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第1話 香りには不思議な力がある

はじめての投稿です。よろしくお願いします。

 お湯を注いだマグカップに精油を一滴垂らすと、ほわほわとした蒸気と共に爽やかな香りが漂ってきた。


「はあぁ~、ネロリの香りは気分が明るくなるね」


 ミモザは、うっとりしながら翠色の瞳を細める。首を傾けると、腰まで伸ばした金色の髪が揺れた。


 もう一度、蒸気を吸い込んでみる。ビターオレンジの花から抽出されたネロリは、柑橘系の爽やかさとフローラル系の甘さ、それにほんのり青みが混ざった香りがする。蒸気が鼻腔を抜けて脳まで伝わると、心が穏やかになった。流石は『天然の精神安定剤』と呼ばれるだけのことはある。


 学校から帰宅して、その日の気分に合わせた香りを楽しむ。それがミモザのルーティンだった。

 頭を酷使した時は爽やかなレモン、集中力を高めたい時はすっきりしたペパーミント、緊張を和らげたい時は落ち着きのあるサンダルウッド……。あらゆる感情の波に対応できるように、十種類以上の精油を机の引き出しに常備していた。


 精油は安いものではない。少ないお小遣いをやりくりして集めたものだ。ミモザにとっては、どれも宝物だった。

 精油を愛用しているのは、今に始まったことではない。前世の頃から、香りの世界に魅了されていた。


 ミモザには前世の記憶がある。記憶が蘇ったのは今から三年前、ミモザが十二歳の時だ。

 町の雑貨屋でローズマリーの香りを嗅いだ瞬間、前世の記憶が蘇った。東京で生まれ育ったこと、さらには精油をこよなく愛していたことまではっきりと思い出した。


 香りには不思議な力がある。心を落ち着かせたり、集中力を高めたり、自分らしさを表現したり……。薬のような即効性はないけれど、心と体のバランスを整える役割があった。


 前世でも、香りの力には何度も助けられた。仕事のストレスで押しつぶされそうになった時も、心地よい香りに包まれるだけで心が安らいだ。


 できることなら、もっと香りの勉強がしたい。そして将来は、香りの力で人の役に立ちたい。そんな夢を抱いていた。

 ミモザが香りを堪能していると、部屋の扉が勢いよく開く。


「ミモザ! 学校から帰ってきたなら、さっさと店を手伝ってちょうだい!」


 荒々しい物言いで部屋に入ってのは、ミモザの母だ。苛立ちを露わにしながら、ミモザを睨みつけていた。


「お母さん、部屋に入る時はノックしてって何度も」

「生意気言うんじゃないよ!」


 ミモザの主張は一蹴される。話を聞いてもらえないのは、いつものことだ。ミモザはそっと溜息をついた。

 母は机の上に精油が置かれていることに気付くと、眉を顰める。


「また精油で遊んでいたのかい? いい加減にしなさい! あんたは薬屋の娘なんだから、薬のことだけを考えていればいいの!」


 身勝手な主張に辟易する。子供の意思を無視して自らの願望を押し付ける親は、この世界にも存在していた。


 ミモザの生まれたメイウッド家は、代々調薬店を営んでいる。調薬師(ファーマシスト)である父は、患者の症状に合わせて薬を調合していた。


 両親の望みは、代々受け継いできた店を存続させることだ。店自体は五つ年上の兄、ジェイドが継ぐことが決まっている。兄は昨年調薬師養成学校を卒業し、現在は父のもとで修業を積んでいる。兄がいれば十分なはずなのに、両親はミモザにも調薬店で働くよう命じていた。


 店を存続させたいという気持ちは分かるが、両親の望むままに生きるのは、もうこりごりだ。


「お母さん、前にも話したけどさ、私は薬じゃなくて香りの勉強がしたいの。将来は、香りの力でたくさんの人を幸せにしたい」


 自らの夢をはっきりと口にしたものの、母からは鼻で笑われるばかり。


「香りの勉強なんて何に役に立つんだい? 薬の勉強をした方がよっぽど人の役に立つ」


 やはり聞き入れてはもらえなかった。ミモザは再び溜息をついた。


 だけど、諦めるつもりはない。本当にやりたかったことを手放してしまった後悔は、前世で散々味わってきたのだから。


 前世でも、似たような親のもとで生まれた。学生時代に香りの勉強をしたいと両親に打ち明けたところ猛反対された。親を説得して自分の意思を貫けば良かったものの、当時は歯向かうことを恐れて親の望む大学に進学した。その後は、可もなく不可もない人生を歩んだ。


 親の望んだ人生も、不幸せなわけではなかった。だけど自分自身を裏切ってしまった後ろめたさは、心の奥にいつまでも残り続けた。二十五歳の時に交通事故に遭って病院に運ばれている間も、後悔ばかりしていたのを覚えている。


 あんな思いは、二度としたくない。だから今世では好きなことを貫こうと決めていた。すぐには難しいかもしれないが、いつか両親を説得してみせる。ミモザが静かに決意していると、母から薬袋を手渡された。


「この薬をオルコットさんの家に届けてちょうだい」

「ソフィアちゃんのお薬?」

「そうだよ。さっさと行ってきなさい」


 用件を伝えると、母はふんと鼻を鳴らして部屋から出ていった。おつかいは面倒だけど、ソフィアの薬を届けるとなれば話は別だ。ミモザはいそいそと制服を脱いで、お気に入りのワンピースに着替えた。


 着替えが終わると机の引き出しを開けて、精油を見比べる。


(今日はどの香りを持っていこうかな~? うんっ、これにしよう!)


 ミモザはベルガモットの精油を手に取って、ポケットに入れた。



「いってきまーす」


 母に声をかけてから、ミモザは外に飛び出す。メインストリートを歩いていると、剣や槍を携えた屈強な男達とすれ違った。食堂や道具屋も賑わっている。活気づいた町を眺めながら、ミモザはしみじみと目を細めた。


(今日も賑やかだなぁ。景気が良さそうで何よりだ)


 ミモザが暮らすリューキの町は、王都から遥か東に位置している。辺境の田舎町がこうして賑わっているのには理由があった。


 この世界には、ダンジョンが存在する。我が国、リーネ王国にも十三カ所のダンジョンが存在しており、そのうちの一つがリューキの町にあった。


 ダンジョンでは、地上に存在しないモンスターが出現する。モンスターを倒すと、魔道具や薬の材料となる素材がドロップするのだ。モンスターから得られる素材は、地上では手に入らないものばかりで、高値で取引されている。そのためリューキの町には一攫千金を狙ったダンジョン探索者で溢れ返っているというわけだ。


 町の外から人がやって来るおかげで、リューキの町は景気が良い。食堂や宿屋はいつも繁盛していた。ミモザの両親が営む調薬店も例外ではない。


 営業しているだけで儲かるのだから、両親が店を継がせたがる気持ちも分かる。それでもミモザは調薬にはまるで興味を持てなかった。


(あーあ、早く家を出て、香りの勉強がしたいなぁ)


 そんなことを考えながら歩いていると、不意に誰かの肩にぶつかった。


「あっ! ごめんなさい!」


 ミモザは、ぺこっと頭を下げて謝罪する。ぶつかった相手が怖い人だったらどうしようと怯えていたが、目の前にいたのは銀髪の若い女性だった。


(綺麗な人……)


 女神のような美貌に心を奪われる。肩下でゆるくウェーブした髪に、吸い込まれるようなロイヤルブルーの瞳。肌の色は白く、陶器のように滑らかだ。顔立ちは全体的にシャープで、凛とした印象を与えた。


 あまりの美しさに声を発することもできずにいると、銀髪の女性はスンッと鼻で息を吸い込む。


「ベルガモットの香り」

「え?」


 突然の言葉に驚き、ミモザは目を見開く。たしかにベルガモットの精油を持っているが、ポケットに入れたままだ。


「よく気付きましたね」


 ミモザは精油の小瓶を取り出して、銀髪の女性に見せる。小瓶は蓋が閉まっている。ポケットに入れた状態で気付かれるほど香りを放っているようには思えなかった。


「私、鼻がいいの」


 銀髪の女性は、表情一つ変えずに淡々と告げる。呆気に取られていると、少し離れた場所で赤髪の青年が叫んだ。


「エクレールさん、何してんすか? 行きますよー」

「ええ、すぐ行くわ」


 赤髪の青年と会話を交わすと、銀髪の女性は何事もなかったかのようにミモザの横を通り過ぎる。すれ違った瞬間、風に乗って心地よい香りが届いた。上品な花の香りに、湿った土のような香りが混ざっている。


(これはローズ? それだけじゃない。ジャスミンとパチュリも混ざっているような……)


 女性らしく、それでいて揺るぎない信念のようなものを感じさせる。ほんの一瞬言葉を交わしただけだけど、彼女に相応しい香りに思えた。


 遠ざかる背中をぼんやりと見つめていると、足元に何か落ちていることに気付く。


「あれ?」


 白いハンカチが落ちている。手に取ってみると、ついさっき嗅いだ香りがした。

 ぶつかった拍子に落としてしまったのかもしれない。声をかけようとしたものの、銀髪の女性は既に人混みの中に消えていた。

本作にご興味を持っていただきありがとうございます!

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