Scene2-2 爆弾発言と焦るソラ
「ソラが女だったらなぁ」
「……ふぇ?」
「──あ」
間の抜けたソラの声を聴くまで、璃玖は自分が何を口走ってしまったのか気が付いていなかった。
無意識というのはかくも恐ろしいものか。発言の危うさに気付いて慌てて口元を掌で覆い隠した時にはすでに手遅れである。
ソラはカチコチに固まったまま璃玖を見つめている。その頬はわずかに赤みを帯びていた。肌が白い分、ソラは顔色の変化がわかりやすい。
「セン、パイ。じょ、冗談ですよね……?」
「いやその」
どうしてそんな突飛な発想に至ったのか。実のところ璃玖本人も理解できていない。それでも一度声に出してしまった言葉を取り消すことは不可能だ。
故に璃玖は咄嗟に誤魔化してその場を乗り切ることに決めた。
しかし冷静さを欠く今の璃玖には思いついた発言を脳内で推敲できるほどの余裕は無いわけで。
「深い、い、意味は無くてだな。お、お前が女だったら好きになってたかもなって思っただけだよ」
「なっ……なぁッ!?」
──とまあ、更なる爆弾を自爆的に投下する羽目になるわけである。
「って、俺は何を言ってんだ!? わ、忘れてくれソラぁぁあ」
「忘れられるかよ、センパイのばかぁぁあ!!」
肩で息をしながら頭を抱えることになる二人の男子。先程まで和やかに会話していたはずなのに、どうしてこうなった。
璃玖は両頬をピシャリと叩いて思考にリセットをかける。
この、自室に漂うなんとも言えない微妙な空気感をどうにかしなくてはいけない。でなければ今日は勉強どころではなくなってしまう。
「つまりだな、それくらいにお前の容姿が恵まれているというか、そういう話で」
「……あの。センパイはしばらく黙ったほうがいいと思います」
「はい。すいません」
ガチで凹む璃玖なのだった。
「……ちょい、頭を冷やして来るわ」
「うん、そのほうが良いかと」
璃玖はソラに促されるままに、部屋を出て階段を降り、台所へ向かった。
──お茶でも飲んで冷静さを取り戻さないと。
璃玖はふうと息を吐いて肩甲骨のあたりを動かした。妙な緊張からか、無性に肩が凝るし、喉も渇く。
どうせならソラにもお茶をと思い、グラスをトレーに乗せて自室まで運ぼうとしたところ、ちょうどソラも璃玖の部屋を出て台所に降りてきた。
ソラは璃玖からグラスを受け取ると、琥珀色に透き通ったその液体を一気に飲み干した。とり残された氷の欠片がからりと音を立てる。
「おかわり」
璃玖はくすりと小さな笑みを浮かべて、すぐさまソラに新たなお茶を注いでやった。ソラは二口ほどを飲んでから、ほっと息を吐き出す。
「ぷはぁ。いやはや、冷たいものを飲むと生き返りますなぁ」
「おっさんか」
璃玖がツッコむと、ソラはムッとした表情になる。
「おっさんで何が悪い。それともなんですか、センパイはぼくが『おっさん』になるよりも『おばさん』になるほうが良いんですか。女の子になって欲しいんですもんねー」
「すいませんソラさん先程の発言は忘れておくんなまし」
突如、璃玖はフローリングの上に正座して懇願する素振りを見せる。土下座する勢いで必死で謝る璃玖の姿が相当滑稽に映ったらしく、ソラはぶっと吹き出した。
「あーもうっ。仕方がないので忘れてあげましょー。で、もぉ、その代わりぃ……」
「その代わり?」
ソラは悪戯っぽく笑うと、拝むように手を合わせて片目を閉じた。
「センパイ。今日の勉強は中止にして、遊びに行きませんか。それでマック奢ってください! お願いしますっ!」
「……そもそも、お前勉強なんて全く手をつけてなかったじゃん!」
「どうかッ! このとおりッ! ぼくを女の子呼ばわりしたことを茉莉先輩とか来舞先輩とかレミとかに言いふらされたくなかったら、どうかッ! なにとぞッ」
「脅すかお願いするかどっちかにしろ!?」
怒り口調だが、璃玖は楽しかった。なんだか自分のせいで気まずくなった空気をソラがぶち壊してくれたみたいに感じていた。実際、そうなのだろう。
璃玖はどうもあらゆることを真面目に捉えすぎてしまうきらいがあるので、ソラのジョーク気質には助けられていた。もっとも、他人と比べて一際悪戯っ子でもあるので気は抜けないのだが。
「ほらセンパイ、そうと決まれば早く早く。今からなら、ワオンとかどうですか。マックもあるし、見たいアウトドア用品もあるし」
「お前、主目的はそれか」
ソラのアウトドア好きの度合いは並ではない。幼少の頃からキャンプ好きな家族の影響を強く受けて育ってきた結果だ。四六時中外に遊びに行くことを考えているから勉強が手につかないのが実情である。
ソラはお気に入りのアウトドアメーカーの新製品について、新作のアウターだとかキャンプに役立つグッズだとか聞かれもしないのに語り始めた。好きなものについて話す時のソラの瞳はとても活き活きとしており、璃玖には彼の無邪気さがとても眩しく映る。
「仕方ないな。一緒に行くか」
「はい、センパイ!」
ソラは元気よく頷いた。
「その代わり、帰ったらしっかり勉強しような」
「……はい、センパイ」
ソラは力なく項垂れた。
璃玖はそんな彼の丸まった背中を手で押してやる。途端にソラはシャキッと体勢を立て直し、玄関に向けて小走り気味で歩き始めた。璃玖は苦笑し、彼の後に続く。
外への扉が開く。勢いよく風が吹き込んでくる。
心なしか、空気の中に湿り気が混じっていた。まもなく梅雨の時期か。雨がちなシーズンになる前に、ソラと山登りに行きたい……璃玖はなんとなく、そう思った。
────
──
五月十二日、土曜日。
この日、璃玖とソラが出かけていなければ、運命は少しだけ違っていたのかもしれない。
この日を境に自分たちがどれほどの痛みを経験するかなんて、二人には知る術も無かったのだ。