花畑の別れ
隧道の壁は人により削られたもので、所どころがでこぼこしていた。
流れでる血液が擦れた線となり伸びていく。
獣の声はほとんどなく、男の荒い息だけが響いていた。
人工のそれを抜けても、まだ夜なため闇は続く。これまで身体を預けていた壁がなくなり、男は姿勢を保てず地面に倒れる。
しばらくうずくまっていたが、気を持ち直して這えば、やがて花に全身が包まれる。
泥と汗。血にまみれた二本の指をくわえると、音をだそうとする。しかし肺に力を入れると激痛が走り、空気が抜けるだけで終わった。
「くそ」
もうろうとする意識の中。それでも大岩まで進む。這い上がるように上半身を起こし、岩の肌を背もたれに座る。
這ってきた場所が倒れて道となり、せっかくの花が台無しだった。
細い声で必死に叫ぶ。
「チビっ」
水を飲もうとするが、袋は引き裂かれており、すでに中身はなくなっていた。
傷口の観察をする。肩のそれは深いが、動かせるから問題はないだろう。イノシシの突進を受け、足の付け根を引き裂かれていた。
その時、首だかに短剣を突き刺したので、殺すことには成功したが。
「止まんねえ」
なけなしの服を破り、それできつく縛ってはいるが、すでに真っ赤に染まっていた。
「おいっ いるんならさっさと来い……バカ野郎」
花畑が微かに揺れる。もう警戒をする気力もない。
頼む。
ひょっこりと姿を現した顔は、いつも通りの無表情。
餌をよこせと顔を近づける。
「遅せえんだよ、このグズがっ」
チビの頭をひっぱたく。怒ったそれは、男に頭突きを食らわせる。
「わるかった、悪かったって。いつも通りだな」
普段であれば、こんな夜中に来たりはしない。
「悪いけど、飯はないんだ。ここに来る途中で獣に投げちまったから」
肩で息を切らしながら、裂けてしまった水袋も見せる。
感覚のない腕を持ち上げると、チビの頭をなでる。
うざいと払いのけられる。
「ちっ 相変わらず可愛げのない野郎だ」
チビは男の手に息を吹きかける。するとわずかに湿る。
「んだよ」
自分の掌を見つめていると、次の瞬間に小さな氷の塊が出現した。
「まじかよ、お前。こんなことできるようになったのか」
喉が渇いていたから、掌の氷を舐めたが、それが気に入らないようでまた頭突きをしてきた。
傷からくる激痛に顔をしかめながら。
「なにしやがるっ」
文句を言った矢先、チビは男の持つ氷塊を舐め始めた。
もう呆れるしかない。
「ったく」
苦笑い。
チビは氷を舐め続ける。
「お前は知らないと思うけど、ここの山道はけっこう重要なんだ。俺の村もそれで栄えたようなもんだ」
聞いているのかいないのか、大きなチビは無反応で氷を舐める。
「町が動きやがったみたいでよ、今日……兵士が村に来たんだ」
他者との繋がりが薄くなっていた。それ以前に一村人に過ぎないこともあり、男は知るのが遅れた。
「良いか、舐めてないで聞け。明日には山狩りがある、だからここを離れろ」
重さに耐えきれず、男は腕を落とす。それでも氷を離さなかったから、コツンと岩に当たって響く。
その瞬間だった。
花畑が一斉に光り、一人と一匹はその輝きに包まれる。
まだこうなる前でも、作業は日中が主だったから、男もこの光景は数度しか見たことがない。
「すげえな」
チビは花に見とれることもなく、じっと男の顔を眺めていた。
風が吹く。花弁が散って舞い上がる。
「俺は大丈夫だから」
ここから離れろ。
「時間が過ぎたら、また、戻ってくればいい」
風がやみ、落ちてくる花の輝きは、どこか雪のように。
呼吸の仕方を思い出せず、苦しい。
「戻ってこい、きっと、会いに来るから」
チビのでかい図体を押しのける。
それでもチビは大きいから、動かない。
「はやく行け。ちょっと休んだら、もどるからよ」
瞼が重い。
全身がだるい。
・・
・・
尻が生暖かい。
「いけよ」
どうやら意識を失っていたらしい。そう言った頃には、もうチビはいなくなっていた。
「なんだよ、薄情な奴だな」
本当に行くやつがいるか。
せめて
「みとれよ」
すでに辺りは再び闇に包まれていた。
氷はまだ残っていた。
もう一度みたい。
最後の力を振り絞り、腕を持ち上げる。
岩肌に叩きつけようとしたが、氷はそのまま落下した。