第三章 努力と孤高の魔法使い②
イチはその後も努力の練習を重ね、エースで4番として活躍し、六年生の時には全国大会に出場した。チームも強かったが、彼の実力は抜きんでていた。中学に進学しても、迷わず野球部に入部し、エースでクリーンアップを打ち、全国大会では3位にまで上り詰めた。高校は甲子園を目指したいと、県内でも有名な甲子園常連校に進学。
一年生のうちからレギュラーを勝ち取ると、念願だった甲子園出場も果たした。しかし、甲子園に出場したのは二年の夏と三年生の春だけで、どちらも強豪に初戦で敗退してしまった。だが、高校三年間の通算成績では驚異の打率5割越えを記録し、特に三年生の地方大会では7割の打率を記録して、
「イチ、お前は宇宙人じゃないだろうな?」
と監督に言われたほどだった。進路を考えたときは、先々を考え父からは大学進学を勧められた。しかし、より高度な技術を探求したいと考えていたイチは、
「大学で野球をやるより、プロに行った方がよりレベルの高い練習ができるはず。」
そう言ってプロ入りを目指した。狙うは地元中京の球団だ。球団スカウトはイチの身体の細さを懸念し、『投手よりは1位候補の外野手』と野手としてのポテンシャルを説いたが、球団は不要と判断。指名を見送った。その代わりにイチを評価したのは関西圏のある球団だった。
結果的に、それでも4位指名だったが、
「戸惑いはあるが、それでも自分を必要としてくれるプロ野球チームがあることが嬉しい。」
そう言って、ためらうことなく入団を決めるのだった。こうしてイチは念願のプロ野球選手になり、その第一歩を歩み始めた。プロ初出場は一年目の初夏だった。先発の代わりに守備固めに入ったのが最初で、しかし、翌日には初スタメンし、初安打を記録した。この1本がのちに世界の安打製造機となるの最初の1本になる。
しかし、イチの足を振る打撃フォームは首脳陣に疑問視され、フォーム改善を命じられるもこれを拒否、一年目、二年目は一軍に帯同することもあったがレギュラーとして定着することはなかった。だが、ファームでは規定打席に足りなかったりもしたが、二年とも3割後半の好記録を残している。
転機になったのは三年目だった。二軍生活の中で打撃コーチとともに打撃フォームに改善を加え、動足(軸足ではない方の足)を振り子のように振ってスイングする打法は三年目に新たな監督によって陽を浴びることになる。監督は選手登録身を本名から愛称の『イチ』にすることを提案した。類稀なるイチの才能を見出した監督はイチをレギュラーとして起用した。
理解者を得たイチは水を得た魚のように躍動し、プロ野球新記録となる69試合連続出塁のほか、日本人初となるシーズン200安打(最終210安打)を記録し、打率,382。出塁率,445(13本塁打、54打点、29盗塁)という驚異的な記録を叩き出し、最多安打と首位打者に輝いた。それ以外にも、ベストナイン、GG賞、正力松太郎賞を獲得し、打者としてはプロ野球史上最年少でMVPを獲得し、『イチ』の名前は全国に広まっていった。
翌年正月明け、関西地区を未曽有の大災害が襲った。1月17日に発生した阪神淡路大震災である。死者は6千人、負傷者は4万3千人を超え、全半壊した家屋は20万以上。震災後の写真と東京大空襲後の写真が同じと思えるほど、関西圏は焦土と化していた。イチ自身も球団寮で被災し、この年は『がんばろうKOBE』を合言葉にスタートすることになった。昨年の大活躍ですっかり神戸のシンボル的存在になったイチの活躍は、被災した地域の人々に大きな勇気と感動を与えた。このイチの奮戦ぶりは、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率という結果を見れば明らかだろう。そして、打点王と盗塁王を同時に獲得したのはプロ野球史上初の快挙だった。二年連続のMVP、ベストナイン、GG賞、正力松太郎賞。さらには入団して初めてリーグ優勝を経験した。
その後もイチは輝かしい記録を残し続けた。振り子打法は少年たちの憧れとなり、それまでは、花形だった投手や三塁手ばかりが人気だった子供たちは、こぞって外野手を目指したりするのだった。
首位打者を取った三年目から、七年連続で首位打者を獲得した。これはいまだに破られていない偉大な記録だった。翌年からメジャー挑戦するのだが、メジャー挑戦の理由について、イチは日本一を経験した1996年のシーズンオフのことをこう振り返っている。
「動機が不純なんです。単なる憧れとか、そんなの全然なかったんです。プロに入って何年かはそんなこと想像もしてませんでした。1996年シーズン、僕はスランプだったんです。その一年。スランプだったはずけど、なぜか首位打者になるし、MVPにもなるし、なんか変な感じだったんです。スランプだったのにこの結果はおかしいよなって考えて。アメリカに行ったらそんなことないだろうなと。その年に初めて日米野球を経験するんですけど。うわぁ。すごいのいるなあって思って。初めて自分の皮膚感覚で感じて、アメリカ行ったら今の僕は日本と同じような結果は絶対に出せないなって。それが実は最初の動機でした。」
おかしいでしょう? と笑顔で語ったという。かくして、日本人初のポスティングシステム(いわゆる選手を獲得するための入札制度)で西海岸の球団に入団が決まる。この時には、野手がメジャーで活躍した例はなかった。そのため、日米問わずイチの挑戦を疑問視する声もあり、あるジャーナリストは、『日本にいればスーパースターでいられたものを。』と期待が薄いことを発言し、イチの所属チームの監督ですら、『,290前後、25盗塁くらいやってくれればいいだろう。』と、大きな期待はしていなかった。
しかし、開幕戦に先発出場して2安打を記録し、その後の試合では、右翼守備中、一から一気に三塁を狙った走者を右翼から矢のような送球でアウトにしたことで大きな話題を生んだ。これは、後にイチの代名詞の一つとも言える『レーザービーム』が放たれた記念すべき瞬間でもあった。
オールスターでも両リーグ通じて一番の獲得票で選出され、八月には200安打を達成し、最終的にシーズン242安打の新人最多安打記録のほか、56盗塁で盗塁王、打率,350で首位打者も獲得し、チームのシーズン116勝に大きな貢献を果たしたのだった。太平洋中が、新たなスーパースターの誕生でわきあがったのだった。