この部屋に灰皿はない
三十七歳。
独身。
平社員。
完全週休二日制。
一人暮らし。猫を一匹飼っている。
希望もなければ絶望もない。
日常に楽しいことはあれど、次の日には忘れている。
そんな俺は憂鬱な日曜日を過ごしていた。
明日が月曜日だからではない。
せっかくの休日だってのに、顔も覚えていないような親戚の葬式に顔を出さなきゃならなかったからだ。
久々に顔を合わせた家族に怪訝な顔をされて、知らない人の泣き顔を見て、まずい空気だけ吸って半日を費やした。
帰り道、駅から徒歩十分のアパートに辿り着くまで我慢ができず、俺は路上で紫煙をくゆらせた。
冷たい冬の空に消えていくそれは、火葬場の煙突を想起させた。まあ今時は煙突なんてなく、建物内で完全に処理できるようになっているみたいだが。火葬まで参加しなかった俺には知ったこっちゃない。
俺はただ、命の軽さを実感して——いや、むしろ何も感じないくらい命は軽いものなんだと、そんな思慮の浅いことを頭に思い浮かべていた。
ふと、最近医者に禁煙を勧められたことを思い出す。まだ若いんだから、と。命を大事にしろ、と。
俺は今日葬式に参加させられて、やはり納得できなかった。
命はどうしようもなく軽かったのだ。
知らない人間とはいえ、その人にもその人なりの人生があって、泣いたり笑ったりした思い出があることは分かっている。そこに関わった人間が、その人の死に対して涙を流す理由も。
それでも、俺にはそれらが全て寒々しいことに感じられて、不愉快でさえあった。
霊柩車に棺が運ばれる時間よりも、有毒な煙が肺を満たす三分間の方が名残惜しかった。
きっと自分とどれだけ時間を共に過ごした、どこの誰が、どんなふうに死んだとしても、俺の心は動かない。
俺自身が今ここで倒れたとしても、運命を受け入れて目を閉じるかもしれない。
俺は安いアパートの扉に手をかけて、その向こうの小さな命の気配を感じ取った。
ああ、でも——。
こいつにだけは死んでほしくないのかもなあ。
俺の足に何度も頭を擦り付ける猫の背中を撫でながら、俺の視線は玄関と直結したワンルームのちゃぶ台に向かった。
この部屋に、灰皿はないのだ。




