Scene2-3 油断大敵
時刻は午後三時に迫ってきた頃。璃玖たち四人はプールから上がり、園内の散策を始めていた。更衣室にはドライヤーなどはなかったため、全員の髪の毛はしっとりと湿り気を帯びている。濡れ髪だと男も女もセクシーに見えるのは何故だろう、と璃玖は朧げに考えていた。
「強風のためバンジージャンプは休止中だそうですよ」
小走り気味に先行していたソラはバンジージャンプの入り口の掲示を指差して言った。
いくら影響が少ないとはいえ、ここは現在、元・台風である温帯低気圧の勢力圏内。もしも突風が吹いて落下中の人間がタワーに叩きつけられでもしたら、大惨事は免れないだろう。休止はやむを得ない。
「チッ……樫野に飛ばせようと思っていたのに」
茉莉は璃玖に殺意を込めた表情を向けた。先程の事故の件をいまだに引きずっているらしい。
ソラや来舞には何が起きたのか気づかれていないのだから、双方が黙っておけばバレようもない。だのに、茉莉は意識のし過ぎで逆に不自然な挙動になってしまっている。あれでは二人に妙な疑いをかけられるのではないかと、先程からずっとヒヤヒヤしている璃玖である。
「えー、俺三回くらいバンジーする計画だったのにさー」
そうぼやきながら頭の上で両手を組む来舞。ちなみに今日の彼もポニーテールだ。よほどこの髪型が気に入ったらしい。
「なんで三回もジャンプすんだよ」
璃玖が冷静にツッコむと、来舞はキメ顔でこう言った。
「だってさー、俺ら受験生じゃん? 本番で落ちたら嫌じゃん?」
「あれか、今のうちに落ちとこうってやつか」
「ビンゴー! おめでとう璃玖くん。正解者には俺からの熱いハグをプレゼントしまーす!」
「いらねぇよそんなもん! つーか今気付いたけどプールの滑り台をめっちゃ滑ってたのも同じ理由か!」
来舞は自慢気に鼻を鳴らす。
璃玖は言ってやりたかった。静止摩擦係数と動摩擦係数の差により、一度滑り出した物体の方がより小さな力で動くわけだし、重力によって一度落下を始めた物体はどんどん加速してしまう。故に“今のうちに滑っとけ理論”はむしろ“より滑りやすい”状態を作り上げるだけで意味がないのだ、と。
無論、単なる願掛けであり本人が満足しているのならそれで良いのだが。
「えっと、遊べそうなのは立体迷路とアーチェリー、フィールドアスレチックですね。どれから行きますか?」
「迷路行こうぜ迷路ー! 誰が一番早くゴールできるか勝負なー!」
木材で形作られた巨大な立体迷路はバーベキューハウスと水上アスレチックのちょうど中間地点に位置している。内部は複雑に通路が入り組んでいて、三箇所に設置されたスタンプ全てを集めたら入口まで戻るというルールのようだ。
「あんたいつまで経っても出てこられなかったりして」
「姉ちゃんこそ迷子になって泣くんじゃねーぞ! よーしレッツゴー!」
その後、来舞の姿を見たものはいなかった。
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──
「あはは、来舞先輩まだ迷ってるっぽいですね」
「あいつ昔から空間認識能力ゼロなんだよ。閉園までに抜け出せれば良いけど」
迷路から外に出てきた璃玖達は、構造物の内部から響いてくる来舞の悲鳴を聴きながら途方に暮れていた。このまま彼を待っていては遊ぶ時間がどんどん無くなってしまう。
「先にアスレチックに行くか」
璃玖の提案にソラと茉莉は頷いた。
「おーい、来舞! 聞こえるかぁ! 俺たち先にアスレチック回ってるから、迷路出たら追いついてこいよぉ!」
「んなッ!? 待って、待ってくれーーーー!」
璃玖たちは笑いを堪えながらそそくさと移動を開始した。来舞の放った虚しき叫びは森中にこだまするのだった。
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──
「と、まあ来舞を放置してきたわけだけど、私たちだけで楽しんじゃうのもアレだから、ゆっくりペースで遊びながらあいつを待ちましょ」
「そうだな。盛り上げ役は必要だし」
迷路という名前がついているものの、スタンプ台を巡るのを諦めて、入り口に戻ることだけを意識すればそれほど難易度の高いものではないのだ。すぐに追いついてくるだろうと予測した璃玖たちは、一個一個のアスレチックをじっくりと遊び、牛歩のように進みながら時間を潰すことにした。
森の中をぐるりと一周するフィールドアスレチックのコース。命綱が必要な程の危険な遊具は無いものの、それなりに高さがあったり渡り切るのにテクニックが必要だったりと、大の大人でも十分に楽しめる難易度といえるものだった。中には大きな池を跨いで対岸へ移る、スライダーのようなダイナミックなアトラクションもある。
もちろん、各コースには迂回路があり、無理して挑戦しなくても良いように配慮されている。体力に自信の無い茉莉は時々その路を利用していた。一方で璃玖やソラは可能な限りのアトラクションに挑戦していた。特にソラは内面に燻る男性としての血が騒ぐようで、璃玖よりもむしろ積極的であった。
「おわーっ!? ここめっちゃくちゃぬかるんでますよセンパイ!」
「おいおい大丈夫か。台風の影響で昨日まで雨だったからな、気を付けないと」
遊具の木材部分はほとんど乾いているけれど、窪地や日陰では地面が泥沼と化していた。一部のロープには雨が内側まで浸透していて、握った瞬間に水が溢れてくる始末である。それでも童心に帰って遊べることは、璃玖にとってもソラにとっても、鬱々とした気分を吹き飛ばすのに大いに役立った。
「うぇーい、センパイよりぼくのが早かったー!」
「おまっ、靴についた泥で攻撃するなんて卑怯だぞ!」
「……まったく、男子って奴は」
茉莉は遊具から一歩離れた場所から二人の様子を眺め、時折携帯端末でソラの写真を撮って楽しんでいた。これでソラの写真フォルダが潤う。高確率で璃玖が移り込んでいるのが癪だが、好きな男の子を堂々と撮影できることにはそれなりに満足していた。
「茉莉せんぱーい、ぼくとも一緒に写真撮りましょうよ」
「え、良いの?」
「当たり前じゃないですか、今降りていきますね!」
璃玖がようやっと頂上に辿り着かんというタイミングで、ソラは遊具の天辺付近でロープを掴むと、壁に脚を掛けてゆっくりと降り始めた。
一方で頂に立つ璃玖は、ソラが地面に降り立つのを見届けようと下を覗き込む。彼も同時に降りようとすれば、今度は璃玖の脚の泥がソラに被る可能性があるからだ。やられたからといって、やり返しはしない。璃玖は紳士を気取っていた。
「んしょ、もうちょっと……」
ソラがあとほんの一メートルくらいで地面に辿り着くというその時。璃玖の視点からはソラの身体が左にブレたように見えた。
「────!?」
身体の支えの一部となっていたソラの脚。その大切な支持点が木材の上を滑る。泥が付着していた靴はそのグリップ力の大半を失っていた。それに気付かないまま茉莉の元へと急いたものだから、ソラは足場を踏み外してしまったのだ。あ、と思った時にはもう手遅れ。ソラの身体は右方向に大きく回転しながら壁面に叩きつけられた。
バランスを崩したソラは咄嗟の判断でロープに力を込める。が、女になって筋力の落ちていたソラは、自分の全体重を腕の力だけで支えることが出来なかった。多少のブレーキには成功しつつも、嫌な角度で地面へと落下する。
「ソラ!」
「ソラくん!」
異常事態を察した璃玖は、ソラの降りて行った正規の降り口ではなく元来た登リ口の一部をショートカットする形で慌てて下へと飛び降りる。自分もまた怪我をする可能性を、この時の璃玖は考えていなかった。一刻も早くソラの元へ行かなければという義務感に突き動かされ、咄嗟に身体が反応したのだ。
幸いなことに彼はソラの二の舞にはならず無事に着地した。そのまま横っ飛びに走り、親友が落下した地点に向かう。そこには既に茉莉がいて、ソラの上体を抱えて起き上がらせようと試みているところだった。
「う……い、痛っ……」
ソラは右足首を押さえたまま、苦痛に顔を歪めている。痛みは激しく、もはや自分一人では立ち上がれなくなっていた。




