第一章 竜巻を起こせ!①
一平は光の中で目を開けた。最初はまぶしくて何も見えなかった。目が慣れてくると、なんだか懐かしい喧騒が耳に聞こえてきた。道路を走る車の音、そして、どこからか聞こえてくる吹奏楽の音楽、合唱部の歌声、何かのスポーツの掛け声など、若い声がごちゃ混ぜになったここは、どこかの学校近くの路上であった。
音や声に導かれるように、一平はグラウンドへ足を運んだ。さっき旅だったとは思えないように身体が軽い。久しぶりにスタスタと歩けることに感動しながら移動すると、高校生だろうか、グラウンドでは練習試合をしているようだった。これは夢なんだろうと、今際に神様がじっくりと野球を見せてくれているのだろうと勝手に解釈した。グラウンドを見通せるネット裏に移動して、花壇の縁に腰を下ろす。
「ああ、やっぱりいいものだな。」
グラウンドから聞こえてくる金属バットの音、球がグラブに吸い込まれる時の皮の音、そして、全力で走る球児たちのスパイクが地面を蹴る音、風に乗って漂ってくるのは、グラウンドの土や芝生の匂いだ。かつて、一平もその場所に立っていたことがあった。しばらくの間、何もかも忘れて目を閉じ、グラウンドの音や風や匂いを楽しんだ。
「ドンマイ! 締まっていこーぜ!!」
掛け声に目を開けると、マウンドにいる少年が肩で息をしていた。次の打者を迎えて、大きく振りかぶって投げていく。だが、一生懸命投げているもののどうも制球が定まらないようだ。身長も大きいし、投げる球もそこまで遅いということはなかった。ただ、一平はその少年の尻に見入ってしまった。
「いい尻をしている。」
投手に必要な大きなお尻。だけれども、細身の身体の中で尻が大きいためにバランスが取れていないのだ。筋力不足のために下半身が安定せず、せっかくいい身体のバネを持っているのに制球が定まらないのだ。
見始めてから3つ目の四球を与えると、今度は甘く入った球をジャストミートされて、舞い上がった白球は左翼手の頭上を越えて外野を転々とした。応援に来ていた生徒や保護者達からため息が漏れる。2点が追加され、次の打者に四球を与えたところで、ベンチから監督が出てきて交代を告げた。
少年はマウンドを降りると、監督から何か指示を受け、グラブをカバンにしまうとグランドを出て走り去っていった。下半身の鍛え方が足りないのは監督にもわかっているのだろう。走りこんで来いとでもいったのかもしれない。
一平は立ち上がって少年の後を追いかけようとした。しかし、いかんせん年寄りの足である。まだ元気だったころのように動かせてはいるが、若い脚には適うはずもない。みるみる距離が離れていき、すぐにその背中は見えなくなった。
「神様も気が利かないな。こんな夢を見せてくれるのなら、せめて若い時の身体まで戻してくれればいいものを。」
すれ違う町の人に、野球のユニフォームを着た少年が走っていかなかったか聞き込みをしながら歩いていると、グラウンドの近所にある用水路にかかった小さな橋のところで、もたれるようにして用水路の流れを眺めている少年を見つけた。
「こんにちは。」
声をかけると、少年はいささかいぶかしげな表情を見せたが、すぐに帽子を取り、
「ちわっ!」
と挨拶をしてくれた。うん。気持ちがいい挨拶だ。そう思いながら一平は少年の隣に立ち、同じように用水路を眺めた。
「見事に打たれちゃったね。」
「あ、、、」
見てたのか。というように少年は声を漏らした。
「俺、コントロールが悪くて。いつもフォアボールでランナー溜めて、ストライクを取りに行った球を狙い撃ちされるんです。」
初めて会う老人にこぼすくらいだ。よっぽど打たれたのが堪えたのだろう。欄干の手すりにおでこをつけて、大きな大きなため息をついた。懐かしいものだ。一平も若かりし頃、チャンスで凡退したり、ピンチでエラーした時は、自宅のベランダで星空を見ながらため息を吐いて悔しがったものだ。
「ははは。そういうこともあるさ。でも、君の球は高校生にしちゃずいぶん速かったと思うよ?」
「そうすか?」
「ああ。私も若いころは野球に打ち込んだもんさ。でも、高校の時にあんなに速い球を投げられるピッチャーはなかなかお目にかかったことはなかったなぁ。」
そう言うと、少年は眼を細くして笑った。まだあどけなさの残る日に焼けた笑顔は、一平の孫や息子の若いころを思い出して気持ちがよかった。曇りのない、さわやかな青春の笑顔。いいものだ。
「ふふふ、おじいさんが高校の頃って、ずいぶん前の話ですね。」
「そうだねぇ。」
一平も釣られて笑った。
「走りこんで来いって言われたのかい?」
「はい。下半身鍛えろって監督に言われました。」
「そうだな。君は足の太さに比べてお尻が極端に大きい。だから、足を上げた時にお尻でバランスを取ろうとしても、足が踏ん張れずにブレてしまうんだ。鍛えるなら、足腰だけでなく、下半身に重点を置いたトレーニングもしてみるといい。」
そのアドバイスは、的を射ていたのか、少年は感心したようにうなずいてくれた。
「ありがとうございます。俺、とにかく走り込んでってことしか頭にありませんでした。このデカケツはいつも笑われるんで嫌いだったんです。」
「いやいや。君のお尻の大きさは武器になると思うよ。少し身体を捻って、その反動で投げられるくらい鍛えれば、立派なプロ野球選手、いや、世界に通用する投手になれるさ。」
「ええ? それは無理っすよ。」
少年は困ったように笑って見せた。この頃は、まだメジャーリーグのことを大リーグと言っていた時代で、プロならアメリカの大リーグ、アマチュアならキューバが王者とされる時代だった。日本野球はいつも二番手三番手で、オリンピックもメダルが取れればいいくらいの時代のはずだ。
「君ならできるさ。日本人だって、アメリカでエースになることができる時代が来るんだ。ノーヒットノーランだって夢じゃないさ。」
「無理むりムリ! 日本人が大リーグに行くだけでも難しいのに、向こうでノーヒットノーランなんてできるわけないっすよ。でも、そういう時代が来たら面白いっすね。」
用水路の流れに目を移して、そんな時代が来ることを想像したのか、なんだか楽しそうに微笑んだ。そして、一平と話して気分転換ができたのか、
「よし。おじいさん、ありがとうございました。気持ちが落ち着いたのでロードワークに行ってきます。」
「おお、怪我しないように頑張ってな。」
「あざっす!」
少年はもう一度一礼すると、再びランニングへ戻っていった。
「身体を捻って、その反動で勢いよく投げるか。おもしろそうだな。」
少年はロードワークを終えてグラウンドに戻った。そのころには試合は終わっていて、みんな引き上げた後だった。この球場から高校までは走って数分の距離だ。スコアボードは3対12と記録されていた。どうやらあの後も立て直せなかったようだった。