幕間 自分を傷つける恋
坂東茉莉が初めてソラに出会ったのは高一の夏休み、アウトドア部のデイキャンプイベントでのこと。
この頃の彼女は璃玖にフラれたばかりであるが、表面上は彼への未練を見せないように振舞っていた。
しかし心の中ではずっとモヤモヤを抱えたままで、璃玖の想い人であるレミに対して嫉妬心のようなものをどうしても感じてしまっていた。
そんな時、彼に出会う。
「先輩、次は何を切ったら良いですか?」
「えっとね、たぶん野菜はこれで大丈夫かな。ソラくんは中学生なのによく働くねえ。うちの弟にも見習ってほしいわ」
「弟さんがいるんですか?」
「うん。といっても双子の弟だけどね。ほら、向こうで璃……樫野くんと遊んでる坊主頭のちっこいヤツ」
この時のイベントは部員の身内も参加が可能になっており、茉莉は来舞を、レミはソラを連れて来ていた。
璃玖たちは日よけの大型天幕を組み立てた後、手持ち無沙汰になったのか『薪を拾いに行く』と言ってそのまま遊びまわっている。
かまど用に木炭は用意してあったから、薪拾いなど完全に遊びのための言い訳である。
後でレミ部長に怒られればいい、と茉莉は内心そう考えていた。
一方でソラはというと、自分から率先して手伝いを申し出て、飯盒のセットやカレーの具材のカットなど、積極的に動き回っていた。
アウトドア好きの彼にとっては川原遊びよりもよりキャンプ感を味わえる炊事作業の方が楽しいらしい。
(ソラくんってレミ先輩に似て顔も整ってるし、働き者だし、大きくなったらモテるだろうなぁ)
ソラの勉強嫌いを知らない茉莉には、彼が年下ながらに素晴らしい人格と容姿を持ち合わせた人物だと映っていた。
この時点では恋心とまではいかないまでも、キラキラしたソラの笑顔は茉莉の記憶に強烈に焼き付いたのである。
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次に茉莉がソラに会ったのは、初対面から二年近く経って、今年の春のことだった。
六鹿高校に入学してきた彼は、初めて会った時よりも身長も伸び、目線の高さは高三の茉莉とほとんど変わらないか既に追い抜かしているくらいだった。
予測していたことではあったが、目鼻立ちの整ったソラは、どこか幼さを残しながらも茉莉の理想の男性像に確実に近づいているのだった。
「うわ、ソラくんイケメンに育ったね! 覚えてる? デイキャンプの時に一緒に野菜切った……」
「えーっと……まつり先輩?」
自分の名前を呼んでくれたことに感動し、胸がときめいてしまう茉莉である。
「すごい、よく覚えてたね!」
「璃玖センパイがよく名前を出すんですよ。『横顔が綺麗』って褒めてましたし」
「うそ。それ本当?」
顔に熱を感じる茉莉だったが、咳ばらいをして誤魔化した。
彼女的には実に複雑な気分である。
いまだに璃玖は『レミ先輩が~』と未練がましく口にして、まさに恋の沼にハマっている様子なのだが、その裏で茉莉の容姿を褒めることがあったとは。
「璃玖センパイのこと、好きなんですか?」
無垢な表情で尋ねてくるソラに、遠い目をした茉莉は呟いた。
「──若気の至りって、やつかな」
「……はぁ」
腑に落ちない感じのソラの肩にぽんと手を置き、茉莉は続ける。
「ソラくんは自分を傷つけるような恋の仕方をしちゃだめだからね」
「あはは。大丈夫ですよ、璃玖センパイのレミに対する感情の荒れようを見て反面教師にしてますので」
くすりと笑い合う二人なのだった。
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さて、茉莉がソラに恋を意識した瞬間は、実はもう少し後の話だ。
五月の大型連休に行われた、アウトドア部の新歓も兼ねた海富海岸での潮干狩りイベント。
茉莉が一つ下の後輩女子と並んで砂を掘っていたところに、大学生と思われる三人組の男性に声を掛けられた際の出来事がきっかけだった。
「ねえ、君らって高校生?」
「え、あ、はい」
「実は俺ら、ちょっとアサリ採りすぎちゃってさ。良かったら少し貰ってくれない?」
三人組に急に話しかけられた茉莉たちは、どうしたものかと困惑するしかなかった。
水着で海水浴をしていたわけでもなしに、まさかこんなところでナンパをされるとは微塵も考えていなかったのである。
「っつーか見てよこの量。凄くね? 採り方教えてあげようか」
「いえ、その……」
「この辺の子? 海とかあんまり慣れてない感じ?」
拒絶の声を上げようとすると、被せるようにグイグイと迫られる。
気が付くと男たちは茉莉と後輩女子の二人を囲むように立っていて、手を伸ばせば彼女らの肌に触れられそうな距離にまで接近していた。
男たちの視線が突き刺さるようだ。
彼らの視線の先は、茉莉の顔ではなく、平均よりは少し大きめである彼女の胸に注がれていた。
──気持ち悪い。
茉莉は心より、そう思う。
「ぶっちゃけここは朝に地元連中が撒いたアサリしか取れないんだけどね。向こうに天然のハマグリとか採れる穴場があるんだけど、教えてあげるよ」
男の一人が茉莉の隣にしゃがみ、腕を伸ばしてきた。
茉莉の肩を抱くような格好で、ぬるりと迫って来る。
あ、と思った時にはもう茉莉の腕は力強く掴まれてしまっていた。
全身に鳥肌が立つ。
叫ぼうにも、息ができない。
あまりの恐怖に、胸が詰まってしまう。
ギュッと目を瞑った、その時。
茉莉の腕はぐいと引っ張られ、無理矢理に立ち上がらされる。
何をされるのか、と正直泣きそうになりながらうっすらと眼を開けた。
すると、彼女の視界には三人組の大学生の姿が映る。
茉莉の身体は彼らの輪の中から救い出されていたのである。
(え、じゃあ、私を掴む、この腕は?)
茉莉が顔を上げると同時に、腕を掴んでいた人物は茉莉の前に回り込み、彼女と男たちとの間に割って入った。
顔の前に、潮風に揺れる栗色の髪が眩しく映る。
細身の体をいっぱいに広げ、茉莉を守らんと男たちに対峙する、一人の少年。
「ソラ、くん」
「……」
ソラは何も言わず、ただ男たちの方を見ている。
ソラに背中を向けられている茉莉にも、彼が今どんな顔をしているのかは予想がついた。
大学生たちが狼狽える様を見れば、きっとソラは物凄い形相で彼らを睨みつけているのだろう。
「悪いな、お兄さんたち。こいつら俺たちの連れなんだ」
横から声が聞こえる。
茉莉が顔を向ければ、そこには後輩女子を守るような立ち位置に、見覚えのある癖毛の男子がいた。
彼もまた、鋭い眼光を大学生たちに向けて威圧している。
体つきからしても、三人組よりは遥かにがっしりとしていて強そうだった。
「あはは。なんか、怖がらせちゃってごめんねぇ?」
「彼氏くんもごめんね、じゃあ俺らはこれで」
ナンパ集団は引きつった顔でそう言い残し、立ち去っていく。
危機は回避されたのだ。
安心からか力が抜け、膝を折ってしまいそうになる茉莉を咄嗟に支えたのは、ソラだった。
茉莉の両肩を挟みこむようにして掴み、彼女の体重を支えてくれる。
「大丈夫ですか、茉莉先輩」
「う、うん。ありがとうね、ソラくん」
申し訳なさそうな顔で茉莉を見つめる綺麗な顔。
……どうしてそんな顔をするのだろう、謝らなければいけないのは、こちらなのに。
茉莉は悔しさで唇を噛む。
しかし、涙は出なかった。
目の前の灰色の瞳を見つめていると、どうしてか安心するのだ。
むしろ、笑顔さえ零れてきそうになるくらいの不思議な気持ちになった。
茉莉が自分の脚で立ち上がったのを確認すると、ソラの腕はそっと離れていった。
「本当に、ありがとう。はは、いやぁどうしようかと思ったわ。あ、あと樫野もサンキュー」
「ついでかよ、俺は」
璃玖がぶーたれると同時に場の空気が暖かくなった。
そしてこの瞬間、茉莉の中にとある想いが芽生えることになる。
(あれ、どうしよう。私……)
茉莉はソラと璃玖の顔を交互に見た。
そして確信する。
自分の中に恋心が芽生えたことを。
決して褒められたものではない、歪な恋心を。
(この想いは、しまっておいた方が良いよね)
バケツを手に部員たちのところへ戻る最中、茉莉はそんなことを考えていた。
一時の気の迷いかもしれないこの感情は、もう少し眠らせておいた方が良いだろう、と。
なお、ソラが性転換をしてしまうのは、ここから僅か一週間後の話である。
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──
時は過ぎ、クリスマスイブの夜。
茉莉は一人、ワオンモールの中にいた。
先程璃玖やソラと別れて自宅方面の電車に乗ったばかりの彼女だったが、そこから一駅で途中下車をした。
なんとなく、このまま自宅に帰りたくなかったからだ。
一人になったら、きっとまた泣いてしまう。
「私自身で決めたことなのに、な」
彼女は誰にも聞こえないくらいの小さな独り言を呟きながら、クリスマスセールに沸く専門店街をぶらついていた。
当てもなく、ただ気の赴くままに歩き続ける。
やがていよいよ足の疲れを感じた彼女は、自販機の横に設置されたソファベンチに腰を下ろした。
ぼーっと人々の流れを観察しながら、小さく溜息を吐く。
「あ、そうだ」
彼女は思い立ったように端末を取り出すと、短めのメッセージをフリック入力し、そのまま送信する。
同じ文をコピーして、別の宛先に対しても送信ボタンをタップした。
『あとは頑張れよ、お二人さん!』
これで、彼女の仕事は終わり。
自らに課していた役割は、今この瞬間に完遂された。
後は彼女が大切に想っている二人次第、である。
初めから、報われない恋だと分かっていた。
だからこそ損な役回りを受け入れて、今日この日まで貫き通した。
璃玖とソラを結ばせる、という役割を。
──悪いね、樫野。本当は、私は知ってたんだよ。
ソラくんの身に今何が起こっていて、どうしてあんたを避けていたのかもさ。
……流石に今日のソラくんの計画は見抜けなかったけど。
でも、まああんたなら上手くやるでしょ。
諦めた者の覚悟を甘く見るなよ、バ樫野。
これで幸せにならなかったら、その時こそ私が────。
茉莉は心の中で呟くと、ゆっくりと天井を仰いだ。
モールに飾り付けられた星の装飾が少しうるさい。
何が聖夜だよ、と毒を吐いて、しかし彼女はやり切った開放感から、気付くと笑顔になっていた。
そのまま目を閉じ、小さく声に出して希う。
「頼むよ、黒の魔女。あの二人を、どうかこのまま……」
茉莉の願いはその場にいた人々の耳には届かず、静かに喧騒の中に溶けていった。




