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第一章 竜巻を起こせ!③

ここまで読んでいただいてありがとうございます。

\(^o^)/


第1章はトルネード投法で世界を震撼させた『野茂英雄』さんをモデルにしたお話でした。

最初に見たときにはあまりに特殊なフォームに目を丸くさせたのを覚えています。


なんせストレートがすごかった!


僭越ながら、

作者のモチベーション向上と、

これからの奮起に期待して、

ぜひ『いいね』『ブックマーク』『評価』での応援をお願いいたします!


水野忠

 ヒデはそのまま地元大手企業に就職し、会社の野球部へ入部する。社会人野球だ。ここでは高校までとは違って、限りなくプロに近いレベルの人たちが集まっている。ここから結果がすべてだ。好きだけではやってはいけない。果たして自分が通用するのかどうか、ヒデは不安を払拭するために、ますます自分を鍛え上げていった。


 だが、自身の心配をよそにヒデの投球は社会人野球界を席巻することになる。磨きのかかった投球フォームから繰り出される剛速球に、フォークやスライダーなどの変化球を身に着け、向かうところ敵なしだった。社会人野球代表として、オリンピックにも出場して銀メダル獲得に貢献する。



 今日は運命のドラフト会議。日本プロ野球機構に所属する12球団が、高校、大学、そして社会人から有望な選手を指名してスカウトする。ここまでの実績は十分で、ヒデの指名は確実視されていた。


「おいおいおいおい!」


 各社のマスコミ取材陣が思わず声を上げるような出来事となった。12球団のうち、実に8つもの球団がヒデを1位指名したのだ。8球団というのはドラフト会議制を取り入れてから最多の指名数だった。それだけヒデの投球がプロで通用すると判断されたのだ。


 そして、くじ引きを制して指名権を得たのはある関西圏の球団だった。ヒデはすぐに入団を決めた。契約金は史上初の1億円を突破し、その期待の大きさをうかがわせた。ヒデは契約時に新人選手としては異例の申し出を行った。


「私の投球フォームは奇抜かもしれないですが、これが一番私が投げやすく、力を発揮できます。ですので、投球フォームの変更をしないという条項を付けてください。」


 契約陣は驚いたが、ヒデの投球フォームはすでに実績がある。契約書には希望通り、投球フォームに関して変更をさせないという条項が付け加えられた。



 プロ野球選手となったヒデの活躍はルーキーイヤーから始まる。なかなか勝ち星には恵まれなかった四月の終わり、当時の日本記録となる1試合17奪三振を奪ってプロ初勝利を完投で勝ち取る。その独特のフォームから放たれる剛速球、加えて消えるように落ちるフォークボール、切れ味抜群のスライダー。終わってみれば、チームの勝ち頭として29試合に登板し、新人ながらも最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手四冠を独占したほかに、ベストナイン、新人王、沢村栄治賞、MVPとあらゆるタイトルを取得した。


 球団はヒデの投球フォームが独特なことと、新人とは思えない活躍ぶりに、その投球フォームの命名を公募。そして、マスコミ各社の一面に大きくその言葉が掲載された。


『トルネード投法』


 まさしく竜巻を思わせるその投球フォームは、四年連続で最多勝と最多奪三振を獲得する。まさに竜巻旋風が巻き起こったのだ。



 その日、オフでハワイでのトレーニングを行っていたヒデはロードワークに出かけた。海岸沿いを走りながら、高校の時に出会った老人のことを思い出す。あの老人は、トルネード投法をマスターすれば、世界にも通用する選手になれると言った。あの当時には夢のまた夢であったが、ここまで実績を作ってきたヒデにとって、それは夢ではなくなるかもしれないという自信があった。


「俺が、メジャーにいく?」


 夕日の海岸を見ながら、ヒデは自分に問いかけた。行けるかどうかわからない。自信はあるが確信ではない。来シーズンは26歳、メジャーに行くなら早い方がいい。でも、今まで日本人がメジャーに行って活躍した事例はない。昭和三九年(1964年)に日本人初のメジャー選手が出たが、実働は二年で5勝1敗9セーブ。主に中継ぎでの起用であった。ヒデは先発完投型の投手だ。今まで前例がないことにチャレンジすることになる。


 結局、この時に結論は出ることはなく、そのまま次のシーズンを迎えた。この年、ヒデは春先から肩に違和感があった。その違和感は改善されることなく、夏に痛みへと変わり、シーズン後半は治療に専念することになった。四年続いた最多勝と最多脱酸審の記録は途切れ、静養しながらヒデは考え続けた。


「プロだって怪我をする。いつまでも今のまま活躍できるかわからないし、できれば身体がピークの今、チャレンジしておきたい。」


 そう考えたヒデは球団へメジャー挑戦を打診し、球団は渋々ながらそれを了承した。



 シーズンオフの年末、ヒデは単身ロサンゼルスに飛んでいた。慣れない英語を駆使し、時にはエージェントに通訳をお願いして、二月半ばにどうにかこうにかドジャースと契約にこぎつけた。ドジャースでの年俸は日本にいたときの1/10以下になってしまったが、そんなことはどうでもよかった。世界最高峰の舞台で自分がどれだけ戦えるのか、ヒデの関心はそれだけだった。


 ヒデがメジャーに渡ったその年、周りの下馬評を覆して13勝を挙げ、アジア人初の新人王に輝いた。メジャーの強打者たちから奪った三振は実に236を数え、奪三振王にもなったのだ。そして、二年目のジンクスを吹き飛ばしさらに躍動した。


 残暑が残る九月のある日、チームメイトがマウンドに集まってヒデの背中をたたいた。


「がんばれ、あと一人だぞ。」

「ああ、わかってる。」


 守備に散ったチームメイトに見守られながら、ヒデはいつもと変わりなく身体を目一杯に捻らせ、そして、一番高いところからボールを投げ込んだ。


 一瞬、間があった気がした。そして球場中、それこそ敵味方関係なく大歓声が上がった。今日のヒデは4四球8奪三振。そして、被安打はゼロだった。アジア人初の無安打無得点試合ノーヒットノーランをやって見せたのだ。


 歓声に包まれながらウィニングボールを受け取ると、ヒデは空を仰いだ。その時、かつての少年時代に、


『君ならできるさ。日本人だって、アメリカでエースになることができる時代が来るんだ。ノーヒットノーランだって夢じゃないさ。』


 そう言ってくれた老人の言葉がよみがえった。


「名も知らないおじいさん。おれ、やりましたよ!」


 どことなく天高くボールを掲げて歓声にこたえた。ヒデはその後も活躍し、40歳で現役を引退するまでに日米通算で201勝を挙げ、奪った三振は実に3,122に上った。2度のノーヒットノーランを記録したヒデは『世界のトルネード』として伝説になったのである。



第一章 竜巻を起こせ! 終わり



モデル選手データ・野茂英雄

日米通算成績

登板数 462試合

勝利 201勝

敗戦 155敗

奪三振 3,122奪三振

防御率 3.86


NPB

最多勝利:4回(1990年 - 1993年)

最優秀防御率:1回(1990年)

最多奪三振:4回(1990年 - 1993年)

最高勝率:1回(1990年)


沢村栄治賞:1回(1990年)※パ・リーグ史上初

最優秀選手:1回(1990年)

新人王(1990年)※最優秀選手との同時受賞は史上2人目

ベストナイン:1回(投手部門:1990年)

野球殿堂競技者表彰(2014年)

月間MVP:2回(投手部門:1990年6月、1992年8月)


MLB

最多奪三振:2回(1995年、2001年)※1995年はアジア人史上初、日本人史上初の獲得


新人王(1995年)※アジア人史上初、日本人史上初の受賞

月間MVP:2回(投手部門:1995年6月、1996年9月)

無安打無得点試合:2回(1996年、2001年) ※1996年はアジア人史上初、日本人史上初の達成、両リーグ通じての達成は史上4人目

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