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CASE「笠凪楓馬」

顔だけで上手くいかないことだなんて知っている。容姿は僕を完璧にするためのパーツに過ぎない。だが、ピースを1つでも落としてしまったら、それはもう完璧では無い。清廉で潔癖こそ、完璧を形作る基盤なのだから。だから僕に変化は許されない。たった一本の線の上を怖気付くことなんて許せない。常に最高を求めなくてはいけない。一瞬でもふらついた時には、僕の理想が全て崩れてしまいそうだから。

そんなの、堪らない程に怖いじゃないか


「笠凪主任!」

「ん?」

部下の一人がバタバタと慌てた様子でこちらへ駆け寄ってくる。その手には、ファイルから逃げ出してしまいそうなほどの大量の書類が抱えられえいた。その内容は、以前ダメ出しをした書類たちだろう。ちゃんと訂正して持ってきたところだけはせめて高評価といえようか。

「見せてください」

「え?」

「いいから。前に書き直しさせたものでしょう?」

「そうですけど、よく覚えてますね…。もう一ヶ月くらい前のことじゃ無いですか?」

そう言って彼女が差し出したファイルを受け取る。内心、こんなに日数が過ぎるのは社会人としてどうなのかと喉を尋ねた言葉達をまた飲み込み、戸棚へとしまう。

彼女に作り直しさせた書類は、以前よりはマシな仕上がりになっており、誤字も無くなっている。平凡々な人間ならば、この書類で「よく頑張った」と彼女を褒めるのだろう。だが、僕には彼女を褒めることはできない理由がある。

「…ねぇ斉藤さん、この書類いつまでに提出と言いましたか?」

「えっと、確か、昨日まで?...あっ」

「あっ、じゃありませんが」

僕の目の前でおろおろと青ざめた様子の彼女にため息すら出ないほど呆れてしまう。ここまで自己管理ができない人だとは思いもしなかった。

「あ、ど、どうしましょう主任!」

「…はぁ、落ち着いてください。今回は私がなんとかします」

「え!?マジですか!?ありがとうございます主任!」

なんて現金なお礼をされてしまう。本当に、部下を持つとはつくづく面倒なことである。なぜ上の人間には従う者が増えるのか。新人教育も仕事を振ることもサインをすることも。全て必要なことだろうか。何故、マニュアルひとつで理解できないのだろう。僕にはできることが何故周りには出来ないのか。その問いに答えが出る前に、いつも誰かに引き止められる。

目の前で年相応にはしゃいでいるような彼女を見ていると答えはまた一歩、迷宮に沈められるような気持ちになる。

「いやぁ、それにしても、主任って案外優しいですね。こうやってなんだかんだ尻拭いしてくれますし」

「その自覚があるなら、上司に苦労をかけないよう努力してください」

目を逸らし、苦しそうに笑った彼女は「尽力します」とだけ答え、いそいそとその場を後にされた。


「━っていうことがあったんだけどさ!あり得なくない!?」

グラスがカウンターテーブルに大きな音を立てて部屋中にこだまする。しかし、この店の主であるマスターは咎めることもせず、ニコニコとグラスを拭いている。

「今日は一段と荒れてるねぇ」

「そりゃ荒れるさ!あの新人ほんっとにもう。何回あのやり取りすれば気が済むんだか」

グラスについた紅を指で拭う。自分の長い爪では傷つけてしまいかねない。だから慎重に、そっと指を滑らせる。

「笠凪さんの教育が悪いんじゃないの〜?」

悪びれもせず、ニコニコと言いのけてしまう彼女に関心しつつ、その反面腹が立つ自分もいる。彼女はよく僕をデリカシーが無い、心が狭い、思いやりが無い等散々なことを言ってくれるが、それは彼女も同じだろう。いつも、自分のことを棚に上げるのが上手な人だ。

ため息をひとつつき、いつの間に注がれていたグラスを手に取り、彼女の言葉に反論を敷く。

「失敬な。僕はいつだって完璧だ。むしろ、周りが僕に合わせられないのが悪い」

「笠凪さん、協調性って知ってる?」

「知るか。必要なことは僕がやる。それ以外は僕に言われたことをやっていればいい。なのに、最近の奴らは与えられた仕事すらまともにこなせないのが多過ぎるんだ。全く、今まで何をやっていたのか」

何度目かのため息をついた時に、マスターの顔を伺うと、その顔はひどく曇っていた。珍しいこともあるものだと思い覗き込んだ顔は、やはりいつ見ても綺麗で、彼女の努力の証が込められている。本人は整形顔と言っていたが、それすら、認めるべき努力であろうに。その時の彼女の顔は、自慢げどころか、嬉しそうな様子も感じなかった。

「…笠凪さんは、よく自分のことを完璧だなんだの言うけれど、完璧を求めることに疲れたりしないの?」

「別に。多分、もう疲れとかそんな話じゃ無いんだよきっと。僕にとって完璧っていうのは、きっと当たり前のものなんだ。ずっとそうであったから」

「苦労してるわねぇ」

「なんでそう思うの?」

彼女の言葉に、純粋な疑問が口をついた。子供のような聞き方をしてしまったような気がして、つい顔を逸らしてしまう。

「あぁ、ごめん。ちょっと気になっただけだよ」

「へぇ、完璧な貴方でもわからないことってあるのね」

「…別に、僕は完璧じゃないさ」

僕の言葉に、マスターは嫌な風にニヤリと笑い、言葉を繋げた。

「さっきまで言ってることが逆だけれど、その心は?」

「誤魔化すことくらい誰にだってできるだろう?僕も同じだ。ただ、適当に誤魔化して、騙しているだけだ」

「前から思ってたけど、笠凪さんって結構めんどくさいわよね」

直球すぎるその言葉に喉が詰まり、ゲホゲホと音を吐いた咳が口から出てくる。喉を通りかかったカクテルを吹き出しそうになるのをなんとか堪える。

「あのさぁマスター、もう少し言葉を選べなのかい?」

「あら、言葉を選ばない人には言われたく無いなぁ」

「僕はただ事実を言っているだけだ」

「それを選んで無いっていうんだよ〜」

マスターの言葉にムッとしてしまい、カウンターテーブルに顔を伏せる。「お行儀悪いわね」と言う声が頭上から聞こえてきたが、知ったことではない。そのまま、言葉の意味をまた問いかけてしまう。

「それじゃ、どうやったら言葉を選んだことになるのさ」

「オブラートに包んだり、誤魔化すことじゃないかしら。なんにせよ、相手が傷つかないようにするにはどうすればいいんだろうって考えられたら、自然と言葉は優しくなるものよ」

「ふーん」

マスターの言葉を適当に流しながらグラスに手を伸ばす。しかし、そこにはグラスは無かった。その代わりなのか、僕の手には何か紙の感触がした。不審に思い手元に視線をやると、先程までグラスがあった場所には、一枚のポスターが置かれていた。

「何これ。ポスター?」

「そう」

「…まさか、仕事疲れが溜まっていて疲労度ピークの僕に貼れっていうの?」

僕の不満げな声に対し、「まさか」と楽しそうな声が返ってくる。そのことに多少安堵する。その安堵感からポスターを手に取り、内容を確認する。そのポスターは、僕達が住んでいる街、星落市せいらくしで毎年開催されている、星祭りの物だった。

「…BARのマスターが、随分と不似合いなもの持っているんだね」

「酔った客が置いていったの。『マスターさんも楽しんできたらどうだ』って」

「行かないのかい?」

「えぇ。私は間に合ってるもの。そのポスターは貴方にあげる」

あげると言いつつも、それは自分にとってのゴミを押し付けただけなのでは無いだろうか。せっかくもらったポスターならば、どこか適当なところにでも貼ればいいのに。そう思ったが、薄暗い電球がほのかに照らす室内に、小洒落たインテリア。それらはあまりにも、こんな地域のお祭りイベントのポスターには不釣り合いであろう。かといって僕に釣り合っているわけでも無いが。

「…祭りねぇ、時間が空いたら適当に行くとするよ」

「時間が空いたら、ねぇ」

マスターの言葉に嫌悪感をちくっと抱き、椅子をガラガラと音を立てて引いていく。立ち上がり、財布から代金を取り出し、テーブルに置いていく。

「会計だ。大体これくらいだろう?」

「雑ねぇ…。まぁ足りてるからいいけど」

「釣りもレシートもいらない。じゃあね」

カランコロンと音を立てて薄暗い扉のノブが回される。バタンと音を立てた時に、自分の手をみてひどく驚いた。あそこに置いてきていたと思っていたポスターが手に握られていたのだ。どうしようかと思い、ひとまずは折り畳んで財布の中にしまっておく事にした。一気に厚みを増した財布はチャックが簡単に閉じてはくれなくなった、ブランド物に入れるべきでは無いものを入れてしまったと、数秒前の自分を責める。

ふと、財布と一緒に、自分の価値までもが下がった気がした。

ぐらりと揺れた糸は、僕の足元をひどく揺らしている。



「笠凪さんって綺麗だよね〜」

「ね〜、普通にめっちゃ嫉妬するんだけど」

「でも男であれはなくない?私なら絶対無理」

休憩室から出ようとした矢先、廊下からそんな話が聞こえてくる。手にかけていたドアノブを離し、その場に立ち尽くしてしまう。しかし、声の主たちはただ通りかかっただけのようで、声はすぐに聞こえなくなっていく。そのことを確認してから、再びノブに手を伸ばし、扉を開ける。

「はぁ…」

磨きがかけられた会社の床を歩きながら、考え事に耽ってしまう。

あのような言葉や視線を受けることは珍しくない。理由はわかってる。僕の容姿が女性的だからだろう。だからといって、社内で堂々とあのような話をするのはやめてほしいと常々思う。耳に入ってしまうこちら側が不愉快だ。

自分が周りと違うのも、普通の男性らしくないということもわかってる。それでも、僕は今の姿に満足しているし、こんな僕が完璧だと思っている。この姿でいる理由なんて、それだけで十分だ。異物だと思われるのも慣れている。けれどこうやって言葉にされるのはあまり良いものではない。周りは気にするなと言うし、僕もそう思う。けれど、白に混ざる黒は何をやっても目立ってしまうものだ。だからこそ悪い情報ばかりを気にする人が多いのだろう。僕と同じように。

爪の先までの綺麗な完璧を求めることを常としながら、結局完璧という名の糸の上で立ち続けることなんて出来やしないのだ。そもそも僕が完璧であるならば、先程の会話などに気を取られることもなく、扉を開けられただろう。そんな風に自分を思っても、ただ気は滅入るだけだ。けれど、常々考えずにはいられない。自分は、綺麗に踊れてるのだろうかと。

大丈夫だ。心配せずとも、僕は完璧だ。仕事も失敗などしていないし、処理速度も上々。おまけに顔もいいときた。これが完璧と言わずしてなんという。

「…はぁ、生きづらいな」

そんな風に思わなければ、僕は生きてはいけないような気さえするのだ。心を置いてけぼりにして全て成長してしまった僕には、幼稚な考えしかできない。そしてまた、そんな自分のどこが完璧かという負のループが回っていってしまう。

━━ふと、何かの衝撃が、肩にぶつかった。その勢いで僕はふらついてしまい、尻餅をついてしまう。

「あ、ごめんなさい!ちゃんと前見てませんでした!」

と同時にそんな快活な声が聞こえてきた。そちらの方に顔を向け、僕はようやく状況を飲み込む。あぁ、社員とぶつかったのだ、と。

「いや、こちらこそすみません。ぼ…私も少し考え事をしてしまっていて」

慌てて素の一人称をしまい、私と称する。

「すみません、お怪我はありませんか?」

そう言って彼は僕の方に手を差し伸べる。その手を掴むと、勢いよく引き上げられ、再び足を地につける。

「いえ、大丈夫です。そちらは?」

「俺も平気です。それより、とっさとはいえ、手を触ってしまってすみません」

「…?いえ、気にしてませんが」

なんだか話に齟齬が生まれている気がする。だが僕はこういった齟齬には心覚がある。こういう場合、大体相手がある勘違いをしている。

「そうでしたか?あ、もしかして笠凪主任って結構大胆な人でしたか?」

「は?」

「いやだって、普通ならなんか思いません?」

こいつは何を言っているのだろう。僕の名前を知っても尚、僕が女と勘違いしているのか。それになんか思うとはなんだ。

「お生憎、異性の手に触れてきゃーという時代はもう終わりましたので。私も貴方もいい大人でしょう?貴方は私が転んだから手を差し伸べた。私は手を差し伸べられたから取った。感謝はしていますが、それだけです。では私はこれで」

そこでその場を去ろうとしたが、一つ伝え忘れたことを思い出した。

「あぁ、それから、私はこれでもれっきとした男なので、お間違い無いように」

そこまで言い切り、相手の顔を見ることなく、歩いていく。災難な目に遭ったものだと酷く思う。周りに話せば、「メイクを辞めて髪でも切れば」と大体言われる。だが別に僕はそうは思わない。何故なら、もうこの自分に慣れてしまっているのだ。この髪、このメイクじゃないと落ち着かない。

「まぁ、リーマンっぽく無いのはわかるけど」

乗ったばかりのエレベーターの鏡を見つめながら、そう苦い言葉をぽつりと零す。かと言って、女と間違われるのはいい気分にはならない。僕は女性になりたいのではなく、僕の見つめる完璧であり続けたい。鏡を見る自分に対して綺麗だとずっと言えるように、僕は今の姿であり続ける。周りからは歳だのなんだの言われるが、そんなの完璧になり得ない馬鹿が言うことだ。僕とは違う、怠惰な人間の思う考え

そう思わないと、社会で生きるなんてとても出来そうにない。



それから数日間、僕は残業に浸る日々を送る羽目になっている。理由は簡単。部下の尻拭いだ。珍しい奴が中々に大きなミスをしたものだから、会社中の人間がひどく驚いていた。勿論僕も。しかし、彼とは今度、中々に高いお肉に連れていってくれるという約束をしている。今回のお詫びだと言っていた。そのお肉に免じてとは言わないが、後処理は僕がやることとなった。とは言っても、連日の残業続きは流石にくるものがある。

目頭を抑え、頭を上にする。何度この体制をしたか数えたくもない。

「はぁ」

「そういえば、最近マスターの店にも行ってないな。最後に行ったのいつだっけ」

頭の中で日数を遡る。思い出した。もう一週間も前だ。けれど、あの人のことだから特になんとも思わないだろう。それすら、久しぶりすら言われない気がする。彼女の時間に対してのルーズさには驚いたが、今ではもうそれすら慣れてしまった。久しぶりに足を運ぼうかと片付けた仕事をファイリングし、社内を後にした。

「さむ…」

冷え始めの時期の夜は自分の想像した以上に冬の吐息をかけていた。こんな遅くに帰ることになるとは思わなかったのもあり、上着なんてものは持ってきていない。せめてカーディガンだけでも持ってくればと、朝の自分を酷く恨む。

ふと周りの景色に目を向ければ、浴衣を着ている人がちらほらと見えた。今日は何か催し物でもあっただろうか。そう頭の中でぼんやりと考える。

「…あ」

1つ心当たりがあった。鞄の中から長財布を取り出し、中身を確認する。

「確か今日だったはず…」

先日のマスターとの会話を思い出し、祭りの日を確かめる。そのままポスターを開くことなく、再び財布を鞄にしまう。

『深海に落ちた神様の最高傑作』

自然と見上げた星空はそんな言葉が似合っていた。星落市は、星が日本で一番綺麗に見える街と言われている。だから星祭りなんてものが毎年開催されているし、星を見るためにやってくる観光客が後を絶たない。

ボーッと頭上を見上げていると、きらりと空を何かが駆けていった。ちょっと考えれば分かる。流れ星だ。暗闇に溶けた星は、どこへ行ったのだろうか。ゆっくりと右から左に下る様はまるで──

「落ちていったみたいだ」

そう思った。今初めて、星落市と呼ばれる所以を理解したような気がする。



「いらっしゃい!安いよー!」

「ママ!あれやりたい!」

「うぇー、外れたー…」

あれから僕は歩を進め、来るつもりは無かった祭りにやって来ていた。大分遅くなったため、まだやっているかと不安におもっていたが、杞憂に過ぎたようだった。しかし、子供の頃祭りに来た時のことを思い出せば、大分遅くまで残っていたような気もする。睡眠寸前の頭で父に尋ねれば、「星が綺麗に見えるのは夜遅いから、祭りにしては珍しく夜遅くまでやっているんだ」と言われたのを思い出した。しかし、昔の記憶をよく鮮明に思い出せたと、自分に対して何故か寒気がする。思い出を無意識のうちに否定してしまっているのだろうか。大人という腐った果実が胃にあるからなのか、考えても仕方ないことを堂々巡りと反芻する。

「こういうところがよくないんだろうな…。祭りが台無しだ」

自分の頬をぱしぱしと両手で挟むように叩き、邪な考えを全て頭から追い払う。せっかくの祭りなのだから、楽しまなくては。三十路のリーマン1人ということは忘れてしまおう。祭りに人数制限も年齢制限も無いのだから。

人混みへと1歩踏み出した瞬間、自分のお腹がぐぅーと音を上げた。そういえば、夜になってから何も食べていない。まずは腹ごしらえからと思い、適当に歩きながら、屋台を見て回ろうかと思い立つ。

それから普段の何倍かと思うくらいに、馬鹿みたいにあちこち周って色んな物を口にする。その度に美味しいと頬が落ちそうな程に緩んでしまう。食べ終わり、満腹になった頃には次の屋台を見つけ、気付けば購入してしまっている。そして不思議なことにその度にお腹が空いてはまた食べてしまうのだ。その繰り返しを先程からずっとしている。抜けられるものなら誰か助けて欲しいほどに。そう思っていたのに、自分の体が真っ先に弱音を上げた。気持ち悪い、ぐるぐるする。色々なものが腹から零れそうな気持ち悪さを噛み殺しつつトイレを探して軽く走る。体が揺れる度に気持ち悪さが込み上げ視界が揺らぐ。やがて会場となっている公園の外に目当てを見つけ、急いで駆け込む。



「はぁ、こんな食べたのいつぶりだろうなぁ」

会場から少し離れたベンチでようやく一息つく。柄にも無くはしゃいでしまった。食べただけでなく、金魚すくいや射的も十分な程に満喫してしまった。

「ほんと、いい歳した大人がなにやってんだか」

自嘲気味な顔をしているだろう。けれど、心は何故か晴れやかな気分だ。今までにない不思議な感覚に心がふわふわする。言語化も出来ない感情に、そこまで悪い気はしなかつた。

空を見上げると、満天の星が輝いていた。よく、「宇宙に比べれば自分の悩みなんてちっぽけな物に感じる」なんていう台詞を聞いたりすることもあるが、その気持ちも今ならば分からなくはない。

難しく考えすぎていたのだろうか。けれど、凝り固まった脳でしか物事を考えられない自分にはとらわれることしかできない。だが、今ばかりは苦痛溢れた完璧など忘れて、凡人に成り下がりたいと空に流れる清廉な川に密かに願った。

暫くそうして星を見て過ごしていたら、いつの間にか祭りもお開きになっていそうな時間にまでなっていた。寝ていたわけでもないのに、こんなに時間が過ぎていたとは思わなかった。慌てて帰る支度をし、早足で自宅へと、歩を進めた。


それから数日。気が向けば上を向くようにしていた。夜でも昼でも、澄んだ空は輝いていて、僕の心を穏やかにさせる。


「笠凪主任、なんか最近丸くなりましたよね」

「はぁ?」

部下から唐突に言われた言葉に、思わず素の自分で答えてしまう。

「あ!太ったとかって言いたいわけじゃないんですよ?主任は相変わらずお綺麗です!はい!」

「それはどうも。それで?丸くなったとはどういう意味です?」

書類を確認しながら問いかける。何か大きな変化でもあっただろうかと、自分自身を振り返る。しかし、「丸くなった」等と言われる理由など思いつかない。

「前より少し優しくなった気がします。主任の怒り方が緩くなったので!」

何故この部下はいつも余計な一言を付け足していくのか。それさえ無ければ、ただの褒め言葉で終われたろうに。

「そうですか。それじゃ、この書類全部書き直してきてください」

「え?ぜ、全部?」

「そう、全部」

「や、やっぱり全然緩くないし優しくなーい!!」


カランコロンと心地いい鈴の音が響く。

「いらっしゃい」

店内の奥から高いとも低いとも言えない耳あたりのいい声が聞こえてくる。

「久しぶり」

そう言って彼女に向かって軽く手を振りながら言った。

いつものカウンター席に案内される道中、店内を見回す。相変わらず人は入ってきていないみたいだ。

「相変わらずガラガラの店だね。どうやって経営してるの?」

「悪口言うなら帰ってちょうだい」

「うそだってば」

冗談めいたかのようにそう言葉にすれば、マスターが驚いたような顔で僕のことを見てきた。

「笠凪さんって、そんな風に笑えたんだ…」

「なに?喧嘩売ってる?」

「違う違う!ただ、雰囲気丸くなったな〜って思って」

その言葉に、昼の部下の顔を思い出す。全く同じ言葉を言われた。部下に言われた時はどうも思わなかったが、マスターに言われると謎の説得力がある。

「はぁ、それ昼間部下にも言われたよ。マスターから見ても僕ってそんな変わった?」

「うーん。雰囲気がなんとなく柔らかくなってる気がするのよねぇ…。何かあった?」

「何か、ねぇ」

そう言われて自分に起こった変化を探す。そして恐らく見つけた。星を見に行ったあの日から、空を見上げるようになった。

「そういえば、星祭りに行った日から、よく空を見るようになったかも」

「あぁ、結局行ったのね。楽しかった?」

その言葉に祭りの時の自分を振り返ると恥の気持ちがすごく大きい。大人気なく1人ではしゃいで、屋台をあちこち見て回った。楽しかったといえば楽しかったが、それを素直に伝えるのは僕のプライドに反する。

「凄く楽しかったよ。マスターも行けばよかったのに」

「言ったでしょ?私は間に合ってるって」

「そうだったっけ?まぁ、来年は行ってみたら?価値観変わるよ」

「やだ、そんな怪しい商売みたいな言い方しないでよ」

マスターの言葉に声を上げて笑ってしまう。そんな自分に少し驚いてしまった。確かに、これは変化したと言われても仕方ないだろう。けれど、悪い変化ではない。「完璧」に囚われるばかりで自分の首を締めていてはいつかは身を滅ぼしてしまうかもしれなかった。だから、偶には糸を緩めることだって、生きる為のワンポイントなのだ。完璧な自分を追い求める以前に、僕は人間だ。糸の上を綱渡りなんて命懸けはもうごめんだ。僕は皆と同じ道を歩く。例え完璧が自分を惑わす道具なのだとしても構わない。だってそもそも、完璧な人間なんて、僕含めどこにもいないのだから。けれど、僕が自身のことを完璧と認めたならば、僕の存在は有意義なものだ。僕の認める僕であり続ける。それこそ、僕の求める「完璧な笠凪楓馬」だ。

「マスター、これからは僕と楽しい話をしてくれる?」

「えぇ、いいわよ。いくらでも聞かせてちょうだい」

マスターは嬉しそうに目を細め、そう言ってくれた。

夜が更けても尚、その日のBARの明かりが消えることは無かった。

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