四話 活路が開く
もともとグレンは強靭な精神をもっているわけではない。挫けてしまうこともある。
それでも、その場にうずくまる無意味さを知っていた。
本心では無駄だと思いながらも、できる限りのことはしようとする。
一直線に走ることはできないが、ボルガは方角を確かめながら突き進む。
「ついてきてるか!」
律儀に言いつけを守りながらも、ボルガは後ろを気にかける。
「ああ。良い風避けがいるんでね」
先ほどからずっと、木の上から虫が二人に降りかかってくる。
両手を交差させることで、魔虫から顔を守るボルガ。
グレンは爪で邪魔な物体を払いながら。
「できれば前を見ろ。無理なら足もとだけでも気をつけとけ」
「んなこといってもよぉ!」
どこに潜んでいたのかというほどの数。まるで虫の雨だった。
唯一の救い。
「邪魔なだけで攻撃はしてこねえ!」
虫の意識が向いているのは狼煙であり、グレンたちに向けられている敵意は薄かった。
「どっちにしろ、暗くて前なんて見えねぇ!」
「これでいいんだよ、単独も同じ状況だ」
走る速度も土地勘も魔物のほうが上である。通常であれば、すでに追いつかれていただろう。
独特の羽音に耳を押さえながら、ボルガは大きな声で。
「おめぇ、こんなことまで考えていたのか!」
これも策の内だと返したいところだが。
「知るかっ 偶然に決まってんだろ!」
これほどとは予想していなかった。
ただでさえ暗いのに、虫のせいで余計に視界が悪くなっていた。この状況で火など使えるわけがない。
「微魔小物じゃなくて良かった」
口を開けた瞬間に入ってくるだろうから、会話どころではなかった。
ぬかるんだ地面に足をとられたのか、それとも木の根っこにつまずいたのか。
「この馬鹿っ! 言わんこっちゃねえ!」
敵意は向いてないとしても、相手は魔虫であるからして、隙を見せれば襲いかかってくる。
グレンは転倒したボルガに駆け寄ると、頭上からの攻撃を爪で弾く。
「しっかりしろ!」
脇に腕を入れ立たせると、腰袋から取りだした清水を持たせ、乱暴に背中を押す。
「すまねぇ」
「三十秒で追いつかなけりゃ、ちょっと待っててくれ」
ボルガはうなずきもせず、無言で走りだす。
「十秒経っても来なかったら、そのまま進め!」
完全に動きが止まってしまったグレンは、急いで姿勢を整えた。
敵は上下左右関係なく、全方面から攻めてくるため、それに合わせた構えをつくる。
各個体は弱い。体中の全てを武器として迎え撃つ。
肘を動かせば腰が動く。
腰が動けば靴底が擦れる。
靴の側面で魔虫を弾けば、掌で魔虫を砕く。
腰が回り切れば、残った片腕に力がたまる。
無駄を削り、命を削る。
間合いの内側を制圧すれば、そこから再び走るための時間をつくれる。
余裕ができた。
空気を鼻から取り入れ、口から一気に吐く。
呼吸法。
魔物具の強化。
人の残り香。
誰かが、沢を飛び越えた。
一瞬視界が滲んだが、すぐさま拭いとる。
希望を胸にグレンは叫ぶ。
「ボルガ!」
俺たちは見捨てられていなかった。
・・
・・
最初に感じたのは、魔物たちの不審な動き。
その方角に目を向けたとき、暗くなりかけの空に、雲または霧のような煙が浮かんでいた。
しかし相手はこちらに気づいていない。
突拍子もない行動。
あからさまな気配。
ゼドの示した方角に向けて皆は走る。
フィエルは沢を渡ったのち、土の領域を展開させていた。
「一体は動きを止めた。もう一体はこのまま追ってくる」
領域をそのまま残すことにより、走りながらでも敵の動きを探れる。
「グレン殿のことはお嬢さんに任せるだす。敵が一体なら、自分が引き受ける」
許可を得るまではそのまま走り続ける。
「今の情報を信用するのは駄目よ」
発動地点から探ったものではないため、他にも魔物が潜んでいる危険が高い。
「適材適所だす」
今追ってくる魔物は、この場で仕留めたほうが良い。
一般補佐は背負っていた荷物を両肩から外すと。
「私がお供します」
「そんくらいの荷物なら、おいちゃんが預かっても良いよ」
張り詰めた空気は、忘れていたものを呼び覚ます。ゼドの走り方が、いつの間にか変化していた。
「二人と二人ってのは得策じゃないだす。それに自分、誰かと協力して戦うの苦手だすし」
中継地での修行風景から察するに、そうとは思えないのだが、一対一に拘りがあるのだろう。
フィエルは相手の背中を睨みつけ。
「できるの」
「自分だけじゃできないだす」
投げ槍を掲げてみせる。
「実戦から離れて長いだすし、もともと篦棒に強いわけでもない」
彼を越える剣の使い手は、過去に間違いなく存在している。
負け続けた剣士たちと、諦めなかった剣豪たち。
魔法もなく、武具だけで挑んだ戦士の時代。
夜の幕開け。
「少なくとも武器の扱いだけなら、コガラシ殿より上手だす」
フィエルも馬鹿ではない。むしろ勘は鋭いほうである。
自分を悩ませ続けたあの男が、魔力なしではないことも、彼女はすでに気づいている。
「わかった。貴方に任せます」
許可をもらったゼドは、その場にすっと立ち止まる。
三人は彼を残して通り過ぎた。
ここでは場所が悪いため、すこし移動する。
・・
・・
領域で相手の位置を探る。魔物は進路をずらしていた。
いつだって、こんなものである。
自分との戦いよりも、他を優先させる。
「行っては駄目だす。ちゃんとこっちを見て欲しい」
殺気を広げ、このまま通り抜けては危険だと相手に判断させる。
もっと、自分に意識を向けさせる。
俺にはお前が必要だと。
頭の中で何度も戦いの流れを繰り返す。
先読みはとても大切なことだが、ゼドはあまり得意な方ではない。だから相手がそう動くよう、今のうちから空気をつくっておく。
自分たちを追いかけていたはずの魔物は、いつの間にか速度を落としていた。
折角の一対一であるため、場所による有利と不利は対等にしておきたい。
頭は下げない。
「よろしく」
雷を操る大きな犬は、ゼドの声に合わせて足を止める。
やはり魔物は苦手である。そもそも心技は人間を前提に開発したものであり、たとえ心があったとしても、構造に違いがあれば通し方も変化してしまう。
この一時を邪魔するものは許さない。
犬が一歩を進めると同時に、ゼドは構えをつくる。
相手は動きを止めた。
男の姿勢は不格好でみっともない。
背中は曲がり、両脇が開き、挙句の果てにガニ股。
左腕を前にだし、右手の槍を掲げる姿は、どうしようもない程に滑稽だった。
修練を怠った結果が、今のこの構えである。やろうと思えば正せるが、恐らく不自然なものになってしまうだろう。
それでもなぜか、犬は動くことができなかった。
ゼドが前に出でいた足をさらに動かす。湿った土が擦れ、小石も散る。
犬は一歩下がる。
隙間ができた。そこに研いだ殺気を通す。
犬の思考が止まる。
槍を投げる。狙うは鼻の下。
左前足が無意識に動き、飛んできた槍が突き刺さるが、致命傷は免れた。
助走もなくゼドは跳ねる。
一人と一体の距離が一気に縮まる。
左手にナイフを握る。
足が地面につく前に、得物で犬の顔面を突こうとする。大犬は寸前で意識を取り戻し、残った前足で払おうとした。
ゼドは左腕の動きを止めていた。
振られた前足は空を切り、目の前を通り過ぎる。槍の突き刺さった足では体重を支えきれず、そのまま大犬魔は転倒した。
剣士はナイフを利手に握ると、犬の首もとをスッとなぞる。血が細く飛び散るが、身体にあびないよう、角度を調節していた。
魔物は人間よりも敏感なため、心技は相性が悪い。
「もう、でてきて良いだすよ」
見守ってくれていたものたちに、感謝と殺意を込める。
木々の間から、無数の目が光っていた。
喉を鳴らしていないため、犬系統ではない。
横たわる巨体から、槍を捻り抜く。
正直に言えば分が悪い。
「身体が仕上がってないことを詫びる」
まとっていた気持ちを心の中に押し込めて、余計な感情を研ぎ捨てる。
群れの殺気を感じ取り、その中からボスを探る。
「それでも願わくば」
刻亀の影響を受け心が狂おうと、まだ大切なものは残っていると信じ、ゼドは一体に向けて殺気を放つ。
グレンがみせる不気味なものとは違う。
「どうか、命のやり取りを」
曇りのない純粋な願いが、一体また一体と足を潜めさせていく。
赤の護衛を助ける。
勇者との会話。
責任を取ると言ったくせに、もう全て忘れていた。
背を向けた魔物たちに、行かないでと足を踏みだす。
彼は絶対に自分を認めなかった。
『一つに縛られちゃ駄目だ』
呼吸を整える。
『感情を全て吐きだして、周りをみて』
師匠だというのに、その口調には威厳も糞もなかった。
『気づいてないだけで、皆ちゃんと君を見てる』
力があるのに、偉い連中に、両親に媚を売って。
いつもヘラヘラしてて、納得できなかった。
許せなかった。
「ダメだす」
頭を振る。
「こんなんじゃ、剣豪になれない」
ゼドは現状を思いだす。
自分は剣を捨てていた。
戦ってくれた相手には、感謝を忘れてはいけない。
教えを思いだし、大雷犬魔に頭をさげる。
「どうやって乗り切る」
両腕を地面に添えて、グレンとフィエルの位置を確認する。
すでにここら一帯の魔物を刺激していた。
「どうする」
どうやって沈める。
ゼドは領域を解除して走りだす。
「どうすればいい」
ここはまだヒノキではない。
心の底まで、刻亀の雪に汚染されてはいない。
・・
・・
足もとには大小の石。所々水たまりもできている。
両側が上り坂となっているため、ここが一番低い。
豪雨があったのはもっと上流。もしここに雨が降れば、今いる場所には水が流れるのだろう。
彼が通るのを待っていたのか、頭上から腕の長い魔物が二体襲いかかってきた。
一体はそのままゼドを狙い、もう一体は行く手を塞ぐ。
殺気は探知に置いて、時に土の領域よりも優秀である。
彼の独自の歩法は、普通に走るよりも遅い。しかしこういった足場では力を発揮してくれる。
相手の狙いはゼドを抱き締めたのち、首もとにかぶりつくこと。握力も腕力も人より上である。
もとより体格が優れているわけではない。力勝負では魔力をまとった女性にすら敵わない。
抱きつかれたと同時に片膝を折り曲げ、腰を捻りながらそのまま地面に額をもっていく。
両手にナイフと槍を持ったまま、ゼドは相手を投げた。
攻撃してきた魔物は体格が人間に近い。まだ投げ技は続いていた、仰向けになった魔物の急所に、体重を乗せた自分の肩を打ち付ける。
この槍は短いため、こういった動作も意外とできた。
思うように身体が動かない。昔なら今ので失神までもっていけたが、残念ながら動きを一時止めることしかできなかった。
ゼドは相手の身体の上で転がると、その勢いで立ち上がる。
もう一体残っていた。
《投げれる》
偶然だが姿勢が整っていたため、行く手を塞ぐ魔物に槍を放つ。
狙いなど定まっておらず、脇を通り抜けてしまう。
手の長い魔物が槍に反応し、身体を逸らした瞬間だった。ゼドは片腕で相手の足をすくい転ばせる。
二体の魔物を殺すことなく、投げた槍を回収すると移動を再開させた。
・・
・・
ゼドがフィエルたちと合流した頃には、二名の仲間が加わっていた。
「囲まれちゃっただすね」
面々はうなずき合う。
グレンはそれでも、目を輝かせ。
「こんだけいるんだ、いけますよ。なにより今、あんたが加わった」
二人でこの地に取り残された。そんな状況に比べれば、ずっと活路は開けていた。
運動不足のゼドは、肩で息を切らせながら。
「体力が限界だす」
恐らく他の面々も、魔力がそろそろ危なくなっているだろう。
「でも、戦うしかねぇんだな」
ボルガの後にフエゴも続く。
「おいちゃんまだ魔力に余裕あるよ、魔虫はもうここらにいないしさ」
嬉しさのあまり、グレンは冷静な判断力を欠いている。
「動きながらでも会話はできます」
一般補佐はフエゴの灯す小さな光を見つめていた。
「移動時の警戒はグレンさまとフィエルさん。一分置きにゼドさんが領域を展開」
それで良いかとフィエルを見る。
「駄目ね」
補佐代理は地面に両手を添えていた。
「群れはもう戦闘態勢に入ってるし、何体かの単独も虫の中を突破したわ」
戦いは避けれない。
「グレン殿。そこら辺の木にでも登って、魔獣具を発動させるだす」
「日中でも上手くいかねえことが多い。ましてや今の時間じゃ無駄だ」
ゼドは呼吸を整えながら。
「考えがあるだす。少なくとも、殺気で群れを追い払うことには成功した」
魔獣具と殺気を合わせ、魔物に残された本能を刺激する。
一般補佐はゼドの背中をさすると。
「なにもしないよりは、なにかをした方が良い」
可能性があるのなら。
グレンはうなずくと、ボルガに岩の壁を召喚してもらう。
・・
・・
木の上。
相手を見下ろす。
ゼドは闇に包まれたグレンを見上げながら。
「自分たちは赤の護衛の配下になるだす」
木を背もたれに休んでいるが、彼の全身からは激しい殺気が飛び散っていた。
「これは、凄いですね」
一般補佐だけではない。背筋がゾッとし、鳥肌が立つ。
「嫌な感覚を思い出しちゃうのよ」
かつて魔獣と対峙したとき、無意識に一歩さがったことを。
「でも駄目なんだな」
ボルガの発言にフィエルがうなずく。
「効果が無いとは言わないわ。でも薄い」
ゼドはナイフと投槍を優しく抱きしめながら。
「言ったじゃないだすか。自分たちはグレン殿の部下になるんだす」
黒膜化中は喋れない。なぜなら彼を包んでいるのは、魔物の魔力だから。
「グレン殿、思いだして欲しいだす」
赤い瞳は片方のみ。なにを考えているのかは解らないが、ゼドの方を見つめていた。
「その魔獣の声を」
血走った目を斜め上に向ける。それは思い出そうとする仕草。
グレンはクロの鳴き声を聞いたことがない。
黒膜化。顔面の口もとが破れる。
闇は形をつくり、音を発するための仕組みを整える。
あの群れには足に傷を負い、満足に歩くことすらできなくなった犬魔がいた。
次の瞬間であった。空気が裂ける。
《ここは俺の縄張りだ、誰も踏み入ることは許さねえ》
それは大きな音ではない。だが心臓に響く太鼓のように、なにかを揺らす。
面々は息を飲み、辺りを見渡す。
ゼドは殺気を沈めていた。
《来たけりゃこい。ただ、その時は覚悟しやがれ》
グレンに合わせて一気に解き放つ。
魔獣は静かに吠える。
《殺すぞ》