第二章 怪獣よ叫べ!③
入団会見では、他の新人たちが憧れの選手名や具体的なプロでの成績目標を述べる中、ヒデキのコメントはマスコミを沸かせた。
「ここしばらく、サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるように頑張ります。」
この頃は、日本サッカー界にもプロリーグができ、相撲界では天才兄弟が土俵を席巻し話題を集めていた。正直、野球からほかの競技へ人気が移り始めていたころだった。ヒデキのコメントはそういった時代背景に立ち向かう決意を感じさせた。
入団後のキャンプでは、柵越えの本塁打を連発し、怪獣『ガジラ』の名に恥じないパワーを見せつけたが、直後のオープン戦では振るわず、まさかの開幕二軍スタートとなった。しかし、ヒデキは腐らずに練習を重ね、夏前に一軍へ出場すると、高卒ルーキーとしてリーグ最年少の初本塁打記録を作り、11本塁打を記録する。プロ2年目では20本塁打を放ち、チームは日本一に輝いた。三年目にもなると、チームの4番を打つこともあり、その才能をいかんなく発揮した。
ヒデキの快進撃は止まらない。四年目には本塁打王こそ逃したものの、打率.314、38本塁打、99打点と堂々の成績を残した。本塁打王も、最終戦で全打席を敬遠されて逃したものだった。再び敬遠で敗れたヒデキへの取材陣の質問にも、
「敬遠されたのは仕方がないです。タイトルを取れなかったのは悔しいですが、それよりも高校の五打席連続敬遠のほうがよっぽど悔しかった。」
と言ってのけ、さばさばした様子を見せた。その後も活躍を見せたが、六年目に膝を痛め、しばらく戦線離脱を経験した。ただ、それでも本塁打王と打点王に輝き二冠王を獲得したのは『さすがガジラ』と驚かれた。
年末に開催された日米対抗野球では、世界最強と言われたアメリカ代表に敬遠され、『ガジラ』の名前を世界中に知らしめることとなった。この時に、ヒデキにとってはある出会いがある。メジャー屈指の強打者サミーから、もっと広角を意識して打てるようにフォームを改善したらどうかと提案を受けたのだ。打者だろうが投手だろうが、プロ野球選手がフォームを変えるというのは実に勇気のいる決断になる。悪い方向に転べば、選手生命を脅かすことになりかねないからだ。
しかし、サミーのアドバイスは的確だった。サミーはメジャーで60本塁打を打つ強打者だ。この当時、世界最高峰の打者と言えた。そのアドバイスでフォームを研究した結果、ヒデキはある大記録を出すことになる。
1999年初夏。その瞬間、ヒデキは拳を突き上げて叫んだ。解説アナウンサーの興奮した声が全国放送によって日本各地に伝えられた。
「打ったぁ! 打球はまっすぐスタンドへ! これで五試合連続の本塁打となりました。」
これを皮切りに、この年に自己最高の42本塁打を放ち、球団では日本人の40本塁打以上は二二年ぶりの快挙だった。翌年も打率.316、42本塁打、108打点と大暴れした。プロ9年目を迎えるころには、日本を代表する打者として名を轟かせた。
そして、節目となったプロ十年目、日本人では8人目となる50本塁打を達成すると、シーズンオフに満を持してメジャー挑戦を表明したのだ。
『日本で続けるか、メジャー挑戦か。』
悩みに悩んだ末での決断だった。もうすっかり球団の、そして日本野球選手の顔になったヒデキである。ファンからは裏切り者と言われるかもしれない。実際にそういう人もいないわけではなかったが、ほとんどの人が、ヒデキのメジャー挑戦を応援してくれた。
しかし、さすがは世界最高峰のメジャーリーグだ。日本にいたころのような輝かしい成績を残すのは難しかった。日本プロ野球では大打者だったヒデキも、メジャーの中では中距離打者と言われた。それでもシーズン通してレギュラーとして出場し続け、メジャー挑戦七年目にして、初めてのワールドシリーズに駒を進めると、13打数8安打3本塁打8打点打率.615と大暴れし、チームもシリーズを制覇、自身もシリーズMVPに輝き、日本人としては初となる『日本シリーズとワールドシリーズ両方でMVP』を獲得した選手となったのだ。
3勝2敗で迎えた第6戦。2回に先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、二塁ベース上で大きくガッツポーズをして叫んだ。ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点を記録し、スタジアムのファンからは『MVP!』の大歓声が沸き起こったのだ。
授賞式のその日、MVPのトロフィーを受け取りながら、ヒデキはふと少年期に出会った不思議な老人のことを思い出した。
『思えば、あのおじいさんにアドバイスを受けた事で俺の野球人生は開けたと言っていい。あの人は、やがて日本人がメジャーで活躍し、ワールドシリーズでMVPを取るかもしれないと予言した。おじいさん、時間がかかったけど、俺、やりましたよ。』
雲一つないニューヨークの空を見上げ、ヒデキは当時のことを思い出した。ヒデキは日本プロ野球で10年、メジャーリーグで10年、実働通算20年を選手として戦い抜き、日米通算2643安打、507本塁打、打率.293、1649打点を記録し、引退した翌年には、恩師であるミスタープロ野球とともに国民栄誉賞を受賞した。
ヒデキの日米での活躍は、日本野球界を間違いなく前進させ、怪獣『ガジラ』の名は永遠に野球史に刻まれたのである。
第二章 怪獣よ叫べ! 終わり
モデル選手データ・松井秀喜
日米通算成績
出場試合 2,504試合
打数 9,014打数
安打 2,643安打
本塁打 507本塁打
打点 1,649打点
盗塁 59盗塁
打率 ,293
NPB
首位打者:1回(2001年)
本塁打王:3回(1998年、2000年、2002年)
打点王:3回(1998年、2000年、2002年)
最高出塁率:3回(1998年、2000年、2002年)
最優秀選手:3回(1996年、2000年、2002年)
ベストナイン:8回(1995年 - 2002年)
ゴールデングラブ賞:3回(2000年 - 2002年)
野球殿堂競技者表彰(2018年)
正力松太郎賞:1回(2000年)
月間MVP:7回(1994年4月、1996年7月・8月、1998年5月、2001年9月、2002年7月・8月)
日本シリーズMVP:1回(2000年)
MLB
ワールドシリーズMVP:1回(2009年)
月間MVP:1回(2007年7月)
週間MVP:4回(2003年6月、2004年5月、2005年6月、2011年7月)
月間新人MVP:1回(2003年6月)
MLBオールスターゲーム選出:2回(2003年、2004年)
その他
根上町民栄誉賞(1998年)
能美市市民栄誉賞(2014年)※受賞者第1号
石川県県民栄誉賞(2000年)※受賞者第1号
国民栄誉賞(2013年)
ここまでお読みいただきありがとうございます。
\(^o^)/
第2章はその圧倒的なパワーとエネルギーで世界を沸かせた『松井秀喜』さんをモデルにしたお話でした。
あの五打席連続敬遠の時、口惜しさを出すまいぞと無表情を貫いた姿や、高校生とは思えない堂々とした風貌を覚えています。
東京ドームの集合スピーカー直撃弾は現地で見てましたが、あそこまで人間の力で打ち上げられるってすごいなと驚愕しました。
僭越ながら、
作者のモチベーション向上と、
これからの奮起に期待して、
ぜひ『いいね』『ブックマーク』『評価』での応援をお願いいたします!
水野忠