第5話 輝いてた頃の私
――約1年前。
とある中学校のまだ誰1人として生徒がいない明朝の音楽室。ピアノ椅子に座る私はグランドピアノの鍵盤上に置いた楽譜と睨めっこをしていた。
「うーん……ここが納得いかないなぁ」
私を悩ませる楽譜は明日の文化祭で行われる合唱コンクールの楽曲。今まで私が弾いてきた幾千の楽曲達の中で上位に入るような難易度では決してない。しかし今回は私のソロではなく合唱曲の伴奏。皆の歌唱を引っ張るにはいつもと違う工夫が必要だ。
ここの小節のタッチをもう少し柔らかくしたら、皆の声がもっと乗りやすくなるかな? そしてここは私が少し前に出て、皆を引っ張れば……。
楽譜にスラスラとペンを走らせていく。いまや楽譜の余白は私のメモでほとんど埋まってしまっている。
……これで良し! じゃあもう1度!
ペンを制服のポケットに挿し、姿勢を正した鍵盤に指を乗せた私が短い深呼吸を1つ。そして音楽室に私の演奏が響き始めた。
もし私の伴奏がこけてしまえば、その時点でこの難しい楽曲の合唱は台無しになる。そうなれば皆が目指す金賞は取れない。逆に言えば皆が練習通りのパフォーマンスが出来れば金賞は間違いなくとれる。カギとなるのが私の伴奏、私がミスをしなければ皆が笑顔になる。だから私には僅かな油断もミスを許されない。
今のところはこの演奏の出来は上々。あとは……。
そう思った時だった。それまで完璧に思えた演奏の中で突如明らかにバランスの偏った音量の不協和音がグランドピアノから鳴り響く。
演奏を中止した私はそれまで流れるようにピアノを奏でていた両手を見つめると、両手は異様に震えており、更に指先の感覚を感じられないほどにまで痺れてしまっていた。
「……まただ」
この現象は今日が初めてじゃない。1ヶ月前から現れ、じょじょに酷くなっている。最初は不調かと思ったがそうではない。日々の練習は欠かしたことは無いし、生命線である手や指先のケアも怠っていない。それこそ最近にいたってはこれさえ出なければ自分でも想像以上の演奏ができるくらいだ。
最近は文化祭に委員会もあってかなりハードなスケジュールだったから疲れてるのかな? いいや駄目だ、ここで音を上げるわけにはいかない。この曲は私しか弾けない。私がこければ明日の合唱コンクールの為に費やした皆の努力が無駄になる。
私は痺れる手を再び鍵盤に置いた。
よし、もう1度最初から!
気を取り直して最初から演奏を再会させる。しかし震える手は言う事を聞かず、先程よりも前の段階で私は再び不協和音を鳴らしてしまう。
駄目っ! もっと集中!
再び最初からやり直す。不協和音が鳴る。またやり直す。不協和音が鳴るのを繰り返す。結局私は最後まで演奏することは出来ず、時間だけが過ぎていく。
おかしい! こんな事初めて……手が気持ち悪い、まるで自分の手じゃないみたい。でも弱音は吐いていられない、こんなんじゃ明日の本番、とてもじゃないけど弾けない! もう1度!
再び鍵盤に指を置く。すると、音楽室の扉がノックされて音楽の教師が入室してきた。
「浅木さん、そろそろ朝礼の時間よ」
「えっ!?」
時計を見ると、あと5分で予鈴が鳴る時間だった。
「もうこんな時間!? すいません! すぐ戻ります!」
大急ぎで鍵盤を拭き、ピアノの手入れを終えた私は自身の教室である3年1組へと向かう。
教室に戻ると、息を切らした私に驚くクラスメイト達の中で1人の女子生徒が私に声をかけた。
「おはよう浅木さん。珍しいね、浅木さんが遅刻ギリギリに来るなんて」
「ちょっと音楽室で練習してたの」
「えっ!? 私も呼んでよ! 世界的に有名なピアニストの浅木さんの演奏聞きたかった!」
「ふふ、おだてても何も出ないよ?」
「そんなつもりじゃないよ!? それこそ調子はどう?」
無邪気な彼女の問いに私は一瞬言葉を詰まらせる。しかし、すぐ笑顔を見せた。
「もちろんバッチリ! 本番は任せて! 皆が最高の歌唱をできるように私、頑張るね!」
「「おぉ~」」
私の言葉にクラスメイト達はどよめき、私に羨望の眼差しが向けられる。
「流石浅木さん! 私達も頑張らないと」
「今更だけど、浅木さんと伊月君がいる私のクラス……凄すぎない?」
「浅木さんの伴奏があれば、金賞とれる!」
おこがましいと言うのはわかっているが、正直に言って今年の文化祭、このクラスでの私の立ち位置はかなり重要だ。だからこそ失敗は許されない。
私は中学を卒業したら、海外の名門音楽学校へ行く。幼稚園からの友人も多いこのクラスの皆とは離れ離れになる。そんな皆との中学最後のビックイベント……皆と一緒に笑って終わるためにも、私は皆の期待に絶対に答えなければならない。
改めて心の中で決意を固めた。