九話 視界が滲む
時刻は朝の十時を回ったころ。
雨はその音色を、少しずつ変化させていく。
七樽では必要分に届かない。ここで全ての樽を満杯にしなければ、本陣で清水が不足する。
早朝から昼にかけて、除々に勢いを増す雨。もしそれが一気に降りだすものであれば、清水は一度の往復で諦めなくてはいけなかった。
洞窟に辿りついた時点で、一度目よりも多くの時間をつかった。運び手だけでなく、護る側にも疲労が見て取れる。
その中でも魔物具使いとグレンは、単独との戦いが多かったこともあり、全身が泥に塗れていた。
額の汗を拭おうとすれば、手についたそれが顔面に広がる。だからといって汗をそのままにすれば、視界が滲んで前が見えない。
洞窟での待機。彼らは休憩できるものと思っていたが、群れの接近によりそれは叶わなかった。
出発後も、魔物は次々に一同を狙ってくる。気づけば逆手重装は、黒腕へと変化していた。
しかし本当に辛いのは彼らではない。
商会員は急斜面を下ろうと、必死の形相で縄にしがみつく。
グレンがその背中を支えたことで、樽に泥が付着する。
「大丈夫っすか?」
魔力をまとえたとしても、基礎体力がほかの面々とは違うため、この役目は荷が重いのだと思われる。
それでも商会員は、顔を青白くさせながらも、けっして弱音は吐かず。
「こういった経験をした人ほど、清水を無駄遣いする人はいません。だから、私はこの仕事をやめられないんです」
息を切らせながらも、彼は前を進む人たちを見つめていた。いつもは護衛だが、今回は討伐である。
「どういった経緯で同行されたのか、詳しくは知りませんが、それでも僕はね。赤の護衛である貴方が……清水運びを経験してくれたことが、とても嬉しかったんですよ」
グレンは返事をしない。それでも樽を両手でしっかりと持つ。
非戦闘時。少しずつ遅れていく彼を、赤の護衛はここまで支えてきた。
班長の命令でもあるのだが、グレンも自らの意思で商会員の背中を押す。
・・
・・
雨の影響だろう。所々で水が流れ、一同の進行を遅らせる。
このまま下っていけば、恐らく沢があるのだと思われる。
傾斜を少し上がった先には、一五mほどの崖が目視できた。
グレンも感知の力は得ていたが、しょせんは付け焼き刃。
近場には群れの死体が幾つか確認できる。それは彼らが数時間前に戦ったものであり、人以外の損傷も見られるため、恐らく肉食の魔物が食べたのだと思われる。
炎使いは自然の雨そのもの。土使いは地面の変化を切欠に、すべての魔法が弱体化する。
この班に水使いと雷使いは存在しない。そもそも火炎団はその名の通り、炎以外の団員は少ない。
グレンはその点を疑問に思う。たしかに炎使いたちの連携は凄いといえるが、他属性も入団させたほうが、利点は増えるはずである。
現状、この班はとても困っているのだから。
気づけば少し離れた場所で、魔物具使いが崖の上を指さしていた。
班長の指示のもと、土使いが湿った地面に両手をそえる。グレンは商会員の背中を押し、ほかの運び手に合流させると、彼らを守る位置に立つ。
足もとは最悪であり、大小の岩が所々で地面から顔をだしている。
崖上の目視は可能であるが、近場の木々が邪魔になっていた。崖は切り立ったものではないため、魔物具使いであれば、数秒もあれば登れるだろう。
木というのは大したもので、一見では垂直な斜面でも、しっかりと根を張って空へと伸びていた。
ペルデルの合図により、魔物具使いの二名と炎使いの一名が、崖に向けて走りだす。それと時を同じくして、崖の上に鹿が現れる。
皮膚が変化した小さな角をもつオス。左右に二角。
角を持たないメス。
グレンは意識を崖上に集中させると、敵を探りながら班長へ予想を伝える。
「確認できたのは、ボスと思われる一体と、角なしが四体。だけどこの近くに、まだいるはずだ」
ボスが複数のメスを囲うが、周囲には別のオスも存在する。これが鹿という魔物の特徴と言われていた。
雨の影響により、これ以上は探れない。
「今から岩の腕を用意する! あんたは二人の援護をしてくれ!」
たしかに土使いも自然の雨を苦手とするが、炎使いほどではない。
そもそもガンセキのように、訓練で対処することも可能である。しかしこの場にいる土使いは、その技術をもっていなかった。
グレンは魔物具使いたちを追って走りだすと、土使いに向けて叫ぶ。
「こっちで岩の腕に合わせるから、あんたは俺を高く飛ばすことだけを考えろ!」
魔物具使いと炎使いの三名は、崖の目前まで迫っていた。
人間を見下ろしていたボスは、頭に生える左右の角に氷をまとわせる。
角そのものは小さいが、氷はそのまま伸び、枝分かれした形状へと変化する。その姿はまさに、ボスと呼ぶに相応しい。
雄鹿が頭を右に振ると、右角が勢いよく発射される。それは半円を描きながら、下方に存在する三名に飛んでいく。
この飛氷角は枝分かれしているため、鋭く尖った氷の先端が身体に突き刺さる。
先頭を走っていた炎使いは、短剣に火を灯していた。それを使い飛氷角を焼き斬ることに成功したが、氷の先端は複数存在していたため、身体の数カ所に浅い傷を負う。
ボスは一発目を放ったのち、即座に左角を飛ばしていた。炎使いにその魔法を防ぐすべはない。
魔物具使いは地面を蹴り上げると、前方の炎使いを跳び越える。強化された動体視力と肉体により、空中で飛氷角の先端を受け止めたのち、そのままの勢いで投げ捨てた。
瞬発力に優れる魔物。足が速い魔物。跳ねるのが得意な魔物。複数の素材を合わせることで、使い手の魔力まといを強化する。
ログはこういった魔物具を絶対に認めないと思うが、高値でも凄い力を発揮するのは事実であった。
炎使いはその場に立ち止まり、残りの二名が崖をよじ登る。
四体のメスがそれを阻止するために、空気中の水分を集め、氷塊を造りだそうとしていた。
水の塊が凍る前であれば、手型の飛炎でも破壊は簡単にできる。
しかしボスの飛氷角を避けながらであるため、いくつかの氷塊は完成してしまう。それが落下すれば、ほぼ垂直の斜面を転がっていく。
崖の途中に根を張る木々に隠れるなどしていたが、氷塊は予想以上に厄介であり、二人は思うように登れない。
これまでの疲労と雨による焦りが、団員の判断力を低下させていた。
よじ登ろうと無理をした魔物具使いに向け、氷塊が転がりながら迫ってきた。だが彼は諦めず、目を見開いたまま避ける方法を考える。
崖から離れ宙に逃げる。氷塊はすぐそこまで迫っているため、その方法では直撃するだろう。そもそも下手に崖から離れると、ボスに狙われる。
良くて重症。少なくとも、拠点までは戻れない。
ここで死ぬのか。彼がそう思った瞬間であった。魔犬の剛爪が氷塊を引き裂く。
これまでと違い、相手との繋がりを完全に断てたのか、水に戻ろうと魔力は感じない。
グレンは右手と左足で身体を支えると、下方にいる魔物具使いを覗き見て。
「俺が道を造る」
その笑みに、魔物具使いは顔を引きつらせる。
だがなにを思ったのか、グレンは右足で斜面を勢いよく蹴ると、宙へと飛び出した。
崖との距離は五m。地面との距離は七m。
当然ボスは丸腰の青年を狙う。氷の左角は回転と共に、半円を描きながら、地面へと落下するグレンに迫る。その一撃は剛爪で水にもどせたが、着地と同時に氷の右角が降ってきた。
グレンは即座に炎の壁をつくりだす。まだ雨は本降りとなっていないが、それでも級を上げるのに手間どる。
氷の角をとかすには、残念ながら火力が足りない。それでもこの男は、ギゼル流の使い手であった。
高い場所から着地をすれば、自然と膝は折り畳まれる。彼は炎の壁を召喚しながら、左手で大きめの石を掴み、それを迫ってくる氷の角に向けていた。
掌波により放たれた石は、下手な体勢から投げるよりも、威力は断然に高い。
飛氷角は砕けて勢いを失うが、欠片はそのままグレンに当たる。しかし氷の先端は、熱により丸くなっていた。
赤の護衛は立ち上がると。
「どんなに足場が悪くても、俺が教わった体術はよ、地面があってこそのもんだ」
一人と一匹の戦い方は間逆である。本来はグレンよりも、コガラシが使い手であったほうが、黒膜化は活かせるだろう。
だがまだ敵は生きていた。ボスは左角に氷をまとわせると、それを先ほどよりも大きくして、頭を振り上げる。
グレンは腰袋から油玉を取りだすと、軌道を予測して投げる。それは見事に命中したものの、回転の勢いに変化は見られない。
たしかに足場は悪い。それでもすでに慣れていた。少しでも身体が頑丈になるよう、いつもより多めに魔力をまとう。
利き腕を左上から右下に振りながら、再び炎の壁をつくりだす。腕の動きに合わせて全身が動けば、自然と左足が持ち上がる。
グレンの蹴りにより氷の角を破壊したが、ボスは続けざまに右角も飛ばしていた。しかし連射ということは、そのぶん爪を合わせるのも容易となる。
その動作は決して華麗なものではない。むしろ魔犬のそれと比べれば地味である。それでも泥にまみれた今の姿は、彼の体術と良く似合っていた。
ボスの魔法を凌ぎ切った拳士は、近くにいた炎使いに背を向けたまま。
「飛氷角は俺が引き受ける。あんたは氷塊に専念してくれ」
炎使いはグレンの手助けを得て、次々にメスの魔法を妨害していく。魔物具使いは器用に手足を動かし、急斜面を登っていく。
だが忘れてはいけない。相手は鹿という魔物だということを。
離れた場所にいる土使いの両腕は、完全に泥だらけとなっていた。
「これから進む方角から一体。もう一体は下方よりこちらに向かってきます!」
班長は即座に対応する。
「沢からくる奴は俺が迎え撃つ。グレンさんたちはもう一体のオスを殺せ!」
すでに魔物具使いは崖の上に到着していた。彼らをその場に残したまま、グレンと炎使いは走りだす。
団員たちの声に反応して、魔物の死骸が微かに動く。
現れた氷魔鹿は、幸い狙いをグレンたちに向けたようだ。
やがて木々のあいだを縫うように、枝分かれした氷の角が飛んでくる。
炎使いは炎放射により前方を焼き払う。この魔法は近づくほどに熱くなるため、氷の角は蒸発しながら勢いを失う。
ただのオスはボスのように、左右からの連射はできない。
グレンは炎放射から飛びだすと、一気に雄鹿へ接近した。
魔物の死体。その眼球が、人への憎しみを再び灯す。
オスは片方の角に氷をまとわせると、迫ってきた人間にそのまま振り上げる。
グレンは氷角を魔犬爪で受け止めると、左手の闇魔力を練り込んだ。
剛爪へと変化したことにより、氷の角は中身ごと切断され、そのままオスの頭に突き刺さった。
死んだはずの魔物は口を開くと、そこから大きく息を吐きだした。
臭い。
オスを蹴り飛ばして爪を抜くと、即座に振り向き辺りを見渡し。
「どれかは、わかんねえ」
グレンは表情を強張らせると、数時間前に戦った群れの死体を指さして。
「一体……生きてるぞ!」
班長はその発言の意を理解すると、地面に炎を熾しながら叫ぶ。
「他の者は運び手を含め、清水を死守しろっ!!」
だが死骸は一ヶ所にまとめられているわけではなく、十数体があちこちに横たわっていた。
今は一刻も速く、運び手のもとへいかなくてはいけない。グレンは考えるのを止めて走りだす。
どの死体も動きは見られない。
山中は不気味なほどに静まり返る。
気づけば雨の音だけが、戦いの場を彩っていた。
運び手の一人が、近づいてくる青年を確認し、彼に向けて足を進める。それはほんの数歩であるため、一団から離れたとは言えない。
グレンは逆手重装を大きく振る。
その動作の意味は一つ。
動くな。
商会員の近くに横たわる死体が。
いや。死体だと思われていたそれが、前足を動かして身体を起こそうとする。
青年は自分の右腕を浅く切る。
《力を貸せ》
左手の指先が黒く燃え始め、徐々に全身へと広がっていく。
グレンの様子になにかを察し、商会員はゆっくりと振り向いた。
すでに、立っていた。
死体と勘違いされていただけあり、最早それは死にかけである。
岩猪のときは一瞬だったのに。
《なぜ》
恐怖が闇との同調を鈍らせ、黒膜が全身に広がっていかない。
商会員は全てを悟ると、胸もとの結び目を器用に解き、片膝をついてから樽を地面に落とす。
呼吸を整えると、可能な限りの魔力をまとう。
グレンは走る。
闇はすでに胴体を包み、両足の脛まで伸びていた。
《身体が……重い》
左腕より変貌していく青年に驚き、団員たちは立ち上がった魔物への対処を遅らせる。
それでも走る。
つまずいては体勢を立て直し、また走りだす。
《嫌だ》
三人と別れてから今日まで、ずっと食事の世話をしてもらった。
体術の鍛錬ができないから、毎朝一緒に体操をした。
それだけではない。
彼とは。
神さまのことや、商会のこと。
清水のことや、デマドのこと。
火炎団のことや、団員のこと。
「たくさん……」
自分のことはなにも言わなかったけど、それでも色んなことを。
「……話したんだ」
愚かな青年は、うっかりそれを楽しんでいた。
近場の木に飛び移ろうとするが、まだ闇が全身を覆っていないため、地面へと転がり落ちる。
魔物は走りだす。
約束だけじゃない。
こうなるのが嫌だから、彼はずっと避けてきた。
商会員は樽を両手に抱かえると、立ち上がりながら友の名を叫ぶ。
「グレンさんっ!」
それは宙に舞い、赤の護衛へと託された。
・・
・・
やがて魔物具使いたちは、崖上から戻ってきた。
班長も敵を始末した。
死体と思われていた死にかけの魔物は、近くにいた団員が殺した。
戦いは終わった。
班長は淡々と今後を語る。
「運び手の護衛を一人減らす」
グレンは落ち着いた口調で。
「樽は俺が背負う。俺ならもって帰れる」
「申し訳ないが、ここに放置していく」
燃やしている時間もないし、彼を連れて帰る余裕もない。
人を抱えて歩く体力は残っていない。そんなこと、グレン自身が誰よりも理解している。
それでも青年は足を数歩進めると、靴底で地面を叩き。
「ならせめて、俺が背負う」
託されたのは、自分なのだから。
「駄目です。現状であんたを運び手にすることはできない」
なに一つ認められない希望。
頭を掻きむしりながら、友のもとに歩みよると、不器用な手つきで彼の鞄を身体から取る。
班長は冷めた目で赤の護衛を見つめ。
「持ったままじゃ戦えないだろ。悪いけどさ、それは運び手に持たせてください」
グレンは相手を睨みつけながらも、歯を食い縛って鞄を渡し。
「言われなくても、んなこたわかってる」
完全に化粧の落ちた団員は、班長から鞄を奪うと、会員証を取りだして。
「これだけでも持って帰れば、家族のもとに形見として送られる。こういう仕事を選択したのだから、彼も覚悟の上です」
なにを言われようと、ピリカには自分で渡さなければいけない。グレンは頭をさげると、団員から会員証を受けとる。
一同は移動を再開させる。
新たな運び手は、もう青年の支えなど必要としなかった。
雨音は段々と強くなる。それに歯が軋む音と、鼻をすする音が交じる。
自分が甘いことくらい、グレンは誰よりも承知していた。
団員は隣を歩く班長に向け。
「意外ですよね。今までの彼への印象だと、もっと冷静に対応すると思ってましたが」
班長は黙々と進む青年を見て。
「どんなに辛かろうと、誰に言われるまでもなく、自ら魔獣具での警戒を続けている」
今の彼では敵の感知などできない。そんなことは、本人も解っている。
納得はいかなくても、班長の指示には従っていた。
「俺みたいな若造の経験なんてさ、当てにならないかも知れませんが、彼みたいな人ほど」
良く見なければ解らないが、肩が小さく震えている。たとえ周りに気づかれたとしても、その姿はとても不気味だから、笑っていると一瞬の勘違いをされた。
泥が乾き始めても、水分が肌を湿らせる。
雨と汗で前が見えないのか、青年はなんども転びそうになりながら、なんども手首で顔をこすっていた。全身が泥に塗れているため、目もとは余計に汚れてしまう。
視界が滲んでいたとしても、土色の鼻水が顔に付着していようと、グレンはこれから進む先を睨みつける。
策士には向かない性格だろう。それでも彼のような人間が、他者を動かすことになれば。
「失敗しようと考えを振り絞り、その瞬間に必要な選択をして」
非情ではない。
たとえそれが、どんなに非道なものであろうと。
「自分の決断を、全力で実行に移す」