十七話 大声で屁を隠そう
場所は解らない。そこには男が立っていた。
その人物は、黒い布で顔を隠している。
隙間から良く見ると、彼の皮膚は爛れていた。
空気に触れるだけで痛むから、布を巻いているのか。
それとも醜いから、隠しているのだろうか。
彼女には、なにも解らない。
水よ。
・・
・・
案内してくれた団員に礼を言うと、グレンは一行に用意された部屋へ入る。
扉に鍵はない。
他者の侵入を阻むものを、全ての部屋に設置するのは難しい。ここは要所とは言っても、急いで造られた砦である。
それでも中にいるときは、木材を差し込むことで鍵の代わりとできる。室内はそこまで広くないが、二人で使うぶんには問題ない。
片隅には貴重品を入れる箱。鍵は恐らく責任者が持っているため、グレンに開けるすべはない。
ベッドは二人分。一方はガンセキが使った痕跡がある。
机はないが、椅子はある。しかしそこに座ってしまうと、行動する気が失せてしまう。
責任者の帰りを待つのが最善である。だが、今日中に済ませたいことがあった。
行動に移したい。それでも足が動かない。
休みたい自分と、それを許さない自分。
二人のグレンが争っていると、やがて扉が叩かれる。こちらの返事を待たずに入ってきたのだから、恐らく一行の誰かだろう。
「ノックすりゃ良いってもんじゃねえぞ」
「うるさいな。君にだけは言われたくないよ」
どうやら隣の部屋にいたようで、物音がしたため来たのだろう。
「セレスは修行してるらしいけど、アクアさんは一人でお留守番ですか」
まだ小さいのに偉いですね。
そう思っても、決して口にはださない。だが馬鹿にした口調であったため、内心は筒抜けであった。
「痛いじゃないかアクアさん。そうやってすぐに殴るから……」
頭をさすりながら、グレンは相手の顔をみる。
「……へ?」
そこにいたのは見知らぬ女。アクアは小さな胸を張りながら。
「どうだい。フィエルさんに教わったんだけど、けっこう上手くでたんじゃないかな」
今日はセレスの手助けを借りたらしいが、もともと彼女は器用である。
「ああ。誰かわからないほどの別嬪さんだ」
グレンの瞳に灯るのは、醜き嫉妬の炎。
「でもな、勘違いすんじゃねえぞ。俺のほうが……きっと」
嫉妬はやがて憎悪となり、己の身をも焼き尽くす。アクアはそれを防ぐため、呆れた口調で。
「はいはい。グレンくんは可愛い可愛い」
どうやら対応が気に食わなかったようで、彼女は少し不機嫌になっていた。
目もと。陰による強調。目立ち過ぎない唇の色。
「まぁ、あれだ。らしくはねえが、良いと思うぞ」
その返答に、しばしアクアはきょとんとする。
「君には期待してなかったからさ、いざ褒められると照れるよ」
「安心しろ、気の迷いだ。もう二度と褒めない」
グレンはガンセキのベッドを指さすと。
「でっ、ほかの連中は?」
「二人とも忙しいからね。君のこと知らされたら、ガンさんはここに来るんじゃないかな」
中継地に到着してから、まだ一時間前後である。
「ちょっと用事があってな。お前に伝えとくからよ、もし来たら頼んでも良いか?」
火炎団に関する報告。
「別に良いけど、用事ってなにさ」
「一人死んじまってな。ピリカさんに届けねえと」
会員証は懐にしまってあるが、見せはしない。アクアも察したようで、それ以上は聞きもせず。
「ところでグレン君はさ、もう行ったのかい?」
お偉いさんとの挨拶より先に、三人が向かった場所。グレンもそこのことは知っている。
「行ってないし、行く予定もねえな」
そもそもグレンがこう言うことは、アクアも気づいていたようで、責められもしなかった。
数分後。簡単な報告を済ませると、グレンは彼女を残して扉を開ける。
「そんじゃ、ガンセキさん来たら頼むな」
振り向けば、そこにいる女は別人である。
「用事が済んだらさ、セレスちゃんに顔見せてあげなよ」
川側の大岩。アクアの話では、いつもその辺りで修行をしているらしい。
グレンは適当にうなずくと、茶化すような口ぶりで。
「せっかくの化粧も、その喋り方だと台無しだな。それにお前、寝てただろ」
お留守番ではなく、魔物具の修行をしていた。本人はそう言っていたが、目もとが少し崩れていた。
怒ると期待したが、予想を反し。
「もう当分はしないよ。毎日するの面倒だしさ、そもそも自分の持ってないんだ」
彼女の表情は、少し大人びて見えた。
「そうか」
短い返事だけを残し、グレンは扉を閉める。
ベッドの上には投げ捨てられた布製の袋。アクアは本人の許可も得ないまま、さも当然のように中身を取りだす。
「うわっ もう、汚いなぁ」
それは一応水で洗われており、移動中に干していたのか、すでに乾燥も終えていた。
「まったく、グレン君は」
文句を言いながらも、未だ汚れの目立つ衣類を手に移動する。
彼女に用意された建物は隣である。
その一室。散らかってはいないが、どちらかと言えば男部屋のほうが綺麗だった。
服を椅子の背にかけると、アクアは自分の荷物を探る。
取りだしたのは古ぼけた箱。片手でも持てる大きさだが、彼女は両手で運ぶ。
箱の中身は裁縫道具の一式であり、かなり本格的な代物である。姉より譲り受けたものだとすれば、商売道具であるからして、それも頷けた。
修復用の生地は持たされているものの、人の手で持ち運ぶには限りがある。
戦闘のたびに服を直すのは、彼女の役目となっていた。特に火の服は毎回損傷が激しいため、こちらの身になって戦えと言いたいが、こればかりは仕方のない話だ。
「まったく、グレン君は」
ハサミを手に持つと、その刃を黒地の布に当てる。
「……まったく」
闇と同じその色を見つめたまま、しばらく手を止めていた。
・・
・・
グレンは部屋をあとにすると、アクアの教えを頼りに道を進む。
「うん。俺ここ初めてだし、迷っても仕方ないよな」
人に聞くといった手段もあるのだが、あまり気が乗らないため、辺りを見渡しながら目的地を探す。
数分歩いたところで、グレンの視界に修行場が映る。
簡単な作りで広くはない。それでも土質は優れているようで、昨日雨が降ったにも関わらず、兵士たちの姿が見てとれる。
所々に小から中の岩が設置されており、死角を利用した訓練が可能となっていた。
物資輸送時の陣形。土の領域による各自の連携。弓や一点炎放射。
訓練内容は様々だが、今日は上半身裸の男達が、武器を手に素振りをしていた。小岩の上には女の人が立っており。
「おいこらボルガ! よそ見すんな!」
デカブツと目があったため、一応手を上げておく。それに手を振って応えるものだから、ボルガはまた分隊長に怒られていた。
グレンは颯爽とその場を離れた。
アクアが言うには、自分の部屋から五分ほど。中継地にしては大きい建物だから、簡単に見つかるとのこと。
しかし迷ったせいもあり、到着したころには三倍の時間を使っていた。
明火長と対面した場所は、目と鼻の先にある。そこは一見倉庫のようで、部外者は立ち入り禁止な感じがする。
それでもグレンは意を決し、建物の中に足を踏み入れ、近場にいた商会員に話しかける。
「ここは物資関係の出入口ですんで、裏に回ってもらえますか」
「あっ はい、すんません」
・・
・・
裏口に到着すると、先ほどの商会員がすでに立っており、グレンを案内してくれた。
一階建てではあるものの、やはり広い。それでも大きさだけであれば、デマド組合のほうが上である。
商会員がノックをし、彼に招かれて室内に入る。
「あら、グレンさま」
グレンだけを入室させると、商会員はそのまま扉を閉めてしまう。
「ども」
やはり、この人物は苦手である。
「襲撃の件、誠にお疲れ様でした」
すでに報告は受けているのだろう。
「ただ妨害をされただけで、襲撃ってほど大げさなもんじゃありませんよ」
「邪魔より先を彼らに許さなかったのは、グレンさまと聞いておりますが」
敵魔法陣の予想だけで、あとはなにもしていない。
「そもそも俺が同行しなけりゃ、信念旗の妨害はなかったんですがね」
「ですが。あなたの力添えがなければ、清水も無事ではなかったと」
褒められるのは嬉しいが、相手が相手である。
「たぶんですが、清水の件があるから、俺のこと過剰に評価したんじゃないっすか?」
彼の背負った樽の中身を、グレンは商会員より受け取っていた。
「あの御方はそのような理由で、他者を褒めるような真似はいたしません」
鉄工商会の中では特殊だが、恐らく彼女は相応の地位を得ている。
「清水は気にせず受け取ってください。こちらとしては、ほかの報酬も用意したいのですが」
商会員より渡された清水は、最初から返す気はない。
「金の目的で同行したわけじゃないんで、清水だけで俺は充分です」
グレンは懐から会員証を取りだすと、それを机の上にそっと置く。
最近到着したばかりのためか、ピリカの部屋は散らかっていた。当然机の上も、綺麗とは言い難い。
それでも会員の証を、手渡しするのは嫌だった。
「清水はとても価値のある物です。しかしあれは自然の産物であり、完全な管理はできません」
「管理って、治安軍ですか?」
もし犯罪と呼ばれる仕組みがなければ、多くの源泉は力を失っていたかも知れない。
「それでも許可なく狙う者は、減らないのが現状です」
源泉への道のりに人工物を造るときは、時間をかけて自然と同化させる。専門の知識を持ったものが、そういった配慮を行うことで、清水の劣化を最小限で収める。
「宝玉具には様々な種類がありますので、清水運びに活かせる物も多いです」
道を造る。水を汲み上げる。重い荷を運ぶ。物と物とを組み合わせる。だがそれらを無闇に使えば、やがて清水の力は消え失せる。
彼は死の直前に伝えた。こういった経験をした人ほど、清水を無駄遣いする者はいないと。
これは確信ではなく、ただの願いである。世の中、善人ばかりではないのだから。
「大切に使わせてもらいます」
「そうしていただけると、こちらも嬉しく思います」
もう、ここにいる理由はない。
「俺らが出発したあとも、しばらく中継地に残るんすか?」
王都への道を開拓する下準備。そう聞いていたが、この部屋を見るに、別の役目があるのだろう。
ピリカはにっこりと微笑むと。
「明火長が中継地を離れるようで、残念なことに後釜をと」
この地からレンガまで、早馬でも数日かかる。彼女に命令を下したのは誰なのか。
ましてや中継地に、それほどの力を持った者がいるのか。
デマドはレンガからの物資と、清水などを管理している。
だが中継地はその名の通り、多方面から様々な物が集まっている。ギルドの登録者にすぎない明火長よりも、鉄工商会の人間である彼女のほうが、形としては自然ではないのか。
ピリカは笑っていたが、瞼は閉じていない。この瞬間も、グレンの表情を観察していた。
「そんじゃ、渡すもんは渡したんで」
「あら、私もっとお話したいのですが」
グレンは額の汗を手で拭いながら。
「いや、あの。こわ……疲れたんで、そろそろ寝たいです」
思わず怖いと言いかけたが、なんとか誤魔化せた。
「そうですか、ならお引き止めもできませんね。怖がらせては、元も子もありませんし」
グレンは扉へと後退りながら。
「はい。ピリカさんも、忙しそうですし」
「あら、私全然忙しくありませんよ。引き継ぎなど、この世には必要ないのです」
そう言うと、彼女は席を立つ。グレンはそれを見て、急いで扉を開ける。
今にも逃げ出そうと、足を踏みだした瞬間であった。
「家族には我々が説明いたしますので、あなたはもっと自信をお持ちください」
青年は立ち止まり。
「混乱を招いた。判断を誤った。近くにいた味方の動きを鈍らせ、即座の対応を遅らせた」
どれほど全力を尽くしても、状況を悪化させた。
「それでも打開しようとしたのだから、あなたは自信を持たなくてはいけません」
返事もなく、青年は扉を閉める。
・・
・・
外にでると、すでに辺りは暗くなっていた。
アクアには顔を見せろと言われたが、もうセレスは部屋に帰っているのではないか。ガンセキにも会わなくてはいけない。
でも少しのあいだ、一人になりたい。
だからセレスのせいにして、今は大岩を目指す。
木製の壁には階段はないが、梯子が設置されていた。壁上の幅はレンガよりも狭いが、兵士が行動するには充分である。
梯子を登り切ると、近場の兵士が話しかけてきた。
「勇者さまでしたら、まだ戻られていませんよ」
コガラシはすでに通ったらしいので、修行はもう終わっているようだ。
「岩のほうに渡りたいんすけど」
「それでしたら、あちらから」
兵士が指さした先には、橋らしきものが遠目に見える。グレンは礼を言うと、その場を離れる。
岩山から眺めたときは、かなり大きいと思っていた。しかし入ってみると、中継地の大半は魔法の岩であり、人が生活する範囲はそこまで広くない。
それは橋というよりも、骨組の上に板を置いただけであった。
木壁も大岩もかなり高いため、渡るのはけっこう勇気がいる。この程度で怯えていては、黒膜化など使いこなせないのだが、やはり怖いものは怖い。
見るからに古い岩もあれば、最近召喚された岩もある。
岩と岩とのあいだ。板の橋は数カ所に設置されているが、跳び越えなくては渡れない場所もある。
地面には、かつて大岩であった破片が散乱している。
すでに太陽は沈んだが、まだ周囲に光は残っていた。
いくつもの中岩と大岩を越えた先に、セレスは座っていた。
隣に座るのに、許可などとらない。
グレンは景色を眺めながら。
「ここから小便したら、さぞや気持ち良いんだろうな」
セレスは両膝を抱えながら、頭を伏せたまま。
「最低だよ、グレンちゃん」
「女のお前には解らねえよ。これが男の浪漫だ」
剣の修行。土埃にまみれた服を見れば、その過酷さは想像できる。
「楽しいか?」
「グレンちゃんと一緒にしないでよ。全然楽しくないもん」
修行には色々あるが、ずっと拳で殴りあうのが、グレンは一番好きだった。
「合体魔法のほうは?」
「それは楽しい。だってね、私が水魔法使えるんだよ」
アクアは電撃までなら、なんとか放てるとのこと。
「大もとは一緒なんだけどな。相手がいるからこそ、修行は楽しく感じるもんだ」
味方か敵かの違いである。
セレスは微笑むと。
「一人でする修行が楽しいのは、ガンセキさんくらいかな?」
グレンは何度もうなずきながら。
「あの人普段は凄くまともだけどよ、修行に関してだけは変態だから」
「そんなこと言ったら、グレンちゃん怒られちゃうよ」
頑張って会話を続けてみたが、ここで止まってしまう。
最初から解ってはいたのである。この作戦に犠牲者がでることは。
「グレンちゃんはさ……後悔してない?」
なにをと聞き返したいところだが、その質問が意図していることは、グレンにも理解できてしまっていた。
「屁が我慢できないとき。隠れて解き放つか、大声をだしながら解き放つかの違いだ」
「解かんないよ」
「この例えで理解できないとは、やっぱお前は馬鹿だな」
「馬鹿っていう方が馬鹿なグレンちゃんなんだよ」
「どっちも俺じゃねえか馬鹿」
「馬鹿は馬鹿でも私は良い子な馬鹿だもん」
「じゃあ何か、悪い馬鹿は許されない馬鹿なのか。そんなもん世間が勝手に決めた馬鹿だ馬鹿」
「馬鹿馬鹿うるさいバカ!」
しばらく互いに馬鹿と罵り合う。
笑っているのか泣いているのか。
それを表情からは見て取れないが、それでもセレスは必死に問う。
「グレンちゃんは後悔してるの、それともしてないの!」
狩り人を続けながら、いつかくる老婆の死に顔を拝む。それもまた、実に有意義な毎日である。
「どの道、どっち選んでも後悔だろ」
だからグレンは一方を選択した。
「俺は逃げも隠れもしねえ。隠しきってみせる!!」
思わず力みすぎてしまった。
「グレンちゃん臭い」
「なに言ってんだ、俺じゃねえよ」
周囲にはギルドの登録者もいるが、ここには二人しかいない。
「私じゃないもん」
「俺みたいな可愛い子が、屁なんてするわけないだろ」
乾燥した荒野に、風が吹くことはあまりない。
太陽が沈もうと。
「暗い中もどるの危ねえから、そろそろ帰ります」
グレンは立ち上がると、セレスをその場に残して歩きだす。
「ちょっと待ってよ、なにしにきたのグレンちゃん」
「アクアさんに言われたから、顔みせにきたんだよ」
薄い暗闇のなか、右腕に火が灯る。
セレスの瞳に映るその背中に、なにかが重なる。
「ねえ、グレンちゃん」
「なんだよ」
セレスはグレンに追い付くと、彼の横顔を覗き見る。
「襲撃受けたんだよね?」
「なんで知ってんだ」
まだ報告は終えてない。
「ゼドさんから聞いたの」
「そうか。あの人たち、もう戻ってたのか」
辺りは薄暗く、グレンの横顔は確認できなかった。
「火傷、してない?」
「こう見えても魔力まといは得意でしてね、そう簡単に火傷なんてしねえよ」