十話 勝利の後に
草原の野草は瞬く間に燃え広がった、夜の闇を照らし平原の一部は赤く染まる。
だがその炎には煙がない、ただ炎の赤だけが夜の草原に灯っていた。
神から与えられる炎は、人が道具を使い熾す炎とは違いがある。
魔力と関係ない炎の場合、建物の火災だと煙による死者が最も多い。
牛魔との戦闘で草原の広範囲が燃えたにも拘らず、3人が息苦しさを感じずに動き回れたのは、火元がグレンの火玉だからだ。
魔力を神に捧げ、それにより与えられた炎には煙もなければ、空気をも必要としない。
だから魔法で放火する場合と、人が道具を使い熾した炎で放火する場合では、後者の方が多くの犠牲が出る。その代わり魔法の炎には、雷などを防ぐ能力が備わっている。
だが現在の草原を覆い尽くす彼の炎は、まだ肌寒い季節の中、間違いなく気温を上昇させていた。
それ程に広まった炎でさえ、指を鳴らすだけで消すことができる。
策を弄し草原を焼き尽くした炎より、一瞬でその炎を消してしまう光景の方が印象は強かった。
恐らく本人は気付いてないだろう。他の炎使いに、そのような現象を起こすなど不可能だと。
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戦った、俺達は戦った。
戦場の後に残ったのは、黒く焼け焦げた草原と・・・牛魔の死骸だけだった。
牛魔は死んでもなお、その視線の先で俺を捕らえている。
剛炎で単独を殺せたならまだ良い、炎では獣が完全に焼け焦げてないから臭いんだよ。始めの内は嘔吐しながら魔物の素材を剥いでいた。
グレンは足下の死骸を見詰めていた。たとえ剛炎で殺せても、牛魔のように魔法防御を使える単独は異臭が残る。
この生焼けの臭いに慣れたのは、魔物の死骸を無感で眺めることが出来るようになったのは、一体何時頃だったのか・・・俺にはもう想い出せない。
最近では無感情どころか、喜びを感じるようになっていた。金を稼げたことに対する喜びしか、俺は感じてなかったんだ。
気付いたら俺に取って魔物を殺す作業は、金を稼ぐための手段に成っていた。
だけど魔犬を殺した時のことは覚えてない、どのようにして塒に向かったのかさえ分からない。
そして今、牛魔の死骸を眺めている俺の心境は・・・虚しさだけだった。
こいつの願いに応えてやりたかった、だから俺は一撃の拳打で牛魔に止めを刺したんだ。
グレンは自身の右手に視線を向ける。
魔力を纏っていたから反動はある程度防げたが、それでも右手は悲鳴を上げている。
牛魔の命を奪った一撃の拳打は、実戦で使用するのは難しい。全ての体動に意識を集中させ、己の体重を完璧に操作しながら相手に放つ拳だからな。これらの動作を相手に生じた僅かな隙で発動させるなんて、オッサンなら可能かも知れないが、俺には無理だ。
本気の拳打とは・・・一撃の拳打、その修練を常日頃から繰り返すことで身体が自然に覚え、実戦でも使用可能となる拳打である。
一撃の拳打と違い、意識を集中させてないから威力は落ちるが、それでも相当な攻撃力は自負している。
才能だけの一撃と、修練を途方もなく繰り返した一撃とでは、その拳に宿る重さが違うんだ。
グレンは自分の行動を信じられないでいた。
たとえ牛魔は死に掛けだったとしても、一撃の拳打を放つ場合は物凄い隙が生まれるんだ。その隙を牛魔に狙われていたら、俺は間違いなく殺されていた。
それ以前に、あれほど人間を憎んでいた牛魔が何故・・・その隙を狙わなかったんだ。
クソっ!! 奴と戦ってから、俺は変に成ってやがる。
魔物は敵だと分かっているのに、奴等の死を喜べない俺が此処にいる。
グレンはふと、自身の逆手が目に映る。
この長手袋の黒皮・・・元の素材は何だ、魔犬の皮膚を何らかの方法で加工した物なのではないか?
そんな筈ない。レンゲさんは魔獣具に付いては包み隠さず話すと言っていた。
悪寒がグレンの全身を駆け巡る。
まてよ・・・魔獣具を装備した時点で呪われる。俺はそのように思っていたが、その考えは間違いかも知れない。
魔犬の意識が頭に響いた時点で、既に俺は呪われている可能性もあるじゃないか。
彼の全身は異常な程に震えていた。
両足の力が抜け地面に崩れてしまう、グレンは咄嗟に震える掌に火を灯す。
恐怖を少しでも振り払う為に、グレンは無我夢中で己の両腕に灯された赤を見詰める。
《炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は闇を照らしてくれる、炎は俺を!!!》
まるで祈るかのように、グレンは頭の中でその言葉を繰り返す。
グレンは恐怖に怯える自分に向けて罵倒を放つ。
逃げるな屑が!! これが奴を殺した、奴を見逃したお前の責任だろうが!!
魔犬を見逃した所為で、何が起きたのが・・・グレンはその重さに気付いていた。
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グレンは一撃の拳で牛魔に止めを刺しても、依然その場から動こうとしない。
始めの内は呆然と立ち尽くしていたが、終いには両膝を地面に落とす。体中を震わせながら背中を丸めると、グレンは両手に火を灯した。
その光景を見ていたボルガは急いでグレンに駆け寄るが、言葉を何度かけようと反応を示さない。
離れた場所にいたイザクもグレンの異変に気付き、2人の下に走りだす。
イザクにはグレンの様子に見覚えがあった・・・いや、違う。
僕も過去に、今の彼と似たような経験をしたことがあるんだ。
グレンの目前に到着したイザクは躊躇なく、未だ己の両手を見入っていたグレンの頬を叩く。
叩かれたことでグレンは意識を外に向ける、イザクはグレンの両肩に手を置くと語りかける。
「今は考えるのを止めて、呼吸を整えることに意識を集中させて下さい」
イザクに言われた通り思考を中断させたグレンは、そのまま荒れていた息を落ち着かせる。
恐らくグレンさんは自身の内に存在する、得体の知れない恐怖に怯えている。このまま考え続けても、深みに嵌まり抜け出せなくなるだけだ。
鬼気迫るグレンの呼吸は次第に一定のリズムを保つようになり、その額に流れていた冷たい汗も引いていく。
ボルガが心配そうな表情を向け、グレンに恐る恐る語りかける。
「大丈夫か・・・おめえ、どうしたんだよ急に。 ほら、立てるか?」
草原に膝を付いているグレンに、ボルガは手を差し伸べる。
だがグレンは視線をボルガから逸らすと、差し伸べられた腕を丁寧に断った。
「いや、大丈夫だ。牛魔の突進を受け止めた時の恐怖が、今になって襲って来たみたいでな」
その言葉が嘘だと気付いたが、イザクは何も追求せずに立ち上がったグレンを支える。
グレンはイザクに支えられると申し訳なさそうに。
「・・・すんません」
本当は俺なんかより、イザクさんの方がボロボロだと思う。牛魔の突進を避けるたびに飛び跳ねては、地面に身体を打ち付けてたんだ。たとえ受身が可能だとしても、イザクさんの身体には擦傷や切傷が数ヶ所にある。
特に最後の突進では受身を取ることが出来なかったようたし・・・本当は体中が痛い筈だ。
謝ってきたグレンに対し、イザクは何時もの笑顔を向けると返事をする。
「誰かに助けられて、支えられて・・・戦場で生き残るには重要なことです」
そんなことは頭では分かっているんだ。
分かっていても、俺は捻くれてるから素直に人の善意を受け取れないんだよ。
ボルガに護られながら、イザクに支えられながら、グレンは西壁を目指して歩き続ける。
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焼け焦げた戦場を後にして、3人の足下は野草に覆われる。
月明かりは男達を優しく包んでいた。
倒れないように支えてくれていたイザクに対し、グレンは申し訳なさそうに礼を言う。
「有難う御座います、もう大丈夫ですので」
その言葉を聞くと、イザクは支えていた腕をグレンから離す。
「僕は小隊長に報告しなければいけません。グレンさんは宿住まいでしたか?」
俺が頷くと、イザクさんはボルガに視線を向ける。
「ボルガも22時で勤務時間は終了でしたね・・・できればグレンさんを宿まで送って頂けますか?」
イザクさんの提案にボルガは承諾するが、俺はそれを断った。
「体は何処にも異常がありませんので1人で帰れます。それより俺もイザクさんと小隊長に報告へ行った方が良いと思うんですけど」
牛魔と戦ってみて、あの魔物は危険だと理解した。俺としては小隊長に牛魔の対処法を詳しく説明した方が良いと思う。
恐らく牛魔が現れる度に、属性兵の何人かが毎回犠牲になっている筈だ。
グレンの言葉を聞いたイザクは首を左右に振ると、もう一度口を開く。
「牛魔の対処法に付いては僕から報告しておきます」
イザクはそう言うと、不適な笑みをグレンに向ける。
「それにグレンさんが向かえば、小隊長はきっと貴方に正規属性兵になってくれと頼んできますよ。そうなってしまうと困るのはグレンさんでは?」
最近の癖になってしまった苦笑いを浮かべると、グレンは溜息混じりに一言。
「やっぱり、気付いてたんすか」
その一言にはボルガが返す。
「おれだって気付いたぞ、おめえ最後に両腕上げてなんか唱えていただろ・・・あれ神言じゃねえのか?」
こいつに気付かれているようじゃ、イザクさんには遠の昔に気付かれてたな。
ボルガは突然何かを思い出したのか、表情を怒りに染める。
「そう言えばおめえ、戦闘のドサクサに紛れて酷いこと言っただろ」
何のことだ?
「おれは確かにデカイけどな、無駄じゃねえぞ。それに糞野郎とか言ったな」
んなわけあるか、俺は何時も心の中だけで留めているんだ。
「そりゃお前の被害妄想か幻聴だ、俺がそんな酷いこと言う筈がない」
グレンの言葉を聞くと、ボルガはムキになって言葉を荒げる。
「いいや、おめえは確かに言ったぞ!! おれはその言葉に傷ついたんだ!!」
言いがかりを付けるな。
「お前さっき思い出したんだろ? 忘れてた癖に心が傷つく筈がないだろ」
イザクは言い争う2人をどこか穏やかな眼差しで眺めていた。
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草原を歩いていた俺達は、もう直ぐ西壁に辿り付く。
既に俺達の周辺は松明の灯火で照らされている。肉眼に映る西壁も松明に照らされ、この闇の中でも視界に入れることができていた。
3人はひたすらに西壁を目指す・・・目指す場所が在るからこそ、人間は迷わずに歩いてられるんだ。
俺が勇者一行だと知られてしまったのなら、折角だし一つイザクさんに頼んでみるか。
グレンは懐から紙を取り出すと、前を歩いていたイザクに声を掛ける。
「イザクさん・・・俺から一つ頼みがあるんですけど」
その声を聞くと、イザクは立ち止まりグレンの方を向く。
「構いませんが、僕は分隊長ですから。できることにも限りがありますよ」
可能な限りでもしてくれるなら、それだけでも助かる。
「出発は明後日でしたっけ?」
イザクはグレンの問いに頷きで答えると、そのまま口を開く。
「明後日の早朝に演習場から出立します、朝早いので何人かは明日の夜勤外務が終了次第、演習場に向かうことになります」
出発の前日くらい休ませてやれば良いのに・・・そんだけギリギリの状況なのか。
今からヒノキに向かう彼ら属性兵に、俺から少しだけどできる事がある。微かなことかも知れないが、それでも彼らの生存率が少しでも上がるなら。
グレンは相手の目を見て会話をするのが苦手だが、イザクの瞳を確りと見詰めると質問をする。
「大体の予想でいいので、村の遺跡・・・本陣にいる属性兵200名の内、炎使いは何名ほどですか?」
イザクは暫し考えると、大体の数字をグレンに教えてくれる。
「レンガ軍の場合は、各分隊ごとにバランス良く割り振られていますから、恐らく40~60名の間だと思いますが」
その数字を聞いたグレンは、再度イザクに質問する。
「イザクさんに渡した油玉は、ある程度の実戦経験があれば容易に使えます。そもそも油玉は個人で使うより、数人で使用した方が効果が高い道具です」
油玉は大勢の人間が使用してこそ本当の力を発揮するんだ。
グレンは腰袋に残る油玉を幾つか取り出すと、それを紙と一緒にイザクに手渡した。
「油玉の力はイザクさん自身が使ってみて、良く分かっていると思います」
炎使いでなくても油玉は投げることができる、そして油に塗れた魔物を炎使いが仕留めれば良い。
イザクはグレンに渡された紙を見る・・・そこには油玉の材料と制作方法が書かれていた。
内心イザクは驚いていた、その驚きを隠しながらグレンに問い掛ける。
「確かに油玉は非常に優秀な道具だと思いますが、その技術を見返りもなく、グレンさんは軍に提供する積もりですか?」
俺には職人が何故、己の技術を命がけで護っているのか物凄く理解できる。
油玉は俺を・・・弱者である俺を此処まで伸し上げてくれた道具だ。製作にも1年以上の時間を費やして、変人と共に協力しながら創り上げた道具だ。
本当は嫌だ、誰かがその道具を簡単に製作して、惜しみなく使う様なんて見たくもない。
グレンは共に牛魔と戦った2人を交互に視界へ映しながら。
「正直、躊躇いは俺の中に物凄くあります。ですが属性兵として2人と共に戦い、赤鋼の兵士たちが命がけで戦っている姿をこの眼に焼き付けて・・・俺は決心しました。この油玉で少しでも兵士の生存確率が上がるなら、俺は惜しみなく技術を提供します」
変人に許可を取る必要いはない、あのオッサンは俺に言ったんだ。油玉の技術権利は俺の物だと。
俺がオッサンに言った始めの一言は・・・炎を飛ばすにはどうすれば良い? これだけだった。俺には道具を使う発想なんて最初は無かったんだ。
『自分の力だけに頼るんじゃねえ。人間の力には限界がある、魚を素手だけで取れねえから捕獲するための道具を人は造ったんだ。人の腕力だけじゃあ敵に適わない、だから人間は武器を造ったんだ。お前も少しは馬鹿な頭で考えやがれ、炎を飛ばせねえなら、飛ばすための道具を造れば良いだけだろ』
このやり取りが油玉製作の切欠になった。
オッサンは材料費から油の調合、果ては俺が担当していた油を詰める玉の製作まで手伝ってくれた。
本来なら油玉の技術権利は、俺が3割でも文句は言えたもんじゃない。
グレンは表情を引き攣らせながら、イザクに言葉を続ける。
「俺が赤の護衛として本陣に到着するまでに、出来る限り油玉の在庫を増やして、各分隊にも回せるようにして貰いたい」
イザクはグレンの表情を暫し見詰めた後、手に持った油玉を視界に映す。
何かを決意したのか油玉に対して頷くと、グレンに視線を向けて口を開く。
「僕の地位で何処まで出来るか分かりませんが、小隊長に油玉を押してみます」
だが油玉を軍内で広げるには大きな壁が存在していた。
グレンはそのことをイザクに説明する。
「油玉は名前の通り、中に入っている油が要です。油の制作費は決して安いとは言えません、ですがその値段に負けないだけの働きは約束します」
問題はどれだけ油玉を、お偉いさんにアピールできるかだ。
だがイザクには考えがあった。
グレンから受け取った紙に視線を向けながら、イザクはゆっくりと口を開く。
「グレンさん・・・火玉の制作方法も、この紙には書かれていますか?」
その問いにグレンは頷く。
イザクさんに渡した紙は、オッサンの字が汚いから俺が書き写した物だ。勿論その中には火玉の製作方法も書かれている。
「以前イザクさんにも説明しましたが、俺は炎を飛ばすことが出来ません。火の玉はそれを補う為の物ですし、飛炎を使える炎使いには必要ないと思いますが」
俺の発言にイザクさんは首を左右に振る。
「確かに飛炎や炎放射が可能な炎使いには必要ないかも知れません・・・ですが火の玉を使えば今回の牛魔戦を、油玉のアピールに使えると僕は思っています」
火の玉を使って灯台を短期間で造り出した、火の玉を使って草原を赤一色に染めた。
「今回の牛魔戦では、油玉よりも火玉の方が活躍していますが・・・この2つの道具がなければ牛魔を倒すことは出来なかった、このように少し色を付けて報告します」
成る程な。この人に頼んだのは正解かも知れない、上手く事を運んでくれそうだ。
俺とイザクさんが盛り上がっていたら、何時の間にか先に進んでいたボルガが両腕を振りながら叫ぶ。
「分隊長!! 難しい話しでおれを除け者にするのは良くないんだな、おれは速く西壁に行きたい!!」
イザクさんはボルガに手を振り返すと歩き始める。
「グレンさん、できる限りはしてみますが・・・上手く行くかどうかは分かりませんので、その点は承知しておいて下さい」
グレンは分かっていますと返事をすると、イザクの後を追って歩き始める。
もし上手く行ったとして、成功したらしたで困った事態が起きる。
本陣に勇者一行が辿り着いた時、兵士達が油玉を使っている姿を見た4人に・・・特にガンセキさんに何と説明するか、今の内に考えて置く必要があるな。
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3人は西壁に到着する。
一般兵たちが俺達に向けて労いの言葉を掛けてくれた。
この時、俺にも分かった。レンガの兵士たちが何故、命がけで夜勤外務をしているのか。
ずっと飯のために戦って来た俺に取って、誰かの為に戦ったのは・・・今回が始めてかも知れない。
壁上から梯子を下ろして貰い、それを登って壁上に再び立つ。
何故か知らないけど、ここに立つと落ち着くな・・・安全な場所だからかな?
グレンはふと振り返り、先程まで牛魔と戦っていた方角に視線を向ける。
だがそこは未だ闇に包まれていて、肉眼では何も確認できなかった。
今頃は戦場後の確認と牛魔の死骸を回収しに、情報兵か一般兵が向かっている所だと思う。
草原の一角を眺めているグレンに、イザクが一方を指差しながら言葉を掛ける。
「僕は今から小隊長のいる指揮本部に向かいます、グレンさんとボルガは既に勤務時間を大きく過ぎていますし、今日はもう結構ですので、気をつけて帰ってください」
指揮本部と言っても、イザク分隊が担当していた辺りの壁上だけどな。それに勤務時間なら、イザクさんだって遠の昔に過ぎている。
先程、草原側の情報兵から現状を聞いている。
現れた群れはもう直ぐ片付くらしい、それともう一体の単独は既に討伐が完了している。
情報兵から今の時刻を聞いた時は、泣きそうになった。
22時50分・・・草原に下りたのが確か21:20で、牛魔との戦闘が始まったのが21:40くらいだったから、1時間以上戦っていたのか。
俺は兵士の仕事を甘く見ていた、勤務時間内に帰れるとは限らない。
帰宅時間は決められてなかったが、一刻も速く帰った方がいい。だけど油玉の件で俺もイザクさんと一緒に小隊長へ報告に行きたい思いもある。
そんなグレンの心情に気付いたのか、イザクは首を左右に振るとグレンに注意をする。
「1人で出来ることには限りがあります、油玉の件は大船とは言えませんが僕に任せてください。そもそも貴方には、他に重要な使命があると思うのですが?」
痛いところを突かれたグレンは、視線を相手から逸らす。
「本来このようなことをイザクさんに頼むのは間違っているのかも知れません、だけど俺はイザクさんの部下として、多くのことを学ばせて貰いました・・・油玉をよろしくお願いします」
明日でこの人と仕事をするのも最後か、そう思うと少し名残惜しいな。
俺は分隊の一員として数日間の契約をしているが、扱い的には護衛ギルド登録団体と変わらない。だから俺には兵士が纏う軽鎧もない。
そんな俺にこの人は色々と仕事について教えてくれた・・・今回の軍での仕事は、今後の俺に取って貴重な経験に成るだろう。
なかなか動こうとしない俺に、ボルガが声を掛ける。
「グレン、分隊長の命令は絶対だぞ・・・速く行かないと置いていくからな」
ボルガの言葉に返事をすると、グレンは目の前に立っている分隊長に向けて覚えたての敬礼をする。
イザクは絶やさなかった笑顔を一度引き締め、上官らしく敬礼を返す。
その動作を終えると、グレンはイザクの下を後にした。
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・・・
西壁を暫く歩くと街側に下りる階段が在る。
階段を下りた先には夜勤内務の一般兵が立っていた。
兵士はグレンたちの存在を確認すると一歩退いて道を開けてくれる、仕事が今さっき終った2人に向けて一言。
「お疲れ様でした」
その言葉を聞いた瞬間、俺は何時も仕事が終ったと実感する。
ボルガは兵士に向けて言葉を返す。
「おめえも仕事頑張ってな」
グレンは首を縦に動かすことで兵士に意思を返した。
良く見ず知らずの相手に向けて、おめえとか言えるな。
俺達は職場である西壁を後にした。
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少し進むと俺とボルガは西側の一角に在る、軍の建物に到着する。
灰色に染まってて鎧の紋章も入っているけど、ここは民が兵士になり、兵士が民に戻る場所だ。
「着替えてくるけど、おめえが待ってるなら宿まで送ってくぞ」
グレンは頭を左右に動かすと、ボルガの気遣いを断る。
「気が動転してただけで身体は何処にも異常はねえ・・・宿まで1人でも帰れるから心配すんな」
気遣いは有り難いが、そんな気遣いを俺は喜べない捻くれ者なんだよ。
それよりも、ボルガに聞きたいことが1つある。
「お前よ・・・母親が居るんだろ? ヒノキに向かえば無事に帰ってこれるか分からないんだぞ」
こいつは上の命令でヒノキに向かう訳だけど、家族を残してまで行かなきゃ駄目なのか?
ボルガは俺の言葉に驚いたのか、大口をあけたまま暫し呆けている・・・馬鹿面だな。
黙ってグレンを見詰めていたボルガは、人に好かれそうな笑顔を向けるとグレンに語りかける。
「一番危ねえ場所に向かう癖によ。おめえにだって心配される相手くらい、故郷に居るんじゃねえのか?」
ボルガの言葉を聞いたグレンは、顔を歪ませながら。
「そんな相手が居ないから・・・俺は此処に居るんだよ」
グレンの態度からボルガは何かを感じたのか、悲しそうな顔をしながら。
「・・・そうか」
そう短く区切ると、ボルガはそのまま言葉を続ける。
「おれの母ちゃんは食事所やってんだけどよ、店の方は兄ちゃんが継いでくれるしな。おめえの言う通り体格も良いし魔法も使えたから、おれはそれを活かしたくて兵士になったんだ。母ちゃんは兄ちゃんが護ってくれるし、だいたい母ちゃんは物凄くオッカナイからな・・・おれはこの街を護るって決めたんだ」
正規兵となった理由を俺に教えてくれた。
大切な人を残してでも危険な場所に向かうのは、正規兵になった時点で既に覚悟していたらしい。
レンガ軍には年に数回、正規兵の中から王都に向かう連中が存在する。
王都の近くに巨大な演習施設があり、そこで大軍での戦闘を想定した訓練を行う。その場所で数ヶ月の訓練を受けた後・・・彼等が向かうのは俺達が目指す場所だ。
その巨大な姿を視界に映すと、グレンはボルガの腹を殴る。
「母親を泣かすなよ」
グレンの一撃にビクともせず、ボルガは言葉を返す。
「おれは明日休みなんだ、今の内に親孝行しておくな」
その声を聞くと、グレンは歩き始める。
出来る内に孝行して置いた方が良いに決まっている・・・後で絶対に後悔するからな。
去って行く友の後姿に向けて、ボルガは腹の底から叫ぶ。
「先に行って待ってるからな!! おめえ、それまでに死ぬんじゃねえぞ!!」
グレンは振り返らずに片腕を上げると、そのまま歩き始める。
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グレンは全速力で走っていた。この速度で走れるからこそ、仕事終わりに30分で宿まで到着するのを可能としている。
格好つけてボルガと別れたが、本当は立ち話している時間なんてない。
しかも牛魔との戦闘で体力が・・・弱音なんて吐いてられないか、速く宿に戻らなくては。
本人は気付いてないが、夜の街を全力で疾走する男、巡回している兵士からすれば怪しさ全開だ。
今の所は職務質問されたことはないが、時間の問題だろう。
もう既に23時を回っている、冗談抜きで速く宿に帰らなければ。
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だが、グレンが宿に戻るのは、恐らくまだ時間が掛かるだろう。
土の領域でグレンの行動は読まれていた。
グレンの走る前方に、1人の男が静かな怒りを向けたまま立っている。
疾走する赤の護衛は彼の存在に気付き、減速しながら停止した。
暫く無言の時が夜の赤鋼に流れる。
日中は鉄を打つ音が叫びのように木霊するその場所で、責任者はただ一言。
「お前は・・・何をしている」
5章:九話 おわり
遅くなり申し訳ありませんでした。
次回の投稿は7月1日を目指して執筆して行こうと思っています。
次話はガンセキ視線にするか、グレン視線にするか悩んでいます。
それでは次回も宜しくです。