第二節:うまれるこころ①
純粋な願いは
時に鋭利な刃となる
優しい歌に目を覚ました。微睡みの中その歌に身を任せていたが、傍らに視線を移した瞬間、目を見開きはっとして駆け出した。
生まれたままの姿で佇んでいる……透けるような銀糸の髪に、六枚羽根の耳を広げて、碧色と蒼色の双眸で虚空を見つめて大気に溶ける歌を唄う大切な片割れの姿を……その存在をその腕の中で確かめると、自然と安堵の息が漏れた。
歌が森から消える。
「……マナ…?」
驚きもせず、しかし不思議そうに自分を呼ぶ声に、思わず抱き締める腕に力を込めた。
「どうしたの?」
首を傾げて自身を抱く腕にそっと手を重ねる。
「羅睺が……羅睺が消えそうになって見えたんだ……」
「……マナ……」
自分を呼ぶ羅睺の声に、知らずのうちに更に力を込めた。マナの不安……その心が痛い程判る羅睺は、安心させる為に振り返った。
「大丈夫だよ、僕は大丈夫……」
だが、それが一時の慰めに過ぎない事を、2人は充分に判っていた。
「マナ、もう傷付かないで……僕なら大丈夫だから、だから……笑って……?」
そう囁きながら、そっとマナの頬を両手で優しく包み込む。
「ね?まだ温かいでしょう……?」
そう柔らかく微笑む羅睺が痛々しくて、マナはその手を取って涙を流す。
「全部、“人”が悪いんだ……」
ユグドラシルが具現化した姿ともいえようこの二人は一対の翼を共有している。
マナは“創造”と“破壊”を
羅睺は“再生”と“浄化”を
それぞれ司るものを象徴しているかのように存在の在り方もまた、真逆である。
マナが“有”の存在ならば、羅睺は“無”の具現化した姿。
―― つまり、羅睺は元々虚ろな存在である。人々の信仰心、慈悲の心が生んだ“癒し”が羅睺の存在する源なのだ。
だからこそ、“人”の生み出した“闇”は……“欲”は、確実に羅睺を蝕んでいた。
人々の“病んだ心”は、羅睺の存在を消そうとしていた。それでも、羅睺は“恨む”事はしない。ただひたすらに、“浄化の歌”を歌い続ける。世界の穢れを癒すかのように……
その事が、マナには耐え難いことであった。
「ボクには何も必要ない……羅睺以外、必要ないんだよ……」
羅睺は、ユグドラシルの傍を……ミミルの泉から離れる事が叶わない。離れれば、たちまちその身は光となって消える運命にあった。
そのことが、更にマナを苦しめていた。自分には何ら制約はない。自由の身だ。存在自体、限りなく“人”に近い。
だからこそ……だからこそ、マナは訴えた。声の続く限り、大地に訴えた。
―― これ以上、“罪”を犯すな
人の犯した罪は、やがて鋭い刃となって“月の女神”を消すだろうと……
大地の嘆きはいづれ、ユグドラシルを枯らし、天の叱責となってこの世を滅ぼすだろうと。愛鷹ヴィゾフニルと共に、地上の人々に訴えた。まずは、森の近くに集落を構えていた一族に訴えた。だが、それは予想だにしない形の結果となって現れた。
“世界”を創る力を我に
“月の女神”を我が手中に
人々は、マナから羅睺を奪おうとした。庇ったヴィゾフニルはその傷がもとで、息絶えた。ヴィゾフニルの亡骸の前で静かに涙を流しながら、羅睺は七日七晩歌い続けた。その歌は畔いっぱいに花を咲かせる事はあっても、ヴィゾフニルが蘇る事はなかった。その光景をぼんやりと眺めていたマナの中で、何かが壊れる音がした。
希望は消え失せ、その身は絶望に染まった。
―― 羅睺を、ボクの“世界”を壊すものは、何人たりとも許しはしない……と……
「憎しみや悲しみに、心を奪われてはダメ」
そんな羅睺の言葉に耳を塞いで。
羅睺も、そんなマナの心が判っていた。それでも誰も責める事は出来ず、ただ己の存在を嘆いた。鎖となりマナを縛り付けている自分の存在を、ただただ嘆いた。
それでもマナと共に生きる事を望んでいる自分の罪を、羅睺は懺悔するしか術がなかった。だから、歌い続けた。
“癒し”の歌を……全てのものに平等に“再生”が訪れる歌を……
「羅睺、ボク今日もちょっと用事があるから……出掛けて来るね?」
「マナ、もうやめて……マナが傷付くのは、もうイヤだ……」
そう、首を決して縦に振ろうとしない羅睺に、マナは俯いたまま……羅睺から視線を逸らしてポツリと呟く様に言う。
「ボクは、羅睺が消えるなんて……耐えられない……」
その痛切な心の叫びを聞く度、羅睺は何も言えなくなる。“消える”自分ではなく、“残される”マナを思うと、掛ける言葉を失った。
「行こう、ニーズヘッグ」
その言葉に呼応するかのように、湖を割って竜がその長い肢体をくねらせながら現れた。そのニーズヘッグの頭に、リスのラタトスクが飛び乗る。
そうして、マナは羅睺と視線を合わせないまま、ニーズヘッグとラタトスクと共に大空へと舞い立った。
「大地の嘆きはいづれ、ユグドラシルを枯らし、天の叱責はこの世を滅ぼす……僕はね、その叱責を受け止める為に……ユグドラシルの受ける痛みを代わりに受ける為に、生まれて来たんだよ」
遅かれ早かれ滅ぶ運命にある事を、羅睺は静かに受け止めていた。どんなにマナが足掻いたとしても、滅びの足跡はもうすぐそこまで迫っている。
そのことは、マナも周知の事実……だから、敢えては言わない。それでも、足掻くマナの心を思って、羅睺は知らず涙を流した。




