第二節:うまれるこころ③
純粋な願いは
時に鋭利な刃となる
志杏椶と淘汰は第一妃 吉祥天 珠依姫を母に持つ、正真正銘の姉弟であるが、第一子である法会だけは、母が違う。いわゆる、異母兄弟なのだ。
淘汰は、母親の声を……腕の温もりを知らずに育った。淘汰の兄、法会の母である西域のシュクラ・ユダ・スローネは、焔祁の第二妃にあたる。
焔祁の第一妃にして天武の実妹 吉祥天 珠依姫との間に子はなかった。身体の弱い珠依姫に、子を生む事は難しかった。それでも構わないと……焔祁はただ一人の妻に、惜しみない愛情を注いでいた。
それが一転する。どこからともなく現れて、巧みに焔祁の心に入り込んだ者がいたのだ。名をセキル・ナヴァ・グラハ……天の意を読む占星を生業とする九曜族の若者だった。恐らくはその青年が前に現れた時、…珠依姫はこれより起こる事を……自らの罪を嘆いていた事だろう。
セキルは焔祁に囁く。
“天が欲しくはないか”と。
それは、焔祁が今まで描いた事もなかった……初めて芽生えた“野心”。天帝としての全知全能の力、その全てを手中に収めれば、珠依姫のその命を守れるやも知れない……そんな、純粋な祈りにも似た願いから生まれた“野心”だった。
その為には、義兄 天武よりも先に世継ぎを……子を儲ける必要があった。しかし、珠依姫には無理……そこで、もう一人娶った。それが、西域における上位族……御前天使と呼ばれる七大天使の一人、オリフィエル・セト・スローネの一人娘シュクラ・ユダ・スローネである。東西を越えた婚姻はこれが始めての事であった事から、当時は世間を騒がせた。
シュクラはすぐに身篭った。
しかし、シュクラは自らの子にすら嫉妬した。愛する夫が、実は自分を通して違う女の面影を追っている事実が、彼女を追い詰めた。
生まれて来た子を抱く事すらしなかった。愛する夫に、他の“誰か”に重ねられることなく、真っ直ぐに見られる自分の息子に嫉妬した。
そんな法会を同情するでもなく、純粋な温かい慈愛で包んだのが珠依姫だった。珠依姫が母代わりとなって法会を育てるようになった。
珠依姫は、焔祁を諫めた。
「法会から“母”を奪ったのは誰でもない、あなたです……どうか、目をお覚まし下さい」
だが、その言葉は焔祁には届かなかった。しばらく経ってから、珠依姫は自らの身体の異変に気が付いた。毒を盛られていた。
それはシュクラの仕業だった。自分から夫のみならず、子供まで奪った女に対する、復讐だった。珠依姫は、その深い憎しみをその身体一つで受け止めた。
言えば、咎を受けるであろうシュクラを想い、咎人の子として、一生シュクラと共に罪を背負わねばならぬ法会を想い、一人受け止めた。
憎悪は見えない刃となって、日に日に珠依姫の身体を蝕んでいった。……そう、焔祁やセキルすら気付かない程、緩やかに……そして確実に……
近付いてくる確かな“死”の足音に、一人泣いた。“死”を恐れたのではなく、自分の“死”によって心に深い傷を負うだろう人を思って涙を流した。珠依姫は思うようになる。“生きた証”を残そうと。
そんな想いから、志杏椶は生まれた。だが、いよいよ珠依姫の体調は悪化の一途を辿る。最初に珠依姫の異変に気が付いたのは、セキルだった。強く問い質して、ようやく珠依姫の告白を耳にしたとき、彼は激怒した。
「何で早く言わなかったのですかっ!」
激しく攻め立てても、ただ朗らかに微笑む珠依姫に苛立ちを覚えた。
―― 何の為に、ここまで来たと思っているっ!!
彼の中に眠っていた激情が、堰を切った様にその身を焦がした。
「焔祁があの女に……シュクラにうつつを抜かすか、それとも“野心”に燃える焔祁に貴女が愛想を尽かすか……どちらが先かと待っていたのに……」
―― まさか、貴女を二度……失う事になるとは思っていませんでした……
そんな、セキルの独白を聞いた日から間もなく、珠依姫は第二子を身篭る。焔祁は反対した。珠依姫が命を落とす位なら、そんな子はいらぬと。それでも、珠依姫は決して頷きはしなかった。
「せっかく、この世に生まれ来ようとしている命……どうして絶つ事が出来ましょう?」
どんなに周囲から反対されようと、珠依姫はその身に宿った命を捨てようとは決してしなかった。その意志の強さに、焔祁は折れざるを得なかった。それからは片時も離れることなく、焔祁は珠依姫に寄り添っていた。
無事、臨月を迎え、いよいよ出産も間近というその時、惨劇は起こった。
「死ね!」
「珠依っ!!」
シュクラの狂った悲鳴と、焔祁の叫びが重なった。鋭い痛みが、珠依姫を貫いた。その場に崩れ落ちる珠依姫を、駆け寄った焔祁が抱き起こす。
セキルに抱かれた幼子達は、ただ呆然とその場に立ち尽くした。セキルは目の前の惨劇からそっと法会と志杏椶の目を隠しつつ、無表情のまま……スローモーションで流れる目の前の風景を眺めていた。
ほんの一瞬……焔祁が珠依姫の傍を離れたその時に起こった事だった。息も絶え絶えに珠依姫は言う。
「兄を……真武大帝を呼んで下さい……」
すぐに、真武が駆け付けた。それから、真武のみが珠依姫の眠る部屋へと入っていった。長い時間がその場を支配した。その沈黙を破ったのは、部屋の中から響いた産声だった。焔祁をはじめ、法会に志杏椶、そしてセキルが一斉に腰を浮かせた。扉が音を立てて開いた。女官の手に抱かれた赤子が、命の限り声を上げて泣いていた。焔祁は我が子をその腕に抱き締めると思わず涙した。
その後ろから、真武がゆったりとした足取りで部屋の中から現れて周りを見渡して言い放った。
「我が妹、吉祥天 珠依姫の事は私が一切を請け負う。それから、この件に関しては他言無用でいるように……それが、珠依姫の意思でもある。」
その言葉に色を失くしたのは焔祁だった。身体だけで良い、最愛の妻を返して欲しいと、何度も嘆願したがそれが聞き入られる事はなかった。
公の場に、真実が語られる事はなかった。珠依姫は産後の肥立ちが悪かった為亡くなったと、訃報が流された。街が……国が、喪に付した。
そんな中、数日後シュクラが謎の流行り病でこの世を去り、密やかに葬儀が執り行われた。流行り病で、他にも数名死者が出た。
死んだのは全て、あの惨劇に居合わせた者達だった……
様々な“闇”を孕ませたまま、幕は閉じた。その“闇”を一人抱いたまま、珠依姫は今もウルドの泉に鎮められている。
どんな事情があるにせよ、珠依姫の命と引き換えに生まれて来た淘汰に対する反応は真っ二つだった。
焔祁や志杏椶のように「珠依の忘れ形見だから」と、大切に思う者。
いいや、口にこそ出さないまでも、焔祁は淘汰に対して昏い感情を抱いていた。我が子に対する愛しさと、愛する妻の命と引き換えに生まれてきたという真実が、焔祁を苛んだ。
だから、“淘汰”という名を我が子に授けた。“淘汰”とは即ち“不適切なものを排除する”事である。暗に、“お前はこの場に必要ない”と存在を否定する名を与える事で、復讐に換えたのだった。
法会のように「母上を奪った」といって、淘汰の“存在”にあからさまに嫌悪を示した方が、まだ潔かったのかもしれない。
どちらにも属さないのがセキル。淘汰はセキルが苦手だった。何を考えているのか判らない、時折見せる冷たい目が嫌いだった。
そして、形を変えて風説なりつつある、あの忌々しい惨劇。誰の目から見てもおかしかった2人の妃の死は噂が噂を呼んで、今でも様々な説が巷では飛び交っていた。どんな内容であれ、それを聞く事が淘汰には耐えられなかった。
『全く、珠依はお前に命を渡して亡くなったのだぞ?その様な恥を晒して、恥ずかしくはないのか』
何より、父 焔祁に言われるこの言葉が淘汰には堪えた。淘汰は母の声も、温もりも知らない……だから、夢の中にすら出て来る事はない母に謝りたくても、謝る術を持たない。
知りたいから……一度で良いから触れたいから、こっそり淘汰は会いに行く。近付く事すら禁忌とされる、ウルドの泉に。覗き込んだところで、深淵に眠る珠依姫の姿を確認する事は出来ないのだが。
それでも、少しでも近くで母親の存在を感じたくて。一言でいいから謝りたくて、ただその一心で淘汰は今日もウルドの泉の畔にその足を向けていた。




