第三節:たゆたうきずな②
初めて生まれたこのキモチ
何と呼ぼう?
帝釈天こと真武天帝の嫡子、尚武 の誕生を祝う為に帰郷を果たした志杏椶は、そのまま天上界に留まっていた。
否、留まらざるを得ない状況だった。その足取りは重い。忉利宮は西館にある天帝補佐の執務室の前で大きく深呼吸をする。
「伊和大神 地天 志杏椶・エッダ・ティアマト……ただいま参上仕りました」
「入りなさい。」
その声を待ってから、志杏椶は執務室の中へと足を踏み入れた。
「どうだ?久方ぶりの天上界は」
朗らかに……相変わらず穏やかな父のその言葉に、志杏椶はそれまで下げていた視線を上げた。その眼差しは険しいもので……しかし、焔祁はそれを予測していたかのように一層笑みを深めた。
「どうした?志杏椶……」
「どうしたも、何もないでしょう?私の意志を無視してっ……」
「判らぬか?志杏椶……これもお前を思っての事だ」
違うと……自分を捨てて、泣き叫ぶ事が出来たならどんなに楽だろうか。渦巻く感情を、震える拳の中に握り締める。
帰ったその日に聞かされた話に、志杏椶は言葉を失った。内密に……志杏椶自身にすら秘密裏に進められていた縁談……
「しかもっ……兄上とだなんてっ……」
「良いではないか……お前も、もう良い年頃。地上に一人赴かせた事、私とて気にしていなかったわけではない。これを機に帰って来ても良いのだぞ?志杏椶……」
「ですが、まだ地上は平定された訳ではありません。現に、邪気は蔓延する一方……」
「その事ですが……」
焔祁の隣にそれまで静かに立っていたセキル・ナヴァ・グラハは、音も無く一歩前に出た。
「狩神が原因だとは、考えられませんか?」
志杏椶は、首を横に振る。
「その件に関しても、資料を提出した筈……何度も申し上げる通り、狩神は無益な殺生を行ってはおりません!」
そう、この一ヶ月の間……志杏椶は一人で訴え続けていた。天上界では、専ら“悪”だと囁かれている“狩神”と呼ばれる存在。
だがしかし、無差別と思われていた殺戮には意図するものがあるのだと、志杏椶は訴え続けていた。
「“穢れ”に侵食され“邪鬼”と化した者だけが狙われています」
「では、貴女は“狩神”がして来た事を容認しろと?」
思わず、言葉に詰まってしまった。だが、ここで折れる訳にはいかなかった。もしも、自分の考えが正しいとしたら、とんでもない誤解をしている。取り返しの付かない思い違いをしている可能性がある以上、黙るわけにはいかなった。
それまで、確証が持てるまでは口に出すまいと誓って来た推測を、志杏椶は口にした。
「狩神は、世界の“穢れ”を消す存在だとしたら……狩神討伐は、即ち創世神を失う事と同意義になるやもしれないのです」
ずっと抱いていた疑念。“欲”から生まれた“闇”。そこからとぐろを巻くかのように産声を上げた“穢れ”。その穢れに侵された者たちの哀れな末路。その螺旋を断つものを断つ事を赦された者。
「だから?」
セキルではなく、焔祁のその予想していなかった返答に志杏椶は茫然と父の顔を見上げた。その顔は、やはり穏やかに笑んでいる。
いつもと変わらぬその笑顔が、志杏椶は恐ろしかった。
「だから、何だと言うのだ?」
「……父上……一体、何を考えておられるのですか?」
口が、こんなに渇きを覚えたのは初めてかもしれなかった。早まる鼓動が、やけに煩く頭に響く。絞り出した、志杏椶のその問いに、焔祁は相変わらず……そう、まるで世間話でもするかのように、ゆっくりと口を開いた。
「世界の礎……その片割れ“太陽の王”……その力、欲しくはないか?」
志杏椶は、自分でも驚くほど大きな声で気が付いた時には叫んでいた。
「父上っ!!なりません。それは、なりませんっ!!“礎”に触れるは禁忌っ……ましてや、その力を欲するなど……世界の均衡が壊れるだけでは済みませんっ!」
だが、志杏椶の必死の訴えも一笑されてしまうだけ。虚しい叫び声だけが木霊する。
「それが、どうしたというのだ?」
「志杏椶様、勘違いされてはなりません。あくまでも、“狩神”をどうするか。“穢れ”を消しているのなら尚のこと、我らの手中に収め飼い慣らし、正しくその力を使うのが、我々の責務ではありませんか?」
そう、事も無げに言ってのけるセキルを志杏椶は睨み付けて、怒りに声を震わせながら言う。
「貴方というヒトは……判っているの?自ら成そうとしている罪を……触れて良い力ではないわっ!」
「力が……天帝を凌ぐ力が目の前にあるというのに、それを放っておく手はないでしょう?」
「何を、馬鹿なことをっ……この事は、天帝に報告させて戴きますっ!!」
「……ほう?貴女は、実父を裏切ると……そう仰るのですね?そうして、あの強欲で浅ましい天帝に付くと?」
「裏切る?天の意思を裏切ろうとしているのは、どっち!?第一、何が不満だと言うの、天帝は……伯父様は賢帝だわっ!」
それまで志杏椶とセキルのやり取りを静観していた焔祁が、突如立ち上がった。その瞳は昏い闇に包まれている。見た事も無いその燻ぶる闇に、志杏椶は思わず口を噤んだ。




