Scene2-12 罪と罰
「ウチは橋戸のことを、自分を邪魔する敵みたいに思ってた。ほら、ウチが水主先輩のことを好きだった時、橋戸は先輩に告られてたじゃん。きっと先輩を誘惑したんだって、そう思ったんだ」
そして腹いせに噂を捻じ曲げた。
ソラに意地悪をして、ストレスを発散させるために。
蓮華の発言力は凄まじく、友人たちを通じて悪い噂は瞬く間に広まっていったのだ。
「まあでも、アレはもう良いんだよ。水主先輩がバイだって知って、ちょっと引いてたし。だって男も女も関係なく性的な目で見てるってことだよ? マジありえないって」
偏見に汚染された発言に、璃玖は拳を握り締めた。
身近に表れた元・同性に心を揺り動かされている璃玖にとって、同性愛に対する差別的な視点は心に突き刺さる棘なのだ。
だが、蓮華が事情を話す気でいるところに水を差すわけにはいかず、ぐっと怒りを堪える。
「それでね、夏休み前に数多と付き合い始めたんだけど──」
またしても、蓮華はソラを疎ましく思うようになったのだという。
ソラは加藤とは元からの友人関係であるが、蓮華の目にはソラが加藤との仲に割り込んでくるように見えてしまったらしい。
「ウチは数多と橋戸が仲良くしているのを見るのが嫌だった。逆に、なんで性転換したのにいつまでも男子のグループにいるのかってイラついたよね」
蓮華の言葉に加藤が言い返す。
「お前、おれに言ってたもんな。『新学期になったら、もう橋戸と仲良くするな』って」
「だって普通そうじゃない? 彼女できたのに女と話すの変だし」
「あン?」
ガンを飛ばす加藤を『まあまあ』と璃玖が諫める。
彼を適当な椅子に腰掛けさせてから、璃玖は蓮華に話の続きを促した。
────
──
夏休み明けの月曜日。
放課後になり、友人たちと甘いものを食べるために店に向かっていた蓮華は、親からのメッセージに気がついた。
「うわ、サイアク。弟が熱を出して学校休んでるんだけど、親の仕事が遅くなるみたいで、ウチが面倒見なきゃらしいわ」
蓮華は友人たちに謝ると、その足で駅の方面へ歩き始める。
親からのメッセージには、弟の夕飯を用意して欲しい旨、念の為に薬を買い足しておいて欲しい旨が書いてあった。
蓮華はどうせ薬を買いに行くならワオンにでも寄って自分用の夕食も適当に買ってしまおうと考えた。
こうして渋々足を運んだワオンモール。
そこで彼女は出くわしてしまう、自分の彼氏に近づく害虫に。
(そう言えば今日、橋戸たちの悪口を言いふらしている三年の先輩がいたような……)
──今なら、全部あの人の仕業にできるんじゃ。
そんな悪魔の囁きが蓮華の行動を支配した。
咄嗟に構えた端末のカメラのズームを最大にする。
写真を撮る。
一枚、二枚。
……これだ、ちょうどソラの顔が見える角度のものが手に入った。
家に帰った蓮華はしばらく放置していたSNSの裏アカウントにログインをして、過去に個人情報に繋がりそうな呟きがないことを確認すると、写真を加工して悪意あるキャプションと共に投稿ボタンを押した。
また、別の使い捨てアカウントからその投稿に対して罵詈雑言を書き込むと、満足げに端末を放り出し、布団の上に身を投げる。
これで翌日、友人たちにこう言えば終いだ。
『見て見て、こんな書き込みがあったんだよ、ヤバくない?』と。
それがどれくらいの効果をもたらすかなんて意識はしていなかった。
ただ、ソラの心にほんの少しの傷をつけられればそれで満足だったのだ。
少しうとうとしていた蓮華は、何度も繰り返して振動する通知のバイブレーションで目を覚ます。
そこに書かれた数字に目を見開き、慌てて裏アカウントにアクセスする。
「なに、これ……」
SNSの通知の数は既に表示限界を超えていた。
さらに相次ぐ見知らぬアカウントからの返信、ダイレクトメッセージ、投稿の共有の通知に蓮華は身の毛もよだつ思いがした。
──それは、性転換被害者への偏見。
大昔より存在した性的マイノリティへの誤解、反感、憎悪。
浮気、不倫に対する反発。
行き過ぎた擁護者により逆に燃え上がる悪感情。
たった一枚の画像によって引き起こされた社会不満への暴発。
蓮華の意図しない形で、事態はより深刻な物へと変わっていく。
「やばい、け、消さないと」
蓮華は慌ててアカウント削除を試みる。
が、恐怖で震えて上手くタップできない。
自分の解き放ったモノが、制御できる範囲を超えて怪物と化したことに、ただただ震えるしかなかった。
そして、怪物は彼女に囁いた。
「でも、これであいつは学校にいられなくなるんじゃ……?」
そう思った瞬間に、不思議と手の震えはピタリと止まる。
蓮華はアカウントを削除することもなくそのまま放置して、携帯端末をテーブルの上に置いた。
────
──
「……こんな感じ。最初はね、ちょっと騒ぎになれば良いと思っただけ。こんな騒ぎになるなんて思わなかったの」
ふざけるな、と璃玖が叫びそうになった時、代わりに想いをぶつけたのはソラだった。
「蓮華さんはぼくが嫌いなの?」
「ってゆーか中庭で最初に言ったじゃん、嫌いだって」
「だからぼくを孤立させようとして、加藤にあんなことを言わせたの?」
「……何の話?」
蓮華は不審がって首を傾げる。
すると彼女と向かい合うように座っていた加藤が、ソラの方へと体の向きを変え、頭を下げた。
「すまん橋戸。おれは薄々気付いてたんだ。例の投稿をしたのが愛兎なんじゃないかって。もしそうなら、原因はおれじゃん。だからしばらく距離を置いたほうが良いと思ったんだよ」
それで咄嗟に出た言葉が、『おれに話しかけるな』だったというわけだ。
クラスの男子は加藤とソラが喧嘩状態にあると思い込み、様子見のために双方から距離を置いていた、というのがソラが男子に感じていた心の溝の正体らしい。
「なんだ、良かった。本当に友達を失ったのかと思った」
「ちゃんと話ができなくて悪かったな。全部あいつのせいだから」
加藤は蓮華を睨む。
当の蓮華は、もう全てを諦めたかのように開き直った態度を見せていた。
「……それで、橋戸はウチを訴えるの? それとも、世間に晒す?」
「それは」
ソラは璃玖に懇願するような目を向ける。
目の前にいる人間から直接ぶつけられる悪意に胸を抉られ、自分で何かを決断する気力も沸かないようだ。
俺が決めて良いのか、と璃玖はソラにアイコンタクトをした。
ソラは、一度目を瞑ってから、やがて璃玖の目を見て小さく頷いた。
「蓮華さん、俺たちは君を懲らしめたいわけじゃない。投稿を消して、二度とこんな真似はしないで欲しい。それだけだよ」
この璃玖の発言に、加藤が嚙みついた。
「先輩、流石に甘くないすか? 愛兎がやったのは立派な名誉棄損っすよ。もっとちゃんとした罰を与えないと、こいつは繰り返しますって!」
「確かに、ちゃんと謝罪はしてもらいたいよな」
「そういうことじゃなくって!」
璃玖は首を縦に振らない。
その代わり、眉間に皺を刻んだまま、教室の窓の向こうに見える大きな雲の塊に視線をぶつける。
夏の暑さでにわかに発達を始めた入道雲の卵。
虚空から生まれ出た黒い塊に、ありったけの憎しみを込めて璃玖は睨む。
「今回蓮華さんがやったことは、到底許されることじゃない。ソラが何て思うかは分からないけど、少なくとも俺は蓮華さんのことを一生許さないだろう。だからといって、蓮華さんに懲罰を加えたい、制裁したいとは思わないんだ。その子がやったのは、敵を炙り出すきっかけ作りだった。本当の敵は、多分、ネットの向こう側にごまんといる『顔の見えぬ悪意』なんだ」
璃玖は続いて蓮華に向き直った。
蓮華の表情がやや曇り、彼女は肩をピクリと震わせた。
「それに、俺たちが何もしなくとも、きっと君は制裁を受ける。ソラが味わったのと同列のものを味わうことになる。そのことだけは覚悟しておけよ、蓮華愛兎」
「……はい」
今日の騒ぎはやがて尾鰭を伴った悪い噂になって駆け巡るだろう。
取り巻きの女子たちも、今回を機に蓮華のことは見限るだろう。
待ち受けているのは地獄のような孤独と、突き刺さるような偏見と憎悪。
それはまさしく──ソラの味わった苦しみと寸分違わぬものに違いないのだ。
しかし、このタイミングで恐る恐る手を挙げる者が一人いた。
「あの、センパイ」
「どうした、ソラ?」
「少し、考えがあるんですが──」




