第三節:たゆたうきずな③
初めて生まれたこのキモチ
何と呼ぼう?
「賢帝?誰がだ……」
「……父、上……?」
「戯言を申すでないっ!」
慟哭にも似た、その地を這うような低い声は、それまで志杏椶が聞いたことがないものだった。
「……そうか、お前も私を裏切るというのか。ならば……」
「……父上?何を」
焔祁がセキルに目配せすると、セキルは志杏椶に近付き右手とそっと取ると口付けた。そして、何かの呪を詠唱した。光が覆ったかと思うと、次の瞬間には何事も無かったかのようにその場は鎮まり返っていた。
微笑を浮かべたままセキルが一歩下がる。自らの右手の甲を見た志杏椶は眉を顰めた。そこには、刻印がくっきりと刻まれていた。
「……お前まで失うわけにはいかない。失うくらいなら、いっそのこと……」
焔祁は、尚も呟く。一体、何に起因する怒り、執着なのか。志杏椶には皆目検討が付かなかった。ただ一つ判っているのは、それは自分を投影した“誰か”に向けられたものだということ。その“誰か”が自分の母、珠依姫だということ。
「志杏椶様、焔祁様を悲しませるような言動は慎むようになさって下さい。でないと……ご自身の命、縮めるだけですよ?」
セキルの、その場違いな穏やかな物言いに、志杏椶は思考を中断せざるを得なかった。
「この呪は、一体何?」
「そのうち判りますよ、嫌でもね……」
はぐらかすセキルに詰め寄ろうと口を開き掛けた志杏椶の言葉を遮ったのは焔祁だった。
「志杏椶、今日はお前ももう下がりなさい……疲れただろう?」
その面影からは、先程の激情の痕は垣間見る事すら出来ない。志杏椶は、実は夢だったのではないかと、ふとそんな考えに捕らわれた。
だが右手に刻まれた刻印が、事実を生々しく物語っていた。
「それでは、失礼致します」
これ以上、この場に留まっていても無駄だと判断した志杏椶は、そのまま部屋を後にしたのだった。
何かに縋り付いてしまいたい心境だった。誰にも、逢いたくなかった。矛盾する心……知ってしまった“闇”はどこまでも根深くて……その重圧に耐えられそうになかった。
だからといって、誰に言えるわけでもなく。無論、天帝に事がばれてしまえば、いくら天帝補佐だとはいえ、焔祁の立場は悪くなる。そんな、実の父を陥れるような真似が出来る訳も無く。ふと、脳裏をよぎった少年の顔を軽く頭を振って消した。ちょうどその時、背後に気配を感じて振り返るとそこには兄 伊舎那天 法会がそこにいた。
「……兄上……」
「どうした、晴れない顔をしているな」
その顔は言葉ほど志杏椶を案じてはいない。さり気なく顔を逸らす志杏椶の顔を手に取り、半ば強引に自分の方へと向ける。
「また、俺から逃げるのか?」
「逃げてなど……」
「そうやって、また視線を逸らす」
逃がすものかと、法会の視線は執拗なまでに志杏椶を捉えて放さない。
「放してください……仕事中です」
きっぱりと拒絶の意を顕にする志杏椶に、法会は皮肉に笑った。己の中で渦巻く劣情を隠そうともせずに。
「……ほう……それが、未来の夫に対する態度か?」
「……っ……放してくださいっ!」
振り払って法会を睨む。その視線を受け止め、皮肉に笑う。
「やっと、俺を見たか……志杏椶……」
「見ていないのは、兄上です。私を見てはいない……私を通して、母上の面影を追っているだけでしょう?」
兄のそんな視線に気が付いたのは何時だったか。いっそのこと、気付かずにいられた方が幸せだったのかも知れない。昔は純粋にただ、兄として慕っていた。だが、兄の想いは自分の抱くそれとは違う事に気付いてしまったその時……“何を求めているのか”それを知ってしまった時……志杏椶は自然と、法会との距離を置くようになった。
「お前を見ていると言えば……手に入るのか?」
逆に問われた志杏椶は、これだけは譲れないのだと……はっきりと言い放った。
「お望みならば、私は兄上の“もの”となるでしょう。でも心は違う……私の心は、私のもの。誰にも、渡しはしない」
その、真っ直ぐと射るような視線から、今度は法会から視線を外して言葉に詰まる番だった。己の言ったその言葉がどれ程深く法会の心を抉るか、志杏椶は痛いほど良く判っていた。それでも、言わずにはおられなかった。他にどう言えば伝わるのか、志杏椶には皆目検討が付かなかったのだ。
否、どんな言葉も今の父と兄には届かない事を……言葉が届かずに消える虚無感を、志杏椶は感じずにはいられなかった。
「では、失礼致します」
固まったままの兄に供手をして、志杏椶は踵を返した。
「必ず、手に入れて見せる」
その、法会の呟きに耳を塞いで……
いつだっただろう。“歪み”に気が付いたのは。その元凶……根源にあるものに気が付いた時、志杏椶は天上界を離れる決心をした。
断る事も出来た地上鎮定の命を、甘んじて受けた。そう、“己の存在”こそが、焔祁や法会の感情を縛り付けるモノなのだと気が付いたから、自ら離れたのだ。
「私は、間違っていた?」
ぽつりと、そう零した溜息は夜風に溶けて、誰にも届く事はなかった。




