第21話 記憶を呼び起こす香り
休憩時間が終わると、ミモザは再び調香に取り掛かる。休憩中に調香室の空気を入れ替えたため、他の香りに惑わされずに作業をすることができた。
次の作業は、あらかじめ作ったトップノート、ミドルノート、ラストノートの香りをバランスよく混ぜ合わせることだ。どの香りをどれくらい加えるかは、調香師に委ねられていた。
それぞれの香りを計り取る前に、チラッとエクレールに視線を向ける。分量のアドバイスを期待していたが、助言されることはなかった。ミモザの判断に任せるという意味なのだろう。
こちらのやり方を尊重しているようにも思えるが、実際には試されているような気がしてならない。緊張で手が震えるのをなんとか抑えながら、ミモザは自分なりに配分を決めた。
ひとつの瓶にそれぞれの香りを入れて、混ぜ合わせればフレグランスの完成だ。
「できました」
完成品をエクレールに差し出す。どんな評価を下されるかとハラハラしていると、エクレールはムエットを手に取り、ミモザに差し出した。
「試香してみなさい」
エクレールは相変わらず無表情だ。良いのか悪いのか、まるで判断が付かない。張り詰めた緊張の中、ムエットを受け取って、完成したばかりの香水に先端を浸した。
手元でムエットを軽く振ってアルコールを飛ばしてから、香りを確かめる。
「あ、良い香り」
鼻を近づけて香りを吸い込むと、ふわっと柑橘系の爽やかな香りに包まれた。トップノートで加えたマンダリンだ。その奥から、フローラル調の華やかな香りが伝わってくる。オレンジフラワーとローズが、香りの核として機能していた。ラストノートのバニラは、多くは加えなかったせいか、あまり主張はしていない。
我ながら良くできたと思う。これならカリーヌも喜んでくれそうだ。自信を取り戻したものの、エクレールは表情ひとつ変えずにミモザに尋ねた。
「この香りで、カリーヌ様の存在を思い出せそう?」
そこで当初の目的を思い出す。今回の目的は、カリーヌの存在を思い起こさせる香りを調香することだ。単純に香りの良いフレグランスを所望しているわけではない。
ミモザはもう一度、ムエットに鼻を近づける。目を閉じて香りを確かめたが、カリーヌの姿が思い浮かぶことはなかった。
「カリーヌ様に似合いそうな香りではあるのですが、この香りでカリーヌ様の存在を思い出すことはありません」
正直に感想を伝える。その人に似合う香りと、その人を象徴する香りは、似ているようにも思えるが、本質的には異なる。ミモザの調香したフレグランスは、前者は満たしてはいるものの、後者は満たしていなかった。
「それじゃあ、依頼要件は満たせないわね」
バッサリと告げられる。自分でもこれでは駄目なことは自覚していたが、こうもはっきり言われると少なからずショックを受けた。
「もう一度考え直してきなさい」
「はい……」
ミモザは肩を落としながら小さく返事をした。
◇
「はあぁ……。どうすればいいんだろう……」
ミモザは机に突っ伏しながら頭を抱えていた。作業机には、保管庫から持ってきた精油の小瓶がいくつも並んでいる。実際に香りを確かめながらレシピを組み直してみたが、いまいちピンとこなかった。
「そもそも、誰かの存在を思い起こさせる香りってなに?」
根本的なところで躓いている。そこがあやふやなままでは、いくら調香しても上手くいかないように思えた。
エクレールに相談しようにも、いまは席を外している。応接室で別案件の打ち合わせをしていた。
エクレールはルネの称号を持っているだけあって、多数の指名が入っている。そんな中でもミモザの指導をしてくれているのは有り難いことだが、欲を言えばもう少し丁寧に指導してほしかった。
うんうん唸りながら煮詰まっていると、不意に調香室の扉が開く。エクレールが戻って来たと思いきや、やって来たのはギルバートだった。分厚い書類を手に持ったギルバートは、調香室を見渡して首を傾げる。
「あれ? エクレちゃんは?」
「打ち合わせ中です」
スケジュールボードを指さしながら答えると、ギルバートは「ああ、タイミングが悪かったね」と肩を竦めた。
「それじゃあ、この書類をエクレちゃんに渡してもらえるかな?」
「はい。分かりました」
ミモザは、ギルバートから書類を受け取る。するとギルバートは、ミモザの表情に笑顔がないことに気付いた。
「どうしたの? 何かあった?」
「ちょっと方向性を見失っていて……」
ミモザが力なく笑うと、ギルバートは心配そうに目を細めた。
「あまり根詰めすぎないようにね」
こちらを気遣うような言葉をかけられると、少し気が楽になる。このまま一人で考えも煮詰まるだけだ。思い切ってギルバートに意見を聞いてみることにした。
「ひとつ、聞いても良いですか?」
「ん? なんだい?」
「ギルバートさんは、特定の香りで誰かを思い出すことはありますか?」
「うん、あるよ」
即答だった。自分で聞いておきながら驚いてしまう。ギルバートは憂いを帯びた表情で言葉を続けた。
「プルミエラムールの香りを嗅ぐと、亡くなった妻のことを思い出す」
プルミエラムールとは、ミモザの所属する調香師ギルド『イストワール』で一番人気の香水だ。だけどその答え以上に、驚くべきことがある。
「ええ!? ギルバートさんって、ご結婚されていたんですか!?」
それは初耳だった。てっきり独身貴族かと思っていた。
「僕が結婚していたのは意外?」
「……はい」
失礼と思いつつも正直に頷く。するとギルバートは、わざとらしく肩を落として苦笑した。
「まあ、そうだよね。妻が亡くなったのは三年前だから、もう随分前の話だけどね」
妻と死別した過去を想像すると、キリっと胸の奥が痛んだ。言葉を詰まらせていると、ギルバートは調香室の棚から淡いオレンジ色の小瓶を取り出した。プルミエラムールの香水だ。
「香りって、強烈なんだよ。そこに居なくても、相手の存在を感じることができる。目を閉じて、プルミエラムールの香りを嗅ぐと、まるで妻が目の前にいるような感覚になるんだ」
ギルバートは、切なげに目を細めながら香水瓶を握りしめている。いつもの朗らかな笑顔とのギャップに驚かされた。
「プルミエラムールの香りには、ミレイユとの思い出が詰まっている。ほんの少し嗅いだだけでも、記憶が蘇ってくるんだ。初めて彼女をデートに誘ったこと、デート当日に格好つけて薔薇の花束を贈ったこと、緊張のあまりカフェでオレンジジュースを一気に飲み干したこと、バニラアイスを一口分けてもらったこと、もう少し一緒に居たかったけど結局言い出せなかったこと。そういう心の奥底に刻まれた記憶が全部蘇るんだ」
思い出を語ると、ギルバートは「恐ろしいだろう?」と力なく笑った。
香水は、物語に例えられることがある。甘酸っぱさと華やかさ兼ね備えたプルミエラムールは、まさしく初恋の物語だった。
トップノートで引き立つのは、オレンジ・スイートの香り。甘酸っぱいフレッシュな香りから、物語が幕を開ける。これから恋人に会うことを想像して期待に胸を膨らませるような香りだった。
香りの核となるミドルノートでは、ダイヤモンドローズが用いられている。これはダンジョンの深層に咲く花だ。百年枯れない花と言われていて、プロポーズで渡す花としても知られていた。
この恋が終わることなんて、微塵も想像していない。華やかで芳醇な香りからは、純真無垢な恋人達を想起させた。イランイランとジャスミンのセクシュアルな香りも、恋心を加速させていく。
ラストノートで用いられているのは、バニラとパチュリだ。甘くて、どこか重みのある香りに後ろ髪を引かれるように、物語が締めくくられた。
ギルバートは、プルミラムールの小瓶を棚に戻しながら語る。
「プルミエラムールは、ミレイユの香りだ。だからむしろ嗅げない。嗅いだら色々思い出してしまうからね」
後ろ姿だけでは、ギルバートがどんな表情をしているのか分からない。もっと詳しく話を聞きたかったが、それ以上言葉をかけることは憚られた。
「それじゃあ、僕はもう行くね。お仕事頑張ってね」
振り返ったギルバートは、朗らかに笑っていた。悲壮感なんて微塵も残していない。ひらひらと手を振りながら調香室から出ていく姿を、ミモザはぼんやりと眺めていた。
一人になったところで、ミモザは改めて考える。
ギルバートがプルミエラムールの香りで亡き妻の存在を思い出すのは、香りとリンクする思い出があるからなのかもしれない。ギルバートの話には、プルミラムールで使われている香りが登場していた。きっとそれが思い出を呼び起こす鍵になっているのだろう。
「思い出を、香りに乗せる、か……」
靄のかかった景色が少しずつ晴れていく、ギルバートの話を聞いたことで、突破口が見えたような気がした。




