第9話 あのね
伊月が日本代表戦へ出発してから数日後。
私は机の上に置いた自分のスマホとにらめっこをしていた。
そ、そろそろ来る頃かな……?
心が落ち着かないままスマホをじっと睨み続けていると、スマホは突然着信を知らせるメロディーを鳴らす。
「わわっ! 来た!」
久方ぶりの家族以外からの着信に慌てた私が思わずとった行動は……通話を切るだった。
「あっ!! 切っちゃった!」
静かになったスマホを持ち上げてあたふたする私。自分からかけ直す勇気など無い。すると、スマホが再び着信を知らせる。今度は応答ボタンをタップした。
「も、もしもし?」
『なんで切るんだよ?』
「ご、ごめん、間違えちゃった。それよりも……大丈夫なの? 大事な試合前に電話なんかして」
『大丈夫だって、俺から誘ったんだし』
「そう……それで、なんで私なんかと試合前に電話したかったわけ?」
『改めて言っておこうと思って』
「なにを?」
『浅木……生きろ!』
電話越しから聞こえるその声は真っすぐで力強かった。
「生きろって言われても……私は」
『わかってる。でも俺は浅木に生きてほしい。また浅木のピアノが聞きたい。だから今日は絶対負けない。俺がゴールを決めたらそれを浅木に捧げる』
「な、なに言ってるの!? そんな恥ずかしい事よく言えるね!」
『ははは! 確かにちょっとくさかったかな……あっ悪い浅木、そろそろ行くよ!』
「あっ待って伊月?」
『どうした?』
「……頑張ってね」
「っ! あぁ!」
力強い彼の言葉と共に通話は終了される。
……良かった。頑張ってって言えた。
私の心は満足感で満たされていた。たかだか一言、これを言うのにどれほど心の準備を重ねたか。
「……よし。どうせなら……」
思い立った私はベットから降りると上着を脱ぎ、あるものに着替える。
特徴的な青色の生地に背中には20の背番号と、これをくれた人の名前が入っている。
そう、私は伊月から貰った彼のユニフォームに着替えたのだ。
「やっぱりちょっと大きいな」
そう呟きながら私はテレビをつける。目的の番組はもちろん今しがた電話した伊月が出場するサッカー代表戦だ。
中継が始まり5分足らずで選手が入場してくると、いつも私の傍でむかつく笑顔を浮かべる伊月の姿も見える。
程なくして国歌斉唱が始まり、試合開始のホイッスルが鳴った。
中継から得られる情報では相手はかなりの格上らしい。体のサイズからして全然違う。
相手の流れるような攻撃をなんとか防いだ日本チームが攻撃に転じる。伊月にパスが渡ると一気に実況と観客が湧いた。
『さぁここで伊月にボールが渡った! 今年の初めに選手生命の危機とまで言われた大怪我を負うも、驚くべきスピードで回復した伊月選手ですが、この重要な一戦でどのようなプレーを見せてくれるのでしょうか?』
伊月、そんなに酷い怪我だったんだ……下手したらもうサッカーできなかったって事だよね……。
好きな事がもう出来ない。その辛さはよく知っている。でも伊月は努力した。だからまたサッカー出来るんだ。
じゃあ私は……?
かつて多くの人々を魅了した自分の手を見つめる。
試合は日本の守備が冴えていたこともあって0対0で前半を終え、後半を迎えた。
後半が始まっても相手の猛攻は止まらない。しかし日本は寸前のところでしのぎ続ける。
『さぁここでいい位置で伊月にボールが渡る! あぁーっと!!」
実況の叫びと共に相手と交錯した伊月が右膝を抑えて倒れ込んだ。
「伊月っ!!!」
私以外誰もいない病室で彼を呼ぶ。すると伊月が苦痛に顔を歪めながらも立ち上がる。
その姿私は両手をギュッと握る。手の汗が酷い。
試合はかろうじて均衡を保ったまま残すところ残り数分。ここで疲れと点を取れない苛立ちと焦りで相手のミスを誘った日本が最後の攻勢に移る。
青のユニフォームの選手が「この時を待ってた」と言わんばかりに一斉に駆け上がる。
「行け……行けっ!」
1人の選手がボールをコートの横はじからゴール前の密集地へと蹴り込む。もう1人の選手が頭で合わせようとするが、相手ディフェンダーに阻まれてしまいボールは弾かれてしまう。
その弾かれたボールに真っ先に反応したのは、青いユニフォームの背番号20だった。
そこからの映像はまるでスローモーションのようにゆっくり見えた。
90分走り続け、汗を滴らせる彼の表情にいつものむかつく笑顔はない。まるで獲物を狙う獅子のような目でボールを睨みながら、数ヶ月前までギブスを巻いていた右足を振り抜いた。
『伊月だぁぁぁっ!!!』
実況の叫びと共に蹴り出されたボールが線を辿るようにゴールへ飛んでいく。そして最後の砦であるゴールキーパーが触れる事も出来ずにゴールネットを揺らした。
『ゴォォォォォルゥゥゥゥ!!!』
土壇場での勝ち越し、劇的な瞬間を目撃した私は思わず両手を挙げた。
「やったぁぁーっ!! はっ!」
想像以上の大きな声に1番驚いたのは私自身だった。もちろんここは個室なので誰にも見られていないが、自分がここまで夢中になっているとは思わなかった。
ゴールを決めた伊月が仲間に揉みくちゃにされながら、コートの端へ移動する。すると、カメラに向けてゴールパフォーマンスを見せた。
私はそのパフォーマンスに言葉を失った。
『こ、これはなんのモーションですかね? まるでピアノを弾いてるような」
困惑する実況が言う通り伊月はチームメイトと共に両手を胸の前に出して指を動かしている。
その素振りはまさに鍵盤を押し、ピアノを奏でる動作。
パフォーマンスの終わりに伊月はカメラを見つめながら胸を2回軽く叩く。まるで「俺はやったぞ!」とでも言うようにむかつく笑顔を浮かべながら。
程なくして試合は日本の劇的な勝利で終了。テレビを消した私は興奮の余韻に浸りながら、母へ電話をかけた。
「あっお母さん。あのね――」