十四話 白黒の世界
翌日。天気は問題なく、準備も整っている。
次の野営地までの距離からして、早朝からの出立ではなかった。しかし何日も同じ場所に留まったせいもあり、後片付けにはそれなりの時間を使っている。
これまで先行隊は数時間ほど先を進んでいたが、すでにこの数日で調べを終えていたこともあり、少し離れている程度であった。
フエゴたちも威嚇射撃が通じなくなってきたため、今は力馬の護衛についている。
分散していた戦力がもどり、ある程度の余裕ができたのだろう。グレンも今日はガンセキたちと行動していた。
「ちっと窮屈っすね」
この輸送部隊はそこまでの大人数ではないが、力馬ルートを全員で通るには少し多い。数が増えれば人の臭いも濃くなるため、そのぶん魔物に狙われる。
アクアは茶化すようなニヤけ顔で。
「文句言ってないでさ、遅れたぶんの修行しなよ」
「そんなんじゃねえよ。ただ思っただけだっつの」
二人は相変わらずであった。
セレスはニコニコしながら靴底で地面を叩き。
「うへへぇ 大地の結界って、こんな使い方もあったんだねぇ~」
一行の四人だけではない。力馬を守る兵士たちの足もとも、黄色く染まっていた。
ペルデルとフエゴたちに魔物の意識を向けさせ、大地の結界により兵士たちの存在を薄める。
この方法は当初の予定どおりではあるものの、三者の位置取りが難しく、進む場所によっては使えない。
朱火が雨中を歩き探索した結果、現在のルートに決められた。
「お前らこそ笑ってないで修行しろよ」
「誰かさんと違って、ボクらは真面目に修行してるもんね」
セレスはうへうへしながら、アクアになんどもうなずきを返す。
勇者というものに、変な理想像をもっているグレンからすれば、その表情は面白くない。
「お前のその笑い方みると、無性に殴りたくなるからやめろ」
「ほらほら、私に文句いってる暇があったら、はやく修行しなよ~」
殴りたいが、今それをすると喧嘩になるため、不満をぐっと堪える。そう、グレンは我慢を覚えたのである。もっとも、拳はきつく握りしめていたが。
ずっと黙っていたガンセキは、三人を見ることもなく。
「この人数を隠すのは久しぶりでな。かなり堪える」
魔王の領域で戦っていた頃は、もっと多くの同盟員を隠したこともあったそうだが、最近は結界方面の鍛錬を怠っていたらしい。
穏やかな口調ではあったが、その中に含まれていた、少し黙ってろという意味に三人は気づく。
・・
・・
昼を過ぎ、太陽が傾くころ。
そこは地面が湿っていた。木々の隙間から下方を除けば、濁った沢を見てとれる。
ここ数日の雨はそこまで強いものではなかったが、上流ではけっこうな量が降っていたようで、水かさはだいぶ増していた。
ボルガは額の汗を手ぬぐいで拭うと。
「ふぅ、さすがにしんどいんだなぁ」
朱火の活躍もあり、魔物との戦闘はかなり少なくなっていたが、体格が良いとこういう面倒事を押しつけられる。
「しばらく待機だってんならよぉ、これ降ろしてもいいですかぁ」
今は荷物運びを命じられているようで、双角だけでなく、鎧も身体から外していた。力馬ほどではないが重そうである。
「この戦いが終わったら、少し移動して休憩するから、もうちょっとの辛抱なの」
メモリアが目で合図をだすと、数名の兵士がボルガの荷を支える。
大地の結界をつかった移動ができるこのルートにも、やはり難所はあった。
前もってペルデルたちが猿の群れを襲い、ボスを含む上位個体を殺しておいたのだが、僅か数日で新たなボスが誕生していた。
もっとも力で勝ち取った座ではなかったこともあり、まだ掌握はできていないようで、群れの規模は半分ほどとなっていた。それでも三十は超えているため、侮れない相手である。
「姐さんはずりぃんだな。おれにばっか、こんな思いさせてよぉ」
「お前は女の私にそんな荷物を持たせるのか」
メモリアに凄まれて、ボルガは一歩後退る。
靴が湿った地面にめり込み、デカブツは姿勢を崩し、支えていた兵士もろとも転倒する。
「ちょっと、なにやってんの!」
濡れた土が手の平にまとわりつく。
セレスのように緩んでいたその表情が、いつの間にか引き締まる。
汚れた自分の手を眺めていたが、少しすると辺りを見わたして。
「これは……やべぇんだな」
極稀にだが、ボルガがこうなることは以前にもあり、メモリアもそれを覚えていた。
「どうしたの?」
「おれの役目は、勇者一行を守ることなんだよな?」
朱火からの要請で、コガラシとグレンは猿との戦闘に参加していた。
彼がなにを考えているかは不明だが、勇者一行が最重要の護衛対象であった。
「もし守れなければ、この任務は失敗だよ」
馬鹿でかい荷物を肩から外すと、ボルガはその場から立ち上がり、しばし牛魔双角をみつめる。
まだ実戦で使うなと言われたため、ボルガは手ぶらで走りだした。
「おいこらボルガてめえ! 状況くらい説明していけっ!」
ボルガは足を懸命に動かしながら。
「熊が隠れてる!」
・・
・・
赤茶色の魔物はその小さな体格を活かし、木の上という安全地帯から地上の人間に向け、たくさんの炎を投げ落としていた。
団員も飛炎などで対抗するが、位置的に有利なのは猿だった。
「じゃあ、ちょっくら行ってきやす」
コガラシは岩腕の指先に乗ると、土使いの合図にあわせて飛び上がる。
空中戦に関しては、彼のほうが自分より上手い。その発言を受け入れられる程度には、グレンも朱火に信用されているようであった。
無数の炎が飛び交うなか、自分の進路上にあるものだけを見極めて、片手剣で切り払う。
猿は後ろ足の指で器用に枝をつかまえていた。
木の上に到着すると、すぐさま左の剣を突き刺し、自分の居場所を確保する。残った右の剣で近場の枝を斬れば、それを足場にしていた個体は落下するしかない。
人間が乗り込んで来れば、猿たちも黙ってはいない。左手で抱えていた糞を右手でつかみ、炎を灯して一斉に投げつける。
コガラシは片足を枝に引っ掛け姿勢を整えると、右剣で迫ってきた炎を切り払っていく。
始めのうちはそれでよかった。しかしそれは粘着質の糞であり、次第に剣は汚れ、清水の効果も薄れ始める。
「こんなもん人に投げちゃいけやせん。だから、お返しいたしやすぜ」
汚れた剣を放り投げれば、それが上手いこと一体に突き刺さる。
「片手剣じゃ、小回りが利きやせんね」
コガラシは身体を支えていた左剣を手放すと、近場の木に飛び移り、そこにいた猿を蹴り飛ばす。
落下していく個体は、次々と朱火の団員が殺していく。
そんな凄まじい一般兵に、班長は驚きを隠せない。
「魔物具もなしに、あんなことできるのか」
これで魔力なしだと知れば、さすがに彼も疑うだろう。
ずっと見上げていれば首も痛くなってしまうため、ペルデルは視線を地上に戻し、落下した猿へ炎を走らせる。
・・
・・
爪で魔法を引き裂けば、少しずつ左腕が黒く染まる。
壁は崩れて土に帰る。ひらかれた視界には、無数の糞が飛び交っていた。
ここはまさしく、うんこの楽園。
それでもグレンの中に喜びはない。怒りよりも、悲しみが強かった。
「兄に牙を向けるとは、血迷ったか……弟よ!」
自分にめがけて飛んできた炎の糞を、グレンは素手でつかみとる。これが力馬の積荷にあたれば、消火作業にどれほどの人員を必要とするだろうか。
右腕にまとった魔力を発散させ、魔物の炎を消す。
「グレンさん、準備はまだか!」
急かすような土使いの声に振り向くと、未だ掴んでいたウンコをみせ。
「どうやらここ数日、ろくなもん食ってないようだ。このまえ戦った時のほうが質はよかった」
逆手重装はすでに黒く染まっていた。
「もう良いなら、早く行ってくれ!」
兄としての風格を漂わせたグレンは、力強くウンコを握りつぶすと、爪で右前腕をなぞる。
黒膜化。少しずつ闇が全身に広がっていくのは怖いが、ここ数日で何度か使っているだけあり、それなりに慣れてきた。
柔らかな足場に少しずつ身体が沈んでいく。両膝を折りたたみ、この重さを発射の力に利用する。
黒い化物を見つめていた土使い。目をそらしていたわけではなく、瞼を閉じたその一瞬で、彼の前から姿を消していた。
気づけばグレンは地上から数mの枝に立っていた。その手には小型の猿が掴まれており、握りつぶされたのかすでに息絶えている。
黒い膜に覆われた魔獣のことを、猿たちは覚えていた。叫ばないはずの魔物が、金切り声でグレンを威嚇する。
その場にいた個体は全て、標的を一人の魔獣に絞る。燃える糞は次々と命中し、黒い表面にまとわりつく。
黒膜化状態だと熱さすら感じないようで、燃える糞を身につけたまま枝の上を歩き、木と木の間を跳んで移動していく。
体重が軽くなっているため、拳打や蹴りでは殺すのが難しい。
黒炎爪はガンセキに禁止されているため、魔力を少しだけ練り込む。燃える腕の先から現れた剛爪は、いつもよりどこか不気味であった。
炎が通じないと判断した個体は、グレンに噛み付こうとするが、爪で引き裂かれる。
この状態では喋ることができない
『俺に噛みつくなら、せめて首じゃなくて、足を狙ったほうが良い』
そう発したつもりでも、気色悪い唸り声に変化してしまう。
枝の生え際に目的の物はあった。
各個体が所持できるウンコの量には限界があるため、ここのような補充場所が用意されている。
ペルデルには怒られるかもしれないが、現地調達ができるのなら、今後のためにも入手しておきたい。
レンガからの在庫が充分ではないため、予めメモリアの許可も得ている。
魔物の糞をすくって放り投げると、地上の団員たちに向け、グレンは頑張って声を発した。
『これは良い物だ、イザクさんに届けておくれ』
意味としてはこのような内容だが、周囲からすれば恐怖の音色である。
近場にいた猿たちは、片手で抱えていた糞を落としてしまう。
戦意を失った群れはもう、狩られるだけの物体である。
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・・
黒膜化を必要としたのは朱火であり、実際に猿という相手には有効な力である。
だが、その判断は失敗であった。
突然出現した魔獣の存在が、ある魔物を刺激してしまった。
一方的な狩りを終えると、地面へと着地して、黒膜化を解除する。
黒膜化により臭覚が強化されようと、自分の世界に入り込んでしまえば、気づくのが遅れてしまうこともある。
血の臭い。
小さな氷の粒が無数に漂っていた。
目前には、黒い紋様が全身に描かれた熊。毛の色は青黒く、その足もとには死体。
相手との距離はおよそ七m。間合いに入っていた。
やばい。
そう感じた瞬間には、熊の姿を見失っていた。
ペルデルの叫びが聞こえる。
「左だ!」
山中は薄暗い。だがグレンの左側は、それよりも暗い影に覆われていた。
振り上げられた片方の前足には、鋭い爪。
水属性の熊は他所にも存在するものの、これほどに厄介な魔物ではない。
ヒノキの影響だと思われるが、ここら一帯に生息する氷魔熊は上位の魔物として知られている。
空気中に漂う氷の粒。
この魔法はゼドの心技に近いが、正確にはそれよりも厄介である。
思考が停止しているだけであれば、反射で身体は動く。だが一瞬でも時間を止められてしまえば、凍りついたように動かない。
対処法はある。この魔法は単体にしか使えないため、狙われた者以外は動くことができた。
コガラシはグレンを蹴り飛ばすと、振り下ろされた前足を両手の片手剣で防ぐ。しかし力と体格の差は歴然であり、剣士は横に吹き飛んだ。
木の幹に激突して停止するが、その後はピクリとも動かない。意識を失ったようであるが、まだ死んでいなかった。
熊は標的をグレンからコガラシに切り替える。急な斜面ではあるが、こういうときに四足歩行は便利だった。
行く手を阻むように土使いが岩の壁を召喚するが、熊は体当たりでそれを粉砕する。
「コガラシさん!」
グレンが叫ぼうと、彼の意識は戻らない。
蹴り飛ばされ、それなりに吹き飛んでいたが、地面や木に当たった衝撃はなかった。
「おれがやってみんだ!」
ボルガがグレンを受け止めていた。
恐らく頑強壁でも、熊の体当たりは防げないだろう。しかし先ほど岩の壁を壊したことにより、熊はその強度を体感していた。
最小限の力で壁を壊せれば、そのぶん次の動作に早く移れる。
岩の壁と頑強壁では硬さが違う。熊は破壊に失敗し、その場で動きを止めた。
「よくやった!」
ペルデルは三つの炎を走らせていた。再び壁を壊そうと、姿勢を整えていた熊にめがけ、炎が一つに重なる。
「グレンさんっ 火力不足だ!」
うなずき立ち上がると、右腰袋から油玉を幾つか鷲づかみ、ボルガの足もとに放る。
「俺はやりたいことがある、お前が投げてくれ」
「これを当てりゃいいんだな」
焦らずに命中させるというのは、中々難しいことである。それでもボルガは牛魔と戦ったとき、小さな的に石を当てていた。
油玉が当たれば、中身は飛び散り、ペルデルの炎は火力を増す。
「すぐに弱くなっちまうから、そのまま投げ続けろ」
そう言ってまたボルガの足もとに油玉を放ると、グレンは逆手重装に目を向ける。
猿との戦いで、すでに黒色は指先だけとなっていた。
頑強壁が崩れると、そこにコガラシはもういなかった。
三名の炎使いが、投げやりを構えていた。一本は爪に弾かれたが、残る二本は肩と前足に突き刺さる。
ナイフを得物とする者が横に回りこみ、一振りで四本を投げたが、氷の皮膚により何本か落下してしまう。
空気中に小さな氷の粒が漂っていた。
ペルデルが叫ぶ。
「離れろ!」
もともと水使いは近場の水分しか操れないため、この魔法も距離をとれば安全であった。
だが、班長の指示を受けても、動かない者が一人。恐らく、時が止まっているのだろう。
「くそっ!」
脳裏に嫌な記憶が甦る。
この魔物さえいなければ、班長などという責任を背負わずにすんだだろう。
身体に突き刺さった刃はそう簡単に抜けない。
痛みは魔力まといを鈍らせ、少しずつ身体を焦がしていく。
それでも氷はとけていなかった。熊は血を流しながら立ち上がり、未だ動かない団員に向けて走りだす。
・・
・・
周りが一生懸命戦っている中、ただ一人孤独と向き合う者がいた。
失敗
失敗
「落ち着け、集中しろ」
グレンは自分に言い聞かす。
左手に炎を灯しながら、右腕に練り込んだ魔力を動かす。これは赤鉄に限った修行ではない。
両腕の魔力を練り込み、胴体へ移し、心臓へと凝縮させる。
・・
・・
グレンの視界から、色が消えていた。
この世界への突入こそが、成功の証である。
小さな氷の粒に当たれば、たぶん物凄く痛いだろう。
《頼む、力を貸してくれ》
両腕を交差させ、自分の顔を氷の粒から守る。
一歩を踏みだした瞬間に、空気の壁が行く手を阻む。
熊の位置は自分のいる場所よりも低い。
下り坂のほうが足への負担は大きい。
《今転べば、そこで終わりだ》
移動するにあたり、空気の壁は本当に厄介である。しかし氷の粒から守ってくれているのも事実だった。
それでも幾つかの粒が空気の壁を通り抜け、グレンの腕を傷つけていく。身体には薄い膜が張っており、クロが力を貸しているのは確かだろう。
空気抵抗が強すぎて、前の様子が解らず、熊の位置を掴みにくい。
地面を踏みしめるたびに骨が軋み、そのまま足を持っていかれそうになる。
その世界は物凄く、ゆっくりと流れていた。それはグレンも例外ではない。
だが意志を持って行動できるのは、現状だと彼一人。
歯を食いしばりすぎて、歯茎から血が出そうだった。
これは全身極化ではない。この世界で生きるには、身体がひ弱すぎるのである。
今は出血していないが、恐らく世界に色が戻れば、自分の身体も少しだけ赤く染まるだろう。
現実とすれば、一秒ほどなのだろうか。
熊は目前まで迫っていた。こんな状況で殴りかかれば、自分の腕ごと壊れてしまう。
攻撃手段はただ一つ。
体当たり。
《クロ……頼む》
今この世界を知るものがいるとすれば、全身を黒い炎に覆われた獣だけ。
血は流れていなくとも、逆手重装の爪は彼の右腕に突き刺さっていた。
・・
・・
赤く燃えていた熊が、突然黒い光に包まれた。
その巨体を貫いた影は、やがてグレンへと変化するが、そのままの勢いで転がっていく。
皆が唖然とその光景を眺めるなか、誰かが叫ぶ。
「おい、やばいぞ!」
下り坂の先は崖となり、数m下は水かさの増した沢。
吹き飛ばされた時は、都合よく木に激突するくせして、こういう時に限ってそれがない。
意識を失っているのか、グレンはそのまま転がり続ける。
大地から見捨てられ宙に放りだされた瞬間であった。
「良いとこ取りってこんで」
コガラシが火の服をつかむことに成功した。すぐさま駆け寄ってきた団員が、彼の足をつかむ。
修復を繰り返せば、生地は少しずつ傷んでいくものである。
できる限りの魔力をまとい、グレンを引き上げようとしたそのとき、ビリっと嫌な音がした。
コガラシはグレンを追って沢に飛び込もうとしたが、団員たちがそれを許さなかった。
ペルデルが叫ぶ。
「誰かそのデカイのを止めてくれ!」
ボルガは牛魔の如く、行く手を塞いだ者たちを跳ね除けると、沢に向かって飛び跳ねた。
なかなかヒノキにつかずすんません。
ちょっと無理やりですが、これしか思いつかなかった。
多分二話くらいで終わると思いますが、次章の始まりは遭難編になります。