変えずに、言う。


「ええ。もちろん不運と引き換えに」


 そこまでいたり、ようやく彼は相手の異常さに気が付いた。

 目の前の女には―――



 ――――――足がなかった。

 





 ふと向田康夫が顔を上げると、何の変哲もないコンクリートが目の前にそびえたっていた。


「おい。どこにいった?」


 あわててあたりを見渡すも、いつの間にか女は消えていた。

 ただ、手に残った重さが、大量の紙幣の存在を訴えかけていた。

 紙幣の、独特のインク臭さが鼻につく。


「あれ、金じゃない?」

「すごい大金!!」


 後ろで、外野の声が上がった。

 彼らは女が突然消えたことに気付いていないのだろうか?

 いや、そもそも女の姿が見えていたのだろうか?

 たしかに、最初女の姿を聞いた通行人たちはいた。

 しかし、彼らの誰もが、女の方を向いていなかったのではなかったのではないか?

 彼は少しうすら寒い気分になり、家へと変えることに決めた。

 手元の三千万円をゆっくりと確かめ、隠す必要もあった。

 ビニール袋を隠すように手で包み、足早に家へと走った。

 普段であれば、そのような大金は、紛失、盗難、転倒等によって消失してしまうのだが、その日は不思議と何の変哲もなく帰宅ができた。

 


 家に帰り、冷静になると、向田康夫もさすがに怖くなってきた。

 三千万円もの大金である。

 それがなぜ手元に入ってきたのかも、あの女がなぜこんな大金を持っていたのかも分からない。

 人間はわけのわからないものに恐怖する傾向がある。

 とくに世間の辛辣な仕打ちを受け続けた彼は、他人よりトラブルの気配に敏感であった。


 本当に不運とやらを買い取ったのは人間だったのだろうか?

 そんな疑問を抱きつつ、ごく平穏な夜を過ごした彼は、その悩みの難解さに反して、あっさりと眠ってしまう。

 完全な眠りに入る寸前、彼はふと違和感を覚えた。

 だが、そんな思いは一瞬で消え、その日は深い眠りへと誘われていった。




 

 翌日から、向田康夫の生活は一変した。

 今まで彼を苦しめていた不幸な要因がすべて無くなったかのようで、通勤時に事故が起こることもなく、仕事で致命的なミスをするわけでもなく、ある意味平穏な毎日が訪れるようになった。

 むしろ、悪かったところが無くなった分だけ、幸運がやってきたようだった。

 気まぐれで買った宝くじは百万円の大金に変わった。

 株式に手を出せばもとでは数倍に膨れ上がった。

 すべてが急に順調になり、彼の人生は確実に良い方向に変わり始めた。

 彼の性格にも変化が現れ、後ろ向きな思考はいつの間にか前向きに変わり、容姿もそれに合わせて幾分か明るく変化した。

 不運を売って数日で、彼は自分の目の前に現れ、取引をした相手が人間でなかったことを確信した。

 そして、その相手に心の底から感謝した。

 不思議と相手の正体は気にならなかった。

 おそらく悪魔かなにか、なぜ不運というマイナスのものを買っていったのかは分からないが、あの女にとっては価値があるものだったのだろうと無理やり自分を納得させた。

 ただ彼はもう一度相手の女に会いたいと思っていた。

 感謝の言葉も掛けたい。

 なぜあの時、あの場所に現れ、あんな取引をしたのか理由が知りたい。

 彼はそう思い続け、残りの人生を過ごすことになった。

 

 月日は一瞬で過ぎて行った。

 彼はあの取引から数年後に会社を立ち上げ、それは思った通りに成功した。

 お金はたくさん手に入った。

 しかし、あの時の女が彼の前に姿を見せることは決してなかった。

 彼の中で女はどんどん美化されてゆき、一種物狂いのように彼はあの時の女に執着した。

 結果として、晩年瀕死の状態になった彼の周りに集まる家族はいなかった。

 彼は子供を造らないばかりか、結婚すらしなかった。

 金に集まる女が嫌だったということもあるが、あの人間とは思えない女への憧れがあったということに他ならない。


 死の床で彼は、唯一付き添っている医者に対して、つぶやいた。


「君は悪魔の存在を信じるか?」


 医者は少し考えて、頭を振った。

 彼は名医として称賛される一方、現実主義者であった。

 

「だろうな……」


 今では会長となった向田康夫は静かに呟いた。

 彼の頭の中にはいまだに女の姿がある。

 すでに、本人の中でも、あの取引が現実のものだったとは思えなくなっても、女の姿と声、柑橘類のようなにおいは彼の頭から消えることはなかった。

 

 会いたい。

 最後でいい、会いたい。


「会長?」


 向田康夫がその幸運と不運の混じた人生を終えたとき、彼の口は何か言いたげに動き続けていた。

 しかし、医者にはその言葉を聞き取ることはできなかった。





 

 死んだ向田康夫は、静かに尋ねた。


「なぜ、あの時、私と取引をしたのだ?」


 彼の前には、長年追い求めていた女の姿があった。

 女はあの時と変わらぬ姿、変わらぬ声で言う。


「単純な理由です。その方が私にとって益があったから、それだけです」

「その利益とは一体何なのだ?」


 彼が尋ねると、女は笑い、ゆっくりと手元の時計を見た。

 しばらくそうしたまま時間が過ぎて行った。

 すでに死んでいる彼には、もう時間が残されていなかった。

 彼は焦って、もう一度聞いた。


「何なのだ?それは」


 女はようやく顔を上げ、言った。


「あなたが幸福になった分だけ、他人は不幸になった。もともと宝くじに当たるはずだった人は紙くずを握りしめ悔しがったし、社長になり損ねた男は借金を積み重ねて死んでしまった」


 ちらり、と質の悪い笑いを浮かべると、女は続けた。


「あなた一人があんまり不幸だと、周りは逆に不幸じゃなくなってしまうのですよ。不幸も幸運も等分に、その方が人は不幸をより感じるのです。あの時のあなたは感覚がマヒしていて、不運な目にあってもあまり悲しんでいなかったですし、より効率の良い方にお分けしただけなのです」

「そうだったのか」


 男がつぶやくと女は、気が済んだでしょうとささやき、消えて行った。

 男は天にいく寸前に、自分だけ幸福を味わったことに一抹の罪悪感を感じたが、それも男の魂と一緒に消えてしまった。

 後には何も残らなかった。

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