元暗殺者のジジィ、大学生になる――惚れられても信じません
命中、終わったな。
これで、もう、わたしの暗殺生活も終わりか。
暗殺対象は中央アジアの紛争地帯のゲリラの腹心。数千人の死に関わっているとされる人物。だが、小物だ。先進国の政治家をやるよりかは、楽だったな。約1.5キロか。
撃ち終わった狙撃銃を片付けていく。見つかる可能性がある岩肌だらけの山岳地帯から、撤退しないと。
「これから、どうする予定なの」
「とりあえず、学生というものを経験しようと思ってね」
無線の向こうで、彼女――コードネーム不知火がクスッと笑っているのが分かる。冗談だと思っているのだろう。わたしが、一般人の学生レベルの教養がないわけないのだから。
「高卒認定試験ぐらいは偽造があるし。学士も偽造があるけど」
「いや、大学生でいい。院生は、老体には辛そうだからな」
「まだ早いでしょう。数学教授の暗殺を思い出すね」
「もう、だいぶ、昔だ。無駄話は、やめよう」
帰ってくるまでが、暗殺だ。もし帰れなければ、わたしの存在は、抹消されるのみ。
◇◇◇
西川学は、D大学に合格していた。京都市内の鴨川沿いの北部にある大学。18歳、19歳が受験合格を喜びで、若々しい期待に胸を膨らませている。
その中で西川は、明らかにもう50代を過ぎて、もしかしたら60代かという風貌。まさか大学生とは思われない容姿。普通に見れば、教授か事務職員と思われるだろう。
「日本か、何年ぶりか」
久々の日本、それに春ということもあって、ソメイヨシノの花びらがピンク色に咲き誇り、まるで入学を祝っているようだ。西川は、さわやかな気分だった。がーー。
「いいって言ってるでしょ。サークルには入らないから」
騒がしい中でも、鋭い否定の声は響くもの。
西川は、そちらの声がする方を見る。
「いいだろう。新歓の前に。ちょっとだけだからさ。話だけでも。これから時間あるんだろう」
「それは、友人に言ったんです。あなたに使う時間じゃない」
おやおや、無粋な。こういうめでたい日に、嫌な思い出を残すのはダメということを知らないのか。せめて、もう少し後の日で、丁寧に新歓に招くべきなのに。青田買いはよくありませんね。
「そこの学生、しつこい男は嫌われますよ。やめてあげなさい」
まったく、みんな見て見ぬ振りとは、それも大事なことだが。誰も止めなければ、治安も悪くなるというものだ。法や決まりを守らないものが得をするようになると、国家は疲弊して、法治国家が破綻してしまう。イェーリングの『権利のための闘争』でしたかね。
「カンケーないだろっ。なぁ、なぁ、いいだろう。ちょっと友人待つ間だけでもさ。いいところ知ってるよ、俺、この辺詳しいし」
はぁ、乱暴な言葉で、人が怯むと思っているのか。もう中学生ではないのですよ。
仕方ない。ちゃんと止めますか。
西川は、無視して女性に言いよる男の肩を掴む。
「ああ、なんだよっ。こいつのおじいちゃんかよ。カンケーねぇんだろうがっ。うっとうしいぞ」
これほど、そのまま彼女がお返ししたい言葉はなさそうですね。うっとうしいのは、どちらなのか。
さて、暗殺するわけにはいきませんが、少し取り押さえる程度はかまわないでしょうか。
西川は、肩の手においた手にさらに力を込めようとした。
「おじいちゃーんっ!!知らない人が、ずっと付きまとってきてーー」
女子大学生は、見事に大根な演技をし始めた。少し予想外だったから、肩を掴んだ手を外す。女性は、西川の方に走ってきて、後ろに隠れた。
しきり直しか。
「さて、孫に、何かようかな。関係のない学生くん」
「くっ。はっ、まだおじいちゃん離れもしてないとか。小学生からやり直せよ」
捨て台詞も、なかなかに……いや、いいか。
今どきの大学生は、このレベルなのか。
いやいや、良くないですね。目立つ彼で、判断してしまうのは。大多数は、あんな呆れる行為はしてないようですし。
男子学生は、こちらに背を向けて、歩き去っていった。
「あ、ありがとうございます。あの人、ほんと、しつこくて」
丁寧に頭を下げられた。
「注意してくださいね。ああいうのは、また一人でいるときにからんできかねないですから」
「はい。えっと、新入生のおじいちゃん、それとも事務員さん」
「はっはっは、新入生のおじいさんです。ただし、本当に、その通りの意味で」
目の前の彼女は、頭にハテナを浮かべるように、小首をかしげていた。
西川学が次に彼女と再会したのは、新入生への学部別の説明会の時だった。西川は、大講義室で、若い学生たちが大勢いる中、1人、もうどう考えても定年してそうな出立ちだった。
「おじいちゃん、新入生だったんですね」
「同級生ですね。文学部で」
「そうですね。平安文学の勉強がしたくて」
「殊勝なことです」
「おじいちゃんは?」
「老人の暇つぶしというやつですよ。まだ何をするかも決めてないのですから」
「学びなおしってやつですね。いいなー、わたしも老後はそうしようかな」
「まだ老後について考えるには早いですよ」
あはは、そうですよね、と言ってるうちに、講義室前のプロジェクターのスクリーンが降りてきて、前に立つ学部長が学部生への説明を開始した。
本当に、暗殺者としての日々は終わったんだな。
周りの騒がしい若々しさに当てられたか。西川は、説明会の話をぼんやりと聞いていた。
用済みとして消される覚悟もしていたのだが。襲ってくる刺客もなければ、監視すら感じない。不思議なものだ。傭兵のような組織だったから、契約が切れればそれまでということか。自分が実行した暗殺対象の情報しか持ってはいないわけだし、その暗殺の証拠も残してはいない。自分が真相を語るとか言ってもボケた人間の戯言とみなされるだろう。
「おじいちゃんは、バイトとかサークルとかするんですか」
カリキュラムや諸注意の説明会が終わると、彼女はバッグに先ほどの説明会の資料をしまっていた。
「そうですね。いまのところは、交流のために、軽い運動でもしようかと思ってます。バイトは、まだ貯金もありますから」
「おじいちゃん、運動して大丈夫なの。元気そうだけど、さすがに」
「軽くですよ。スポーツは無理ですけど、散歩ぐらいはできますよ」
「あ、京都だし、お寺巡りとかそういうサークルはありますよね。そういう運動。高校の部活のイメージが強くて」
「あなたは、何かする予定がありますか」
「わたしですか。わたしはとりあえず喫茶店か家庭教師のバイト探しして、うーん、何か日本文化系のサークルにでも入ろうかなってぐらいです」
「そうですか。頑張ってくださいね」
「それでは。あ、わたしの名前、芹沢菜穂です。ホですよ、オではなくて。たまに聞き間違えられるのでは。ではでは」
彼女は自分の名前だけを述べて、教室の後ろのドアから去っていった。おじいちゃんはおじいちゃんということなのでしょう。西川はこれはこれで楽な面もあると思った。
「おお〜!!マジかよ」
西川学はウエイトリフティグの活動をしているサークルに入ることにした。暗殺者をしていた頃のジムトレと雰囲気が似ていた点が良かった。京都散策のサークルも悪くはなかったが、集団でそういう場所を巡るのは試しに行ってみて、性に合わないとわかった。
「おじいさん、すごいな。100kg超えてるだろ」
「マジっ。何歳の肉体なんだよ」
西川の脱いだ上半身を見た同じサークルメンバーは、度肝を抜かれていた。ダヴィデの彫像のような肉体美が老人のような風貌の西川の服の下に隠れていたのだから。
あげたウエイトをおろして、周りの大学生の視線に気づいたように反応する。
「いやはやお恥ずかしい。昔取った杵柄ですよ」
「おじいさん。若いとき何キロあげてたんすか。マジありえねー」
「もうあれだよ。実は特殊メイクで中身はその分野の有名人のドッキリ」
「ギネス狙えんじゃない。100歳での重量挙げ記録とかさ」
盛り上がる周りにこたえながら、西川は水分補給をして、彼女の方へといく。
「芹沢さんは、やらないんですか」
「わたしはマネージャーですから。でも、まさか、おじいさんが武術の達人だったとは」
芹沢菜穂は、このウエイトリフティングサークルに週に一回参加するメンバーになっていた。他には踊りのサークルに入っているようだ。ダンスではなく、着物で舞う踊りだそうだ。
「ただの重量挙げですよ」
「いえいえ、これは格闘技の肉体ですよ。うちのお兄ちゃんが言ってましたから」
パシャパシャと撮っていた写真を見せていたようだ。顔は映さないようにお願いしておいた。別に問題はないだろうが、暗殺者をしていたので、あまり顔が媒体に残るのは好ましいとは思えなかった。
「おじいちゃん、そういえば、今日引っ越しなんですよね。何か手伝いましょうか」
「いえ、別にかまいませんよ。荷物も少ないですから」
「でも重いものー、あー、大丈夫そうですけど、ギックリ腰とかもありますし。手伝いますよ。おせっかいさせてください。入学の時、助けてもらったお礼です」
「それではお言葉に甘えましょうかね。わざわざ今日の予定をあけているようですし」
「ば、バレてました」
「チラッとカレンダーの予定表の画面が見えてしまいまして」
「おじいちゃん、視力良すぎですって。プライバシーっ」
「ここですか」
京都市の北東付近。大学生も多く住んでいる地域。三階建て程度の古いアパートの一室。荷台のあるレンタカーで西川は引っ越しをしていた。助手席には芹沢菜穂が座っていた。
アパートの近くのコインパーキングに車を停めた。
「もっといいところに……」
アパートを眺めながら、芹沢菜穂は小さく呟く。
「仮宿ですから。安くすませたいのですよ。それに、わたしは女性ほど防犯は要りませんから」
「ご、ごめんなさい。聞こえてました。おじいちゃん、耳も良すぎ。他意はないですから」
西川たちは、カツカツと階段を上がって、緑がかかったドアの鍵を開ける。
中に誰かいる、と西川は気づいたが、気配を隠している様子もないから気にしないことにした。
「お邪魔してまーす」
女性が一人、小さなちゃぶ台でコーヒーを飲んでいた。
何らかの資料らしき封筒が台の上に置いてある。
「おじいちゃん、二人暮らし?」
「愛人の、八代めぐりって言います」
不知火だった。いったい何をしているのだか。
監視役なのだろうか。組織が彼女をまだ手放すわけはないし。
西川は、不知火を睨め付けるわけにもいかないのでーー。
「冗談ですよ。彼女は前の職場の同僚です。鍵は閉めておいたと思いましたが」
動揺をしている芹沢をフォローしながら、疑問を口にした。
「歳をとると忘れるよねー」
不知火は任務の時とは違った口調で、やたら軽い。
見た目詐欺で若々しい不知火。以前あったときよりも若く見える。10代ですっと頑張ってメイクすればいけそうば容姿だ。実際の中身はーー。
「せっかく引越しの手伝いに来たのにいらなかったみたい。もう新しい愛人をつくちゃって」
「彼女は同じ大学の生徒です。そういう関係ではないです。彼女にも失礼です」
それで本題を言えっと視線で不知火を見る。
「とりあえず、荷物運ぼっか」
不知火はそんな視線は当然無視して立ち上がった。芹沢という外部の人がいるのだから、答えるわけはなかった。
引っ越し作業を終えて、芹沢は帰って行った。
何か二人で話があることを汲んだようだ。
「それで、なんだ。要件を言え」
「何も。休暇」
嘘だ。西川は、壁に背を預けて、タバコに火をつけそうになって、やめる。もう、暗殺もしない。酒とタバコもやめたはずだ。
「タバコ、持って帰ってくれ」
西川は封を切って、一本取った箱を投げ返した。
不知火はことも投げにキャッチした。
「あれ、これ好きじゃなかった」
「やめたんだ。足を洗うついでに」
「エスタフィードが生きている」
「……それで」
西川は一瞬顔を歪めて、なんでもないような顔をした。かつて西川が殺害したはずのターゲットの名前だ。おそらく影武者だったのだろう。情報部の失敗であって、狙撃を担当した自分のミスではない。
「現在、日本にいる。数日後、始末する」
「すればいい。もうわたしには関係がない」
終わったことだ。
「あなたに撃ってほしい」
「自分は一般人の学生だ。人殺しなんて、とてもーー」
「日本は銃に厳しくてね」
「警護は雑だ。簡単にやれる。狙撃を警戒なんてしていない。素人でも撃てる」
最近も政治家が素人の暴漢に射殺されている。先に敵を撃ち殺すという判断もできないのだから。取り押さえるより、早く済む。もちろん、周りの人間の被害を無視すれば。
「じゃあ、断っておくわ」
不知火はあっさりと自身の要求を下げた。
「ただの顔を見る口実よ。今さら本気であなたに狙撃をさせようとは思っていないわ」
「そうか。今後はやめてくれ。無駄な情報を知れば、死が近づく」
「嘘だから。大丈夫」
不知火はそう言い残して、自分のティーセットを片付けて、バッグに詰めた。
「おい、盗聴器を忘れてるぞ」
「あら、ごめんなさい」
ドアが閉まると、西川はちゃぶ台の上に置いて行かれた封筒の封を切った。
「おじいさんも男の人ですし。わかってます」
「いえ、もうそんな年齢では」
「ひゅー、じいさん、まだ現役なんだって」
「今度、銭湯に行こうぜ」
「おい、やめろ。もし負けてたら……」
大学生は性に旺盛な年齢ですね、西川はトレーニングを終えて、ストレッチをしていた。
封筒の中身は、任務内容だった。
わたしは、どうやら狙われているそうだ。どこから情報が漏れたのか、わたしの素性を知る者がわたしの暗殺を企んでいる。そして、わたしは、それを返り討ちにしなくてはいけない。
面倒なことだ。組織はきちんとわたしの身元をクリーニングしたはずだったが。
どうやってわたしを殺すつもりか。狙撃はあまり考えづらい。一般の学生を狙撃は目立ちすぎる。となると、近寄ってきて刺殺か、もしくは毒殺か。
「おじいさん、プロテインどぞ」
芹沢がシェイカーに入れたプロテインを渡してくる。もしこれに毒を入れたら一発だが、犯人も一発で確定する。それに芹沢という人間には明らかに裏の人間特有の匂いがしない。
西川は気にせず、プロテインを飲む。
飲み終えた。
西川は適度な緊張感を持って、学生の日々を過ごしていた。
そんなある日のこと。
西川が学生として使っているSNSに芹沢から連絡が来ていた。
「彼女は預かった。返してほしければ、今日深夜12時に大文字山の山頂に来い」
西川はやけにチンピラめいた暗殺のお誘いだと思った。
しかも、なぜ芹沢という一人間をわたしが助けに行く必要があるのか。そういうのは家族か恋人にでも送るものだ。
それでも、西川は現地に向かうことにした。
標高の低い山だ。新歓でも一度登ったことがある。東京の高尾山のような軽いハイキングレベルの山。まぁ、高尾山のような観光地化はしていない場所だが。
山道を歩き、大文字の火がつけられる場所まで登ってきた。京都の夜景が東側に広がっている。
「どうも〜おじいちゃん」
西川はガッカリした。ただのチンピラだった。
入学式のときに、芹沢に絡んできていたクズ男だ。ついでに、その周りに同じようなゴミが数人。メンツというかプライドというか、そういう無駄なものでも傷つけられて、怒っているというところか。心理を考察するのも馬鹿らしい。
西川は不知火に愛用の銃を用意させなくてよかったと思った。これから起こるのは、ただのケンカなのだから。
「安心してよ。まだお孫さんは傷一つつけられてないから。だって、こういうのは目の前でやった方が面白いでしょ」
ああ、社会には低俗な悪も存在するものだ。小悪党は、たいがい弱者を痛めつけることに必死で醜い。
「それで娘はどこにいるのかな」
「大丈夫大丈夫。そこにロープで縛ってあるだけだから」
大の字にするための窪みに寝かされている芹沢を確認する。特にケガもしていないようだ。
「自首することをオススメしますよ。あなたが考えているより重い犯罪行為ですから」
「バレなきゃ犯罪じゃないんだよ。こんな時間だ。誰も真実なんてわかんねーよ。俺達はあなたをいたぶって娘さんでちょっと愉しむだけさ」
「そうですか。では、さようなら」
西川の動きは一瞬だった。鍛え抜かれた脚による瞬発力で間合いを一気につめると拳は男の腹部に一直線。何もフェイントもない分かりやすい一撃だったが、所詮ただの大学生では見抜くこともできない。
男は、うめき声を上げて、即座に倒れて嘔吐した。
「さて、かかってきなさい。全ては夜の闇の中。お月様しか見ていませんよ」
人質をもっと有効に使うことを覚えるべきですね。彼我の差は明らかなのに、全く。
流れるように西川は次々と半グレ少年レベルの素人を倒した。
「いいですか、世の中は甘くありません。中途半端な力で調子にのるのは、中学生ぐらいでおやめなさい」
西川は、横になっている芹沢を起こし、口に貼られたガムテープを剥がしてやる。
「おじいちゃん、強すぎない」
西川の活躍を横目で見ていた芹沢は、目をパチクリとして驚いていた。
「年の功ですよ」
「年の功って。普通、身体は衰え……おじいちゃん何歳?」
「60歳ですよ、戸籍上はね」
西川はニヤッと笑ってみせる。
本当はただの老け顔なだけで、まだ――。
「もうなんなんですか。実は、200年生きてる不老不死とかなんですか」
芹沢は逆のことを想像したようだった。
それにしても――――。
西川は思う。後で、不知火にはお説教をしておこう。狙われているって、ただのチンピラじゃないか。おふざけがすぎる。
彼女を家に連れて帰る事になった。
芹沢の家は遠く、もう終電もなかった。
「おじいちゃんって、独身なんですか」
「そうですよ」
不知火は、八代めぐりは、恋人でも愛人でも元妻でもないと説明する。女性は本当にこの手の恋愛話が好きだ。
西川は借宿の階段を登って、ドアを開けようとして――。
「なぜ部屋にいる」
「不用心だよ。鍵を閉めないと」
不知火は、持ってきたティーセットで優雅にお茶をしていた。
「今度、大家に頼んで自動ロックに取り替えてもらおう」
「こんな深夜に女学生をお持ち帰り?」
「彼女が一人でいるのは怖いらしいから。知っているだろう、ちょっとトラブルがあってな」
「まだ気をつけたほうがいいよ」
どういうことだと西川は思った。今回の一件は、ただのチンピラを不知火が誇張して伝えただけだろう。組織は隠蔽をしっかりとしてくれているはずだ。
「芹沢さんを泊めるならわたしも泊まる」
何を言っているんだ、だいたい布団は――。
そう言おうとしたら、すでに折りたたみのベッドが一つ追加されているのに気づいた。
不知火は芹沢を警戒しているのか。全く素人の表の人間にしか見えないが。まさか、わたしと親密になるための演技かと西川は考えるが、そんなふうには見えない。
「好きにしろ」
「はい。じゃあ、芹沢さん、こっちのベッドで。わたしは、こっち」
不知火が西川のベッドにぽすんと腰を下ろす。
西川は自分のベッドになるだろうソファに上着をかけて、風呂にでも向かって、考えをまとめようと思った。
「お二人は仲がいいんですね」
「まぁね。同じ部屋で眠ったことも何度もあ――」
「仕事の都合上な」
「が、頑張ろう」
芹沢が呟いた言葉が聞こえたが、意味は分からなかった。一体、何を頑張ろうというのか。
西川は、好意にはいっさい気づくこともなく、風呂に入って、すぐに寝た。一応の警戒はしていたが、薄っすらとガールズトークで恋愛話で盛り上がっている二人の声だけを聴いていた。
朝起きると――。
「青春といえば恋愛ですよ」
と芹沢が言っていた。
「八代さんから聞きました。青春を取り戻すために学生をしてるって。昔って大変だったんですよね。恋愛も勉強もできないぐらい」
「ただの学び直しですよ」
「大丈夫です。パパ活ならぬジジ活をわたし頑張ります」
西川はまだ眠っている不知火を憎々しげに見つめる。西川の学生生活を玩具にする気満々のようだ。
「その用語は語弊を生みそうなので、そうですね、茶飲み仲間程度でいいですか」
「た、たしかに。これだと、その良からぬ、あっ、わたし、そんなことしてませんからね」
さて、この現状は何なのか。
暗殺者は純粋な好意は警戒する必要もないから鈍感だった。問題なしと判断を下して、それ以上考えようとはしなかった。
やけに薄着な不知火に、寝相でズレた布団をきちんとかけ直して、3人分の朝食を準備し始めた。