第3話 天才調香師、エクレール
びしょ濡れになったワンピースを着替えた後、ミモザはこっそり家を抜け出した。部屋に籠っていると、嫌な事ばかり考えてしまう。外に出て、頭を冷やすことにした。
手元には、ネロリの香りを沁みこませたハンカチが握られている。心を落ち着かせるためのお守りだ。
すっかり暗くなった時間帯でも、メインストリートは賑わいを見せている。酒に酔ったダンジョン探索者たちが、笑ったり歌ったりと楽しそうにしていた。おおかた、ダンジョンでレア素材をゲットして、祝杯をあげているのだろう。
普段なら微笑ましく思える光景だが、気分が沈んでいる今は雑音にしか思えない。静かな場所に行きたくて、町の外れにある聖堂に向かった。
メインストリートから離れているこの場所は、人の気配がなくしんと静まり返っている。通り沿いにあった街灯もなくなり、暗闇に包まれている。足もとに気を付けななが石畳を歩き、聖堂内に続く階段で腰を下ろした。
今夜は星がよく見える。紺碧の夜空には、無数の星が瞬いていた。涼しい風が頬を撫でると、手元のハンカチからネロリの香りが広がる。爽やかな香りに包まれると、心が安らいだ。
調香師になることを反対されたが、ここで諦めるつもりはない。どうにかして、両親を説得したかった。
だけど、もう一度願望を口にしたところで同じ結果になることは目に見えている。母からはなじられ、父からは冷静に説得されるだけだ。
家を飛び出して、親に頼らず自分の力だけで生きていくことも考えたが、実際には厳しいだろう。前世の記憶があるとはいえ、今のミモザは十五歳だ。世間から見れば、非力な子供だ。働き口を見つけることだって困難だろう。
運よく職が見つかっても、調香師養成学校に通う学費を自力で工面できるとは思えない。調香師養成学校は、三年制の学校だ。以前三年分の学費を調べたところ、目玉が飛び出てしまうほど高額だったことを覚えている。
(転生しても好きなことを貫くのは難しいなぁ……)
ミモザは深々と溜息をついた。膝を抱えながら俯いていると、前方からコツコツとヒールで歩く音が聞こえた。顔を上げると、見覚えのある人物を発見する。
昼間メインストリートでぶつかった銀髪の女性だ。美しい佇まいで、聖堂まで続く石畳をゆったりと歩いていた。
階段に座りながら注目していると、向こうもミモザの存在に気付く。ロイヤルブルーの瞳でじっと見つめられると、緊張が走った。ミモザは背筋を伸ばして挨拶をする。
「こんばんは」
声をかけると、銀髪の女性は表情を変えずに応対する。
「こんばんは。こんな所で何をしているの?」
「えっと……考え事をしていました」
「そう」
彼女は興味がなさそうに目を伏せる。俯くと睫毛の長さが際立った。改めて美しい人だと実感する。
「お姉さんは、どうしてこんなところに?」
「ただの散歩よ」
端的に理由を明かす。すると、意外なことにミモザの隣に腰掛けた。並んで座っていると、昼間に嗅いだ上品な香りが漂ってくる。心地よい香りに浸っていると、銀髪の女性は鼻をひくつかせた。
「ネロリの香り」
「え?」
またしても見抜かれてしまった。驚きつつもミモザは右手に握りしめていたハンカチを見せる。
「よく分かりましたね。このハンカチに、ネロリの精油を含ませていたんです」
「ああ、どうりで」
銀髪の女性は納得したように頷く。それから淡々と言葉を続けた。
「ネロリは『天然の精神安定剤』と呼ばれているから、心を落ち着かせたい時にぴったりよ。ラベンダーの香りを混ぜると、よりリラックスできるわ」
「へえ、そうなんですね」
精油を混ぜて使うという発想はなかった。今度やってみようと密かに決意していた。
香りの話題が出たことで、日中にハンカチを拾ったことを思い出す。幸いハンカチは手元にある。
「このハンカチって、お姉さんのですよね?」
ポケットからハンカチを取り出すと、銀髪の女性は驚いたように目を見開いた。
「失くしたと思っていたけど、貴方が持っていたのね。拾ってくれてありがとう」
銀髪の女性はハンカチを受け取ると、紺地のスカートのポケットにしまった。無事に持ち主に返却できて良かった。安堵したことで緊張がほぐれ、さらに会話を続けてみた。
「お姉さんからは、ローズとジャスミンとパチュリーの香りがしますね。ハンカチからも同じ香りがしたので、すぐに分かりました」
何気なく話題に出すと、銀髪の女性は驚いたように大きく目を見開く。
「貴方、鼻が良いのね」
「はい! 私、昔から精油が大好きなんです。大抵の香りは、嗅ぎ分けられますよ」
その言葉に嘘はない。前世から精油を集めていたこともあり、ミモザは香りを嗅ぐだけで精油の種類を言い当てることができた。複数の精油が交っていても、何が含まれているかはすぐに分かる。
銀髪の女性は、言葉を詰まらせたまま瞬きを繰り返している。そこまで驚かれるとは思わなかった。まじまじと注目されると恥ずかしくなり、慌てて話題を逸らす。
「お姉さんも鼻が良いですよね。ポケットに入っていた精油の香りまで当てられるんですから。香りにも詳しいようですし」
日中に小瓶に入った精油を言い当てられたことを思い出す。蓋をしたままの状態で言い当てるなんて常人にはできない。きっと彼女は、ミモザよりもずっと鼻が良いのだろう。尊敬の眼差しを向けていると、銀髪の女性は表情ひとつ変えずに答えた。
「そうね。私はルネの称号を持つ調香師だから」
「ルネ……」
ルネとは、調香師の中でも優れた才を持つものだけに与えられる称号だ。言わば一流の証。ルネの称号を持つ調香師は、リーネ王国でも両手で数えられるほどしかいないと聞いたことがある。
香りに詳しいとは思っていたが、まさか目の前の女性がルネだとは思わなかった。呆然としていると、彼女は言葉を続ける。
「私はエクレール。香りに関するお困りごとがあれば、何でも相談してちょうだい」
淡々と告げると、彼女は階段から立ち上がる。
「そろそろ宿に戻るわね。さようなら」
こちらには興味を失ったように立ち去ろうとする。向こうから近寄ってきたかと思えば、あっさりと去って行く。まるで気まぐれな猫のようだ。
背筋を伸ばしてしゃんと歩く姿に、思わず見惚れてしまう。去り行く背中を呆然と眺めていると、ハッと我に返った。
エクレールは、ルネの称号を持つ調香師だ。そのことを認識すると、居ても経ってもいられなくなった。
「あのっ!」
考えるよりも先に身体が動いて、呼び止める。エクレールはゆったりとした動作で振り返った。
「なに?」
ほとんど興味のなさそうな眼差しで尋ねられる。その一方で、ミモザは目を輝かせていた。
これは千載一遇のチャンスだ。彼女との出会いが、今の状況を変えるきっかけになるかもしれない。このチャンスを逃すわけにはいかないなかった。ミモザは深く頭を下げながら、頼み込む。
「エクレールさん、私を弟子にしてくださいっ」