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Scene1-10 彼から彼女への、

「え? 登る? ここから先、多分きついですよ?」

「けど、さっき降りてきた人に聞いたら雪は積もってないんだって。だからあとは寒さと、ソラや栖虎(すとら)の体力次第かな」


 馬の背見晴台(みはらしだい)で三十分ほどの時間を過ごしたが、時刻はまだ午前九時にもなっていない。


 そこでレミは予定を変更し、このまま越前岳を登頂しきることを提案した。

 予定変更と言っても、元々は山頂まで行く計画だったわけで。

 つまりは従来の計画に戻そう、ということだ。


「ソラは? 行けそう?」

「うん! とっざん♪ とっざん♪」


 大丈夫そうである。

 栖虎も持久力的な運動に慣れていないだけで、体力はまだ余裕ということだった。


「じゃ、行けるところまで行ってみよっか☆」


 ──というわけで、登山は続行で決定。



 が、そこからの道はレベルが違っていた。


 雨水が流れ込んで土を持ち去ったのか、あたかも地面を(えぐ)り取ったように(くぼ)んだ登山道。

 両手を使ってよじ登らないといけない岩。

 細い枝の木々が左右から迫り、かつ足元は根っこだらけの尾根筋(おねすじ)

 更には、『無い』と聞いていたのに、しっかり積もっている雪。

 (ただしアイゼンやスパイクは必要ない程度であり、下りの客はこれを指して『無い』と言っていたのかもしれない。)


 これらを乗り越えつつ約百分。

 一行は無事に越前岳山頂へと辿り着いた。



「とうちゃーく! やったね璃玖(りく)。登りきれたね!」


 登頂の嬉しさから、ソラは周りの目を気にすることなく璃玖へとしがみつく。

 体じゅうからハートマークをいっぱいに飛ばして。


「わ、わ。やめろ、急に飛びつくなよ」


 璃玖は口では拒絶するようなことを言いながらも、その実しっかりとソラを抱き留めて、ニット帽越しに頭を撫でてやるのだった。

 自然と頬が(ほころ)ぶ。

 小さな達成感と、小さな幸せを噛み締める。


 璃玖は、おそらくこの瞬間、世界で一番優しい眼差しでソラを見つめる。

 ソラもまた、世界で一番の喜びを体じゅうで表現した。


「若いねぇ」

「若ぇなぁ」


 ……高校生たちのイチャイチャをなるべく視界に入れないようにして、前を行く年長組は木々の開けた山頂広場へと足を踏み入れた。


 学校の教室くらいの面積の開けた空間。

 途中の馬の背見晴台と同じくベンチとテーブルも用意されていて、既に何組かの登山客が腰を下ろし、雄大な景色に見惚れている。


「うおぉお、眺めやべぇ!」

「本当、綺麗」


 レミと栖虎は感嘆(かんたん)の声を上げた。

 目の前に広がるのは、千五百メートルの高みから見下ろす大絶景。

 十数キロも遠方にある市街地やそのさらに奥にある駿河湾までもが、冬の澄んだ空気の中、何にも遮られることなく見通せるのだ。


「ねえ、後ろ! 富士山!」


 ソラが興奮気味に叫ぶ。

 来た方角を振り返ってみれば、冬の立ち枯れの向こうに真っ白な雪を(かぶ)った富士が顔を覗かせていた。

 今まさに雲が晴れたばかりの神々しい姿。

 ずっとすぐ近くにありながら、ようやく姿を現した日本最高峰である。


「すごいね、良いタイミング」


 レミが小さく呟いた。

 三千メートルを超える雄大な姿を目にしたからか、彼女の目はうっとりとしている。


 そんな彼女に、栖虎は演技がかった口調で言った。


「俺さ……富士山の頂上に登ったら、好きな子に告白するんだ」

「ぷ、何の台詞だよ」

「知らね。なんかこういうのよくあるじゃん?」

「あと誰に告白する気だし」

「お前」

「……」

「……」

「……楽しみにしとく」

「ん」


 それからは何も語らず、富士を見つめる二人なのだった。




 さてその頃、高校生組の二人は手を繋いで山の展望を眺めていた。

 璃玖が吸い込まれそうなほどの壮大な景色に心奪われていると、隣にいた最愛の彼女は熱の(こも)った声色で言った。


「わたし、今日ここに来れて良かった。璃玖のカノジョとして、こうして手を繋いでいられるのが、すごく幸せに感じる」


 璃玖はソラの横顔を見た。

 彼女の灰色の瞳が、今日は一段と、やけに(まぶ)しく輝いて見える。

 ソラの(とろ)けるような表情の中に少しの(はかな)さを感じた璃玖は、彼女の手を両手で包むと真剣な眼差(まなざ)しで告げた。


「これから先も、こうやって何度だって山に登ろう。何年経っても、ずっと一緒にいたい」

「璃玖……」


 ソラの中に一瞬、複雑な感情の色が滲む。

 だが彼女はすぐに小悪魔的な笑みを浮かべると、小首を(かし)げて人差し指を口元に近づけ、からかうような口調になった。


「も、し、か、し、てぇ。今のってプロポーズ?」


 にしし、と白い歯を見せて笑う彼女に、璃玖は表情のオウム返し。

 屈託のない笑みでソラを見つめ、彼は言う。


「そう捉えてくれて構わないよ。正式な奴は、ちゃんとするつもりだけど」

「なッ……なぁぁああ!?」


 ソラは目元、耳元まで真っ赤になって、大きく目を見開いた。

 白い吐息が熱々の蒸気のようでまるで茹で上がったタコのようである。


 そんな彼女の様子に構うことなく、璃玖は愛の言葉で追い打ちをかける。


「俺はお前と出会えて本当に良かったと思ってる。お前が俺を好きになってくれて、俺もお前を好きになれて、本当に幸せだ。こんな幸せが、いつまでも続くと良いなって、いつも考えてる」

「璃玖、わたしは」


 何かを言いかけて、ソラは口を噤んだ。

 しばらく言葉の続きを待っていた璃玖だったが、やがて遠い目をして景色を見つめながら、自身の気持ちを口にした。


「……お前は何かを思い詰めてるかもしれないけどさ、ずっと一緒が良いって気持ちだけは、この想いこそは俺たちの共通の願いだって信じてる」


 ソラもまた、遠くの景色に視線を移した。



 ──今、二人が見つめるのは互いの未来だ。


 【性転換現象】から始まる大きな山を乗り越えて、今やっと視界いっぱいに広がる明るい未来。

 雲が晴れ、澄み渡る空に陽光の降り注ぐ陸地。

 希望に満ち(あふ)れた、自分たちの可能性を璃玖は見ている。


 しかし、ソラの視界に映る未来は、璃玖のそれとは少し違っていた。

 一つの山を乗り越えて辿り着いた、光溢れるこの場所は、いわば二人のピーク。

 その先は、崖だ。

 道は無い。

 これがソラの見ている景色であった。


 ソラは言う。


「わたしも、ずっと璃玖の(そば)にいたいと思ってるよ。たとえこの先、どんなことがあろうと」


 ──だけど、それはきっと『親友』として。

 心に罪悪感を抱きながら、ソラは口を真一文字に結ぶのだった。



────

──



 来た道をそのまま引き返すだけの帰り道。


 馬の背見晴台まで戻ってきた一行は、広場の先にいっぱいに広がる富士の姿を見た。

 山頂では木々の隙間に頭の部分を覗き見ただけだったが、ここから望むのは裾野(すその)から天に立ち上がる日本一の霊峰(れいほう)の姿。

 その雄大さに全員が息を()む。


「ねえソラ、璃玖くん。写真撮ったげるよ」


 レミに言われるがまま見晴台の先に移動する二人は、行きの時とは違い、自然に寄り添い合う。

 ぎゅっと手を結んだまま幸せそうに微笑む二人の姿は、まもなくカメラに切り取られた。 

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