妊婦が倒れて救急車を呼んだら父親と間違えられて分娩室
訳あってマイカーが御陀仏こいたので、徒歩でバス停まで行くはめに。飲酒運転リーマンの顔は一生忘れないからな畜生め……。
「……ぅぅ」
バス停の手前、女性が鞄を持ったまま倒れていた。しかも妊婦だ。見るからにお腹が大きい。
ただの太っている人ではない。顔や脚は細く、お腹だけが大きい。間違いなく妊婦だ。
「大丈夫ですか!?」
「……ぅぅ」
妊婦さんは肩で息をして、ただうめき声を発するのみ。これは危険と判断した俺は速やかに救急車を呼んだ。
救急車が到着するまでの間、近所の人達がなんやかんやで手を貸してくれた。この令和のご時世に人の温かさを感じた。スマホ向けて来る奴はすべからく地獄に落ちて閻魔に掘られろ。割とマジで。
「お待たせしました!!」
救急車に妊婦さんが乗せられる。
「お父さんも早く!!」
何故か救急車の人に旦那と間違えられた。
「いや、俺は……」
周りを見る。
しかし皆が『はよ行けや』みたいな顔で圧をかけてくる。この令和のご時世にここまで人々の思いが一方向に向かえるの、マジで凄い。
仕方なしにとりあえず乗って、中で説明をすることにした。
「あの、私この人の旦那さんではないです」
「ええっ!? 今更言われても……!!」
何故か怒られた。まあ、確かに言えばまた違った結果があっただろうが……それを今言われても……。
「……ぁ、あなたでいい」
妊婦が痛みをこらえながら、俺を見て確かにそう言った。
「えっ?」
「背中さすって……」
「えっ?」
「背中!! さすって!!」
鬼気迫る顔で妊婦が声を荒げた。
「産気付くと余裕が一切無くなります。さすってあげてください」
それ、俺の仕事かな。そう感じながらも妊婦の顔が怖くて背中をそっとさするしかない俺。
「もっと上!!」
「はい!」
「そうそうそう!! あーいいわー!! あなたテクニシャンよー!!」
背中を摩るだけでテクニシャン呼ばわりされ、車内に渇いた笑いが漏れる。
「はい、今準備しますからもう少しだけ待っててねー」
「あ゛ーっ!!」
分娩室。俺は見知らぬ妊婦の背中をさすり続ける係と化していた。
「はーい。正面向けますよー」
背中をさする役割から解放され、そそくさと退室しようとするが、なんか分からない器具に間を挟まれて身動きが取れなくなってしまう。
「お父さんはそこから奥さんの手を握ってあげて下さいねー」
「いや、俺は……」
「に゛き゛っ゛て゛!!」
「いや、俺は……」
「本気でやらないと、アームレスリング世界チャンピオン並の力で腕折られますから、気を付けて下さいねー」
「…………」
「吸ってー。吸ってー。はい吐いてー!」
「あ゛ーっっ!!」
「いだだだだだ!!!!」
見知らぬ妊婦が分娩に乗じて俺の手をへし折ろうとする。妊婦よりも俺の身の安全を優先して欲しい。
「オギャア! オギャア!」
「はい産まれましたよー!」
「あー……良かった……」
ようやくだ。ようやく帰れる。
「お父さん、元気な女の子ですよ!」
「いや、俺は……」
「み゛て゛!」
「…………濡れたサルみたい」
赤子の検査の間、一度分娩室から出た隙に帰ろうと歩き出した。謎の巻き込みもこれにてお終いだ。
外はすっかり暗くなっていた。今日、自分に何の予定があったのか、思い出すのに少しだけ時間がかかった。
──プルルルル!
妊婦のカバンから着信音が聞こえた。
「……俺は帰るぞ」
──プルルルル!
「…………帰るってば」
──ピッ。
「……はい」
【夫】と一文字表示された画面に一つ睨みをきかせ、薄っぺらいスマホに話しかけた。
「──なんか電話あったけどなにー?」
ガヤガヤと賑やかな音の中から、陽気な声で男が話しかけてきた。
「──ザワちん、それローン!!」
「──マジかよー!!」
ジャラジャラと鳴る音。どうやら麻雀の様だ。
「…………」
──ピッ。
ゆっくりと、スマホをカバンの中へ放り投げた。
「お父さん。検査終わりました。このまま部屋に移動になります。面会時間の都合もありますので、あと1時間くらいでしたら大丈夫です」
「……そう、ですか」
足は自然に部屋へと向いていた。
「……あ、おめでとうございます」
「…………」
妊婦は出産が終わり、ようやく冷静さが戻ったのだろうか、気まずそうに俺に会釈をした。
「……濡れたサルは訂正します。すみません」
「いえ、私もそう思いましたから」
まだ目も開かぬその赤子の安らかな顔に、二人の微笑みが注がれた。
「旦那さんから電話がありました」
「……」
「ですが声を聞いたらムカついたので切ってしまいました。すみません……」
「いえ……あの人はそういう人ですから」
一瞬で場が暗くなるのが分かった。
「……あ、あのー……」
「?」
「これは別に変な意味ではないんですが……宜しければウチで暮らしませんか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。年収はそこまでないんですが……部屋は空いてますので……その……これも何かの縁ということで……ダメですか?」
堰を切ったかの様に、気が付けば嫌がっていた面倒事に、自分から首を突っ込んでは巻き込まれようとしている自分が居た。
正直、ここまで来たら他人事ではないだろう。多分。
「……名前を」
「この子の名前を一緒に考えて貰えませんか……?」
元妊婦さんは、少し申し訳なさそうに頬を指で掻いた。