第三節:たゆたうきずな④
初めて生まれたこのキモチ
何と呼ぼう?
キリエは、探す相手の後姿を見付けると焦る心隠すが如く、深呼吸をした。何とはなしに、耳に入ってきた女官達の他愛も無い噂話。しかし、その内容はキリエを奈落の底へと突き落とすには充分過ぎるほどの内容だった
。まずは、父である神聖王 ラスティ・エッダ・ヴォータンに事の真相を確かめるべく、詰め寄った。言葉を失った父……一瞬強張った顔に、「一体、どこでそれを……」その一言で全て真実なのだと、ただの戯言ではないのだと悟った。
後は、ラスティが自分を引き止める声を後ろに聞きながら、形振り構わず走っていた。走って探して、ようやく探す相手を……志杏椶を視界に入れたその時、何と切り出すのか詰まってしまった。
―― このヒトは、こんなに小さかっただろうか?
昔、姉として慕っていた。今はたった一人、守りたいと思う女性。改めて、その存在の儚さに目を奪われてしまった。武術の師でもある志杏椶は、幼心にとても大きな存在で追い付く事に必死だった。追い付いて、一人の“男性”として認めてもらう事に必死だった。
今にして思えば、こんなにも細く小さな存在で。否、そう思えるほどキリエ自身が成長していて……
中庭の桟橋に手を掛け、月を仰ぐその横顔はどこか悲しそうだ。一筋、その頬を流れる雫を見た瞬間、キリエは駆け出していた。
聞きたい事は山ほどある。問い質したい事も、言いたい事も、だから探していた。だが、その涙を見た瞬間……勝手に身体が動いていた。
志杏椶は、突然自分を包んだ温もりに息を呑んだ。全く予期していなかったその出来事に、ただ茫然とする。
「……キリ、エ?」
茫然と自分の名を呼ぶ、その声にはっと我に戻ると、思いも寄らぬ己の行動に一瞬動揺してしまったが、振り返ろうとする志杏椶の動きに思わず抱く腕に力を込めた。
その力を……温もりを無理に振り解こうとはせずに、志杏椶は再度少年の名を呼んだ。
「キリエ?どうしたの?」
「俺じゃ、力になれないかな」
聞きたい事、言いたい事が沢山あった。だから、ここに来るまでの道のり、何度もシュミレーションした筈だった。どう切り出して、どう話を聞き出そうか……何度も頭の中でシュミレーションしていたのに、口をついて出たのはずっと隠してきた本音だった。
「好きなんだ」
言葉の奔流を自分でも止めることが出来ず、大切に育てて来た自分の想いがどんどん裡から流れ出る。
「誰にも渡したくない。ずっと、好きだったんだ……」
ずっと、大切に育てて来た想い。“言葉”だけでは足りないその想いを伝えたくて、キリエは抱く腕に気持ちを託す。そっと、首元に顔を埋めた。
真摯な想いと離し難い温もり……首元に感じる吐息に眩暈すら感じる。それは、きっと予想していた甘美な言葉。
一番、聴きたくなかった、一番欲しかった言葉。でも、志杏椶は自分の出すべき答えを判っていた。
“女性”である自分を棄てる言葉を、志杏椶は言わなければならなかった。それは、キリエを……そして、自分自身をも裏切る言葉。
―― 言わなければならない
そう、判っていた筈なのだ。断ち切らなければ、先には進めないと。自分の気持ちを自覚したその時からずっと、覚悟を決めていた筈だった。なのに、言おうとすると言葉に詰まってしまう。涙が零れそうになってしまう。
そんな自分を悟られたくなくて、天を仰ぎ見て目を閉じて深呼吸をすると、そのままキリエに言い放つ。
「離してちょうだい」
その言葉に、素直にキリストは従った。離れ行くその温もり。一生、触れる事は赦されないはずだった、思わぬ出来事。
―― 私の想いは、報われた
過去に縛られるのは、自分だけで良い。ここに来たということは、志杏椶の“縁談”を耳にしてしまったということなのだろう。ならば、もう返答は決まっている。
ゆっくりと振り返る。振り返ったその時には、志杏椶は笑顔で、ついさっきまで泣いていたとは思えない朗らかな笑顔を浮かべていた。
「私は、キリエの気持ちに答える事は出来ないわ」
「法会さんと、婚約するから?だったら、俺が父さんに止めてもらえるように頼むよ!仮にも、志杏椶は俺の義姉……そうだろう!?ならば、義父である神聖王には娘の縁談を破談する権利がある」
いつからだったろう?意識的に“大姐上”から“志杏椶”と呼び捨てするようになったのは。法会の事を“大兄上”と呼ばなくなったのは。
そんな、他愛も無い事を思いながら、志杏椶はゆるく首を横に振る。
「どうしてっ!」
更に言い募ろうとするキリエを、視線で諌めると、静かに……しかし、はっきりと言い放つ。
「あなたを、“男性”として見たことがないからよ」
「……え?」
自分の想いにそっと鍵をして、心の底に大切に眠らせる。二度と、想いが花開かない様に。誰にも気付かれないように、そっと……紡ぐ言葉を鍵にして、自らをも欺く。
「今も、そしてこれからも……キリエは私にとっては“弟”なのよ」
「……っ……俺は、もう子供じゃないっ!!志杏椶の全てを理解するよ。全部、受け止める。だからっ……」
―― 嬉しかった……
必死に、自分を受け止めようと広げられたその両腕に何も考えずに飛び込めたらと、そんな衝動に駆られる自分を懸命に制する。
いっそのこと“嫌いだ”と言っしまえれば良いのかもしれない。でも、それだけは出来なかった。どんなに堅く想いに蓋をしても“嫌い”という言葉だけは、発する事が出来なかった。だから、嫌われるような言葉を選んで、険がある言い方をして、離れていくように仕向ける。揺れる心を悟られない為に、笑みを一層深める。
「欲しいものが手に入らないからって、駄々をこねないの。まるで子供の癇癪だわ……」
キリエの顔が、目に見えて強張ったのが判る。反応のないキリエに、志杏椶は言葉を続ける。
「私も好きよ?ただし“可愛い弟”として、ね」
そうして、ゆっくり歩き出した。
「……っ……志杏椶っ!」
後ろで呼び止める声がする。思わず足を止めてしまう。でも、振り返ることは出来なかった。今ここで、涙を見せるわけにはいかなかった。
「さよなら」
そう言い残して茫然と立ち尽くすキリエを一度も振り返ることも無くその場を離れて行った。背中に、痛いほどの視線を感じながら……
―― 一度だけ……
ほんの一言だけ、“好きよ”その言葉に自分の想いを全て込めて。心の一部をそっと預けて。志杏椶は去っていた。
その事に気付く余裕がキリエにある筈も無く、視界から消えていく志杏椶の姿が自分の想いと重なった。どんなに足掻いても志杏椶に自分の手が届く事はないのだと、そう思い知らされた。
先程まで確かにあった手の中の温もりを確かめるように、自分の両手に視線を落とす。
「……なんでっ……どうしてっ……」
何に対する問い掛けなのか、自身でも判らない。その言葉は冷たい涙の雫となって、自身の手を濡らす。




